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旅日記

望洋−51(多良間島の㋹回収)

30.多良間島の㋹回収

海上挺進第四戦隊が駐屯地の宮古島に向かう航海で、時化に遭い数多くの船が漂流し与那国島、西表島、石垣島、多良間島、台湾に漂着した。

台湾に漂着した船以外は、そこから宮古島に引き返した。

だが、引き返す航海に於いても、数隻が事故や空襲に遭い止むなく多良間島に避難している。

「止むなく多良間島に上陸した」という数人の隊員達の話があり、これらを考えると多良間島には、金山隊長を始めとし、およそ30人ぐらいの隊員が上陸していたと思われる。

多良間島に漂着した隊員たちは、ここから宮古島を目指した。

最初の頃は、空爆の頻度も少なかったため、多くの隊員は数日滞在しただけで、直ぐに宮古島に渡った。

しかし、日が経つにつれて米軍機の偵察・索敵行動が頻繁に行われるようになり、宮古島と多良間島間の航行は困難になって行った。

この多良間島に二回訪れた、隊員たちがいた。


30.1.多良間島へ

4月上旬、原山たちは多良間島に残置してある舟艇を宮古島に曳航するよう命じられた。

原山は他3名の隊員と共に漁船で出発することにしたが、夜間の満潮時に出航しなければならないので、準備を整え待機していた。

しかし、毎日のように敵機の来襲でその機会が得られなかった。

空襲も数百機単位で襲って来ることも度々あった。

空襲の合間に学科の講習や訓練、農耕作業を行った。

結局、潮汐の影響等で、出航は5月に入った。

5月3日夜、原山は、白崎、箕輪、山田の3隊員と漁船で出航した。

幸い雲が多く敵機に発見される危険はあまりなかった。

多良間島には朝6時頃に到着した。

舟艇を隠していた場所に近づくと、漁船を沖合に係留した。

伝馬船に乗って浜に近づき上陸した。

アダンの木が海辺まで近づいている場所である。

舟艇は6隻でアダンの林の中に隠されていた。

上にかぶせていたアダンの葉を取り除いて、状態を点検した。

舟艇の金属部分は錆びていたが、使える状態であった。

「やはり、錆びていますね」と白崎隊員が言った。

「海辺だし、2ヶ月近くも整備していないから仕方ない」と原山は言った。

そして「エンジンが掛かるかどうか確かめよう」と言った。

山田隊員が「分りました」と言って、舟艇に乗り込みエンジンを掛けた。

バッテリーは上がっていないようだった。

最初はブル、ブル、カタ、カタと暫く音を立てていたが、やがて正常な音になり動き出した。

「エンジンは問題ないようです」と山田は言った。

「よし、残りの5隻もエンジンを確認」と原山は言った。

白崎隊員と箕輪隊員も夫々舟艇のエンジンを起動させ「異常なし!」と次々に言った。

「よし、エンジンを止めて、海に引き入れよう」と原山は言った。

4人で1隻ずつ海に引き入れ、漁船で曳航する作業を始めた。

米機の襲撃

「敵機が来る」と山田が叫んだ。

南の水平線の上に黒いものが4つ見えた。こちらの方に向かって来る。飛行機のようだ。

飛行機の飛ぶ音が聞こえ、だんだん大きくなってきた。

「みんな、海に飛び込んで島に逃げろ」と原山は叫んだ。

船は攻撃目標にされるため、これから遠ざかる方が安全だからだ。

船から10数メートル離れた時、漁船は機銃掃射を受けた。

爆弾も投下され、水しぶきがが上がり、辺り一面に飛び散った。

原山たちは、水中に潜った。水中でも爆弾や機銃掃射の水圧を体に感じた。

水中に潜っている原山の横を弾丸が泡を巻き込み音を立てて通り過ぎて行くのが分った。

水中に潜り、島を目指したが、原山は息が続かなくなって海上に顔を出した。

空を見上げた。太陽が眩しかったが、敵機は見えなかった。

敵機は転回して再攻撃することはしなかった様だった。

周りを見渡すと、海の上に顔が3つ見えた。みんな無事のようだった。

漁船は破壊されて燃えており、沈没寸前の様だった。

舟艇は3隻が破壊され、これも燃えていた。攻撃を受けてガソリンに着火したようだった。

残りの舟艇3隻は無事のようだった。

原山達は、無事と思える3隻の舟艇に向かった。

これらの3隻は被害を受けていたが、整備すれば使用できる状態だった。

原山たちは急いでこれらの舟艇を島に引っ張って行った。

舟艇を、今まで隠していた場所に運び再びアダンの葉を覆って隠した。

午前11時を回っていた。

 

