36.終戦後の宮古島
宮古諸島に配備された日本軍は、捕虜となることなく、組織的に武装解除して降伏している。
そのため、任務を終えて帰還するまでの間、慰霊塔の建立や戦後の政治・軍事情報などの情報紙の発行といった、沖縄本島では見られない日本軍の戦後があった。
そして12月に一部の将校が沖縄の屋嘉捕虜収容所に移送されたが、多くの兵は12月に帰還した。
以下宮古島での終戦直後の様子の一部でも垣間見るため、前述し「下地馨」氏と海上挺進第四戦隊「中村隊員」の日記の一部を記述する。
36.1.下地馨氏の日記抄(3)
下地氏は終戦間際に栄養失調とマラリアで倒れた。
8月31日に野原越で「御真影」を焼いたときはマラリアで寝ていたため教頭の奥平平茂が代理で出席した。
8月になり体の不調が現れている。栄養失調のせいか?
8月16日戦争終結の報に接し、日本民族の将来を心配している。
9月29日小学校の授業が開始された。
下地馨氏の日記抄(昭和20年8月〜9月)
8月1日
未明爆音あり。◎一ヶ月間程、足と身体全体に倦怠感があった。過労 (増産)の結果だらうから其の中に恢復するだろうと考へていたが、それは間違いだった。矢張胃が可なり収縮しているために食物の消化が出来ず栄養摂取が困難なために起る現象だ。
8月3日
1.大雨一日中降る
2.今日は出発せず、 一体マラリアなのか、流行の擬似デング熱といふものなのか?
8月5日
今日より農士館取壊(全く相談なし)
8月6日
1.飛行艇悠々西の方へ飛んで行く、じゃくな事。
2.三斤4、5円山羊肉を買ふ。 一斤8円のスクガラスを買ふ
8月9日
1.高江洲、福里、防空壕当番
2.午後から職員集合、僕、平茂、 キミ3名のみ出席
8月12日
露西亜、日本へ敵対した由(越境)
8月13日
敵機1機の音、 始終聞ゆ
8月15日
敵機2機偵察
8月16日
昨日(8月15日正午)噫遂に屈服、条件(ポツダム宣言)の下に「戦争終結の詔勅」の下賜せられたり、一億国民の悲嘆筆舌の尽くすべきところにあらず、全国津々浦々哀愁戸おくに満ち紀元以来の日本民族の悲惨事なり、一等国民より弱少国民に転落せる日本民族の将来は如何になりゆく
8月17日 火
職員出校日、平茂、岩良、高江洲ら来る、六畳間を久しぶりで元の通りなす
8月21日
勝太郎君来る。樺太も、沖縄も共に日本領土に入れる事になったとか。但台湾が問題の中心になっているとか。
8月24日
「 戦争終止ノ詔書奉読式」挙行
8月26日
1.東軍医二診療注射して貰う、3名(僕、喜美、加代)に投薬有難き限り、蒸留水と炭酸ソーダを上げる
2.軍医の話では「両方気管支炎の気味あり黄胆も交る」ということで其の養生も始めることにす
8月27日
午後二時頃東軍医来り診療注射投薬等をなす(3名に)
8月28日
上空四双発機南へ飛んでゆく
8月29日
1.平良恵借君俸給取りに来た
2.東軍医来診、注射をなす、黄疸の養生を始む
3.夜、 豚二斤(60円)持ち来る
4.南西諸島、台湾は如何になりゆくかと皆々不安
8月30日
明日午後七時を期し御真影を御奉焼」スベキ公文(親展)来り驚く。沖縄、南西諸島は如何?
8月31日
1.昭和20年7、8月の相場。一斤30円の豚肉、一斤15円の山羊肉、一斤10円の魚、本月が一生涯で始である
2.畏くも今日17時、御真影を焼却の予定
3.本日東軍医診察、 熱発せず
9月1日
1.長くも昨日午後九時頃迄に〇〇〇を御奉焼せし由島田氏よりある。何だか胸に迫るものがある。
2.居留民として取扱ふのか、米の国籍に入れるのか、 僕等官吏はどうなるのか疑問である。
9月2日
1.愈々沖縄南西諸島もアメリカ領になるらしい。20年前あれ程研究した英語を今こそほんとに生かしてみせるか
2.校長会(異動)、平茂さんをよこす
9月4日
1.支庁より急便来リ、御奉焼御真影報告の公文提出するよう、通牒公文を渡す、間に合はす(臨時賞与の公文も共に)
2.役場に額を出す
9月5日
東軍医診祭、投薬、身の上語や妻帯の事等語る。喜手刈千代さんを出来るなら貰いたいといふていた。
9月6日
1.役場にて「降伏調印書」を読む、敗戦国の哀れさ!日本が斯くの如きになるとは?
