FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

フェミニズムとセクハラ事件

2018-04-24 19:12:48 | コラム
フェミニズムとセクハラ事件
 最初のフェミニズムは、「男並の権利をよこせ」「女性を解放せよ」という運動だったとすれば、第二のフェミニズムは、「男中心の社会を変えよう」「女姓の権利を拡張しよう」という運動である。なお、フェミニズムとは、性差別に反対し、抑圧された女性の権利を拡張しようとする思想や運動のことである。
 その中で、1999年 男女共同参画社会基本法、育児休業法、セクハラ防止規定を含む男女雇用機会均等法の改正、ストーカー規制法、DV防止法などの法整備が次々進んだ。
 一方「ジェンダーフリーは性差をなくす教育だ」という批判が右翼勢力から出されたこともある。たしかに、行き過ぎた面があったことは事実だろう。その行き過ぎの原因は、差別と区別の混同からくるものだったと思う。第一、女性と男性は区別されるのは当然であって、問題なのはそれが差別となってはいけないということだと私は思う。右翼勢力の批判はもっと別な思惑があったように思うが、それについては、これ以上ふれない。ただ、その時の自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態プロジェクトチーム」の座長は安部晋三氏だった。
 第二次安部内閣で、「女性の活躍」社会、「女性が輝く」社会、「男女雇用機会均等法」などアドバルンを揚げることとなった。実はこれは、少子高齢化にともなう人手不足解消のための手段にすぎない。確固としたジェンダー(社会的性差)についての考えがあったわけではない。
 それが、今回のセクハラ疑惑の対応に現れている。かれらは、財務事務次官は、はめれたと思っている。安部氏取り巻きの議員や評論家、小説家などは、そのことにふれることに熱心だ。挙げ句の果てに、女性記者や報道機関に責任を添加しょうとしている。そして、安部周辺の不可解な問題を、なんとか隠そうとやっきである。
 男性からすると、確かに若い女性の美貌に魅力を感じるのは当然だろろうし、それは昔からの美術作品などをみれば、すばらしい女性美を表現している作品があることでもわかる。
 問題なのは、そのような美貌の持ち主に出会い、勝手に自分のものにしたいと考えるところから、ストーカー事件に発展してしまう。あるいは、美貌に目がくらみ、痴漢に走ったり、セクハラしてみたくなる。そこには相手の人格を尊重する姿勢はまったく見られない。
 大切なのは、お互いの人格を認め合い、ともに共生することだろう。それが、フェミニズムの本来の意味ではないだろうか。この共生ということで言えば、気になることがある。それは電車に女性専用車(痴漢から守るため)があったり、何々女子とか、何々女子会とかと話題になるが、これもある意味での差別ではないかと思えてくる。
 ところで、セクハラやパワハラは、ある意味「いじめ」に似ている。男性が女性をいじめる、あるいは逆に男性が女性にいじめられることもある。「いじめ」をしている本人は、「いじめ」と思っていないことがよくある。しかし、相手がいやだとわかったら、謝罪してあやまることだ。
 今回の官僚のセクハラは、自分勝手な「からかい」が発端かもしれないが、彼女にとっては、いつもいやな思いをしていただろう。お互いにいやなことはしないとう基本的な倫理観の欠落がこうなってしまうのだ。品格のなさが露呈した事件だと思う。案外この官僚はそういうキャラクターの持ち主かもしれない。かつての私の周りにもそういうのがいたことを思い出す。今なら、完全にアウトであろう。
 たぶん、どこの職場や学校でも、自分の権力(上司、得意先さなど)をかさに、いやがらせ、からかい、いじめはあるだろう。今回のセクハラもその一端であろう。今こう書いている時も、どこかでセクハラやパワハラは行われているだろう。
「セクシュアルハラスメントの防止に関する規定」の第二条は次のように言っている。
《(定義)セクシュアルハラスメントとは、職場における性的な言動に対する他の従業員の対応等により当該従業員の労働条件に関して不利益を与えること、又は性的な言動により他の従業員の就業環境を害することをいう。
