63.戦国の石見−6
尼子氏の滅亡
毛利元就は石見中央の邑智郡の支配者小笠原氏を降参させ銀山を手中にしたが、石見にはまだ尼子に通ずる武将がいた。
元就は、これらの武将を攻略し石見をほぼ制圧する。
そして、永禄9年(1566年)いよいよ宿敵の尼子の月山富田城を攻めた。
当時の尼子氏の当主は義久が当主で、義久は経久の曾孫にあたる。
同年11月2日、尼子義久は城を明け渡し、戦国大名尼子氏は滅びた。
富田城は歴代毛利の家臣が城代として治めていたが、慶長16年(1611年)廃城となった。
なお、尼子氏の家臣だった山中幸盛(通称:鹿之介)らは尼子家再興を目指し、織田信長や豊臣秀吉などを頼って運動する。
しかし、天正6年上月城の戦いで尼子再興軍は毛利に降伏し、山中幸盛は殺され、尼子再興運動は終幕する。
63.1.重富城の攻防
63.1.1.毛利元就の謀略
小笠原長雄が温湯城を明け渡した後、毛利元就は江の川以南の小笠原の領地は没収し、替地として井田(大田市)と波積(江津市)の二箇所を与えた。
この井田・波積の領地は福屋隆兼の領地であったが、その替わりと邇摩郡(大田市)内に替地を与えた。
しかし、福屋氏は井田・波積の領地をなかなか手放そうとしなかった。
そこで、吉川元春がまず福屋説得に向かうが、追い返された。
そこで小早川隆景が使いを出すが、これまた追い返されて隆景はそうとう激怒したといわれている。
隆景の怒りは相当なものだったらしく、すぐさま攻めるべきだと珍しく短気を起こしたようである。
福屋隆兼は吉川・小早川らと一旦和解するが、福屋隆兼の不満は解消せず、毛利に対する「わだかまり」、「しこり」を残し、不信感、警戒感を生むことに成った。
そして、毛利は銀山山吹城の攻略もできず、九州へ多くの兵を投入せざる得ない情勢であることを観ると、福屋隆兼は尼子氏へ通じることで、毛利一族の横暴を押さえることことも不可能ではないと判断するようになった。
一方元就も福屋隆兼に対して警戒感を持ち、これを潰す事を考えだした。
だが、九州にいる隆元・隆景らを呼び戻すことはできないので、元就は、武略を以て福屋隆兼陣営の弱体化を図った。
福屋の有力な部下である重富兼雄との間を不仲にし、抗争させようとしたのである。
重富兼雄は那賀郡(現:浜田市旭町)和田の重富城主で、福屋氏にとって最大の兵力を持ち、福屋本城乙明東南の固めをなしていた。
この重富を滅ぼせば福屋の勢力を半減することができるのである。
そこで、元就は重富が毛利に加担するという噂を流させ、福屋隆兼と重富兼雄の離反を謀ったのである。
63.1.2.重富兼雄の妻(尼御前)
福屋隆兼、重富城を攻める
永禄4年(1561年)9月下旬、元就の謀略に乗せられた隆兼は、大軍をもって重富城を攻撃し、火を放ってこれを焼き、重富一族を全滅させたのである。
陰徳太平記第33巻「福屋隆兼殺重富党付重富妻戦死事」にこの記述があり、重富兼雄の妻についても、大薙刀を取って立ち向かったと触れている。
この中で重富兼雄の妻は「巴御前」や「静御前」と並び称される程の女傑」であったとも記されている。
また、この重富兼雄の妻は「武家女鑑」津阪東陽著、天保11年(1840年)刊に「重富兼雄妻」として載っている。
尼御前山
また、重富兼雄の籠もった城は現在尼御前山と呼ばれる山頂にあったといわれており、その麓に「旭町教育委員会」が説明板を設けている。
旭町和田地区の「和田公民館だより」の第1号(2013年10月)にその紹介がある。
重富兼雄の妻ツヌと重富城(尼御前城)の紹介
「石見の国那賀郡今市から東に入った山深いところに重富という地面は今でも残っている。そこでは鎌倉時代から世々強勇の武士が生まれた。」これは文豪長谷川伸作『ほのほ物語』の一節である。
重富氏は盛時ハ千貫といわれた今市家古屋城主福屋氏の有能な家臣として、代々重富の城に居城していたが、永禄4年(1561年)安芸の国郡山城主毛利元就の策謀により、主人たる屋氏に攻められ落城した。
