FUNAGENノート

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読書ノート「科学技術の今日的課題」

2016-01-23 17:34:30 | コラム
今回は、読書ノート「科学技術の今日的課題」ということで、「科学技術の危機、再生のための対話 池内了(物理学)+島薗進(宗教学)・合同出版」を取り上げる。読んでいて、私の考えと同じところもあり、また、新しく学んだことも多くあった。

1 科学には「解決できる問題」と「解決できない問題」がある。
 
 トランスサイエンスとう言葉を耳にしたこはあるだろうか。この本の注釈の中に次の下りがある。『トランスサイエンス(Trans‐Sience)1972年、米国の物理学者ワインバーグ博士が提唱した概念。科学だけで解決できる問題と、科学だけでは解決できない問題があり、現代では後者のほうが多くなっていると主張。これを「トランスサイエンス問題」とした。科学を「超える」(トランス)問題で、「科学に問うことはできるが、科学のみでは答えることのできない問題」と定義されている。』
 
 この言葉を聞いて、まっさきに思い出すのは、3月11日の大災害のことだ。特に福島の原発事故は、科学技術の持っている弱点をさらけだした。それだけではない。現在急速な勢いで進んでいる科学技術がある。島薗氏はつぎのように述べて警笛を鳴らしている。
『英国の科学史・科学哲学者ジェロームーラペッツは、予測できない未来を引き出してしまう科学領域として「GRAINN」というまとめ方を提起しています。Gはゲノミクス、Rはロボットエ学、AIは人工知能、Nはニューロサイエンス=脳科学など、もう一つのNはナノテクノロジーの5つの領域を指します。要するに人間と人工物との境界が超えられていくことから生じる倫理的社会的政治的問題があるという問題提起です。』
 まさに、ここであげられた科学領域は、「科学に問うことはできるが、科学のみでは答えることのできない問題」を多く含んでいるように思う。そうであればこそ、科学者に求められるのは、哲学に代表される人文科学などにも目を向けることであろう。

池内氏は次のように言っている。

『私は哲学とか倫理という側面からも、複雑系の科学をどう私たちのものにするかという議論が必要だと思っています。まさにトランスサイエンス問題そのものですから、その議論は科学者だけではだめです。特に科学者は個人というものを拒否し一般化しようとしますから、特殊性や多様性を無視しがちになります。むしろ、複雑系はそれを重視するからこそ大事なのです。』

 では、ここで出てきた「複雑系の科学」について、考えてみよう。私がまだ若かったころ、この複雑系の問題が話題になったことがあった。カオス理論とか、数学におけるフラクタル図形についての研究も、この複雑系の科学と関係があるだろう。「混沌と秩序」の関係をどう押さえるのかが、ここでのテーマだと、個人的であるが思っている。
 
2 「要素還元主義」と「複雑系」
 
 今、科学技術の分野で大手をふるっているのが、「要素還元主義」だ、ところで、この「要素還元主義」というのは、どういうことなのかというと、大ざっぱに言えば、全体を部分にわけ、その各々を分析して、全体にもどすという手法のことだろうと思う。私が学生のころの「行動主義心理学」を思い出す。この心理学に対抗したのが「ゲシュタルト心理学」だったと思う。
 最近では、行動脳科学が、注目されている。脳ドックで検査して、なにやら薬で治療するということらしい。例えば、聞いた話だが、乱暴な人にこの薬を飲ませると効くとかということになるらしい。人間の心の問題をこのような手法で解決できるとは思われない。

池内氏は言う。
『ある薬は「こういう効果をもたらします」というように目的-手段関係がたいへん短射程で実証されることを求めるわけです。そうした思考・行動様式が学問にも浸透してきて、文系で言うと心理学や社会学では統計的研究というのはある意味結果は出やすいのですが、洞察としては射程が短い。複雑な要因をじっくり考えていくのではなくて、結果を出しやすい関係を設定してそれを証明しようとするわけです。
 そういう研究が増えてきて、そこに研究者が流れていき、われわれから見ると複雑な事柄を総合的に受け止める知的な力、その意味での学力の育成にはまったくならない。物事を深くとらえ、多面的で重厚な考察を行なうということにつながらない。』

