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旅日記

望洋−50(多良間島)

29.多良間島

多良間島は宮古島圏域内の島で、宮古島の西方約67km、石垣島の北東約35kmの海上に位置した、面積19.75k㎡の楕円形の島である。
また、その北方約8kmに面積2.133k㎡のさつまいもの形をした水納島がある。

 

   


29.1.多良間島の戦時中の様子

戦時中の多良間島には旧日本軍による本格的な駐屯が無かったため、大規模な壕や陣地は構築されていない。

そのため、松林が島内の各所に見ることができ、他の宮古諸島地区の様相とは異なる。

沖縄戦時に関係する戦争遺跡としては避難壕が現在の集落周辺に4カ所、確認できる。 

また、これら以外には、畑の中に竪穴を掘って上に雑草を被せるのみの簡易な避難壕が多くつくられたようであるが、現在では一つも残っていない。

沖縄県の聞き取り調査では、畑の中に避難壕をつくることによって、仮に命を落とした場合、農作業中の誰かが見つけ出してくれるという理由で構築されたということであった。 

また、八重山遠見台では沖縄戦時、飛行機や船を住民が交代で監視し、有事の際には至急、本部と連絡を取って集落にサイレンを鳴らした、という。

多良間村内の主な避難壕

シュガーガー

塩川地区にある井戸で、古くから飲料水や生活用水として利用されてきた。

かつては集落住民の避難壕として利用されていた。

アマガー(天川)

多良間村中筋、運城御嶽の南側にある自然壕で、内部には湧水が溜まっている。 

かつては多良間小学校にあった御真影を警報時に避 難させた。

昭和19年(1944年)から多良間島にも警戒警報が発令されるようになり、度々アマガーに多良間国民学校の校長が御真影を抱いてこの場所に避難している。 

昭和20年11月2日に御真影を空襲から避けるために野原岳(宮古島)中腹の壕へ遷すにあたって、その役割を終えた。

 

29.2.戦争証言

多良間島には軍事施設はなかったが、太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年(1942年)頃から、軍事訓練(消化訓練、竹槍での訓練)が行われた。

軍事施設のない多良間島も幾度もなく空襲が行われた。

最初の空襲は昭和20年(1945年)1月9日だった。

住民たちはなすすべもなく、避難壕へ避難するだけであった。

総務省によると、これらの空襲で、169名の死者が出たという。

校長の重要な責務は「御真影(天皇陛下と皇后陛下の写真)」を管理することであった。

そのため、空襲されると、その「御真影」を避難壕の天川(アマガー)に奉遷した。

空襲の合間に耕作し、サツマイモがよくできて助かったが、終戦後に飢饉になったという。

 

次に当時多良間国民学校長であった、藤村市政氏の戦争証言を記す。

藤村市政氏の戦争証言

初空襲

昭和20年1月9日。米軍多良間ラ初空襲。不幸ニシテ三年下地節子ハ即死、4年佐和田朝功負傷ス。 (多良間小学校治革史、以下多小史と略称、による)

多良間の水納島の宮園岩松のメモによると、水納島では、昭和17年頃には軍事訓練が行なわれていました。

五つの世帯を一つの班にし、七つの班がつくられ、七名の班長が常会をもち、その常会の話し合いによって、軍事訓練として、竹ヤリでの訓練や、消火訓練をするようになりました。

