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旅日記

望洋−54(戦時下の宮古島(続き))

31.戦下の宮古島(続き)

31.1.国民学校長の証言と記録(続き)

31.1.3.下地馨氏の日記抄

下地かおる氏は、博文館発行の中型当用日記を用いて昭和17年〜21年の満5ヶ年、日記を書き残している。

ここでは昭和20年3月から20年5月までの3ヶ月間の、主として戦争と学校にかかわる記述を書き出した。

このころ氏は砂川国民学校長から城辺国民学校長に転勤している。

当時の様子が伺えるので、少し長いが以下に記述する。

この日記を読むと、辛く悲しい中、健気に振る舞うという、悲壮感を感じさせる。

これは日本軍が最後には勝つと信じていたからなのか?

ただ、毎日のように空襲されるが釣りに行ったりしており、怖怖として生活を送っている様子があまり伺えない。

これは、自分たちだけでは、如何しようも無いと半ば開き直って生活していたのであろうか?

 

次の写真と説明文は宮古島アプリ綾道の戦争遺跡より抜粋
野原の御真影奉護壕(宮古島市上野野原)

1944(昭和19)年10月10日の「十・十空襲」をきっかけに、戦火から御真影を守るために、宮古島の各学校に置かれていた御真影(天皇・皇后の肖像写真)をこの奉護壕に避難させました。壕は各学校の男性教員の手で掘られ、12時間交代で守られました。内部には白木で組まれた神宮造りの棚が作られ、守衛にあたる先生は、拝礼をしてから勤務したとされています。

住民避難壕(宮古島市下地来間)


来間の山砲陣地壕から約200m北側の、来間島東海岸の急崖の中腹にある住民避難壕です。コンクリートで造られた入り口は縦90cm、横50cmと狭く、入り口付近は急な傾斜になっていますが、内部は広く、約200人が入ることができます。入り口以外は全て自然の鍾乳洞からなっていて、別名「千人ガマ」と呼ばれていました。

避難壕(宮古島市平良西里)

この壕は野原岳から続く尾根の北端にあります。出入り口は2ヶ所あり、内部でコの字型に繋がっています。壕口付近は壁、天井とも荒く削られていますが、奥の方の壁は丁寧に削られています。陸軍病院として使われていた鏡原小学校裏手の丘陵のすぐ近くで、近辺には多くの壕があったといわれ、その一つと考えられます。

 

<日記抄>

なお、氏の日記の日付は漢字表記されているが、ここでは数次表記とした。

昭和20年3月

3月1日 木

空襲、防護警報発令(午前8時頃)、朝敵機2機、午後1回=8機 (東通過)、2回=23機以上、輸送船3隻やられたとか、花田少尉戦死

3月2日 金

空襲警報発令=放機の音らしきもみえず

3月12日 月

1.校長会(平二校)

2.B 24

3月23日 金

敵機動部隊沖縄付近に現出、上陸の企図濃厚

3月24日 土

1.防護警報、午前3回午後2回来襲(西中爆弾二、友利一)

2.沖縄本島に対し3回にわたり艦砲射撃をなす

3月25日 日

防護警報(午後1時頃)敵機来襲13機、第2回目防設警報、暫らくして解除

3月26日 月

1.御真影防空壕当番

2.防護警報発令第一回午前8時33機、第2回午前10時17機

3月27日 火

1.御真影防空壕当番

2.防護警報発令、10時頃、1時半、2時半、4時半

3月28日 水

1.修了式、修業式

2.式中、飛行機4機会場の上空を飛朔敵機だといふので共の儘伏せ、後で日本機と分り癪だった。

3月30日 金

僕の周囲には現時の戦争に関して悲観説と楽観説を持っている者がある、〇〇〇〇や△△△は悲観説の尖頭であり、僕や島田氏等は楽観説の方であ、事毎に悪く解釈するもの、事毎によく解釈するもの、どっちみちつかずのもの、色々である、フィリッピンに対してでさえ悲観的のものもある、沖縄上陸をも悲観的に考へている。