3 技術主義化する科学
 
 科学は今、技術主義の波にさらされている。
島薗氏は次のように言っている。
『技術主義というのは、社会全体がすぐ目の前に見える目標ばかりを追いかけ回しているという傾向の反映です。何かよい生き方であり、よい社会のあり方であるかという共通善という観点から役立つ学問というところを考えないで、利益が上がる、結果が出る、表面的な意味で役立つという要素に引っ張られる。そのことを反省するシステムがどんどん弱くなっていっているように感じられます。』
 こういう傾向は、科学の持っているロマンや夢を奪ってしまっている。すべてが実利主義にかたむいてしまっている。

『科学は自然哲学から派生してきた歴史があり、本来的にトランスサイエンスの要素を持っています。複雑系科学は狭い意味での科学にとどまらない領域を持っていて、科学だけの領域に留めようとするとどうしても歪んでいくと思います。』と言っていることがよく分かります。

4 社会のスピード化と科学の暴走

 今の世の中はとにかく、余裕がない。せっかちで、すぐ結果のであることに、研究者は群がる。研究者だけではない、我々市民もだ。どうしてこうなってしまっているのか。それは、現在進められている科学技術政策にあると池内氏はいう。

『いまの科学技術政策は「選択と集中」で、ある選ばれた分野には研究費が集中的に投じられています。そして個々の研究者は、「競争的資金」で研究を進めるというスタイルにならざるをえません。つまり、誰でもが満遍なく使える研究費はバラマキだと非難されたためどんどん縮小され、研究者は、選択された課題に集中的に投じられる資金で公募する研究費を自前で獲得しないと研究ができなくなっているわけです。その結果、お金がよく出る分野に研究者が流れていくことになります。』

 実利的な研究が重んじられ、しかも、結果を早く求められる。未来を見据えた研究などには予算がこないということになっている。

『何事でもじっくり落ち着いて行なうということが評価される時代ではなくなってきています。「時間泥棒」ではありませんが、時間がどんどんとられていって、私たちは忙しくなる一方で、現実には深みがなくなっていっている。そういう社会全体の問題があります。(注 時間泥棒 ミヒャエル・エンデ著「モモ」に由来する言葉。「無駄な時間を廃す」「余裕を奪われる」ことを指す。)
 また、ツイッターやフェイスブックなど言葉の断片のやりとりばかりになって、ちゃんとした思想や考察を記録し伝える機能が言葉から失われている問題とも関係があるかもしれません。多くの人々が自由に発言できるようになったのはよいことのようですが、思いつきや感情のみで安易に言葉を投げかけるだけになっているのではないでしょうか。ITの発展によって社会が安直になっているのです。』と池内氏言う。

島薗氏の言うことも、傾聴に値する。
『かつては、欲望は精神的欲望に連なるものとしてとらえられることが多く、その場合、欲望はよい生き方に対する希望とも言えるものだったのですが、手近に利益を得、不快を除去するという方向に欲望が向けられていって人間らしい生き方から遠ざけられてしまう。科学がそうした欲望の劣化に貢献してしまう。それは科学・技術が短い射程の因果関係を求める知が展開されやすい領域になってしまっていることの表れだとも言えるわけです。』

『哲学とか倫理学とか宗教思想研究がますます個人の頭のなかだけで考える傾向になり、生活意識とずれてきていないか。人文学の現場離れが進み、現場に即した思考が練られていかない。「結果を出す」学術、それも早く結果を出すことが求められることによって、実は人が生きている現場と学術が離れていく、そういうことがあらゆる分野で起きているのではないかと危惧しています。』

5 低成長時代における科学のあるべき姿

 今、世の中は、決して成長時代ではないと思う。少子高齢化社会、地方の過疎化、格差社会、地球環境問題など、多くの問題をかかえている。目先の利益追求だけに走ってはならない時代である。
 だから、科学技術のありかたも、発想をかえていかなければならない。複雑系という分野にも、もっともっと取り組まなければならないと思う。