昭和十九年の九月には、アカトンボという練習機九機が、台湾へ移送中水納島に不時着しました。

これは特別攻撃に使われるようになったものであります。

多良間 (多良間島と水納島)に直接敵の攻撃のあったのは、昭和20年になってからであります。

それは、十・十空襲から三か月もおくれての1月9日にあったもので、グラマン機四機によるものでした。

その日は、郵便局を通じて、平良の方から午前中に空襲警報が伝えられました。

連絡をうけた国民学校では、さっそく、児童たちを帰宅させ、部落 (塩川と仲筋)中をまわって、警戒をよびかけました。

午後一時ちょうどだったと思われる頃でした。グラマンが南の方からやってきました。

私は職員室の窓からみていましたが 、学校の東の道路あたりから、島の部落の中央付近を、北東の方へ、機銃掃射をしながら、轟音をたてて、飛んでいきました。

このグラマン四機は、続いて、水納の島をおそいました。

多良間島では、子守をしていた一人の少女(初等科四年生)が銃弾をうけて即死し、同じ部屋にいた少女 (高等科二年生)が腹部を撃たれました。

飛行機の音をきいて、奥座敷に逃げこもうとした処を機銃弾に当たったものです。

腹をうたれた少女の方は、防空壕の処までかけていき、大声でわめきました。

人々は医者を呼べとさわぎましたが、そこでこと切れてしまい ました。

五九歳になる羽地カメという女の人は足に機銃弾をうけて大けがをしましたが、四、五日うちに、破傷風で死にました。

昭和十九年の秋になると、警戒警報がかかるようになりま した。

多良間島では、この三人の死者の外、五人が負傷しました。

垣花カマド (当時59歳)は足に負傷、五年後に死亡。山城常教 (当時53歳、船長)は指にけが、佐和田朝功(初等科生)片うで切断。

下地朝栄(当時38歳)軽傷、花城ヒデ(当時20歳)頭にけが。

水納島の方でもひなん壕で、四人の女子が殺されました。

(注) 多良間国民学校学事月報によると、昭和20年1月の分に、初一女一減、初四 女一減とあります。初一女の方は水納分校の分です。

御真影

裕仁天皇とその皇后の写真 (当時これを御真影といいました)は、昭和3年の10月21日に多良間小学校にもってこられました 。

昭和6年には一たん奉還され、新しいのを迎えることになります。

昭和6年の暴風で、校舎が倒壊したことから、8月15日平良第二小学校の奉安室にうつされ、昭和7年12月31日に再び多良間小学校に迎えられました。

昭和九年当時、平良恵清校長は、御真影のことで、責を負わされました。

御真影にしみをつかせた管理不充分の責めです。

宮古支庁にいた県視学 (平良彦一)から始末書をとられました。

校長にとって、御真影は自分の生命以上に大切にしなければならないものでありました。

平良校長が去って、しばらく校長不在の空白のあと、私が赴任しましたが、それはもう御真影を守るためにあるようなものでした。

​​昭和19年の秋になると、警戒警報がかかるようになりま した。

島には自然洞穴の古くからの井戸が二つありますが、そのうち学校に近い方が天川です。

その天川を御真影の奉遷場所にしました。

警戒警報がなると、御真影をだいて、暗い非戸に入ります。そして、夜になると、もってかえるという生活でした。

昭和19年の暮に、御真形を宮古本島にうつすよう命令が下りました。

校長である私は、橋正丸という30トンほどの船でいきました。

島から宮古本島につくまで、 船長部屋でひざまづきをして、護持していきました。

初空襲のとき 、職員室から空襲を目撃できたのは、御真影から解放されていたからです。

空襲下の生活

昭和20年3月空襲次第にはげしく村内から郊外へ疎開する者多シ。修了式挙行。 (多小史)

警戒警報や空襲警報はすべて郵便局の無電を通じて島にもたらされました。警報は警防団が部落民に直接にしらせる役割を負いました。

旧藩時代に船の往来の見張りに使われた石づくりのやぐらの一つ八重山遠見台の上で、青年達は対空監視に当りました。

その台のかたわらにかやぶきの詰所をつくり、交替で監視に当ったものです。

村民は1月9日の初空襲で、大きな衝撃をうけました。

その住家を棄てて、それぞれの耕作地にうつり、大きな岩の下などを掘ってそこを生活の場にしました。

ときどき見廻りに部落の中に帰ってみるのですが、いつ撃たれるかわからない集落の中は、手はつけられず、草だけがぼうぼうと生い茂りま した。

南方へ行く途中、その乗船をやられて上陸してきた部隊(船舶工兵)もいることはいたが、と きに芝居をして見せる位で、戦争については何もしませんでした。

村民の中に混って避難をするのが、せいいっぱいに見えました。とりたてて村民に害を与えるのでもないのです。

初めはもってきた食糧の米などがあったのですが、配給は途絶えてしまい、結局は、分散して村民と家族同然、その食を得てくらしていました。

昭和20年4月1日  米縄島に米軍上陸以来空襲はげしく警報発令中ニツキ児童の招集不可能になれり。月明の夜を利用して疎開地に於て区域別に招集し、戦争時中の心得、最悪の場合に処す態度等を話し、児童をして安心して生活出来るよう取計る外良き方法がなかった。