 前項の職場とは、勤務部店のみならず、従業員が業務を遂行するすべての場所をいい、また、就業時間内に限らず、実質的に職場の延長とみなされる就業時間外の時間を含むものとする。
 第1項の他の従業員とは直接的に性的な言動の相手方となった被害者に限らず、性的な言動により就業環境を害されたすべての従業員を含むものとする。》
 大学法学部出身だというこの官僚は、このセクシャルハラスメントの規定を覚えていなかったのだろうか。覚えていてやったのだとすると、責任はさらに重大である。
 最後に、この問題が今回のセクハラ事件被害者の人権無視になっていることを危惧している。こうなってしまうと、セクハラにあった、あるいは今セクハラにあっている被害者が訴えることをますます難しくすることになるだろう。その意味で、今回の政府の対応の責任は重大だろう。


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改訂・平成の怪物退治、それは知性の回復(読書ノート)

2018-04-22 13:13:51 | コラム
改訂・平成の怪物退治、それは知性の回復(読書ノート)
 今回は、「知性は死なないー平成の鬱をこえて」(與那覇潤[よはなじゅん]著・文藝春秋)の中の『「知性主義」の落城と再生』を取り上げる。與那覇氏は、私の「戦中・戦後世代から現代を見つめる」の「39知識の断片化の中で」で取り上げた、「中国化する日本」(文藝春秋)の著者でもある。
 最近、官僚の劣化を実感している。有名な大学(あえて名前は言わなくてもおわかりだろう。)出身なのに、彼らの教養はどうなってしまっているのだろうか。大学教育はじわじわと反知性主義におかされだしている。そして、現在の大学教育の実態を、與那覇氏のこの本を読んでうかがい知ることができた。それはますますおかしな方向へ進んでいるということだ。
《いまもなお吹き荒れているだろう各種の大学改革が、みるべき成果をあげていないのは、「大学教員はバカ」・「文系なんてカネにならない」・「税金を使ってるんだから政治家にしたがえ」といった、およそ知性を感じさせないポピュリストに主導されたことで、しかるべき協力がえられなかった側面が大きいと思います。》(與那覇)
 大学教育の実態とあいまって、学生はSNS中心の情報収集にあけくれて、読書離れが深刻に進んでいる。来るところまできてしまったように思う。與那覇はつぎのように言っている。
《「知性主義」は、過去のものとなりました。大学の教員というだけで、だれもその人を尊敬などしないし、また学問的な出版物だからといって、その説くところが価値あるものとして、世間に流通したりもしない。
 大学教育はもはや、純粋に高校卒業と大卒採用のあいだの4年間をつなぐだけの形式となりはてて、内実など問われていない。もはや死んでいるかもわからないのに、かつて生きていた時代のなごりで、その形代だけはのこっている、ゾンビのようなものでしょうか。
 ゾンビ教養主義で「著名哲学者の言葉」を自己啓発本にしたて、ゾンビ知性主義で適当な学生の「サクセスストーリー」を売り出すのも、ひとつの延命策ではあるのでしょう。しかしゾンビのままでいるかぎり、いずれ朽ちはてると、私は思います。》
 この間、TVを観ていると、手っ取り早い言葉を若い社員に教え、それでわかったような気になっている様子が映し出されていた。いわゆる名著と言われる本の一部分を取り出して、教訓のように教えてもらい、それで満足しているわけだ。そこにあるのは、断片的な知識が並んでいるだけの薄っぺらなものだ。若者(いや若者ばかりではない)が、SNSという世界にどっぷりつかり、まるでロボットのようになってしまっている。哲学や人文科学、文学を最新のIT技術を活用したロボットでも、そう簡単に読むことはできないだろう。この奥の深さを味あうことはできないだろう。
 本来は、奥行きのある世界の探検のために本を読んで、じっくり考えなければならないのに、その本を読むことができない。いや、世の中がせせこましく、じっくり読む環境がないのかもしれない。それを逆手にとって出版社は読んでもらいたという一念で、名のある哲学者や評論の一部をつまみ食いして、名言集やマンガにして出版しているご時世だ。
