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旅日記

望洋-39(漂流(続き2))

22.漂流(続き2)

22.5.原山群長たちの漂流

池内群長が乗っていた船が火災爆発した夜、原山群長達の乗っている船のエンジンが故障し動かなくなった。

そのため後は、波まかせ、風まかせの航海となった。

夜が明けた1月12日、周りを見ても1隻の船も見えなかった。

エンジンが復旧できないまま、帆を挙げて進むしかなかった。

13日に西表島に漂着した。

この島には海軍の陸戦隊の基地があり、食料などを貰った。

ここで1泊し、島伝いに石垣島に向かった。

この石垣島で浜田中隊長、大畑群長、八田群長に出会った。

石垣島でエンジンの修理を行い、宮古島を目指した。

原山達の船は、航海中に大畑群長の船と同じ様に、水納島のリーフに座礁したため、多良間島に避難した。

原山達が宮古島に到着したのは、それから2ヶ月後のことだった。

 

22.5.1.漂流

池内群長の船が火災・爆発で沈没した1月11日の夜、原山が載っていた機帆船も機関が故障したため満足な航行が出来ず、ただただ波に任せるしかなかった。

夜が明けると時化も治まり海は穏やかとなった。

視界は開けたが、周りには1隻の僚船も見当たらなかった。

船長は故障した機関の調子を見ていたが、いくら調整しても起動しなかった。

「やっぱり、ダメだ。帆を掛けて行くしかない」と船長は原山達に言った。

原山達は、或いはと、少し期待していたが「仕方ない、もうすぐ宮古島に着くだろう」と諦めた。

 

しかし、昼前には着くと思っていた宮古島はいくら進んでも現れて来なかった。

昼過ぎると波風が強く、空も雲の流れが速くなり、黒雲に覆われてきた。

船の揺れも激しくなったので、帆を下ろした。

隊員たちは再び船酔いに襲われ、多くの隊員は食事することもできなかった。

吐き気はするが、吐きだす物が胃の中にないから唾液と胃液だけがだらだら出るだけである。

船は木の葉のように揺れた。

激しい波が船を襲い、波しぶきがデッキに流れ込む。

少し元気な隊員はブリッジでひたすら、僚船や島影を探すが全く視界に入ってこなかった。

荒海に漂う中、再び夜が訪れた。

このまま転覆し、沈没するのではないかとの不吉な予感に襲われるが、悲嘆する気持ちは湧いてこない。

何とか、生き延びて任務を果たさなければ、という思いがそれをかき消す。

また、この様な状況下で、感傷に浸る余裕は勿論ない。

しかし、この悪天候は幸運でもあった。

というのも、この海域は既に米軍のB24爆撃機が定期的に飛行していたが、悪天候でこの日は飛行を中止したからである。

日の出

1月13日の朝の海は凪ていた。昨日の大時化が嘘の様であった。

船酔いしていた隊員達も回復した様である。

朝方、デッキで見張りしていた隊員が大声で叫んでいる。

「日の出が始まるぞ!」

原山たちは、その声を聞いて船室から甲板に出て行った。

東の海には太陽はまだ出ていなかったが、水平線は少し赤みを帯びていたが、空の色は真っ青だった。

西の海を見ると、ビーナスベルトが出現し、水平線の上部にアッシュピンクの帯が横たわっていた。

ビーナスベルトとは、日の出前や日没直後に、太陽と反対側の空にピンク色の帯が見られる現象である。
朝焼けや夕焼けの光が反対側の空まで届き、高い空の青色と混ざってピンク色が現れるのである。