4月5日 敵機四機来襲。機銃掃射をなす記念館に数発命中。

4月7日 敵機数回にわたり来襲。被害を認めず。

4月14日 敵艦載機及ボーイングB24来襲。爆弾投下。学校北の高江洲良包氏宅外九軒全焼•••学校が目標トナッテヰル様デシタ。

4月16日 非常持出箱(重要書類)ヲ嶺間神社二移転ス。

4月20日 敵機四機来襲。学校を目標トシテ爆弾投下被害あり数回来襲セルモ被害ナシ。

6月19日 ロケット砲弾二十発投下•・相当被害アリ。

8月1日 敵一機爆弾投下記念館運動場の立木、塀等被害大ナリ。 (多小史)

駐在の巡査は平良出身でした。自分で芋をつくっていましたし、麦、あわ、まめなどもつくっていました。

教員の給料も昭和19年の10月頃から不渡りになりました。

結局自活しなければなりません。

沖縄本島からきていた四人の新卒の先生方は出征していましたので、職員十五人には他地の出身者はいませんでした。

畑の耕作などは、晩はたらいていました。

監視がよく連絡してくれたので、空襲の合間をみて、昼、耕作することも できました。

空襲は連続的ではないのですが、いつくるかわからんので、みな避難を続けていたわけですが、辛い、サツマイモがよくできて助かりまた。

避難小屋では、山羊や馬のごちそうもしました。

教員たちは、朝はフダヤーに集合して話し合いをし、児童がくるわけではないので、それで出勤という形式をとっていました。

学校は昭和7年に鉄筋コンクリートで建てられた校舎ができていましたが、機銃にやられ、 雨もりはひどく授業ができない位に破損しました。

青年会場や、肥料、米、購買品などの物資のあった産業組合も爆撃にあって、もえました。渡口カマド(55歳)も戦死し、子ども一人も傷を負い、破傷風で死にました。

村の外れに青年学校がありましたので、ここだけは安全だと思って、本を入れたたんすなど大切なものを避難させてありましたが、機銃でやられてしまいました。

かやぶきの建て物でしたので機銃をうけてもえてしまったものです。

正体不明の教員

私は国民学校の校長ですが、青年学校の校長をも兼ねていました。

この学校に中島という教員が、県から任命されたといってやってきました。

辞令がきたわけでもなく、何の連絡もありませんから、校長である私にも何もわかるわけがありません。

戦争たけなわですから、生徒を集めるわけでもありませんから、生徒を教えるということもありません。

正体不明のまま結局ずるずると過ぎていきました。

学校にはきていました。

そしていつも一人で行動していました。

何か、住民の行動を監視している。そう島の人々は感じました。

スパイではないかなと、人々はいっていました。

その男が将校だったということはわかりました。

終戦後、平良の将校集会所で、将校の服装をしたのを見かけました。

それまで、島では国民服をつけて歩きまわっていましたがね。

陸軍中野学校出身だということでした。

戦後のきき ん

終戦直後ききんがやってきました。 

それで海からひきあげたくされた古米をもってきて、庭にほして食べたものです。

それでも足りません。

それでソテツを食い出しました 。

ソテツ中毒で、犠牲者者もでました。泉川家で三人 、宮城家でも四人が死にました。

バイラスでサツマイモが全滅してしまいました。

それで、平良からタピオカの苗木をとりよせて植えたものですが、タピオカでも、何人も中毒する者がでました。

配給というものが行われるようになったのですが、戦後3年目、当時の村長が配給の不正でひっかかり、それで後任に是非でてくれというので、 私は校長をやめて村長になりましたが、最初にやった仕事といえば、芋かすの買い出しでしたね。

澱粉をとった残りのサツマイモのかすを、職員二人をつれて八重山までいって買ってきて、村民に配ったものでした。

 

<続く>

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