 読書の再挑戦をはじめたごろ(3年ぐらい前)、哲学についてのダイジェスト判というか、高校生用の哲学書を読んでみたが、まったく、無味乾燥で、風味も臭いも風も(そよかぜ、心地よいかぜ、力強いかぜなど)感じることはできず、まるで非常食を食べている感じだった。それで、実際に登場する御本人の書いた本を読むことにした。そうすると、山あり谷あり平地あり渓谷ありの世界がひろがっていた。
 大学教育の一つの方法について、與那覇は次のように言っている。
《大学教員として編集者の方と話していたときに、さる女子大の先生かおこなわれている、初年次教育の内容をきいたことがあります。
 参加した学生全員に、毎週1冊、新書版の文庫本を紹介してもらう。しかし、それでは毎週1冊ずつ読破しなくてはいけないのかというと、そうではない。なんでもよいから、自分が「いま、読んでみたいと思った新書を1冊持参して、「どうして、その本を選んだのか」を説明すればよいというのです。そうすると、かりにまだ1ページも読んでいなくても、「著者はだれか」「どういう履歴の人物を、学生が自分で吟味するようになります。もちろん意欲がある学生は、じっさいに内容を読んで「まだ何章しか読んでいませんが、こんなことが書いてありました」という報告をしてもよい。
 重要なのは、それが連鎖していくことだというのです。実現できない死角になっていた部分が、みごとに補われているからです。
 このような授業では、たんなる専門知にとどまらない、教員側の技量も求められるでしょう。もちろん、専門以外の分野については教員も素人ですが、「よい本そうか、そうでなさそうか」を見定めるコツや、あきらかに議論がおかしな方向にいきそうなとき、適切なタイミングでストップをかける勘は必要になります。それこそがほんらい、「知性」ということばで、私たちが期待してきたものではないでしょうか。》
 私も、この授業方法を支持する。とにかく、本にふれるという体験を持つことよって、持続した読書活動へと進むことは、現代社会において絶対に必要だと思う。こういう体験は、学生でなく社会人にも有効である。今「働き方改革」が問題になっているが、「余暇の過ごし方改革」も必要だ。余暇の利用をもっと有効に使うことを考える時代にきていると思う。そこで「見せ物の喜び」でなく「精神の喜び」を味あう体験をすることなが必要ではないか。芸術鑑賞、自然探索、音楽、詩(俳句、短歌なども含めて)、そして読書などを楽しむ体験をすることなのだ。そこで奥行きのある道を体験することだ。
 そして、先ほど與那覇がふれたようなある女子大学の事例のように小学校を含めて学校いや家庭でも、持続した読書活動や文化活動を進めることが、人間の教養を高めることになるのではないだろうか。そういう地道な活動が、今起きている信じられないほどの事件(一連の官僚の犯罪、巷の犯罪の数々など)をなくすことにつながるのではないだろうか。
 ここで、私の「戦中・戦後世代から現代を見つめる」の54「促成栽培型社会になってはいないか」より、次の文を引用して終わりにする。
 カントは「啓蒙とは何か」の中で次のように言っている。
『啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから「敢えて賢こかれ!」「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」ーーこれすなわち啓蒙の標語である。』(「啓蒙とは何か」岩波文庫・カント著・篠田英雄訳)


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「決められる政治」のもたらしたもの

2018-04-15 20:53:10 | コラム
「決められる政治」のもたらしたもの
 安部総理は、昨年の9月、衆議院解散を表明した時、「・・・・私たちが公約に揚げた大胆な金融政策には大変な批判がありました。しかし、総選挙で勝利したかからこそ実行に移すことができた。アベノミクス三本の矢を放つことで日本経済の停滞を打破し、マイナスからプラス成長へと大きく転換することができました。」
