小馬太郎兵衛@タコのイカ踊りぃっ!!

ブログの老後をユラユラ楽しむ悦楽ブログって言ったけどさ、もう一発くらい狙ってもいいのかな。やってもいいかな?

ラッシャー木村さん死去

2010-05-25 22:47:27 | Weblog
こんばんは!!

。゜(゜´Д`゜)゜。

「アニキ」「こんばんは」ラッシャー木村さん死去(スポーツニッポン) - goo ニュース
 元プロレスラーでノア社員のラッシャー木村(本名・木村政雄)さんが、24日午前5時30分、腎不全による誤嚥(ごえん)性肺炎のため都内の病院で死去した。68歳。1964年に角界から日本プロレス入りし東京、国際、新日本、全日本、ノアなどで活躍。コミカルなマイクパフォーマンスで人気者となり04年に引退した。通夜、告別式は遺族の意向で親族のみで執り行われる。後日、ノアとしてお別れの場を設ける予定。

 昨年の三沢光晴さんの死去に続き、プロレス界を悲報が襲った。ラッシャーさんの突然の訃報に接したノアの仲田龍GMは「三沢さんに続きプロレス界の功労者が亡くなって本当に残念としか言えない。半年前くらいに仕事の件で自宅に電話した時は元気そうだったのに…」と肩を落とした。

 関係者によれば最近は糖尿尿を患い、都内の病院で入退院を繰り返していたという。昨年6月19日の三沢さんの密葬の際には車椅子に乗り参列。「なんでオレじゃなくて社長が先に逝ってしまったんだ」と号泣していた。

 ラッシャーさんは1958年にプロレスラーになる基礎体力づくりのために角界に入門。幕下20枚目まで番付を上げたものの、「十両に上がったら辞められなくなる」と突然廃業。64年に日本プロレス入門した。東京、国際プロレスを経て、アニマル浜口らと新日本に参戦した。81年9月23日の田園コロシアムの殺気立ったリングで「こんばんは…」とマイクを持って丁寧にあいさつしたことがファンに受け、ユーモラスなマイクパフォーマンスで一躍人気者になった。84年に全日本へ移籍した後もそのとぼけたキャラクターでファンの支持を広げた。

 全日本では最初は故ジャイアント馬場さんと敵対していたが、88年の世界最強タッグ決定リーグ戦で馬場さんのことを「アニキ」と呼び「義兄弟タッグ」を結成。さらに永源遙(現在ノアの営業)率いる「悪役商会」とユーモアたっぷりな試合を展開した。

 馬場さんが亡くなった後、00年のノア立ち上げメンバーに参加。還暦を過ぎてもリングに立ち続けたが、03年3月の日本武道館大会を最後に体調不良で長期欠場を余儀なくされた。復帰を目指してリハビリに取り組んだものの、転倒して腰を痛打。復帰を断念して04年7月10日の東京ドーム大会で引退発表した。その時のビデオレターでは「本当に、本当に、長い間、ご声援ありがとうございました。ごきげんよう、さようなら」とラッシャー節で締めくくりマイクを置いた。

 通夜・告別式は親族だけの密葬となるが、仲田GMは「ファンに記帳などしてもらえるようなことも考えたい」と追悼興行やファンによるお別れの場などを設ける予定。きょう25日の富山大会で故人の冥福を祈り10カウントが鳴らされる。


