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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−184(尼子経久の石見侵入)

59.戦国の石見−2(続き)

59.4.尼子経久の石見侵入

59.4.1.大内義興帰国前後の情勢

永正14年(1517年)10月、安芸山県郡の有田で戦死した武田元繁の後嗣光和はいまだ10歳の幼少に過ぎず、安芸備後は小領主群の無統制な抗争にまかされていた。 

尼子経久は、この混乱に乗じて、11月、備後比婆郡の山内に出陣している。

この情勢の間に高橋元光の勢力圏を掌中にした毛利元就が、武田氏に替わって急速に芸備 の一大勢力に成長して来ていた。

石見では、永正9年から15年にかけて益田・三隅の抗争が断続しており、小笠原・佐波は江川沿岸で宿命的な争戦を繰り返していた。

そして安芸の毛利、備後の三吉の両勢力が三次方面から江川沿いに浸潤しつつあり、安濃・邇摩両郡へは尼子氏の侵入の気配が濃くなって来ていた。

また領地を隣接する福屋・小笠原・吉川諸族の関係も決して平穏とはいえなかった。

このような状況下では、大内義興も京都に安閑としているわけにいかなかった。

だが、京都の情勢もまた義興の帰国を許さなかった。

そこで、とりあえず芸備においては毛利元就をして地域を安定させ、石見では義興が石見守護であることを明示して尼子の侵略を未然に防ごうとした。

大内義興が石見守護になった年代は明らかではないが、永正14年(1517年)にはその職にあったと見られる。

石見國守護職事被仰付大内左京大夫處、得先守護代談、佐々木尼子可合力之旨有其聞、於現形者相談左京太夫、可被勵戰功之由被仰出候也、仍執達如件、 
永正十四 八月十一日
                                            (幕府奉行人 飯尾)貞運 花押
                                            (幕府奉行人 松田)英致 花押
益田治部少輔殿


すなわちこの文書の要旨は、「義興が石見守護職に任ぜられたが、先守護代(問田掃守助広綱)の証言によると、佐々木(六角定頼)・尼子経久が同盟するという噂があるので、もしかかる情勢が見えてきたら、義興に相談して戦功を励げむよう」にと、言うのである。


大内義興も帰国については、

「永正十三年、摂津の有馬温泉に浴した。
義興は、そこから直ちに堺港に出て帰国を願い出たが、将軍はこれを許さなかったので、そのまま堺に滞在して上洛せず、 永正十五年八月二日、堺を発して帰国の途につき、十月五日、山口に帰着した」

との記録がある。

 

足利義稙の出奔と足利義晴将軍就任

義興帰国後の京都の政情はにわかに混乱が目立ってきた。 

義興の去った幕府は細川高国が専横した。

しかし、永正16年(1519年)11月に、阿波の細川澄元が、阿波・土佐・淡路三国の兵を率いて摂津に侵攻すると、山城国で土一揆が発生した。

すると、足利義稙は細川澄元に通じて、細川高国を裏切ったため、永正17年(1520年)2月、近江坂本に逃れて六角定頼を頼った。

将軍義植は細川澄元と和して、澄元に細川の家督を継がせた。

ところが、同年5月、高国は大軍を率いて近江より京都へ進攻する。

これに対し、澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は等持院の戦いで敗北し捕らえられて自害させられ、澄元も摂津伊丹城に敗走し、政権は短期間で崩壊した。

そして失意のうちに病に倒れた澄元は、まもなく高国の攻撃を受けて播磨国に逃走し、最終的には永正17年(1520年)6月10日に阿波勝瑞城にて死去した

高国は、再び将軍義植を奉じて政を執る。

足利義植は細川高国の専横に怒り、大永元年(1521年)3月、淡路に出奔し、その後阿波の撫養(むや)に移った。 

12月、細川高国は播磨にいた足利義晴を迎えて第12代の室町将軍に擁立した。

その後義植は兵を挙げて上洛を図ったが失敗し、大永3年(1523年)4月、撫養でその多端な一生を終えた。 

これより織田信長の出現まで約五十年間、近畿の諸将は将軍の虚器を擁して政権を争い、 下剋上の風潮熾烈を極 め、国内騒乱の巷と化したのである。

さて、義興が周防に帰った永正15年には、7月、尼子経久は弟義勝を伯耆に遣わして南条宗勝(羽衣石城主)・行松氏(高尾城主)を攻めさせており、 8月、経久自ら出雲大原郡阿用城に桜井宗的を攻め、嫡子政久を失ったが、その勢力は強大になりつつあった。 