 池内氏の次の二つのことを紹介して終わりにします。

『科学や技術は自然に手を加えて人間に都合のよいものに変えていて、人為主義と言えるでしょう。人為主義が通用しなくなるのが死のときですから、自然主義的な宗教観に立ち戻るのは当然と言えるのではないかと思います。
 私は地下資源文明と地上資源文明という言い方をしていますが、地下資源文明はまさに科学・技術の力に100%依拠した人為主義の徹底であるのに対し、地上資源文明には太陽光や風力のように自然の変化に委ねざるをえない側面があり、私たちの生き方に自然主義をもう少し復活させようという意そして地上資源文明というときには、中央集権ではなく地方分権で、自らの手を使って操作し始末をつけねばならないので、自立的かつ自律的に生きるという思想がその根本にならざるをえないと思います。自律分散的であることが宗教性とも共通する側面があるのでは、と勝手に思っています。』
 注 地下資源一石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料と鉱物資源。
   地上資源一再生可能エネルギーおよび地上にあるリサイクルや再利  
     用が可能な使用済みの地下資源や樹木、農作物などバイオ    
   燃料の原材料になりうる生物由来の有機性資源(バイオマス)の総称。

『生物が生きていることを丸ごととらえる学問の重要性を意識して取り組む必要があると思うんです。数値化ができるのはごく限られた部分だけであるうえ、生物という複雑系のシステム領域ではそう簡単に数値化ができません。数値化できるのはほんの一側面だけですから、生物全体をとらえることにはなりません。しかし、あたかも数値化できる部分がすべてであるかのように見なしているのが現在の生物学ではないでしょうか。この点をもっと強調すべきではないかと思います。私は、複雑系という概念をもっと科学の前面に出すことが必要だと思っています。地震予知や火山噴火の現象、生態系の問題、地球温暖化の問題などもそうですが、複雑系の観点からそういう分野の研究をもっと重要視することです。』


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4 コメント

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今感心をもっていることです (高橋よしかず)
2016-02-16 16:55:02
こんにちは。
少年時代は科学はバラ色を描き、SF漫画全盛で、科学は恐ろしくも美しく、自分の手の内にある「両刃の剣」であり、いずれにしても自分が使うものと考えていました。ところが今科学を人が言うとき、その意味も目的もまったく異なってきているのを感じます。ここに書かれていることで、そう感じて当然な状況なのだと、思いを強くしました。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。 (船場 幸二)
2016-02-16 18:20:39
懐かしいお名前を聞いて、なつかしく思いました。
そうです。おっしゃる通りです。あの船場 幸二です。
お読みいただいてありがとうございます。
Unknown (吉田花奈)
2018-03-16 18:31:50
こんにちは。中央小学校の卒業生です。
4月からポプラ並木(?)のある大学の工学部4年生になります。

数年前に東大で行われた島薗進さんの講演会に行きました。宗教学がご専門のようですが「事実(fact)を集めたり、積み重ねて考察をされていない」ことに驚きました。「宗教学は研究者の物語を披露するもの」=「島薗さんにとっての学問」と理解しました。

話を伺っていて、具体的な事実の積み重ねが無いのです。あるのは、ご自分の主張に会う現象だけを示し、自説と矛盾する事実は取り上げないからです。

「合理的な仮説を設定し、検証や論証する」営みに欠けるのでした。

「科学者に求められるのは、哲学に代表される人文科学などにも目を向けること」とございましたが、これは科学の研究を学ばなかった人のご意見です。
科学の研究は、巨人の肩の上に乗るものです。先行研究に積み重ねるものです。

研究者が研究する理由は、未解明、未解決の問題を「解明しよう」、「解決したい」という動機です。
解明したり、解決する方法を物理的手法、あるいは、化学的、あるいは、生物的、または、医学的方法、どれを選ぶかが一つの分かれ目です。

一つが解明されると、また別の問題が出現します。その問題を今度は、どの方法でするか、選択するのです。しかし、一人の研究者で何でもかんでも出来るわけではございません。