僕は丸っきり反対だ。フィリッピンも山下大将閣下の強い放送によって大丈夫と思ふし、又沖縄本島でさへ防衛隊も何十万と居るから、軍と力強く協力すれば敵をセン滅する事は大丈夫と考へる、若し宮古島へ来るとしても、そう敵の兵力は多くはあるまいからせん滅し得ると信ずる、敵も馬鹿ではないからこんな強固地障地の築かれ又兵力も相当居る宮古には上陸すまい、万一上陸すればすばらしい兵力で大激戦になるだろう。

3月31日 土

防御警報発令(午前7時20分)第1回B24 、1日中英機が4機飛び廻る

 

4月

4月1日

敵機朝より飛ぶ、3時頃8機中1機撃墜

4月2日 月

1.防警発令、敵機10機(朝)来襲

2.授業無し

4月3日

早朝防護警報発令(50余来襲)朝より12時迄来襲 、午後も引続来襲

◎授業無し

4月4日 水

1.魚釣一匹も釣れず

2.平良の被害甚大(昨日の午後4時空襲)、山田、新世界、垣花、アンマー宿、大原、河上付近小屋毛附近、宮古神社付近

4月5日 木

1.未明より敵機来襲、午前3、4回午後も3、4回

2.福里芳一氏で5名(恒花視学、主人、勝太郎、僕、局長)無駄話

3.戦車隊の手島准尉より時計、テグスリを貰う、釣糸は借用、国吉君の所に出る、綱の相談、久しぶりに雨模様、雨待つ事久し

4月六6日 金

1.福里学内に居て敵機のため戦々兢々としているよりは魚釣よからんと一人で出かける。然し海岸に居て魚釣しながらも敵機を警戒せねばならない心労がある。

2.一匹も釣れず、四機現はる

3.、夕方亭主の所へ行く、手島准尉と話す

4月7日 土

1.内閣総群職、鈴木貫太郎海軍大将二大命隆下

2.四機又は六機で宮古の上空を築れ廻る(午前三回、午後三回)

3.敵沖縄本島を中断、残波岬より嘉手納、泡瀬、島袋方面進出、東海岸 と西海岸とを結ぶ線確保

4月8日 日

◎4月1日以降今日迄授業な し

1.防空壕当番

2.午前二回防 警報発命

3.夜間爆撃もなす

4.敵機は日本機にまぎらわすため三色の点灯を以て飛行場に現はれ探照灯に照らされ悠悠爆撃する

4月9日 月

夕方より雨降り始む

1.父母の様子と親類の安否を気遣い未明に防空壕を出て途中鏡原郊外で敵機に発見されたが、運よくタコツボ見つけそれに入り込むと敵機の機銃爆弾で見舞はれ、運よく命を助かった。近くに50キロや少し遠く350キロ等が爆発した。又海軍部隊附近で草木の中に頭をつつこみ又々機銃や爆弾見舞はる、やっと平良にたどりつく、伊集君に出会ふ、池村君の所、河上に寄る、防空壕に居るとピューンピューンボンボン敵機はまさに次第次第家に近づく、やっと爆弾を免る。

2.般若心経をとなへ機銃に当らざるやう読経す

4月10日 火

1.敵機襲来、病院の裏の幕舎等も銃に見舞はる。よい雨で増産に精出す積りなのが機銃に邪魔される。

2.昨日の夕方 (平良出発と同時)より降り始めた雨は今日も引き続き降っている。ほんとの豊年だ、「神在せり」の叫び。

4月11日

敵が朝からのさばって折角の雨による増産 (甘薯、芋植付)を邪魔している。

4月12日

敵機来らず、友軍機昨夜より多数飛翔す、ホッとする

4月13日

1.午後民防衛隊猶予者の集合に参加(西城校の駒部隊)免除になる

2.微機(午後3時迄)15、6機来襲、中1撃墜

4月 14日

1.朝から敵機のさばる(12機)

