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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−99(動乱の鼓動−2 中先代の乱) 

33.2. 北山殿の陰謀

西園寺公宗という公卿がいた。

官位は正二位、権大納言であり、役職は「関東申次」であった。

「北山」と号した。

「関東申次」とは鎌倉幕府と朝廷との間の連絡・意見調整を行う役職で、代々西園寺家が担っていた。

鎌倉幕府の滅亡に伴い役職は停止された。

この西園寺公宗らが後醍醐天皇の暗殺を計画したのである。

 

北条泰家

北条泰家は鎌倉幕府第14代執権北条高時の弟である。

正中3年(1326年)、兄の高時が病によって執権職を退いたとき、後継者争いに敗れ出家する。

幕府滅亡時には兄の高時と行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした。

そして、自身も北条の所領がある陸奥国(糠部郡)に落ち延びた。

この北条泰家が西園寺公宗を頼って京都にやってきた。

これは、第2代執権北条義時以来北条家で言い継がれていたことがあったからである。

承久3年(1221年)の承久の乱は太政大臣西園寺公経からもたらされた情報によって勝つことができた。

恩を感じた北条義時は、「子孫七代に至るまで西園寺殿をお頼り申せ」と代々言い継いできていたからである。

この、北条家の引き立てで、西園寺家もまた代々官は太政大臣にまでなり、位は一品という最高位を極め興隆した。

西園寺公宗も幕府に恩を感じており、何とかして北条一族を取り立てて、再び天下の実権を取らせて、西園寺家も復職したいと思っていた。

 

西園寺公宗は、北条泰家を還俗させ、刑部少輔時興と名を変えさせた。

建武2年(1335年)6月、北条泰家は後醍醐天皇の暗殺計画を立てた。

まず、後醍醐天皇を​​西園寺公宗の北山の山荘に誘い出し、殺害する。

そして時興は畿内と近国の軍勢を召集して兵を挙げる。

また、信濃では時興の甥・北条時行(北条高時の次男)が、北国では名越(北条)時兼が呼応する。

その武力を背景に持明院統の後伏見法皇を擁立して新帝を即位させ、建武政権を覆そうという計画であった。

しかしこの計画は西園寺公宗の異母弟の公重の密告で露呈する。

西園寺公宗は捕らえられ、出雲国へ配流される途中で処刑されてしまう。ちなみに、現職公卿の処刑は平治の乱の藤原信頼以来だった。

北条時興は逐電し行方不明となった。

 

33.3. 中先代の乱

後醍醐天皇の暗殺と武装蜂起計画が失敗した、北条泰家(時興)は逃れ各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。

信濃に潜伏していた北条時行は、御内人であった諏訪頼重や滋野氏らに擁立されて挙兵した(『梅松論』)。

時行の信濃挙兵に応じて北陸では北条一族の名越時兼が挙兵する。

建武2年(1335年)7月、時行らは信濃国守護であった小笠原貞宗を撃破する。

同年7月18日、時行は上野国(群馬県)に攻め入った。

足利尊氏の弟で建武政権の東国を守護する直義(鎌倉将軍府)は、時行征伐軍を編成して派遣したが、時行はこれを武蔵国女影原(埼玉県日高市女影)・小手指原(同県所沢市北野)・府中(東京都府中市)などで破った。

直義は自ら軍勢を率いて、井出沢(東京都町田市本町田)で時行を迎え撃とうとしたが、時行はこれにも勝利した。

7月25日、時行は鎌倉に入り、武家にとっての旧都の奪還を成功させたのである。

なお、直義は、鎌倉を脱出するときに、鎌倉に幽閉されていた護良親王の殺害を命じている。

直義は北条時行が護良親王を将軍にたてて鎌倉幕府を再興することを案じた。

そこで、直義は淵辺義博に、引き返して護良親王を殺害することを命じたのである。

 

この時の様子を「太平記」では次のように記している。


「汝は我を失んとの使にてぞ有らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸らせ給けるを、淵辺持たる太刀を取直し、御膝の辺をしたゝかに奉打。