東の水平線の光が徐々に強くなってきた。やがて赤い火の玉のような太陽が現れてきた。

太陽は海から上るにつれてオレンジ色から黄金色に変化していった。


隊員たちは無言で日の出を見ていた。

東西の水平線上に現れた壮麗で荘厳な光景であった。

22.5.2.西表島

太陽が真上にさしかかった頃、「島影が見える!」とデッキの見張りが叫んだ。

船室にいた全員が飛び出した。

「おぉー、あれは確かに島だ」、「間違いない」・・・

と口々言った。島影だと確信して急に元気が出たようである。

というのも、今まで数回島影発見という声を聞いたが、何れも雲の見間違いであったからだ。

島に近づいても、ここが何という島か分らなかった。

島の近くでアンカーを下ろし係留した。

伝馬船で上陸して探索したが、椰子やアダンの茂る熱帯林で人家等の建造物は見当たらなかった。

取り合えず、船に戻って島を沿岸沿いに探索することにした。

暫く進むと、大きな入り江(舟浮湾)が見つかった。

入り江を奥に進んでいくと、右側に港があり、その周りに軍設備のような建物ものが見えた。旭日旗が掲げてあった。

船を入港させて、その建物に行って見ることにした。

海軍の陸戦隊の基地だった。

ここで、座間味島から任務地の宮古島に行く途中で時化に遭い僚船と離れ離れになり、この地に漂着したこと、そして船の機関が故障していることを説明した。

基地の隊長から、この島は西表島で、今いるところは西部の船浮湾の船浮港であることを知らされた。

また、隊長は「石垣島まで行くと、船の機関の修理が出来るが、今日はここでゆっくり休んで、明日出発するがいい」と言ってくれた。

原山たちはその提言に従うことにした。

原山たちは海軍から食料を貰い、久しぶりに美味しい食事をとることが出来た。

そしてここ船浮港で一泊した。


西表島の要塞

西表島には陸軍の船浮臨時要塞があり、内離島、祖納、外離島、サバ岬に軍事施設を造り、守備隊を配置した。

しかし、戦局悪化に伴いその役割も解消したため、昭和19年(1944年)3月に要塞部隊が移動となり、閉鎖状態となった。

これとは別に海軍部隊も配備され、海底通信施設、特攻艇格納庫、弾薬倉庫等が設けられていた。

原山たちが訪れたのはこの海軍施設であった。

海軍の特攻艇である「震洋」もここに秘密基地を作り壕に格納しており、今も壕の跡を見ることができる。

ここの震洋は一度も出撃することなく終戦を迎えている。

 

西表島の船浮港を1月14日の早朝に出発して島伝いに石垣島に向かった。

石垣島

夕方に石垣島の石垣港に入港した。

そこでは、第三中隊の浜田中隊長、第二中隊・第一群の大畑群長、戦隊本部の八木予備隊長の船が機関故障で入港しており、船を修理中であった。

予期せぬ出会いであった。そしてお互いの無事再会を喜び、今までの苦労話が花咲いた。


機関の修理に約1週間要した。

修理が終わり、1月21日に原山、大畑群長らの船と宮古島を目指して出発することにした。

浜田中隊長の船は修理が完了していないため後発となった。

途中数度、敵機の来襲があったが、島影等に隠れると、諦めて去って行った。

夕方になると敵機の襲撃もなく航行できた。

 

22.5.3.多良間島

22.5.3.1.運・不運

航行中、別の災難が襲ってきた。

1月22日未明、水納島リーフに原山の船と大畑の船が座礁したのだった。

(水納島という島は沖縄に二つあり、もう一つは沖縄本島の本部半島のやく6Km 西方にある)

原山達の船は船底が破損して浸水したため航行不能となった。

大畑の船はサンゴ礁に乗り上げ、折からの引き潮でサンゴ礁にどっかり座り全く動かなくなった。

仕方ないので、舟艇を下ろして近くの多良間島(約8Km南)まで行くことにした。

多良間島に着くと、舟艇をアダンの葉で隠して上陸した。

島民の人達に説明し、隊員たちは一旦島の小学校で仮泊することにした。

しかし、その後小学校は敵機の空襲で狙われやすく危険であるということから、民家に移り、宮古島からの迎えを待つことにした。

結果的には、この原山たちの座礁事故は幸運だった。

というのも

この日(1月22日)既述したように多良間島東方約10Kmの海上で、第二梯隊の僚船が米軍戦闘機の攻撃を受け5名が戦死しているからである。

もし、原山たちが座礁事故に合わずに、そのまま航行していたら、米軍戦闘機の攻撃を受けていた確率は非常に高かったのである。

 