石見では4月、 益田・三隅累年の紛争が三隅の洞明寺合戦で一応結末がつき和平交渉にはいっていたが、小笠原・佐波の争戦は急を告げていた。

かくて、義興の帰国より大永元年経久の石見侵入までの二年余の間に、諸文書中に発見できるのは、水正16年の君谷戦と、水正17年毛利元就が亡兄興元の嫡子幸松丸を助けて、山県少輔五郎・同玄蕃允を壬生城に攻めるという事件があっただけだが、尼子・大内の抗争は各豪族間に両派閥の対立争戦を形成しつつ、次第に決戦の機運を醸成していたのである。

59.4.2.尼子経久の石見侵入

当時、安濃・通摩両郡の形勢は次のようなものであった。

当地方は最初は尼子・大内両氏の攻防戦、ついで福屋の滅亡と小笠原の進出、 最後に尼子・毛利両氏の対決という三期間にわたって、45年間(1521年〜1566年)の戦場となり敵味方両勢力の交替が目まぐるしく繰返された。

このため、記録の消滅・伝説の錯雑が甚しく、筋道を立ててその変遷の経過を跡づけることは極めて困難である。

とくにこの頃大森銀山が新しい製銀の方法により、銀の産出が復活して盛況を呈するに至ったため、尼子・大内、ついで尼子・毛利の石見に於ける勢力拡大の争奪戦はこの銀山を中心に大きな渦巻となって、いっそう熾烈となったのである。

安濃郡(現大田市の一部)海岸部は従来より出雲勢力の強い地域であったので尼子経久は容易にこの地域を支配下に置くことができた。

同じく山間部では尼子方の佐波と小笠原が大森銀山の争奪戦に鎬(しのぎ)を削っていた。 君谷合戦は銀山領有の鍵でもあったのである。

邇摩郡(現大田市の一部)にはいると、小笠原・吉川・福屋・周布の勢力が錯雑していたので、その去就は諸族の関係を複雑化してくる。

すなわち、吉川氏は経基の女が尼子経久の妻となって政久・国久・興久を生んでおり、今ひとりの女は出雲境の波根泰次の妻となっているなど、尼子と近親関係にある。 

小笠原は邑智郡川本温湯城に拠り江川という天然の要害を擁し、年米尼子の与党佐波と争い常に優勢を維持していたことは君谷における佐波敗退の伝説の多いことをもっても証せられる。 

従って経久は小笠原攻略の表面に立たず佐波をもってこれを牽制させておき、もっぱら海岸沿いに西下を図っていたと思われる。

安濃・邇摩両郡において直接尼子の侵攻の矢面に立たされたのは福屋及びその与党である。また、永正10年(1513年)頃より数ヵ年にかけて、さきに見てきた佐波・小笠原の紛争に類する攻防戦が各地で繰り返されていたものと思われる。
 
永正年間における石見西部の益田・三隅の両党、石見東部の佐波・小笠原の両党などの紛争に福屋の与党が余り介入していない。

これは、邇摩郡沿岸地方からの尼子の侵攻に手を焼いていたからである。

かくの如き情勢のうちに尼子経久が本格的に石見侵入に乗出してきたのは、出雲大原郡阿用の桜井宗的攻略の翌年すなわち永正16年(1519年)からのことであった。 

宅野・仁万・馬路の諸城が激戦の後攻略されたことは、その地方の断片的諸伝説のうちにも明らかである。

永正18年(1521年)2月、尼子の攻撃に耐えきれなくなった高橋久光が尼子に従属。高橋家と婚姻同盟を結ぶ吉川国経、元就も大内を見限り尼子に従属した。

 

