FUNAGENノート

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自由の奴隷から解放されよう(読書ノート)

2018-11-05 12:50:39 | コラム
自由の奴隷から解放されよう(読書ノート)
 今回は、「自由という牢獄」(大澤真幸著・岩波現代文庫)を読んで、自分なりに考えたことを述べる。
 自由とは何だろうか、多分普通に解釈すれば、それは迷惑をかけなければ何をしてもよいよいうことだろう。しかし、現在はどうだろうか、地球温暖化、それに伴う異常気象、資源の枯渇、有害物質が地下に体積する問題、海洋汚染などは、景気回復・維持の為という名目のために自由に行われている。
 しかし、まぎれもなく、私たちは迷惑を被っている。人間だけでなく、動植物までも被害を被っている。
それでは、私たちは自由を謳歌しているだろうか。これでもか、これでもかと欲望が踊り消費文化の虜になってはいないだろうろか。そしてその行動が限りなく続く。これは自由の奴隷化ということだろう。
 かつて、資本主義対社会主義という東西の冷戦の中で、言われたことは、資本主義は自由と民主主義、社会主義は平等をかかげて対峙していた。しかし、平等を求めた社会主義は、結局、有力な共産党員や官僚の私服を肥やし、格差は拡大した。言論統制も行われた。資本主義はどうか、新自由主義という時代を迎え、格差社会が拡大している。一握りの富裕層が財の大きな部分を独り占めしている。中間層の没落も問題になっている。
 そんな中、現在の資本主義は、皮肉なことに社会主義的な政策を織り込み始めた。まさに国家社会主義的様相である。消費拡大のために企業に賃上げを求めたり、雇用促進を促したり、まさに、かつて労働組合が要求したことを国家がやりはじめた。
いくら消費の拡大のためとは言え、それは国民を自由の奴隷にしてしまうことになる。それでは私たちはどうすれば良いのか、それは消費に惑わされることなく、存在としての自分が、現前の存在に立ち向かい、自分を高めるこいとだろう。
 政府も、消費の拡大だけを狙うのではなく、私たちの文化や芸術、スポーツの育成にもっと目をやらなければならない。オリンピックのアスリートは、いわばスポーツ界の特別な存在で、多くの国民はそれに挑戦しているわけではない。もっと裾野を広げなければならない。それは、文化・芸術にも言えることだ。「私やる人(極少数)」、「私見る人(大多数)」というのが現在の状況である。
《高級な規範とは、他の命令の手段になっていない。形式への欲望は、終極的な命令、つまり高級な規範と相関したものになりうる。それに対して、形式への欲望、貨幣(によって表現される価値)への欲望は、永続的な手段である。最後の「目的」はいつまでも現れない。それは、どこまで行っても、手段であることを返上できない欲望である。》
「高級な規範とは、他の命令の手段になっていない。形式への欲望は、終極的な命令、つまり高級な規範と相関したものになりうる。」と言っているのは、私の言う文化・芸術、スポーツへの挑戦のことであろう。
《高級な非市場規範が市場規範に閉め出される。》と言っているのは、文化・芸術・スポーツへの挑戦が、市場経済、消費社会に閉め出されているということになるだろう。
 私たちは、消費文化に惑わされることなく、自分の時間をもって、自分の文化・芸術・スポーツに挑戦することが求められている。
 ひととき、金曜日の早帰りを提唱したことがあったが、結局、それはみんなに店に行って何かを購入してほしい、消費拡大が景気を良くすることとなるという考えが根底にあったのであろう。
 私たちは、自分で、自分の時間をとり、存在としての自分と、現前に存在するものとの対話、交流をすることであろう。自分の存在は、それ以外の存在がなくては成立しないであろう。自分以外の存在を否定すると、どうなるか。それは、差別、いじめ、虐待、DVにつながることとなろう。
 重ねて言えば、私たちは消費文化に惑わされずに、自分の時間を、有効に使うことであろう。動きすぎないで、ちょっと立ち止まってみよう。そこには、素晴らしい世界が広がっていることだろう。

奥多摩・鳩ノ巣渓谷


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