 安部総理が言うほど、多くの国民にとっては、実感のわくものではない。雇用の回復というけれど、それは非正規雇用が中心で、賃金も上がってはいない。それに、相対的貧困率や生活保護受給数も減ってはいない。
 お金は企業中心に回っていて、一般国民には行き渡っているわけではない。株価の上昇は、日銀やGPIF(厚生年金と国民年金の年金積立金を管理・運営する機関)が株の購入者として市場に介入して起こっているのが現状である。おまけに大胆な金融緩和によって、円安を誘導している。
経済の実態にあった株価の上昇や円安ではなく、作られた為替や株価操作なのだ。
 それなのに、昨年の10月の総選挙では、安部自民党政権が大勝してしまった。(この衆議院解散劇は、多分に政略的だった。森友・家計問題が浮上し、野党の追求をかわすべく、少しだけ支持率が回復したとたんの解散だった。)選挙直前のどたばた分裂や合併劇という野党のだらしなさもあるだろう。しかし、国民全体で自民党を支持したのは、48%なのに議席数は75%になってしまった。(これは、現在の選挙制度が民意を反映しているとは決していえないことを示している。もちろん野党の乱立も影響しただろう。)
 あげくの果てに、「なんでも決められる政治」となり、やりたいほうだいなことをやることになってしまった。それが森友をめぐる改ざん劇や家計問題の「首相案件」云々、防衛省の日報問題、野党の質問時間を短くしようと画策したり、メディアに対する締め付けを強めるなど、それが負のイメージとなって現れている。まるで独裁政治を思わせる様相である。
 安部政権を支えようとする勢力は、盛んに外交問題や経済問題が今大事なので、森友・家計問題だけにつきあっている余裕はないとうよいうな事を言っている。しかし、そうだろうか。今のこの腐敗しきった政治について、外国メディアも報道している。それは外交問題に関わらないわけがないだろう。諸外国の要人はみな知っているだろう。恥ずかしく思わないのだろうか。
 また、経済問題にしても、まぼろしのアベノミクスを信じ込んで、いまだに安部政権支持にかわらないという人がいるとすると、その人は今よければよいと考えているにすぎないだろう。今なんとなく繁栄しているように見えるとしても、日銀は400兆円を超える国債を抱え、しかも金利は市場の自律的調整機能で成り立つという原理が犯されているのだ。第一、この借金大国でこれからどうなるのだろうか。そしてあの官僚たちの考えられない行為(改ざんやうそをつく行為)。だから、今のままでは決して未来があるわけがないのだ。
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「指鹿為馬(しろくいば)」は今も生きている

2018-04-11 16:23:17 | コラム
「指鹿為馬(しろくいば)」は今も生きている
 知人の書家の書いた作品、「指鹿為馬(しろくいば)」というのを、書道展で拝見しました。この「指鹿為馬」の意味について、調べてみました。司馬遷の「史記」で出てくる言葉で、訓読みでは「鹿を指して馬となす」と読むようです。国家権力が鹿を馬と言えば、家臣はみな同じように鹿を見て馬とせねばならないという意味合いなのでしょう。それに従わず「いや、やっぱり鹿は鹿だ」と言う人は、排斥されることになるでしょう。自殺者も出してしまいました。前川氏(前文科省事務次官)は今も権力から排斥されているようです。
 いずれにしても、今国家の様相は危機的な状況にあります。次から次と新たな問題が発覚しています。防衛省の問題もそうです。表に出てくるのは、やっぱり「馬」でなく「鹿」でしょうという情報なのですが、そのつどそれを乗り切ろうとやっきです。したたかでありません。国民もなめれれたものです。
 あの財務省の改ざん劇、口裏合わせ、そして新に家計問題の「首相案件」という記録(メモ)の発覚、どれを見ても明らかに国家権力が関わっていることは明らかなのですが、肝心の殿様は、知らぬ存ぜぬを通していいます。家臣たちも、いざとなれば「記憶はさだかではないが、会ってはいないし、言ってもいない。」ということになってしまっています。