例えば、医学の分野での最先端の1つは、患者のQOL(生活の質)です。京都大学の社会医学分野の学者たちが取り組み、海外から非常に注目されています。なぜなら、インパクトファクターが非常に高い英文雑誌に、しばしばアクセプトされているからです。
医学研究にも関わらず、院生には、文学部、教育学部出身者が少なくありません。現実には、人文科学出身者こそが、自然科学分野に参加して来ているのです。

しかし、島薗さんはそういう事例を無視し、又、自然科学の研究の営みを確認せず、無責任に「「科学者に求められるのは、哲学に代表される人文科学などにも目を向けること」と主張なさいます。

これを言う相手は、科学者ではありません。小学校〜高校までの教育現場、児童生徒に解説することこそ重要なことではないかと考えています。

例えば、「患者の治療のために、化学、生物学、物理学などが応用され、それなりに成功を収めてきた。しかし、新たな問題として、病気や怪我を抱えたまま生活をする人が増え、介護やケアの不足が発生して来た。また、その苦痛を訴える声も多くなっている。これは、分子や原子、細胞の話ではない。家族のあり方の問題や行政の問題として、どうアプローチするのか。」などという問いや解説を児童生徒にする事の方が、より重要なのではないでしょうか?

現実の研究の場において、研究者は、問題が「自分の対象領域なのか、否か」判断します。自分の問題ではないと判断すれば、その問題は扱いません。科学者に「哲学に代表される人文科学などにも目を向けましょう」と言っても、効果はほとんどありません。

島薗さんは、ご自身の研究方法=現実を目向けず、文献で知った程度の情報で考察し、情報を発信する方だと判断しております。
吉田花奈さん、コメントありがとう (船場幸二)
2018-03-17 19:32:04
吉田花奈さんへ
 中央小学校の卒業生ですか、それはそれはなつかしい。
 ところで、今回、宗教学の前薗氏に対して、そうとう痛烈な批判をお聞きして、彼の講演内容が一生懸命研究なさっている貴女が否定されたような気になった気持ちは分かります。
 ただ、どの学問分野にも、限界があるものです。それは認めなければなりません。言い換えれば、いろいろとある研究対象の間には隙間が存在するもので、その隙間を認めながら進むことが求められているのです。
 それぞれの研究者が、自分のテーマをもって研究している、そのことは意義のあることですし、すばらしいことです。ですが、専門馬鹿になってはいけません。
 私の読書ノート「人間不在の科学主義であってはならない(読書ノート)」を参考にしてほしいと思います。そのほか、私のブログには、科学について論じたものが他にもあります。
 もう一つ、言わせていただけば、哲学者などの人文科学が、自然科学に対して、もの申すとしてもそれは、その自然科学の分野を全部熟知していないとしても、哲学という学問を押し進めて行くと、科学の限界が見えてくるというのも事実です。それは、現在の哲学界の趨勢です。
 卑近な例でいいますと、人工頭脳がいくら進んでも、絶対に人間にはなり得ません。それは感性の問題があるからです。枕草子にある「いとをかし」は、ロボットは理解できないでしょう。しかし、ロボット研究のロマンを否定はしません。ロボットの有用性は否定できないからです。
 また、現代数学(統計学や確率論など)を駆使して、巨大コンピュタで多くの情報を集めて分析し、ある方向性がわかったとしても、そこには必ず限界が見えてきます。なぜなら、新たな情報が無限に出てきて、いくらやってもきりがないからです。
 ただ、人文科学をやっている研究者は、口をそろえて言っているのは、
「新自由主義的合理性は教養を必要の無いものにしてしまった。国家は教養の育成に不熱心だ。促成栽培で育てた人的資源を求めてばかりいる。教養は過去の遺物となり、まるで古文書のたぐいになりかけている。学生たちや世の若者たち、いや国民のほとんどにとって、絶滅危惧種的存在になっている。」ということです。
 貴女のような研究者になろうと言う人たちではなくて、大学を出て就職する人たちに、促成栽培型教育が行われているということです。それにしても、研究者にも教養は必要なのです。

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