本来は昨日書いておくべきだったのだけれど、いろいろな感情が入り交じりすぎて、なかなかまとまらず…。

そうか…。
ラッシャー木村が引退を表明してから、もう6年の月日が経つのか…。

おいらにとってのラッシャー木村は、プロレスを覚えたのが1981年、小学校1年の頃だったから、当時としてもかなりのませガキの部類に入るだろう。
金曜8時にテレビにかじりついていた頃は、既にタイガー・ジェット・シンは新日におらず、たまたま土曜日夕方5時15分頃にテレビを付けたら、「次週のカード 馬場vsシン、鶴田vs上田」なんていう、緑色のあの独特の書体でスーパーを見た記憶だけがやたら強烈に覚えているので、ブッチャーが新日本に電撃移籍をした後…ということになる。
ということは、タイガーマスクはもちろんのこと、ハンセン対アンドレの超ド級の一騎打ちの田園コロシアムでの、ラッシャー木村の「こんばんは」事件も、テレビにかじりついて見ていたはずなのだけれど、覚えたての頃は、要は選手が戦ってわーわーやっていればそれで満足していたのだし、ましてや小学校1年のガキが、プロレスの何たるかなど知る由もなく、生憎と記憶にはない。
田園コロシアムで、国際プロレス解散で流れ着いた、ラッシャー木村率いる国際血盟軍とアントニオ猪木の抗争が始まったので、おそらく記憶にあるのはそれ以後ということになるだろう。
なぜに覚えているかといえば、この抗争が始まった頃、中継が始まったら、週替わりでお互いにとっかえひっかえ流血していたという、ませガキにもひじょ~に分かりやすい展開になっていたのが、なぜかやたらと記憶に残っているのだ。
「こんばんは」事件は、ファンの皆様にきちんと挨拶をしなければならないと思ったラッシャーの人柄が、当時のプロレスファンには別の意味で衝撃を与えてしまい、新日では結局猪木の引き立て役に終わってしまったところ、全日で馬場という絶好の「口撃相手」を見つけてから、だんだんとファミリー軍団での枠組みに終始していって、いつの間にやら、ポジションは必ず休憩前、ラッシャーのマイクで場内が少々暖まったところで休憩タイムという、水戸黄門やタイムボカンも真っ青の、芸術的とも言えるお約束の形が出来上がった。
全日からノアに移り、ラッシャーも年を取り、そういえばなかなか試合の姿を見ることが無くなったと思ったら、2004年7月の、ノア東京ドーム大会で、ビデオレターという形で引退宣言を行ったラッシャー木村さん。
それからは表舞台には一切出ることはなく、ビデオレターも病床で撮られたものであったので、病気で苦労されているのかな…とは思ったのだが…。

もし、おいらがラッシャーさんに、プロレスで取材できる立場であったとしたならば、オフレコでもいいから、一つだけ聞きたかったことがある。
1978年2月、蔵前国技館で行われた、ジャイアント馬場との一騎打ちで、馬場に4の字固めをかけられたまま、半身をエプロンサイドへ出し、普通ならロープエスケープを取られたところ、なぜかメインレフェリーの芳の里さんも、サブレフェリーのジョー樋口もマンモス鈴木も、どういうワケか4の字がかかったままエプロンで宙づりになっているラッシャー木村のリングアウト負けを宣告した謎裁定。
ありゃあ一体なんだったんだと。
まあ、実況陣の倉持アナも山田隆さんも、「ラッシャーはロープエスケープを主張しているようですがイマイチ意味が分かりませんねえ」などとすっとぼけたことを言っているので、おおよその察しはつくってーもんですが(笑)。
YouTubeにも当時の映像がアップされているのだけれど、マイクサイドで「馬場!カネ返せ!!」って叫びまくってるガキがうざいww
いや、ガキが国際プロレス陣営を応援していたなら、そう叫ぶのは道理も道理だろうが。

おいらが生でプロレスを観るようになった頃には、「試合後にマイクを持ってしゃべるのが仕事」というポジションに落ち着いていたけれど、猪木や馬場と渡り合った戦いぶりは、忘れることはないでしょう。

今頃ラッシャーさんは、天国で「馬場コノヤローテメー!!手土産に博多人形買ってきてやったぞコノヤロー!!」なんて言ってるんですかね。

ラッシャー木村さん、お疲れ様でした。
ごゆっくりお休み下さい。
ラッシャー木村さんのご冥福をお祈り致します…。

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2 コメント

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ラッシャー木村といえば (km_zap)
2010-05-26 00:46:06
猪木との軍団抗争、
1vs3のハンディキャップマッチが思い出されます。
猪木がロープに宙吊りになる形でリングアウト負けしたのは、
子供心に悔しかったなあ(苦笑)

東金中に全日を見に行った時にマイクパフォーマンスを初めて生で観て、
おおーと感動したのが高校生の頃。場内に響くマイクコール。
何もかもが懐かしい・・・

謹んでご冥福をお祈り致します。
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懐かしいですね (小馬太郎兵衛)
2010-05-26 02:17:52
あの頃は、全国津々浦々にいても、何年に一度かはプロレスが近所にやって来ていた時代だったんですよね。
今も全国巡業という形が取れるのは、ノアと新日全日の3団体だけですね。他にもあったらすいませんが。

私が生でプロレスを観るようになった頃は、ラッシャーさんのマイクも、テレビでやっていた頃より随分おとなしくなっていた時分でした。
それでも、状態が暖まるには十分でした。
ごゆっくりお休み下さい…。
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