 殿様の家臣は、殿様を守ることに余念がありません。しかし、常識で考えてみましても、官僚たちが、あえて改ざんする意図は何でしょうか。立身出世のためだけでしょうか。そうだとしても、ばれてしまうと、佐川氏のようなことになり、もともこもなくなります。それでも、佐川氏は殿様を守っています。まるで江戸時代の家臣のようです。
 しかも、現代のような世の中で、官僚が殿様のために、自分たちだけであのような国民をだますような行為を行うとは思えません。また、動機も目当たりません。実際には、殿様の取り巻き、江戸時代で言うと、大老、老中、若年寄などがいて、「殿のご意向」だということをあの手、この手でほのめかし、それに官僚が従わされたということではないでしょうか。
 だから、家臣である柳瀬氏(当時首相秘書官)を国会で喚問しても、鼠一匹ででこないでしょう。先にも述べたおきまりの「私の記憶は・・・・会っていないし言っていない。」ということだけしか出てこないでしょう。何か決定的な証拠(写真、録音など)が無い限り、いわゆる水掛け論となるでしょう。
 国会や地方議会の証人喚問では、「記憶にありません」という言葉がよく使われます。これだと、関わったか、関わらなかったか、どちらにしても何も見えてきません。あの有名なロッキード事件の証人喚問で、小佐野賢治氏が「記憶にございません」と連発していたのを思い出しました。
 多分今回も、柳瀬氏を証人喚問しても、それを「記憶云々」で乗り切り、終わった後に株価が上がり、何もなかったような日本になってしまうかもしれません。
 しかし、どう考えても、疑いははれないでしょう。森友と首相夫人の関係、家計氏と首相のお友達関係が、この二つの問題が出てくる背景としてあることは、だれがみても明らかです。火のないところに煙はたたないのですから。
 もし、国民の中に、お友達の便宜をはかってあげるのあたりまえでしょうという気持ちがあるとすれば、それは検討違いです。私が友人に都合をつけてあげるとしても、それは自分のお金や物や時間であって、国民の税金ではありません。
 役人と業者の癒着からくる贈収賄は、れっきとした犯罪です。同じように、国家権力と民間業者などとの間に、金銭の授受はなかったとしても、私的な関係で国の税金や特権が使われること、これも犯罪です。
 もうそろそろ、首相に、あなたは「はだかの王様」なんですよと言う人が、与党の中から出てきていいのではないでしょうか。いつまでも官僚のせいにして、乗り切ろうとするのは、卑怯者のやることです。
 私たちも、支持する政党がないから仕方ない、野党がふがいないから、決められない政治になるのいやだからなど、よけいなことは考えないで、「首相、あなたは《裸の王様》なんですよ。」と言おうではありませんか。


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本の世界へ飛び込もう

2018-04-09 18:09:22 | コラム
本の世界へ飛び込もう 
 この度、私は思いきって本を出版することにしました。その本の帯に「本の世界へ飛び込もう」というキャッチフレーズがついています。表には、「読書とブログ三昧の著者(81歳、自称絶滅危惧種)が綴ったエッセイ集、考える、感じる、学ぶとは、現代社会の現状と課題など、刺激満載」となっています。それで、読書の意義について述べたいと思います。少し長くなりますが、ご了承ください。
 本(現在160冊)との出会いを続ける中で、考えたこと、感じたこと、思ったことなどをこのブログで発信しているのですが、その数現在199編、ブログはこのコメントを入れますと、丁度200編になりました。その中から、2017年8月以前のエッセイから、58編を選んで本にしてみました。そのエッセイには、3タイプありまして、「読書ノート」、「(読書ノートでない)エッセイ」、「コラム」からなっています。ただ私の本とつきあってくれる人はいるのかな、本当に売れるのかなとか、心配ばかりしているいる最近です。なにせ、絶滅危惧種の書いた本ですからね。おまけに名もない年金暮らしの一市民ですからね。
