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旅日記

望洋-40(台湾漂着)

23.台湾漂着

久米島から宮古島まで直線距離で約220Km、宮古島と台湾は直線距離で約350Kmである。

第四戦隊第二中隊の赤塚中隊長の船を含め4隻が3、4日の漂流の末に台湾に漂着した。

この台湾に漂着した隊員の話しをしたい。

海上挺進第四戦隊は座間味島から宮古島に機帆船で向かったが、この途中各機帆船は敵機襲撃をふくめ様々な困難な障害・事故に遭った。

座間味島を出航した第一悌隊の機帆船12隻のうち4隻が台湾に漂着した。

この台湾に漂着した隊員は再び宮古島へ向かって出航できる状態ではなく終戦まで台湾に滞在することになった。

赤塚中隊長以下21名が独立中隊として基隆の東部に配置された。

終戦時にはこの一部は第21戦隊と合流し、行動した。

この台湾に漂着した隊員の手記があるので、その一部を要約して記載する。

23.1.倉田軍医の話

「僚船の爆発」の項で倉田軍医の話をした。

その倉田軍医は、台湾に漂着しており、その当時の話がある。

倉田軍医の話

夜が明けてみると周囲には僚船は一隻も見えず、波は大きく、船はそれこそ文字通り木の葉のように揺れに揺れほとんど飲まず食わず出さずでした。

何日か後に、私共の船は宮古島を外れて辛うじて台湾の基隆港に入港、接岸することができました。

基隆市内の宿舎に泊り宮古島へ渡る便を待っていましたが、毎日のように空襲がありとても出港出来る状態ではなかったです。

同じ頃台湾に漂着した私共も含めた第四戦隊員と、約20名は欠員を生じていた第21戦隊へ転属となり、台湾東北部の貢寮庄に陣地を作り待機しておりましたが、残念ながら8月に終戦となってしまいました。

私共の部隊の内地帰還は昭和23年頃の予定といわれ現地自治のため、台湾中東部の池上地区に移動、更に進駐して来た国府軍の指令により道路や鉄道の工事などにも従事しました。

その後しばらくして急に内地帰還の指令があり基隆に集結、米山丸という老朽貨物船に乗り込み鹿児島に上陸、復員しました。時に昭和21年3月でした。

 


23.2.第3中隊第2群門岡隊員の手記

第3中隊第2軍の門岡隊員は台湾漂着後の様子を詳しく述べている。

手記をみると、台湾に漂着してからは、割とのんびりとして恵まれた生活を続けていたことが窺われる。

 

23.2.1.台灣漂着

確かに出航は12隻いたはずの船が、 昨夜の大嵐で一夜明けてみると大海原を我等が船のみが「ギイギイ」という不気味なきしみ音をたてながら大浪の中を唯一隻さまよっていた。

廻りには基点となり得るものが一切見当たらないから、進んでいるのか、退いているのか、さっぱり見当がつかなかった。

船が浪の頂上にあがると、スクリューが空回りして高速回転を起こし、浪底に沈むと焼玉エンジン独特な「ポン ・ポン」という音をたてた。

昨夜に遭遇した大嵐の波は、さすが外海の波と思える程、瀬戸内の海と違って大波で高波であった。

この大波に揺られ群長以下全員隊員は、酷い船酔いで集中力が低下し、嘔吐や目眩、頭痛が生じて、ただフーフーと呼吸をしているだけだった。

さすがの船員達も、船長以外は軽重はあるけれども全員船酔いしてるようであった。

凄まじい嵐だったが、船長はその責任上寝ていることはできずランプの煙で真黒になった顔を洗いあいかわらず羅針盤とニラメツコしながら舵を取っていた。

しかし船長も羅針盤に絶対の信頼を置いていないらしく、少々進路を右よりにとって最悪の場合でも台湾にぶつかるようにしていたとのことだった。

久米島を出てから、船酔いのせいで、食事はまったく喉をとおらず携行食の乾麺包を食べる位のものだった。

 

あれは確か(久米島を出航して)2日目の午後3時頃であったと思う。

敵の戦闘機が一機が我々の船に向かって飛んで来るのを見つけた。

船長はジグザグ運転し攻撃を躱そうとし、我々も物陰に隠れた。

しかし、敵機は真上を低空で通過し、そのまま飛び去って行き、何の攻撃も受けなかった。

恐らく沖縄爆撃で弾を使い果たしたのではないかと思った。

 

​​蘇澳(そおう)

3日目の昼近くになって遥か中空に雲が見えてきた。

それが台湾と確認するまでに2時間近く掛かった。

やっぱり船は僅かながらでも動いていたらしい。

運良く我々が辿り着いたところは台湾の東海岸で、汽車の終点となっている​​蘇澳(台湾宜蘭県)という街であった。

蘇澳の港に入った途端に空襲警報が鳴った。

米機が早速のお出迎えしてくれたのである。

米機が去ると、早速食事の用意をした。

何しろ3日間米粒を食べていないので、飯をと思ったが、米がないからやむを得ず臨時の精米所(船尾の船具入の下に籾を受けて防舷材をもって二人で上から搗いて精米)で精米し、ようやく米の飯にありついた。