 

多良間島滞在

漁船は爆破され、残された舟艇も整備が必要であることから、宮古島に帰ることが出来なくなった。

浜に引き上げておいた伝馬船は無事だった。

取り敢えず、襲撃され漁船も壊れたため、直ぐに宮古島に引き返すことができない、ことを連隊本部に連絡する必要があった。

原山たちは郵便局に行って、無線連絡をした。

『漁船ト舟艇3艇ガ破壊サレ使用不能トナル。

残リノ舟艇3隻ハ整備スレバ使用可。

指示ヲ願ウ』

と連絡した。

30分後に指示が来た。

『後日迎エニ行ク。ソレマデ待機セヨ。舟艇ハ整備シテ待テ』

と。

「後日迎えに来るということは、直ぐには来ないということか?」山田隊員が叫んだ。

どうもそうらしい。本部も大変だからなぁ」と原山は言って帽子を脱いで汗を拭いた。

「これから、どうしますか」と白崎は原山に尋ねた。

「取り合えず、飯を食べよう」と原山は言った。

昼食を伝馬船に積んでいた。「食べてから次の事を考えよう」と更に言った。

原山は「ここの滞在は長くなるような気がする。数週間掛かるのではないかなぁ」とボソッと言った。

他の隊員も頷いた。

「それまでは、本部から指示や迎えが来るまでは、やるべき事をしながら待つしかない」

まず、することは、食料と宿泊場所の確保である。

原山達は多良間島に来たら、その日のうちに宮古島に帰る予定だったので余分な食料は持参していない。

多良間島には日本軍が駐屯していないため、民間に頼るしかなかった。

取り合えず以前、漂着したときにお世話になった県会議員の青木雅英宅を訪ねることにした。

 

30.2.多良間島での生活

30.2.1.青木家を訪ねる

原山たちは、青木宅を訪ねた。青木雅英は在宅であった。

原山は青木雅英に自分たちの状況を説明し、また暫くお世話になれないか、と尋ねた。

青木雅英は

「分かった、暫く前のように儂の家の離れに住むがいい。

しかし、今の戦況では君たちを迎えに来る船の都合は当分手当できないと思う。

儂も、3月初めに沖縄から帰って以来、一度もこの島から出ていない。いや出れないのだよ。

君たちも焦らずにその時を待つ事が大事だ。畑の仕事を手伝ってくれると、食べ物は充分とは言えないが君たちに渡すことができる」
と言ってくれた。

原山は前に漂着した時に青木家で1ヵ月以上お世話になっており、その時に青木は原山に好印象を持ったようである。

溯るが、その時の話しをする。

前述したように、1月22日に原山と小畑群長の船は多良間島に漂着しここで迎えを待つことになった。

宮古島から迎えがくるまで、群長の原山と小畑は2名の隊員と4人で青木家に宿泊し、その他の隊員8名は青木家の向かいの桓花家に宿泊していた。

ある日の事である。

桓花家に宿泊していた山田隊員が桓花家の主である常範と争いを始めた。

争いの原因ははっきりしないが、桓花常範は「いくら兵隊だからと言って、あまり横暴なことをすると、島の人達も黙っていない」と言った。

すると、山田は「チャンコロが何を言うか」と言って刀で斬りつけようとした。

それを見た、桓花常範はさらに怒りがまし「この家から出ていけ」と怒鳴り、増々争いはヒートアップしたのだった。

そこへ、騒ぎを聞きつけた原山が駆け付けた。

「銃後の国民の協力なくして戦争ができるか!」と𠮟りつけたのである。

群長に叱られた山田は桓花常範に謝罪してこの騒動はおさまった。

この騒動を知った青木は、原山に対して好印象を持ったのである。

さて、話を戻す。

原山は青木家の向かいの桓花家にも訪れ、桓花常範に挨拶をした。

桓花常範は「今回は4人か? しっかりやりなさい」と笑顔で言ってくれた。

原山達は、青木県会議員宅に宿泊し、農耕作業を手伝って甘藷(サツマイモ)などを貰って食料とした。

 

<甘藷と甘蔗>

甘藷(サツマイモ)、甘蔗(サトウキビ)の発音は『かんしょ』で同じである。

サトウキビ発祥の地は、現在のニューギニア島あたりで、紀元前6000年前後に現在のインド、さらに東南アジアに広まったといわれている。

サツマイモの発祥の地は中南米である。

 

<続く>

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