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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−72(太平記)

29. 太平記

 

『太平記』は、日本の古典文学作品の1つである。いわゆる歴史文学に分類され、「日本の歴史文学の中では最長の作品」とされる。
   
全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語である。

作者と成立時期は不詳であるが、今川貞世の『難太平記』に法勝寺の恵鎮上人(*円観)が足利直義に三十余巻を見せたとの記事があり、14世紀中ごろまでには後醍醐天皇の崩御が描かれる巻21あたりまでの部分が円観、玄慧など室町幕府との密接な関わりを持つ知識人を中心に編纂されたと考えられている。

室町幕府3代将軍足利義満や管領細川頼之が修訂に関係していた可能性も指摘されている。

*円観

後醍醐天皇に請われて、鎌倉幕府調伏の祈祷をしたとの疑いで忠円​​・文観ら三人で捕縛され鎌倉へ送らた。

鎌倉での判決で、円観は「陸奥の結城入道へ終身預け」となった。

建武元年(1334年)にはじまる建武の新政では罪を赦され法勝寺に戻り東大寺大勧進職に任じられたが、朝廷が分裂すると北朝側について活躍した。

 

太平記は次のような序から始まっており、太平を求める思いが込められている。

この序文と巻一の「後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事」を以下に載せる。


29.1. 太平記 序

蒙窃採二古今之変化一、察二安危之来由一、覆而無レ外天之徳也。

明君体レ之保二国家一。

載而無レ棄地之道也。

良臣則レ之守二社稷一。

若夫其徳欠則雖レ有レ位不レ持。

所謂夏桀走二南巣一、殷紂敗二牧野一。

其道違則雖レ有レ威不レ久。

曾聴趙高刑二咸陽一、禄山亡二鳳翔一。

是以前聖慎而得レ垂二法於将来一也。

後昆顧而不レ取二誡於既往一乎。

(訳)

蒙(いたらぬ私が)竊(ひそかに)かに古今の変化(歴史)を探って、安危(平和と騒乱)の所由を察るに、覆って外なきは天の徳なり。

名君これを体して国家を保つ。

載せて捨つる事なきは地の道なり。

良臣これに則って社稷(国家)を守る。

若しその徳欠くる則は、位ありと雖も持たず。

所謂夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗る。

その道違う則は、威ありと雖も保たず。

曾って聴く、(秦の)趙高は咸陽に死し、(唐の)禄山は鳳翔に亡ぶ。

ここを以て、前聖(古の聖人)慎んで法を将来に垂るることを得たり。

後昆(後の世の人)顧みて誡めを既往に取らざらんや。

この太平記の序は、「平家物語、巻第一、祇園精舎」の書き出しにあるように、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、を例にとって「道理を外すと天下は乱れる」と言っている。

恐らく、「太平記」の作者は「平家物語」に影響を受けている。

ただ、平家物語は諸行無常というような名調子で始まるが、太平記は天下・王道の考えを論説的に述べるところから始まる。

それは太平記では具体的に、「天は万物に慈愛を施している。優れた君主はこの原理を実行に移して国家を保つ。

地は万物を余すことなくはぐくみ育てるが、良い臣下はこのことをよく理解して国家を守る。若しその徳が欠けているときには、高い地位にあってもそれを保つことはできない。」と言い放つ。

<平家物語、巻第一、祇園精舎>

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、 これらは皆旧主先皇の政にもしたがはず、楽しみをきはめ、諌めをもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の憂ふる所をしらざりしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。

近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心も、たけきことも、皆とりどりにこそありしかども、ま近くは、六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝へ承るこそ心も詞も及ばれね。

これらに見られるのは、遠い中国の例を挙げて、論を展開しており、当時の知識者・有識者の矜持を感じる。

なお、平家物語では、日本の動乱の先例も挙げており嘆いているが、太平記ではこれらには触れていない。

 

29.2. 巻第一

1 後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事

(要約)

武家政権である鎌倉幕府は源頼朝によって開かれたが、三代で源氏は絶えた。

その後実権を握ったのは北条時政であった。

後鳥羽上皇は承久の乱で北条得宗家2代目の北条義時を滅ぼそうとしたが失敗して、隠岐国に流された。

その後、武蔵守泰時、修理亮時氏、武蔵守経時、相模守時頼、右馬権頭時宗、相模守貞時、相続いた。

この北条得宗家は、謙虚にして礼儀正しく善政を行った。

そうして日本国中鎌倉幕府の権威に従わないものはなかった。

しかし、得宗家9代目の北条高時高時は放蕩に明け暮れ政治を顧みなかった。

このことから、国内は大いに乱れ、一日も穏やかな日がなくなった。

こうした時に出てきた後醍醐天皇を万民が褒め称えた。

 

 

 

爰(ここ)に、本朝人皇の始め神武天皇より九十六代の帝、後醍醐天皇の御宇に当たって、武臣相模守平高時と云ふ者あり。

この時、上は君の徳に違ひ、下は臣の礼を失ふ。

これにより、四海大いに乱れて、一日も未だ安からず。

狼煙天を翳(かく)し、鯨波(勝鬨の声)地を動かす、今に至るまで三十余年。

一人として未だ春秋に富める(将来を期待する)ことを得ず、万民手足を措おくに所(安心して身を置く所)なし。

 

