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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−205(福光城・中ノ村城合戦)

63.戦国の石見−6(続き)

毛利氏が、小笠原氏の投降に伴い、江の川南岸 ・大森銀山方面所領を没収したが、それとひきかえに福屋氏の井田・波積領を小笠原長雄に給与した。

これが福屋氏の毛利氏離反につながった。

毛利元就は、そのことを察し謀略を持って、福屋勢力を削ごうとし、福屋の有力な部下である重富兼雄が離反するとの噂を流した。

毛利の謀略通り福屋は重富兼雄を攻め殺した。


一方、福屋氏の毛利氏への反逆は現実の形となって現れる。

その、福屋氏の反逆は福光城攻めから始まる。

 

63.2.福光城合戦

吉川経安

吉川経安は、石見吉川家の10代当主である。

毛利元就が台頭して、吉川本家を吸収するために次男の元春を吉川氏当主として送り込むと、分家の経安も元就に臣従した。

永禄2年(1559年)、川本温湯城の小笠原長雄討伐に功績を挙げた経安は石見国福光に所領を与えられ、福光城(不言城)を改修して殿村城から移転して居城とした。同時に石見銀山の管理も任された。

福光城は温泉津方面から国道9号線(旧)を福光に向かって進み、福光川と出会った対岸の連山の先端にあたる標高100mの山にあった。

別名不言城(ふげんじょう)、物不言城(ものいわずじょう)とも呼ばれる。


<山頂に福光城跡 >


<麓に福光城(不言城)​​​​址の看板と矢印>

永禄4年(1561年)、尼子氏に属した福屋隆兼率いる尼子軍5000人に福光城を攻撃されるも、当時まだ珍しい火縄銃を使うなどして撃退に成功する。

鉄砲は

『鉄炮記』によれば、天文12年(1543年)8月25日、大隅国の種子島に一艘の船が漂着したときに、持ち込まれた。

種子島主・種子島時堯は火縄銃の実演を見て、火縄銃2挺を買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。

このとき種子島時尭が払った鉄砲2挺の代金について「鉄炮記」には「その価の高くして及び難し」、つまり「とても高価だった」とあるだけである。

但し、明治時代に書かれた歴史書「南島偉功伝」によると2,000両とされている。

現代のお金に換算することは難しいが、少なく見積もっても1,000万円を超える大金だったと考えられる。

時堯が射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1挺持たせて送り出した。さらに残った1挺を複製するべく金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十挺を作った。

また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った。

最初の鉄砲の使用

日本で初めて、鉄砲が用いられたのは、天文18年(1549年)5月、に種子島の領主・種子島時尭から贈られた鉄砲を使って、島津の家臣、伊集院忠朗が大隅国の加治木を攻めたときとされている、が諸説ある。

鉄砲が最初に使用されてから、僅か12年後に山陰の片田舎の小さな城に1挺とはいえ存在したということは、日本全国には相当数の鉄砲が存在したことを伺わせる。

また、鉄砲を使用するには、火薬、弾丸の製造やメンテナンスなどの最先端の技術が必要であり、そういった技術が、僅か12年の間に日本の各地に広まっていったことも、驚きである。

戦国時代の日本では、種子島で1日に1000挺以上の鉄砲が生産されたとされており、当時の他国とは比較にならないほど高かったと言われている。

これは、漢字や仏教などが伝来した後、それを日本人に理解しやすいように、手を加え改変したことに通じるものがある、ように思える。

 

陰徳太平記巻33に「石州福光城合戦事」の項がある。

陰徳太平記要約

福屋式部大輔隆兼は尼子に通じて、やがて軍兵を集め、福光城の近隣近郷に放火して猛威を振るった。

福屋方は福光城に籠もる吉川和泉守経康、都治三河守隆行等の兵は無勢なので堪えられないであろうと思っていたが、彼らは何れも古老の兵にて、些も臆したる気色も見えなかった。

そこで、福屋隆兼らが家臣の神村下野守長武、福屋越中守正安、小泉大和守正次、千代延藤左衛門兼倶等は詮議して、使者を吉川、都治が許へ遣わして降伏を勧告した。

しかし、都治隆行はこう返答した。

「福屋はついに尼子に寝返ったのか!