22.5.3.2.多良間島での生活

多良間島は宮古島と石垣島のほぼ中間辺りに位置する島である。

南北約4Km、東西約6Kmの楕円形の島で、山や川はなく平均海抜が12,3mの平らな島である。

最高点は北部にある八重山遠見台の34.2mである。

島の周囲は砂浜に囲まれ、サンゴ礁が発達している。

原山たちは、数日前まで金子戦隊長の船が同様な状態で滞留していたことを島民から聞いた。

皆、困難に遭遇しながらも懸命に宮古島を目指しているのだと思った。

民家の離れ住まわせてもらい、宮古島からの迎えの船を待つことにした。

この島の県会議員であり、青木氏宅と、その向かいの桓花家にお世話になることになった。

青木家には、原山群長と大畑群長と他二名の隊員が部屋を借りて住み、桓花家には8名の隊員が部屋を借りて住んだ。

情報が入らないため戦況は全く不明で爆撃に飛来する敵機を見るだけだった。

友軍機を見ることが出来なかったので相当戦局は厳しくなっていることを感じた。

この間この多良間島で生活することとなった。

毎日、舟艇の整備、体操・手旗訓練や島の巡視を行った。

合間に魚捕りなどもした。

 

騒動

戦隊員と村人の間で、一騒動があったようである。

戦隊員たちは、青木家と桓花家でお世話になった。

この桓花家の娘さんの次のような証言がある。

(注多良間村字塩川 渡久山サダ)

多良間には特攻隊が来ていました。 私のうちと向いの青木さんの 家に十人くらいいました。このうち二人は将校でした。

原山とか山本とかいう名前の兵隊がいました。 多良間を守るためにきたのではなくて、特攻隊の訓練のために来ていたと思います。 

(注:多良間島に来たのは、機帆船が座礁したため多良間島に上陸したもの。なお、金山戦隊長や第二梯隊の田辺隊員達も多良間島に上陸したが、すぐに宮古島から迎えが来て、多良間島を去っている)

いつも北の海へ行って訓練をしていたようです。 何か小さなボートのような船をいくつかもってきていて、それをみがいたり、発射訓練か何かをやっていました。 

艦砲射撃があるからといって一度平良(宮古島)へ行っていたが、しばらくして帰ってきたことがあります。 

「艦砲射撃があるの で自分たちは構えていたが、べつにそれらしいこともないのでまた多良間にきてみなさんに会うことができた」と言っていたことをおぼえています。

(注:多良間島に戻って来たのは、多良間島に秘匿している、㋹を持ち帰るために来たものである)

確か私の家には六畳間に兵隊ばかり八人いて、青木さんの方には将校をふくめて四人いたように思います。 部屋をかりるだけで、 食事は自分たちでつくっていました。

家にいた山本という兵隊が父恒花常範(当時四十八歳)を馬鹿にしたようなことを言って、争いになったことがありました。

争いの原因ははっきりしないが、父が「いくら兵隊だからといって、あまりなことをすると、島の人たちも黙って はいない」と言うと、山本という北海道出身の兵隊が「チャンコロが何を言うか」と言って刀で斬りつけようとしました。

(注:山本という隊員の出身は山梨県で、また北海道出身の隊員は2名いたがそのうちの一人は台湾に漂着した柳田隊員で、もう一人は山村隊員である。
この娘さんの云う刀で切りつけようとした隊員とは、山村隊員か山本隊員のどちらかと考えられる。
なお、山本は第二中隊第一群の隊員で群長は大畑、山村は第二中隊第二群の隊員で群長は辰巳(台湾に漂着)であった)

それで父もすっかり怒ってしまい、「この家を出ていけ」といったような出方でした。 

そこへ青木にいた将校がきて、「銃後の国民の協力なくして戦争ができるか」と言い、山口を叱りつけてようやくおさまったようにおぼえています。

(注:青木家にいた将校とは大畑群長と原山群長の二人である)

特攻隊の人たちは終戦になるまえに平良にうつっていきました。

三か月ぐらいしかいなかったように思います。

(証言に備考がついていて次のような記載がある:娘さんの弟は、彼らは 「二十歳前後の青年たち で、 人間魚雷の訓練をしている」と聞いたと証言している)

 

宮古島へ

しかし、迎えの船はなかなか来ず、迎えに来たのはおよそ2か月後のことであった。

取りあえず舟艇は残し、人員だけ宮古島に来るようにとの命令が来た。

迎えの漁船に乗って宮古島に着いたのは3月中旬であった。

2か月振りに本隊に復帰した。

ここで、原山の属する第二中隊の赤塚中隊長は台湾に漂着したが、戦況が悪化しているために宮古島に来ることが出来ないことも知らされた。

(注:前述したように、大畑群長の話によると、大畑群長の組は、多良間島で漁船を徴発して、宮古島に行った、とある。
原山達は、その徴発が出来ずに多良間島で迎えが来るのを待ったようである。)

 

『(漂流)の節終わり』

 

<続く>

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