船酔いは不思議なもので陸に上がった途端になんともなくなった。

飯尾群長が基隆(台湾北部)の船舶隊に連絡をとってみると、第四戦隊の船が他に3隻台湾に着いていると知らされた。

そして、すぐに基隆に回航せよとの指令を受けた。

我々は疲れを休める間もなく基隆に急いだ。

 

​​ここから南方の花蓮港までは断崖絶壁の連続で途中にある吊り橋は東洋一といわれていることを知った。

また、そこまで歩いて行くと3日間位かかる、と言われた。

<余聞>

吊り橋
上記の手記に書かれていた、蘇奥の東洋一と言われた吊り橋は、現 宜蘭県蘇澳鎮の南澳渓に架かる橋と思われるが、今は無い。

現在は新しい桁橋が架かっており、その傍に吊り橋の塔の遺跡がある。

 

基隆(きいるん)

ここでも、基隆港に入った途端にグラマン40機位の手荒い歓迎を受けた。

5、6機位づつの編隊を組んで波状攻撃で焼夷弾と機銃掃射をしてくる。

船の上から見ていると、高射砲や船の上からの機関砲が飛行機を追撃するがなかなか届かない。

歯がゆい事云わんことなしである。

(五発に一発は曳光弾のため昼間でも良く分かる)そうこうするうちに陸上で担架で運ばれている人が見えた。

初めは物珍し気に見ていたが、あの近くに飛んで来る弾が当たると死ぬと考えると、背中に冷や水を浴びたようにゾーッとして船の隅にかくれる(もちろん遮蔽物もな んにもない)。

頭を包むようにして隠す(尻はまるみえ)が、これには イロハかるたの「頭かくして尻かくさず」 という文句が浮かび、当にい得て妙である。

 

基隆に着いてみると、赤塚中隊長の船をはじめ3隻の船が台湾に着いていたが、これは到着というよりも漂着していたといった方が正しいかも知れない。

久しぶりの再会に無事を祝いあった。

このとき前書きの池内群長達の遭難の様子を知り冥福を祈った。

さすが台湾だけに兵隊の集会所には砂糖の充分入った甘い「おしるこ」「ぜんざい」がいくらでも食べられるから八杯も平らげて、甘さを満喫した。(この頃には内地では砂糖などにはお目にかかれなかった。)

最初は運河の奥にあった学校に宿舎を構えたが、しばらくして海岸沿いの旅館に宿を移した。

私達の寝ているところは階下は潮が満ちると1〜2m位の水深となり、また干潮には陸地が見える海に突き出した階上で波の音が子守唄に聞こえてとても風情があった。 

基隆港は入り口は小さく奥が広くて港としては恵まれているように思う。

ここに来てからは舟艇 の繋留所まで歩いて通って舟の整備が毎日の日課であった。

連日連夜の空襲に悩まされたが慣れて来ると防空壕に待避するのが億劫になった。

特に夜半には眠さが勝って蒲団にもぐりこんで待避をサボっていると「シュル・シュル」という音は少し遠い所で聞こえ、その後に「ザーザー」という音がしてかなり近い所に弾が落ち、「ドカン・・・」という爆音が聞こえ、爆風が「サァー」と押し寄せて来る。

それが済むと、やれやれ今日もまた助かったと深い眠りにつく、こうした繰り返しであった。 

夜早いうちの警報では黒い布で電球を包みその下で顔をつき合わせるようにして囲碁をはじめた。

この旅館の主人に正目(九目置く) で教えてもらっていた。

そうこうするうちにも宮古島の本隊と連絡をとりながら合流するため二回も宮古島行に挑戦したが、その都度状況悪ということで引き返さざるを得なかった。

そのうちの一回は基隆を出て少し進路を左にとって福州沖まで避難したこともあった。

この時期は沖縄戦線、戦い急で日増しに日本軍の敗戦により状況が悪化していたらしく、原隊復帰は無理ということで、台湾警備のために任地に就くことになったらしい。

 

澳底(おうてい)

澳底という所で、確か基隆から汽車で約2時間位の所であったように思う。

ここは田舎でかなり大きい河が海に向かって流れており我々の舟艇はこの河岸の林の中に匿し、舟艇の整備や訓練、水泳 (川巾が200M位あったように思う)、ときには測量の講習(飯尾群長が先生で、この講習が戦後の私の就職に生かされた)なども行った。

また、剣道、相撲などを行い、心と体の鍛練と舟艇を整備しながら、次は台湾上陸は必至ということで出撃準備をととのえていた。 

宿舎は娘娘廟(にゃんにゃんびょう:道教の女神を祀る廟)隣のレンガ造りの家に座を張りここで寝起きしていた。

信心深い近くの人々が時には供物をされるが、神様にかわってわれわれが頂くという寸法だった。

食事はかなり優遇されており食物の不自由は殆どなかった。

週に一回は必ず、酒一本(二合)と菓子や果物などの支給があり、酒を呑む人はせいぜい四〜五人(岡田・石田・飯田・佐山・八塚) に限られており特配日は宴会を盛大にやったものだった。

赤塚中隊長は、投網が好きで川で漁に行く時に、舟頭としてひっぱり出されたが櫓を漕くことでは私の右に出るものはなかった。

ただし、その分け前を鰹節という条件で、中隊長に付いて行き、これらが酒の肴となった。

 

<続く>

<前の話>    <次の話>

 

 

 

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