 まず、私は読書をどう考えているかを述べてみたいと思います。
 私は読書にあたって、つぎのような姿勢で、望んでいます。(これは、少し前のエッセイ「偶然性から必然性への道ー改訂版ー」(2017.10.12)からの引用です。)
『私は、よく紀ノ国屋書店新宿さんにいって、本の森を探検する。そこでいろいろな本に出会う。その出会いは確かに偶然であるが、しかしそこには必然性がある。私が着目し、買い求める必然性がある。招き入れてくれる本と招きを受けた私の間で、会話がはじまることとなる。
 メイヤスーは《概念の力によってその存在を思考に強制しうることは決してできないであろう。》(カンタン・メイヤスー・千葉雅也他訳・人文書院)とも言っている。言い換えれば、外部の存在で知識として得た概念をもって、現前の存在に立ち向かうのではなく、現前の存在に偶然に出会ったところから思考はスタートするということなのだろう。このことはとても大事なことだと思う。私たちが観念論や権威主義におちらないためにも必要なことだと思う。だから本との出会いは、基本的には自分が求めるもので、他人に紹介されて読むものではない。紹介されたとしても、あくまでも自分が主体でなければならない。
 読書というのは、この本の著者(現前の存在)と読者である私の交流の場であると同時に、いろいろな世界に私を案内してくれる道案内の役割をしてくれる。しかも、広く深い存在がそこにある。ここで、大事なことは存在に自分の考えや思いをぶつけることだ。(この本を絵画や音楽、社会事象、自然、動植物などに置き換えても同じことが云えることは、いつも言っていることである。)』
 ところで、私が読書にいそしむようになったのは、次の理由からです。それを、私の出版する本の中の、「はじめに」から引用します。(ちょっと省略やこのブログ用に直したところもあります。)
『戦後72年、私ももう81歳、戦中戦後体験者と言っても、終戦の時小学校3年生だったわけですから、むしろ成田龍一氏の言葉を借りれば「戦中戦後世代」ではなく「小国民世代」(「戦後思想の光と影・三浦信孝編・風行社)なのでしょう。しかし、戦時中の体験は子供ながらに覚えています。また、戦後樺太(現サハリン州)から裸一貫で引き上げてきて、日本の復興、高度成長時代、バブルの崩壊、低成長時代、そして現在はグローバル時代という変遷の中を過ごしてきた者として、現代の世相の中で感じたこと、思ったこと、考えたことなどを綴ったのが本書です。
 振り返って見ますと、私は定年退職(平成9年)以来しばらく読書らしい読書をしていませんでした。
 ふとしたことから、本屋さんを探検してみようと新宿の紀伊國屋書店まで行った時、「現代の超克ー本当の読を取り戻す」(中島岳志 若松英輔・ミヤマ社)に出会いました。その時、78歳になっていました。この本に啓発されて「そうなんだ、読んだり書いたりすることによって脳は研ぎ澄まされる。」と考え、ちょっとしたエッセイを書き始めました。
 書き始めからエッセイはブログ(FUNAGENノート)で発信し現在に至っています。』
 私の本の中で、(読書ノート)で取り上げた本や引用の形で取り上げた本を紹介します。《》は私のコメントです。
「現代の超克」(中島岳志+若松英輔・ミシマ社)
         ー近代に置き去りにしたもの(読書ノート)ー
《読書のきっかけを与えてくれた魅力ある先人からのメッセイジは得ることが多いと感じました。先達の書いた本ももっと読んでみようと思います。》
「時代の憂鬱 魂の幸福」(張競・明石書店)
    ー肉体の幸福から魂の幸福へ(読書ノート)ー
《著者が中国出身(上海生まれ、上海の華東師範大学、東京大学などで学び、現在明治大学国際日本学部教授)であることで、また、新しい視点で、学ぶことが出来たと思います。》
「数学する精神」(加藤文元・中公新書)
「数学する身体」(森田真生・新潮社)
「現代の超克」(中島岳志+若松英輔・ミヤマ社)
「科学者が人間であること」(中村桂子・岩波新書)
「人間・その劇的なるもの」(福田恆存・新潮文庫)
「生物学的文明論」(本川達雄・新潮新書)
「日本の反知性的社会」(内田樹編著・晶文社)