永正18年(1521年)8月23日に大永と改元される。

大永元年(1521年)9月26日、経久、福屋の与党都治兼行(駿河守)・興行(治部少輔)父子の拠る那賀郡都治の今井城を攻めた。 

29日落城、兼行73歳をもって自殺、興行は福屋の本城那賀郡跡市の乙明城へ遁れたが間もなく没した。

 

59.4.3.大内・尼子の和睦

経久は都治城代として兼行の一族郷原基行を立てて羽積砥谷城に置き二百貫文の地を給した。

経久の石見侵入は都治までで、江川を境として一とまず休止した。 

このことに関して、8月30日大内義興と経久との和平の記録がある。

注意すべきは和平の調停者が、この年7月播磨守護赤松義村の許から上京して将軍義植の跡を継いだ足利義晴であったことである。

義晴の将軍宣下はこの年の12月であり、義植が淡路から和泉の堺に進撃して敗退したのは10月であったから、京都の政情は必ずしも安定していたとは言えない。 

義晴は近江の佐々木に親しかったから、大内・尼子の調停は経久の側から江川以東の侵略完了を見越しての要請であったと思われる。

「陰徳太平記」巻四「大内義興帰国 付大内・尼子和睦之事」の項に、「大永元年、将軍は大内・尼子は和睦すべし、と下知した」とある。

大内義興帰国 付大内・尼子和睦之事

伝(大学)に曰く
一人貧戻(たんれい:欲が深く、人の道にそむくこと)なれば、一国興乱と。

山陽山陰の士民は近年、暫く攻守の苦難が収まり、非常にゆったりと穏やかになっていた処に、尼子伊予守経久が佐々木の誘いに乗って、偽りて公儀を仮り(力のない者が、権力のある者の威勢を借りて威張ること)、窃(ひそかに)に私の利を貪らんが為に、自国に奔(はし)り帰って挙兵した。

これによって、中国は忽(たちまち)骸(むくろ)を践(ふ)み血をわたる事になった。

そうする間に尼子経久は既に国中を打ち従えた。

伯州、石州、備後、備中も彼が下風を仰ぎ、殊に安芸の国は、吉川駿河守経基は経久の舅家なれば、彼の一族悉く一味するに因りて、合国の諸士等靡然として(風に草木などがなびくように)命を受けた。

経久は弥々(いよいよ)猛威を誇り、近日石州を経て、防州山口へ攻めるべき軍謀を巡らしたりしていた。

その噂を聞いて、大内方の者共は、急いで京都に注進した。

これを聞いて大内義興は自国の外憂を排斥しようと、大樹(将軍)にお暇を賜わり、永正16年8月10日、都を出発して、周防に向かった。

この帰る間に、安芸の国侍の毛利、吉川、宍戸、平賀、天野等の人々は皆本国に馳せ帰った。

大内に袒ぐ(味方する)者もあり、或いは尼子に属する者有る。

大内義興は同月20日防州三田尻に着いた。

義興は深く慮り、諸侍を悉く召し集め、

「十年余りの在京だったので、その間に妻室等に若し如何なる不義が有るかもしれない、しかれど吾思う子細あれば一切の儀について善悪の沙汰に及ぶべからず」

と堅く下知し、翌日に山口に入った。

こうして、翌年から大内・尼子、所々に於いて合戦に及び、勝敗はつねに替わったので、石州、芸州の国人等は、昨日は大内に質を出し、今日は尼子に礼を執って、俯仰の間も心休まるときはなかった。

永正18年正月、大永元年に改元された今年大樹(将軍)より大内、尼子和睦すべき旨の下知があり、両家はこれを了承申し受けた一年両は、備芸石間の合戦もなく、暫くの間は穏便であった。

 

しかし、その安穏な時期は長くは続かなかった。

大永2年(1522年)に大内義興が安芸に侵入し、尼子経久は再び石見に侵入するからである。

 

<続く>

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