ここ数年来、毛利家を頼って尼子からの難を免れていたのに、今其の厚恩を忘れて敵方に降りることは、言語道断である。

恩を知るを以て人となし、恩を知らざるを以て畜類とするに非ずや。

己が士(さむらい)の義を知らざるのみか、人をも非道に陥れんとの御使こそ恥をも知らぬ振る舞いである」

と足軽をもって言い送り返した。

そして、使者の頸を刎ね、安芸新庄の吉川元春に書翰を添えて送った。

元春は、それを見て、忠勤の至り也と、大いに喜んだ。

一方福屋隆兼は右の返答を聞き、大に腹を立てさらば都治等を退治すべしとて尼子へ加勢を乞うた。

尼子は、湯信濃守惟宗に三千騎を相添えて石州へ差し向けた。

しかし、福屋隆兼は、尼子勢の到着を待たず、手勢五千余騎にて押し寄せ、遠攻めにした。

足軽大将と思われる者が、二百人計りで城に近づいてきた。

この頃まで、鉄砲というものは普及していなかったが、福光城に只一挺だけあった。

吉川経康はこの鉄砲を提げ出で敵との間合いが15mぐらいに近づいたとき、鉄砲の引き金を引いた。

すると、目標誤らず敵の足軽大将の胸元を打ち抜き、足軽大将はうつ伏せに倒れた。

これをみた、福屋勢が肝を潰し、少し色めきて見ゆる所に、吉川経康は得たりと鎗を堤け僅か十四人を前後に立て、敵の真ん中へ切って入った。

すると、敵一溜まりもたまらず、山下へ颯と引いてしまった。

こうして、その後は福屋城に鉄砲の上手ありとて、敢えて近づく者が無かったという。

福光城が敵に取り囲まれた、との知らせで、吉川元春が先陣の大将にて、宍戸安芸守隆家、熊谷伊豆守信直以下二千余騎相従い大江の市(現:大田市大代町大家)まで打出て来た頃、毛利元就、隆元、小早川隆景(*1)等は六千余騎にて、川下(川本町)の渡り口にまで出てきていた。

福屋隆兼は、これを聞いて敵わないと思い、川上松山まで引き退き、湯信濃守は湯の在所迄逃げ帰った。

(*1)

毛利隆元・小早川隆景、この頃豊後の大友と門司城で交戦しており、決着が着き大友軍が引き上げたのは11月5日のことである。

毛利隆元、小早川隆景達が引き返したのは12月になってからであり、元就の軍勢に加わっていない筈である。

毛利は12月に中野・矢上・日貫の福屋与党の討伐を始めるが、その時には隆元、隆景は参陣している。

 

63.3.中之村城没落

陰徳太平記巻33に「中之村城没落之事」の項がある。

この「中之村城」という名前の城は現在見当たらないが、どうやら邑南町にある余勢城のことではないかと思われる。

つまり中野村にある城であるから「中之村城」と陰徳太平記の作者が呼んだのではないかと思うのである。

この城を巡って、毛利と福屋方の抗争があり、毛利は中野・矢上・日和の地域を支配下に置くようになった。

<邑南町 矢上付近の城跡地>


中之村城の戦い

福光城の援護のために毛利勢が大挙して向かってくることを知った福屋隆兼は福光城攻めを取りやめて川上松山城(江津市松川)に退いた。

元就はこの機会に福屋を徹底的に討伐する決意をしていた。 

福光戦が終ると熊谷信直を警備に残しておいて、 反転して中野・矢上・日貫の征服に向った。

12月上旬、元就は元春宍戸隆家・福原貞俊らをして、中野・矢上・日貫の福屋与党を討伐させる。

当時、この地域は熊が峠(矢上・日和境)城主三宅勝平が管し、福屋から神主康之(那珂郡(現:江津市)神主城)、 尼子から多胡辰敬(安濃郡(現大田市)岩山城)らが三宅応援のため派遣されて中野の余勢城を中心に守備を固めていた。

注)神主康之は中の村康行とも記録されている。 
多胡辰敬は歴代中野に居住した如く記録された文書もあるが、もともと尼子家臣亀井氏につながる家で、刺賀円光寺中興の大旦那と称せられているところから見ると永禄元年、刺賀長信の旧領を与えられたものと思われる。

康之・辰敬らはよく防戦したが、別所宗晴が元春に内応したこともあって、その猛攻に支え切れず包囲を衝いて矢上の郡山城軍に合流したが、そこも敗られて熊が峠に退き、ついに焼落されて戦いは終った。 

康之・辰敬はそれぞれ 居城に遁れ帰ったが、勝平は落城とともに滅亡したようである。

この時日貫の福屋勢が一掃されたことは言うまでもない。

かくて福屋旧領は毛利方戦功の将士に配分された、この時出羽氏は矢上で五百二十五貫地領しており、吉見氏の日貫領有もこの前後のことと思われる。

諸書、余勢・郡山の両城のことを伝えているが、それは戦のあったことを意味し、熊が峠城跡から焼米の炭が出るというのは焼き払われたことを意味し、記録に残るほどの戦いはなかったらしい。

これよりさき、隆景は十月門司城及びその附近に於いて、 大友義鎮の大軍を粉砕し、豊前一国はやっと毛利に服従することとなったので、隆景は隆元より一足先きに、12月急いで門司を出発、石見に入り矢上で元就軍に合流する。

折しも積雪多く軍兵の行動もままならず、 福屋との決着もこれから本格的になろうとしている場合、軍を撤去する わけにもいかず、現状維持のままで越年することとなり、 福屋への前線基地として日和に元春軍を駐留させ、元就・ 隆景軍は矢上の郡山城に本営を置いて、永祿5年(1562年)の春を迎えた。

