小馬太郎兵衛@タコのイカ踊りぃっ!!

ブログの老後をユラユラ楽しむ悦楽ブログって言ったけどさ、もう一発くらい狙ってもいいのかな。やってもいいかな?

JR発足20周年記念・鉄道の話題数題

2007-04-01 13:11:45 | 鉄ネタなんてどうよ?
早いもので、もうあれから20年ですか。
思えばあの日、日々の生活から「国鉄」という2文字が、ああもあっさり消える日が来るとはとても思えなかったのだが、生活に「JR」という言葉があっという間に浸透し、「国電」や「国鉄」という2文字は、あっという間に駆逐されていった。

そしてはや20年。
世の中に「国鉄」の文字が残っている物件は、もはやトマソン級の超芸術品の威光を放っている。

JR20周年で記念式典 東京駅丸の内駅舎で(共同通信) - goo ニュース
 国鉄の分割・民営化で1987年にJR各社が発足して20周年を迎えた1日、JR東日本が東京駅丸の内駅舎で記念式典を開いた。丸の内北口ドームで行われた式典で岩崎伊佐雄東京駅長は「今日を迎えられたのは多くのお客さまや地元の理解と支援があったから。これからも安全で安心して利用いただけるよう取り組む」とあいさつ。同社のCMに出演しているバイオリニスト五嶋龍さんが記念演奏した。


あの頃、1987年と言えば、おいらが小学校から中学校へ上がる頃。
思えばこの年は、おいらにとってもエポックメイキングな年ではなかったか。
「ファミリージョッキー」で競馬を覚え始めたのもこの年だし、種村直樹という人間に、初めて質問のお手紙を書いたのもこの年。種村直樹という人間に出会わなければ、今頃は鉄道友の会にでも入って、見かけ以上の筋金入りの鉄ヲタに成り下がっていたことだろう。
今思えば、人間形成上ではエポックメイキングな年ではあったが、向学心を捨てていたのは返す返すも残念だ。何度か書いているとおり、あの頃は宝塚に住んでいたのだが、あの学区というのは、とにかく勉強が出来る奴らばかりで、おいらもその流れにしがみつこうと必死になって頑張っていれば、こんな人間にはならなかったはずなのだが…。ねえ。

さて、前日31日には、お別れの話が数題。

宮地岳線一部廃止、最終電車出発 松林走る雄姿 見納め(西日本新聞) - goo ニュース
西鉄宮地岳線の西鉄新宮(福岡県新宮町)‐津屋崎(同県福津市)の最終臨時電車出発式が1日午前零時すぎ、津屋崎駅であり、沿線住民や鉄道ファンが松林を走るローカル線との別れを惜しんだ。

 津屋崎駅の狭いホームは深夜にもかかわらず、写真撮影をする人たちでいっぱい。最終電車には「長い間のご愛顧ありがとうございました」と書いたヘッドマークが取り付けられ、中西喜満運転士(31)が花束を受け取って乗車した。31日午前10時から宮地岳駅で配られた整理券を手にした200人ほどが、最後の乗客となった。

 31日は廃止区間9.9キロの運賃が無料となり、家族連れなどでにぎわった。1日から西鉄新宮が終着駅となり、路線名は始発駅の名前を取って「貝塚線」になる。

 西鉄新宮‐津屋崎はJR鹿児島線と競合。並行する道路の整備も進み利用客が減少したため、西鉄は「大量輸送機関としての役目は終えた」と廃止を決めた。


1982年末から1985年末までの3年間を、福岡の久留米で過ごしていたのだが、筑後地方に住んでいた子供が、福岡市北部の宮地岳線に乗るような用事があるはずもなく、実際に乗ったのは、それから15年以上も経った、2003年7月の日曜日の夕方に、1回乗っただけだった。
日曜日昼の福岡ドームのマリーンズ戦の帰り、あと二日休みがあるから、新大阪行きの「あかつき」で岡山に出て、四国へ遊びに行こうと画策、どうせヒマだから、存廃問題に揺れている、未乗だった西鉄宮地岳線へ行こうと思ったのだ。
天神から23番大蔵行き西鉄バス(メモ帳では31なんて書いているが、31番は吉塚から粕屋・篠栗方面へ行くバスで、多分23番の香椎・和白経由大蔵行きが正当)で香椎へ出て、香椎から津屋崎へ出たらもう真っ暗。香椎から三苫までは区間列車に揺られ、三苫で後続の津屋崎行きにのったらこれがまた、ツリカケキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
元は西鉄大牟田線で活躍していた300形の生き残りで、しばしのツリカケサウンドに身を委ねたことだった