倩(つらつら)其の濫觴(発端)を尋ぬれば、啻(ただ)禍は一朝一夕の故に匪(​​あらず)。

元暦年中に、鎌倉の右大将頼朝卿、平家を追討して功ありし時、後白河院、叡感の余りに、六十六ヶ国の惣追捕使に補ふせらる。

これより武家初めて、諸国に守護を置き、荘園に地頭を補ふす。

彼(かの)頼朝の長男左衛門督頼家、次子右大臣実朝公、相続あいついで、皆征夷将軍の武将に備はる。

これを三代将軍と号す。

然(しかる)を、頼家卿は、実朝公の為に討たれ、実朝公は、頼家の子悪禅師公暁の為に討たれて、源氏の世、わづかに四十二年にして尽きぬ。

其後頼朝卿の舅遠江守平時政が子息、前陸奥守義時朝臣、自然に天下の権柄を執って、勢ひ漸く四海(国内)に覆はんとす。

この時の太上天皇は後鳥羽院也、武威下に振るはば(武家の権勢が盛んに慣れば)、朝憲上に廃れん事(朝廷の法規が廃れてしまうこと)を歎き思し召して、義時を亡ぼさんとし給ひしに、承久の乱出で来て、天下暫くも静かならず。

つひに旌旗(はた:軍旗)日を掠めて、宇治、勢多にして相戦ふ。

その闘ひ未だ一日を終へざるに、官軍忽ちに敗北せしかば、後鳥羽院は、隠岐国へ遷されさせ給ひて、義時、いよいよ八荒(国のすみずみ)を掌の内に握る。

それより後、武蔵守泰時、修理亮時氏、武蔵守経時、相模守時頼、右馬権頭時宗、相模守貞時、相続いで七代、政武家より出でて、徳窮民を慰するに足れり。

威を万人の上に被らしむと云へども、位四品の間を越えず(その位は四位に留まり、公卿に列する事は無かった)。

謙に居て(謙遜して)仁恩を施し、己れを責めて礼儀を正しうす。

是を以て高しと云ども危からず、盈(みて)りと云ども溢れず(身分は高くても危ういことは無く、満ちていても溢れる事は無かった)。


承久元年より以来このかた、儲王摂家の間に、理世安国の器に相当たり給へる宮を一人、鎌倉へ申し下し奉つて、将軍と号す。

武臣皆拝趨の礼を刷(かいつくろ)ふ。

同じき三年に始めて洛中に両人の(北条)一族を置いて、六波羅と号して、西国の沙汰を執り行はせ、永仁元年より、鎮西に一人の探題を下して、九州の成敗を司らしめ、異国襲来の備へを堅かたうす。

されば、天下普うかの下知に順はずと云ふ所なく、四海の外も斉(ひと)しくその権勢に服せずと云ふ者なかりけり。

朝陽犯さざれども、残星光を奪はるる習ひなれば、必ずしも武家の輩、公家を褊(さみ)し奉らんとなかりしかども、所には、地頭強くして領家は弱く、国には、守護重くして国司は軽かろし。

この故に、朝廷は年々に衰へて、武家は日々に昌(さか)んなり。

これによつて、代々の聖主、遠くは承久の宸襟を休めんがため、近くは朝儀の陵廃(りようはい)を歎き思し召して、東夷を亡ぼさばやと、常に叡慮を廻らされしかども、或いは勢ひ微にして叶はず、或いは時未だ到らずして黙し給ひける処に、時政九代の後胤、前相模守平高時入道崇鑑が代に至って、天地命を革(あらた)むべき危機此に顕(あらは)れたり。

倩(つらつら)古を引(ひい)て今を視に、行跡甚だ軽くして人の嘲りを顧みず、政道正しからずして民の弊えを思はず、ただ日夜に逸遊を事として、前烈を地下に辱し、朝暮に奇物を翫で、傾廃を生前に致さんとす。

衛の懿公(いこう)が鶴を乗せし楽しみ、早く尽き、秦しんの李斯が犬を牽きし恨み、今に来たりなんとす。

見る人眉を顰め、聞く人舌を翻す。

此時の帝後醍醐天皇と申せしは、後宇多院の第二の皇子、談天門院の御腹にて御座せしを、相摸守(北条高時)が計として、御年三十一の時、御位に即奉る。

御在位之間、内には三綱五常三綱(三綱は君臣・父子・夫婦の間の道徳。

「五常」は仁・義・礼・智・信の五つの道義)の儀を正して、周公孔子の道に順、外には万機(帝王の政務)百司(諸司)の政を不怠給、延喜天暦(延喜:第六十代醍醐天皇、天暦:第六十二代村上天皇)の跡を追れしかば、四海風を望で悦び、万民徳に帰して楽む。

凡(およそ)諸道の廃たるを興し、一事の善をも被賞しかば、寺社禅律の繁昌、爰(ここ)に時を得、顕密儒道の碩才も、皆望を達せり。

誠に天に受たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其徳を称じ、其化(その影響・恩お受けたこと)に誇らぬ者は無りけり。

 

<続く>

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