「ヤンキー化する日本」(斉藤環・角川書店)
「現代日本の四つの危機の中の言葉が開く宇宙」(魚住孝至・講談社)
「デクノボーになりたい・私の宮沢賢治」(山折哲雄・小学館)
     以上はー知の意味と課題(読書ノート)ーで取り上げた本
《知について、いろいろな角度からとりあげました。》
「叡智の詩学 小林秀雄と井筒俊彦」(慶応義塾大学出版会)
「ランボオ詩集(ランボオ・小林秀雄・創元ライブラリ)
            ー見る力は魂の営み(読書ノート)ー
《何事にも意欲を失ってはならないとか、気力をなくしてはならない。邪推や欲得といった心を持たず、無心でものごとにあたる必要と実感することのできた本です。》
「カタストロフからの哲学ージャン=ピエール・デュピュイをめぐって ー」
(渡名喜康哲+森元康介編著・以文社)
ー偶然と必然、必然と偶然(読書ノート)ー
《偶然に見えるものの中から、必然を読みとることがいかに大事なのかを教えてもらいました。》
「永続敗戦論」(白井聡・太田出版)
「偽りの戦後日本」(ウォルフレン+白井聡・角川書店)
「日本戦後史論」(内田樹+白井聡・徳間書店)
以上ー「この国のかたち」に問題はないか(読書ノート)ー
《無責任体質や同調強圧とそれに抵抗する弱さなをどう克服したら良いのでしょうか。大きな問題提起を得ました》
「ポストモダンを超えて」ーポストモダンの先はどうなるー
                  (三浦雅士編・平凡社)
ーポストモダンを超えて(読書ノート)ー
《モダン、ポストモダンの意味の確認や、ポストモダン終焉の後の道をさぐるために勉強になりました。》
「戦後思想の光と影」(三浦信孝編・風行社)
戦後思想の光と影(読書ノート)
《戦後思想から学ぶことが、今こそ求められている時はないと思いました。歴史を振り返ることはいかに重要かがわかります。》
「森は考える」(エドゥアルド・コーン・奥野克己他訳・亜紀書房)
ー森の仲間も考えている(読書ノート)ー
《我ら地球の中も、考えているのだ。考えることは、人間の専売特許ではないのです。》
「ぼくらは未来にどうこたえるか もうひとつの世界は可能である」
     (大澤真幸・小野善康・木村草太・中島岳志著ー左右社)
「奥の細道」(松尾芭蕉・角川ソフィア文庫)
 ー現在と過去、陰と陽ー外観と内面のヴェールー(読書ノート)ー
《境界線のないのっぺらぼう社会という現実に立ち向かうために、どうしたらようのでしょうか。》
「科学技術の危機、再生のための対話」(池内了+島薗進・合同出版)
              ー科学技術は万能か(読書ノート)ー
《科学技術の進歩があまりにもユートピアに語られていないでしょうか。》
「ヨーロッパ・コーリングー地べたからのポリティカル・レポート」                  (ブレイディみかこ著・岩波書店)
           ー英国の貧困問題から学ぶ(読書ノート)ー
《英国のEU離脱の背景、何よりも英国の現状を知ることができました。格差社会をそこに見えてきます。》
「感情で釣られる人々ーなぜ理性は負け続けるのかー」
                  (堀内真之介著・集英社親書)
            ー感情動員社会の中で(読書ノート)ー
 《消費社会に操られている社会を乗り越えるために何が必要でしょうか。》
「人類の衝突」(島薗進+橋爪大三郎・CYZO)
「イスラームとは何か」(小杉泰・岩波新書)
           ー人類の衝突から共生へ(読書ノート)ー
《今、各地で人類間の衝突が起きています。今こそ共生の道をさぐりましょう。》
「いま、世界の哲学者が考えていること」
                (岡本裕一郎著・ダイヤモンド社)
            ー哲学の今と、IT革命(読書ノート)ー
          ーバイオテクノロジーの問題(読書ノート)ー
《現在のITブームに向き合うためにどうしたらよいのでしょうか。ただ夢物語であってはならないようです。》
 「暇と退屈の倫理学」(国分功一郎著・太田出版)
               ー暇と退屈の現実(読書ノート)ー