2.海にゆく、引切りなしに敵機が来るのでとうとう入れなかった。其の儘戻る

4月15日

早朝より防護警報発令

4月16日

早朝より防護警報発令

4月17日

早朝より防護啓報発令

4月21日 土

1.御真影奉遷所当番、福里君と午後4時過出発途中2回とも敵機に会う、木の下、草中に隠る

2.同右は平一校小林玄和君と伊志嶺恵典君なり

3.早朝より1日中、更に夜にかけて敵機襲来

4月22日 日

1.早朝より夜にかけて敵機襲来(住宅に1発、役場多数)

2.空中戦ありし由(御真影防空壕の中にて状況不明)

3.帰校の途中長間局前にて敵機に会う、ロケット砲を放ち真善氏等と隱る

4.福嶺校長と交代

4月23日 月

1.早朝より敵機襲来12機

2.防空壕略完成

4月24日 火

1.早朝4機、暫らくして多数来る

2.防空壕に移る、久しぶりでゆったりとした気持となる

4月26日 木

自家防空壕完成

4月27日 金

早朝より多数来襲

4月28日 土

早期より来襲(3、4機)

4月29日

天長節なるも敬賀式雨のため出来ず、初めてのことなり。

今日の空襲はわざわざか特にはげしい。

4月30日 月

1.絶間ない空襲、民が悲鳴をあげている。

2.タ方頃校庭に爆弾2個、校舎西側に3個落下別状無し

3.平良へと西城の西側迄歩く、夜間空襲にて帰校、(西城校舎 四棟焼けたる由)

5月

5月1日

今日も未明より空襲、今後食糧事情が思いやらる。

5月3日 月

しきりに空襲、学校の表へ爆弾6個、宇内5以上

5月4日

12時頃飛行機がしきりに上空を飛び、ドロンドロンの音が連続して聞ゆ、始め高射砲と思ったが連続しているから艦砲射撃なりやと疑い始め愈々敵上陸かと驚く。

5月5日

1.4、5機で繰り返し空襲

2.沖縄本島で総反撃を開始し、昨日午前4時連合艦隊も出動した由

5月8日

1.昨夜より降り続いた雨は今朝本降りとなる(大雨)

2.敵機来らず、ゆっくりとした気持

5月9日

敵機の最高30機来襲

5月10日

午後敵機12機来。昨夜の砲音は?

5月11日

1.高江洲、上原防空壕当番

2.空襲

5月12日

1.朝2、3機来襲

2.絶へず空襲

5月13日 日

昨日程に劇しい空襲知らず

5月14日 月

1.午前伊良部武次開眼、読経をなす

2.魚的、海岸2爆弾、校舎東爆弾250キロ

5月16日

敵機煙をはいてゆく

5月17日

1.ボーイング24、低空にて南の方へ飛んでいた。

2.御真影当番 (福里清良君と)

5月18日

1.御真影当番、夜運く帰る、雨にぬれる

2.本日午後4時頃雨降り始、午後八時交替、雨にずぶぬれして帰校。

3.敵機全来らず

5月19日

敵機来襲来らず

5月20日 小雨降る

敵機10機以上の音聞ゆるも雨雲のため見えず、飛行場方面機銃や爆弾の音あり。東海岸を2機北に向、新城、保良方面に機銃の音あり

5月21日

友利先生と(社会教育掲示板)共に五六八三部隊長訪問

5月22日

1.雨しきりに降る

2.午後より3、4機来る

3.葛湯をつくり亭主へ行く。

4.役場北、ロケット

5月23日

朝八機来襲、飛行場一回のみで周囲をグルグル廻っている

5月25 日

七、八機来襲、ブンブン飛んでいる。陣地を飛行場のみ。

5月26日

早朝より敵機来製

5月27 日

1.今日の空襲は絶間無 し

2.校長会なるも病後のため代理をよこす

5月29日

絶間なく空襲

5月30日 水  タ方より雨降る

1.奥平平茂先生、上原?御真影当番

2.敵機4〜8機で飛行場にのみ来襲

5月31日 木

近頃の空襲は飛行場のみで民間へ銃撃は全く無い

 

<続く>

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