宮は半年許篭の中に居屈らせ給たりければ、御足も快立ざりけるにや、御心は八十梟に思召けれ共、覆に被打倒、起挙らんとし給ひける処を、淵辺御胸の上に乗懸り、腰の刀を抜て御頚を掻んとしければ、宮御頚を縮て、刀のさきをしかと呀させ給ふ。

淵辺したゝかなる者なりければ、刀を奪はれ進らせじと、引合ひける間、刀の鋒一寸余り折て失にけり。

淵辺其刀を投捨、脇差の刀を抜て、先御心もとの辺を二刀刺す。被刺て宮少し弱らせ給ふ体に見へける処を、御髪を掴で引挙げ、則御頚を掻落す。

篭の前に走出て、明き所にて御頚を奉見、噬切らせ給ひたりつる刀の鋒、未だ御口の中に留て、御眼猶生たる人の如し。

 


護良親王は 「お前は私を殺そうとして来た使いであるのだろう。分かっている」と言って、淵辺の太刀を奪おうと走りかかろうとした。

淵辺は持っていた太刀を取り直して御膝のあたりを打った。

親王は半年ほど牢の中に坐っていたので、うまく立てなかったが、強い気持ちを持っていた。

親王が起き上がろうとするところを、淵辺義博は組み伏せ、太刀で喉元を刺そうとすると、親王は首を縮めて剣先を咥え歯で噛み折った。

格闘の末にようやく首を取った淵辺が首を持ち外に出て月あかりで見ると、首は両眼を見開き、歯には刀の先をくわえたままの凄惨な形相であった。

直義は三河国矢作に拠点を構え、乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を京に送り届けた。

北条時行勢の侵攻を知らされた建武政権は、

足利尊氏に討伐を命じる。

尊氏はここで条件をつけた。二つの役職を要求したのである。

一つは、武士の棟梁としての象徴的な役職で、権威と支配力のある征夷大将軍、もう一つは土地を支配する役職である総追捕使に任命することである。

尊氏は、

征夷大将軍に関しては
そもそも征夷将軍の任は代々源平の者たちが軍功によってその位に就いた例が数えきれない。

そしてこれは特に朝廷のため、我が足利家のために深く望むところである。

また、総追捕使に関しては、
乱を鎮め世を治める良い方法は、功績がある武士に褒賞を与えることである。

しかし、これに手間が掛かってしまうと忠義の者たちの意気を削ぐことになる。

そこで、しばらくの間、関東八ヶ国の管領に任命してもらい、直接軍勢の恩賞を執り行う勅許を頂きたい。

と述べたのである。

しかし朝廷は首を縦に振らなかった。

征夷大将軍は武家最上の任である。それを尊氏に許すのは、かつての鎌倉将軍家の格式を彼に与え、幕府再建をみとめることにほかならない。

尊氏は焦りながら勅命をまっていたが、機を逃すことに焦り出した。

「太平記」では、

「征夷大将軍のことは、関東を鎮めた手柄によって行おう。

関東八ヶ国の管領のことは差し支えない」と言って、すぐに綸旨をお出しになった。

これだけでなく、恐れ多くも、天子の御諱の一字をお与えになって、高氏と名乗っておられた高の字を改めて、尊の字になさったのだった。

と、記述しているが、信憑性に欠る。

恐らく、尊氏がこの後、鎌倉で論功行賞を朝廷の許しを得ずに行ったことの正当性を言うためであると思われる。


8月1日、朝廷は発表した。

鎌倉から逃れて来た成良親王をして“征夷大将軍トスル”という補任の令である。

つまり、尊氏にもう征夷大将軍については、もうこれ以上関わるなと諦めさせようとしたのだった。

尊氏は決心する。

「不忠不逞な臣」と呼ばれようと東国へ下ることを。

朝命を待たず戦争におよんだ例は、古来、たびたびある。

後三年ノ役の源義家、前九年のさいの源頼義、みなそうだった。

いつ降くだるかわからない朝命を待っていたら、戦機、とり返しがつかぬ大事に陥るからである。


8月2日尊氏は勅令を得ないまま出陣した。

後醍醐天皇は、少しまずかったと思ったのか、尊氏が出陣した後で、追って尊氏に征東将軍の号を与えている。

尊氏は直義と合流し、鎌倉に向かった。

8月19日足利尊氏は鎌倉を奪還した。

<続く>

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