《消費社会からの脱却のために、主体性をもって文化に接することが求められています。文化産業に操られる文化ではどうにもなりません。》 
「自由の条件ースミス・トクヴィル・福沢諭吉の思想的系譜ー」
                 (猪木武徳著・ミネルヴァ書房)
             ー自由と平等のジレンマ(読書ノート)ー
《今、自由平等の思想が危うくなっています。自由や平等の意味をあらためて再確認する必要があるようです。》
「変態する世界」(ウルリッヒ・ベック著・枝廣淳子+中小路佳代子訳・岩波書店)
            ー正の財と負の財の狭間で(読書ノート)ー
《私たちの世界は、リスクを生み出す者と、その影響をもろに受ける者とが存在しています。リスクを産み出す国や企業は天然資源は無尽蔵で、いつまでも経済成長(グッズ・正の財)が望めるものと信じて疑わないようです。そして、私たちもリスクを背負うことになります。》
「いかにして民主主義は失われていくのか
                ー新自由主義の見えざる攻撃ー
       (ウェンディ・ブラウン・中井亜佐子訳・みすず書房)
             ー教養の現状と課題 (読書ノート)ー
《本来非営利的なものと考えられてきたわたしたちの文化(教養)にまで「経済化」に浸食されています。おかげで、真の教養が失われてきています。》
 なお、(読書ノート)でないエッセイでふれた本は次の通りですが、当然、直接取り上げていない本からも、栄養分として、多くのことを学びました。(読書歴は、HPにあります。)
  写真集「知られざる日本遺産」
   ー日本統治時代のサハリン廃墟巡礼ー(那部亜弓・八画出版)
「池田晶子 不滅の哲学」(若松英輔・トランスビュー)
 「新・考えるヒント」(池田晶子・講談社)
 「考えるヒント」(小林秀雄・文春文庫)
 「時は流れず」(大森荘蔵・岩波書店)
 「人間この劇的なもの(福田恆存・新潮文庫)
「意識と本質 精神的東洋を索めて」(井筒俊彦・岩波文庫)
 「文明の衝突」(サミエル・ハンチントン・鈴木主税訳・集英社)
「親鸞」・亀井勝一郎著・春秋社)
「森の思想が人類を救う」・梅原猛著・PHP研究所)
 「グローバリズムが世界を滅ぼす」(中野剛志・文春新書)
 「リベラルな保守宣言」(中島岳志・新潮社)
 「本に語らせよ」(長田弘・幻戯書房)
 「現代思想一月(二〇一六年)・青土社」のなかの
            「権威(オーソリティ)の問題」(千葉雅也)
「文明の衝突」千年史ー(與那覇 潤著・文藝春秋)
 「日本文化のかくれた形」(木下順二など著、岩波現代文庫)
 「生物的文明論」(本川達雄・新潮新書)
 「偽りの経済政策」(服部茂幸・岩波新書)
「啓蒙とは何か」(カント著・篠田英雄訳・岩波文庫)

 というわけで、私の出版する本「戦中・戦後世代から現代を見つめる」(船場 幸二著・風泳社・1400円税込み)についてPRかたわら、読書について考えてみました。(一応予定は1月ですが、まだ発行されていまん。2月にずれ込むかもしれません。)
 
 なお、それ以降のブログのエッセイ(出版する本には掲載されないエッセイ)で「読書ノート」として取り上げた本を紹介します。
1「ひきこもりの国民主義」(酒井直樹・岩波書店)
2「アメリカ・暴力の世紀ー第二次世界大戦以降の戦争とテロ」
              (ジョン・W・ダワー著・田中俊幸訳・岩波書店)
3「脱学校の社会」
         (イヴァン・イリイッチ著・東洋・小澤周三訳・東京創元社)
4「資本主義と死の欲動ーフロイトとケインズー
          (G・ドスターレ、B・マリス・斉藤日出治訳・藤原書店)
5「〈政治〉の危機とアーレント」(佐藤和夫著・大月書店)
6「底辺への競争ー格差放置社会ニッポンの末路」(山田昌弘著・朝日親書)
7「日本文化をよむ」(藤田正勝著・岩波新書)
8「不寛容という不安」(真鍋厚著・彩流社)

※ 読書ノートで取り上げた本について興味のある学生諸君には、参考になると自負しています。
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