最後の城主は重富兼雄といい、戦の有様は『ほのほ物語』や『隠徳太平記』に詳しい。
兼雄の妻はツヌといい、女ながら夫に勝るとも劣らない戦いぶりで、二つの書き物も主人公はツヌである。
尼御前とは戦国の男達を相手に見事に散って逝ったツヌに対する尊敬の形容ではないかと思われる。
平成14年 旭町教育委員会
63.1.3.陰徳太平記「福屋隆兼殺重富党付重富妻戦死事」
陰徳太平記(第33巻「福屋隆兼殺重富党付重富妻戦死事」)によると、毛利元就の謀略により、福屋隆兼は重臣の重富隆兼の裏切ったと思うようになった。
そして、福屋は三千余騎で重富が籠る重富城を取り囲んだ。
重富兼雄の妻は、福屋隆兼の家臣である福原下野守兼教の姉であった。
そのため、福原は姉の許へ使いを出し、「密かに城から出るように」と伝えたが重富の女房がそれを断った。
福屋勢の攻撃が始まると、重富の女房は大薙刀を持って立ち向かった。
しかし、福屋方の勢力は強く重富の一族共悉く討たれてしまった。
重冨民部大輔兼雄は、今はこれまでなりと、腹掻き切って自害した。
それをみた重富の女房は子供を抱いて猛火の中に飛び込み焼け死んだ。
その重富女房の奮闘振りを次のように既述している。
・・・・(略)・・・・
重富女房、生年四十三歳、下には紅の小袖着て白綾の衣の裙高く取り、赤手拭にて帽額(はちまき)し、白柄の大薙刀茎短に軽々と提げ、重冨民部大輔兼雄が女房也、女也共大丈夫にも勝るべきぞ、侮って過すな敵の殿原達とて、水車に廻して切って駆(かか)るを、女なれば討ち取らんは詮なし、生け捕りにせんとする所を手下二三人薙ぎ伏せ、薄手重手負せたるるは員(かず)を知らず。
猶も敵に逢んと右へ旋(まわ)り、左へ翔(かけ)り、傍(あたり)を払って見えたるは、音に聞く山吹・巴・静(後述)などが挙動も斯くこそと。
諸人目を驚し、会釈兼ねてぞ居たりける。
似たるを友の習いにて、夫の民部大輔は、張良、樊噲(ちょうりょう、はんかい:漢の高祖の功臣)に劣らぬ勇士なれば、死に狂いに切って廻る程に寄せ手三度迄切り出され、手負い死人七十余人に至りぬ。然れども其の身金石にも非ざれば数か所疵を蒙りぬ。
其の上搦手より押入れたる敵勢に取り籠められて一族共悉く討たれたれば、民部大輔、今はこれまで也とて、腹掻き切って伏したるを見て、女房も小僧と云う子を抱き、猛火の中へ飛び入って焼け死にける有り様は、焼野の雉の子を思いに身を焦がすらんも是にや斉(ひとし)かるべきと見る人袖をぞ濡らしける。
焼け野の雉子夜の鶴:
子を思う深い親の情にたとえる言葉。巣を営んでいる野原を焼かれた雉は、残してきた雛を思って懸命に巣に戻ろうとするし、巣についている鶴は、霜の降りる寒い夜でも、雛を自分の羽で優しく包んで、暖めてやることからいう。
昔し秦の符登(ふとう:前秦の第5代皇帝)が妻の毛氏、壮勇にして騎射に勝れたり。
符登は姚萇(ようちょう:時代後秦の創建者)がために営塁(砦)を陥しられけるに、毛氏馬に乗り弓を引き、壮士数百を卒し、姚萇と戦って、敵数多を討ちけんも、今の重富が妻の前身にやと、皆人甚だ感称せり。
・・・・(以後略)・・・・
山吹・巴・静
古の山吹御前、巴御前、静御前のこと
山吹御、巴御前:
ともに平安末期の女性で源義仲の便女(召使いの女)と言われている。
また、源義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦で戦う女武者として平家物語に描かれている。
<山吹御前>
<巴御前>
静御前:
平安時代末期から鎌倉時代初期の女性白拍子。源義経の側室。
源義経を討つため鎌倉より上洛した土佐坊昌俊は、堀河の館に夜襲を仕掛けた。
昌俊の来襲を予想し警戒していた静は昌俊の動向を探らせ、その手勢が押し寄せたことを知るやいなや、酒に酔って眠っていた義経に鎧を投げかけ昌俊が攻め入ってきたことを知らせた。
平家物語や義経記などでは、静御前が鎧を身に着け薙刀を持って前線で戦う勇ましい様子が描かれている。
<静御前>
毛利と福屋の相克は続く。
<続く>