 

余勢城

石見誌(編集者 天津亘 大正14年31日初版発行)によると次のようにある。

中野村 除勢城 (城主)多胡十郎左衛門尉辰敬

宇多源氏、源雅信ノ後多胡重俊ー重行ー高重ー俊英(越前守應仁年中石見色智郡中野村田子四千貫二移リ餘所城ヲ築キテ居)ー忠重ー辰敬ー正國(實ハ弟永祿四年十二月吉川ニ攻ラレ刺鹿へ遁レ同五年正月元日落城)陰徳太平記ニ城主中村康之トセシハ誤

 

余勢城跡碑公園

邑智郡邑南町中野の余勢城跡に公園ができており、様々な石碑が設置されている。

<余勢城戦史>

永禄二年吉川元春の攻撃を受けてより時後二年の間攻防を繰り返す。同四年五月吉川、小早川の連合軍鳥井ヶ段に陣し大軍をもって総攻撃を開始した。
四代城主多胡正国、騒ぎたる様子も無く之に応戦し八月の末夜討をもって勝敗を決せんと闇に乗じ吉川本陣に突入した。
吉川勢は不意を突かれて慌て騒ぎ同士討ちする等、討死する者武将児玉輿八郎以下五百名に及び、吉川勢は一時攻城を中止して引き上げるに至った。
同年十二月尼子攻めの一陣として毛利、吉川、小早川の連合軍は謀略をもって城方の重臣別所小三郎を味方に入れ裏門より突入した。
城方は別所の裏切りにより一挙に戦況不利となり五年一月一日終に落城多胡九十年の歴史は幕を閉じた。

<沖弾正正藤之碑に 永禄5年1月1日余勢城落城の時主君正国を逃がした後、城に火をかけ火中に投じて自害せり と刻まれている>

 

 

陰徳太平記 巻33 中之村城没落之事

福光の城取り巻きたる敵退散せしかば、元就父子四人、河本に集会して軍義し給ひ、やがて中の村の城を取り巻き給いけり。
頃しも永禄二年十二月初旬の事なれば、雪花翼の如く降り、風の力剣の如く吹きて、骨に徹し身凍ける故、弓をひき太刀を提ぐるも手悴(かじ)けりて自由を得ず。されども元春先陣に進み、元就後陣に詰めかけ給いて、頻りに懸(か)かれ懸かれと下知せられける故、諸卒射れども、切れども少しも怯まず、二重に構えたる柵の木を一度にどっと乗り越えたり。
吉川勢の中に、綿貫左馬之助時勝とて、大力量の剛の者ありけるが、鉄の大槌の重さ二十貫目に拵えたるを軽々と提げ、追手門へ一番に付いて、吉川手者綿貫左馬之助時勝、今日城乗一番に、大門を打ち破りたり。
敵も味方もこれを見よやと高声に呼ばわり、鉄槌振り上げ二打ち三打ち続けて打ちたりける間、門の扉微になって砕けにけり。
城の兵これを見て、すわ大門破られぬるはとて、鑓数十本揃えて突きける程に、綿貫両眼の間を突かれ、終にそこにて失せにけり。
吉川勢に今田中務少輔経忠を始め諸士、後ろより続いて攻め入り、一番に大手門を切破りて城中へ乱れ入りければ、吉田勢並びに宍戸。熊谷以下も。我も我もと押し入りけり。
城主中村山城守康之、聞る勇士にて、少しも騒がず防ぎ戦いける故、宍戸家人末兼弥次郎討死し、庄原豊後守深傷負いにける。
かくて山城守は諸手一度に破れけるを見て、三百余人真ん丸に成って搦手より切り抜け矢上に城に入りて矢上筑前守勝平と一手になる。
寄手山城守をば討ち漏らしけれども、残る兵どもを爰彼所(ここかしこ)にて追い詰め討つ程に首八百五十余級とぞ筆しける。
ここに、大庭加賀守兼賢(後に宗雲と号す)中の村の城まだ遠攻めにせし時、矢上の方に陣取って居たりけるが、一首の狂歌をぞ詠みたりける

 梓弓よっ引き放つ矢上より射てこそおとせ真ん中の村

その後矢上の城切崩さるべしとて陣を寄せ給へば、城主矢上筑前守中村山城守と一同に城を明けて退きしかば、やがて元就入替わり給い、元春は日和の城にて暮れ行く年をぞ越え給ける。
如此(かくのごとく)しかば福屋が郎党共迚(とて)も叶うまじとや思いけん。
元春を頼みて降人に出ける者共は、井下新兵衛、同三郎兵衛、同加賀守、川邊美作守、門田民部少輔高方、米原東市助綱正、同右衛門尉等也。
福屋は近年元春の手に属せしかば、彼らが武勇の程兼て聞き及び給いし故、盡く家人に召し置かれにけり。

 

<続く>

<前の話>

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