2.今泉伍長来訪
9月7日
役場へ行く。東條英機や米内光政が暴漢のためやられたとか。
9月8日
校長会 (10日)の公文を平茂氏の所へ持たす
9月9日 雨降る、風交り
常会出席、日本刀、ピストル等を隠匿せず提出の事
9月10日 雨降る、風交り
1.校長会(奥平部茂氏代理出席)
2.各貯金帳より合して弐百八拾円程払戻をなす
3.今日亜米利加兵が十三名程来るといふ噂だが!
9月11日
防空壕前の小屋を給仕と二人で取壊す
9月13日
明後日より出校に付職員の打合会をなす、校長会伝達も兼ねる
9月15日
1.今日より児童出校 (午前二時間)
2.高等科児童ニ耕やさしむ。英語を教へる
9月16日 日
東軍医診察
9月18日 火
増産休業
1.一難歩って一難来る。マラリアのみと考へていたが気管支炎が既に始まったら しい。然し此れだけは抵抗療法で全快する事が出来る。疲労感あり(少し歩いた後)
2.東軍医殿の診察をうける
9月20日 木
職員出勤、平茂、高江洲、上原、僕四人
9月21日 金
1.今日は仲秋名月の日なり
2.夜東軍医、松本中尉、飯島准尉遊ぶ
9月22日 土
1.職員出校日(欠勤、西里、島尻キミ、下地ヒデ)
2.住宅で奥平、上原両先生の送別会あり
9月23日 日 秋分
福里清良君 「明日児童出校の公告」を書き、昼食を共にす。
9月24日 月
1.五十四機の米飛行機宮古上空飛翔、今日海空より米軍進駐する由
2.東軍医来診
9月28日 金
児童、職員集合、 東部の生徒多数、職具督促
9月29日 土
1.授業始まる、 朝会と第二ラジオ体操、何時もより児童多数
2.野球練習試合あり
9月30日 日・
1.友利克、郵便局ヒョッコリ出会う、四、五日前台湾から来た由
2.小野寺伍長夕方遊びに来くる、岩手県人
10月1日 月
1.授業あり
2.米軍=校舎状況調査、役場で対話、煙草を貰う
36.2.中村メモ(3)
8月8日に大詔奉読式や演芸会を行っており、表面的には戦意の低下は見られないようである。
8月14日に原爆投下の情報が入り、動揺が見える。
8月16日戦争終結が伝えられたが、感想などの記述はなく、淡々と業務を遂行しているようにみえる。
(だが、戦後50年後にその時の思いを語っている。この内容は、この項の最後に記述する)
また、演芸会やバレーボールの試合を行っており、安堵感も感じられる。
米軍は9月24日から27日に上陸し、日本軍の武装解除を行った。
以下、中村隊員のメモを米陸軍通信隊が撮影した関連写真「沖縄県公文書館所蔵」の一部と共に載せる。
なお、掲載した写真(沖縄県公文書館所の写真)は記事の内容とは直接関係はない。
中村隊員メモ(昭和20年8月〜9月)
八月
一日
軍曹及び伍長に任官。兵器・被服の手入れ。 十七時より隊長に任官の報告。 十九時より三時間会食。
四日
農耕(雨)。 二十時から野営。
情報=清水市艦砲射撃を受ける
五日
午前農耕。 午後休む。 最近砂糖、寒天(つのまた製)がほとんど主食。 薩摩藷のつるの塩汁(海水)は固くてまずい。
情報=今月中に敵機八千機那覇に集中する予定とのこと
六日
午前舟艇整備。 十五時より藷掘り。
八日
大詔奉読式。 午後草刈り。 十九時より本部へ集合、演芸会
十日
木材受領、 先日切ってきたパパイヤの木を乾燥したのが青白く黴た、もう食糧にはならぬ。
十三日
隊長訓話(陸軍大臣の布告)。舟艇整備。 午後農耕。
情報=先月二十七日三国(?)が申し入れ。今月八日ソ連が我が国に対し宣戦布告す。
十四日
農耕。
情報=ソ満国境は困難。広島と長崎に原子爆弾という新型爆弾が投下された。マッチ箱位の火薬で大きなビルが吹き飛ぶとか、 全く信じられぬ。
十六日
二時非常呼集、中隊長から戦争終結の詔書を聞く。
十九日
七時三十分より大詔奉戴式。午後休む
二十日
午前農耕。午後家屋を建てる。 藷掘り。四名入院。
二十二日
午前農耕。 十四時三十分より合同慰霊祭。 十五時三十分より五六五六部隊の演芸会を見学二十四時帰営。
二十三日