これも元はと言えばJRが国鉄時代から方針を転換し、近距離輸送にも力を入れ始めたのが大きい。1989年に貝塚から中洲川端までの市営地下鉄がつながって、乗り換え一つで天神まで直結できるようになったとはいえ、沿線の人々は、車やバスで天神へ出るか、JRの駅まで出て、頻発するJR線で博多へ出ることを選んだのである。
そうでなくても福岡というところは、バスさえ通っていれば困らない地域だからねえ。なにせ地下鉄と並行してバス路線を走らせて商売になるのは、全国広しといえど福岡だけだろう(笑)。
津屋崎近くの、海岸の松林をかき分けるようにして走る電車の姿も、もう、見られない。

田園列車雨の別れ くりでん89年の歴史に幕 栗原(河北新報) - goo ニュース
宮城県北を走る第三セクター・くりはら田園鉄道(くりでん、栗原市)が31日、1世紀近い歴史に幕を下ろした。母体である栗原軌道の発足から数えて、89年余にわたり地域の足として愛され続けた鉄道。石越駅であったお別れセレモニーに、沿線はじめ県内外から多くの人が集まり、別れを惜しんだ。

 セレモニーは午後7時すぎ、雨の中で始まった。社長を務める佐藤勇・栗原市長が「皆さんに支えられ最後まで運行できた。くりでんを愛する皆さんとともに今後を考えていく」とあいさつした。

 くりでんで沿線の幼稚園に通っていた菅原朋哉ちゃん(5つ)と萌ちゃん(3つ)の兄妹=栗原市金成=が運転士に花束を手渡した。午後7時半、汽笛とともに、終点・細倉マインパーク前駅に向けて列車が出発。ホームは大きな拍手と「ありがとう」「さようなら」といった声に包まれた。

 最盛期には200人以上いた社員も、廃線直前には20人弱で、一部業務はOBたちが支えた。かつて総務課長を務め、現在は臨時駅員として働く社内最年長の菅原〓さん(70)は「地域の皆さんに愛されて、最後までやってこられた。心から感謝したい」と目を潤ませた。

 くりでんは1918年に私鉄・栗原軌道として発足、21年に営業を開始した。栗原電鉄時代の50―70年代は毎年100万人超の乗客を運び、細倉鉱山の貨物輸送にも利用された。鉱山閉山で経営危機に陥り93年に三セク化したが、利用減に歯止めがかからなかった。県の補助金打ち切り方針などもあり、廃線に至った。石越―細倉マインパーク前の全16駅、25.7キロ。営業した86年間の乗降客は延べ5744万7000人に上る。


くりでんったら、もはや残り少なくなった腕木式信号機が現役の鉄道だったんだが…。
もう現役で稼働している腕木式信号機を見ることは、もうないのかな…。
幼い頃に岡山臨港鉄道で見ていた信号機は、もう子供の頃の思い出でしかなくなるのかな…。
小名浜まで車を走らせるか…。

鹿島鉄道、83年の歴史に幕 茨城、別れ惜しむ住民やファン(共同通信) - goo ニュース
茨城県の石岡市と鉾田市を結ぶ鹿島鉄道(27・2キロ)が31日、83年の歴史を終え、地元住民や鉄道ファンが廃線になる同鉄道との別れを惜しんだ。同日午後5時すぎから、石岡駅のホームで「さよならセレモニー」が開かれた。小野里忠士社長があいさつ、その後、地元住民らが運転士らに花束を贈呈し、乗客でいっぱいになったディーゼル車両が石岡駅を出発すると、一斉にフラッシュがたかれた。


結局、在来型気動車に乗るリベンジは果たされないままだったなあ…。
DMH17系エンジンの唸りは、小湊鐵道に行って聞くさ。

ところで、最終日の昨日朝5時過ぎに、山手線を神田から上野まで乗ったら、半ズボンをはいてのしのし歩くオヤジが上野駅で降りてきた。
もしかしてあれって、ごく一部で話題の「半ズボン氏」ってやつかい…?
そうか、かしてつへ出掛けたのね…。
写真撮っとけば(以下自粛

  
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