兵舎作り。十七時より暁部隊の演芸会見学。二十三時帰営。本日より東側兵舎に移転。
二十七日
午前農耕。拳銃返納。午後全員移転。
二十八日
八時までに艇を泛水。十二時半まで整備。十四時半より分列式。十六・十八・二十一・二十三号艇参加。他の四隻は他部隊へ配備。
三十日
午後水源地付近の林から出火。
三十一日
午後三名退院。缶詰の放出等あったせいか体力がだいぶ回復した様に思う。
九月
一日
群長以下四名池間へ 風雨強いため帰れず 。海岸の舟挺引き揚げ。
二日
風雨強し。大浦より池間へ糧秣運搬。
三日
風雨強し未明。上野死亡。
四日
農耕。十八時より祥雲寺で上野軍曹の告別式。
七日
午前健康診断 。十四時より舟艇を乗り回す。
八日
午前農耕。P38低空で飛来。
十日
午前休む。午後茄子・白鳳豆を植える準備。
十三日
午前掘り。午後船台を舟艇で第五桟橋へ運ぶ。
十四日
舟艇返納。成田と本部へ骨受領。
十五日
休む。十八時より演芸会。
二十四日
米軍のT、 C各一隻入港。
<戦車揚陸艦-792から車両を降ろす様子1945-9-24>
<戦車揚陸艦792を離れる第10軍南部機動隊514高射砲兵A中隊1945-9-24>
<憲兵隊に、米軍の機器が荷揚げされた波止場エリアのすべてを警備するよう命令する日本人中尉1945-9-24>
<米国政府に引き渡される武器や刀剣を数えて積み上げている日本兵1845-9-24>
<高く積み上げられた弾薬 1845-9-24>
<戦車揚陸艦792で夕食を共にする船長チャールズ・ギャレット中尉と日本人将校1945-9-24>
二十五日
米軍、我が兵器類を処分。
<海に投棄する弾薬の箱を戦車揚陸艦に積む日本兵たち 1945-9-26>
<弾薬をはしけから海に投げ捨てる日本兵 1945-9-26>
<キャノン准将と納見敏郎中将の初の公式会談 1945-9-26>
<特攻艇を視察するキャノン准将(左) 1945-9-27>
<キャノン准将、一行が日本海軍の部隊を視察 1945-9-27>
二十八日
八時米軍司令官(キャノン代将)閲兵。
<日本軍第29師団・第3歩兵連隊の視察をするキャノン准将 1945-9-28>
二十九日
三中隊とバレーボール試合。
<野営地で警備や作業をする日本兵たち 1945-9-29>
<通訳を介して会話する米兵と日本兵 1945-9-29>
<米人墓を見つめる米兵たちと米海軍コルセア戦闘機[F4U]の残骸 1945−9−29>
三十日
台風。 休む
中村の回想
中村は終戦が決まった時のことを、およそ50年後に次のように回想している。
遂に八月十六日未明、非常呼集有り停戦と聞かされた。我々は一人残らず戦って死ぬ覚悟で生きて来たのに、何と云う情無い事を誰が決めたのかと腹立たしかったが、上司の方に、我々だけで戦うことも出来ない、早まった行動はしないよう指示に従ってくれと我々を慰めていただいたことを覚えている。
それでもまだ食料は自給自足故、さつま芋を作り帰る日まで一生懸命働いた。
敵軍が宮古へ上陸しなかったのは日本の予測とは反対に直接本島を攻撃上陸したか宮古が大して必要なくなったからではあるが、軍隊が若し殆ど居なかったら無血上陸していたと思う。
後に聞いた話であるが上陸企画は七回あったとか。
でも何千人かのアメリカ兵を犠牲にせねばならぬから敢えて上陸しなかったとか。
もし上陸されていたら渡嘉敷島(慶良間諸島)ほどでないにしても民間人の自決者は何人かは出ただろう。
幾多の犠牲はあったが、一人の自決者も無かったことは苦しかった中でも少しは喜ばねばならぬと思う。
私はこうして戦友達の盾と神佛のおかげで、無かった筈の命をいただいて帰れたと思っている。
であるから我々特攻隊員戦没千数百名のためにも出来る限りのことはしなければ申訳ないと思い、今後も何かお役に立ちたく努力する覚悟である。
今も戦死した友の姿は頭に焼き付いていて、終生忘れることはできない。
そして今の幸福を感謝しつつ余り少ない人生を送っている。
<続く>