Crónica de los mudos

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ガルシア・マルケス『百年の孤独』9

2024-07-17 | 北中米・カリブ
 この小説の話型のひとつに早い段階であらかじめ「~年後にこういうことがおきることになる」という予告がなされて、それが続く章でつぶさに語られてゆくというものがある。分かりやすいのが1と6の冒頭だろう。1では例の氷を観に行った午後の話で、それ自体は1の終わりに情報開示されるが、アウレリアーノが処刑される場はなかなか出てこない。次に6の冒頭でアウレリアーノが処刑も含めて様々な修羅場を生き延びたということがわずか1ページのなかで説明されているが、それが6~8にかけての3パートでじわじわ解明されていったという流れでここまで来ている。まだ分かっていないのはネールランディア降伏の調印で彼が自殺を試みた原因である。
 私はこの話型を見ていて、新聞をはじめとするジャーナリズムの見出しと概要を思い浮かべた。もうすぐなくなる新聞という文字媒体にも話型がある。まず大きな閲覧による情報収集に適した見出しで、たとえばトランプ暗殺未遂などはいまでも1面のうえにでかでかと見出しが現れる。私は『毎日新聞』を講読し続けているが(大阪日日新聞は廃刊になった)、必ずすべてに目を通すのはこの見出しだけで、中身はほとんど読んでいない。
 では何を読むかというと、当然ながら気になる見出しの記事であるが、大記事には必ず3~4行の概要があって、まさに文章要旨とはこういうものを指すというお手本だ。そこで記事内容のだいたいの骨格が分かるが、たとえば撃った犯人は誰だとか、どういう場所で起きた事件なのかといった詳細は先を読まないと分からない。
 それとよく似た話型だと思うが、これは小説なのでそこに時間という別の要素も絡んでくる。つまり小出しにされた情報が開示されてゆくタイミングに自律的なリズムがあって、それが物語としての強度を創り出しているのである。新聞記事は物語ではないので、このような小説特有の多面的で持続的な情報展開に伴う「読みの快楽」は味わえない。
 ただ、この小説の情報展開は、たとえばバルガス・ジョサのような複数の互いに無関係に見えるストーリーを同時に展開させて終盤で結合させる、あるいは語り手の正体が意図的に隠蔽されているといった、いわゆる難読を強いる凝った仕掛けとは言えず、この小説で読者が抱く謎は(ホセ・アルカディオの死を除けば)ページを追いかけるうちに容易に解明されてゆく類のもので、だからこそ私はこの有名な小説を読みかけて途中で何度も挫折した、とこっちが頼んでもいないのに敢えて自己申告してくる人々の気持ちがよく理解できずにいるのだが、それはおそらく語り口、リズムの問題であろうか、挫折するのはこういう小出し反復のリズムになじめない「毎回毎回情報の全面開示を要求する」という怖い市民オンブズマンみたいな人たちなのかもしれない。
 知らんけど。
 さて9章。
 題をつけるなら「迷宮のアウレリアーノ」でしょうか。
 中心人物なきこの作品にあって例外的に多くのページを割かれているアウレリアーノ・ブエンディーアがラテンアメリカ史における「闘争と挫折の人」の系譜を一身に担っていることはすでに見てきたとおりである。内戦の行く末が不毛しかないことがあらかた見えてきて、盟友のヘリネルド・マルケスはすでに空虚感を覚えたりしているわけだが、武装闘争という麻薬的な状況に居ついてしまっているアウレリアーノは関西弁でいうところのドツボにはまってしまっている。
 このヘリネルドは、もうそろそろ年齢的に自分も年貢の納め時であるから、あのヤヤコシイ女、つまり親友の妹のアマランタを嫁にもらってのんびり暮らそうと考えているという、マコンドでは数少ない「まともな大人」のひとりである。ところがアマランタは例のアマランタのままなので、彼のことを好きにはなれないが一緒にいないと困るという、世界中の誰もが「アマランタ、いい加減にしろ!」と叫びたくなる場面がまたもや展開する。
 アマランタがブエンディーア家から出ていく方法はふたつあって、ひとつは結婚という形での離脱、もうひとつは職業人となって経済的な自立を試みることであるが、もうお分かりのように後者の選択肢などまずありえない環境がマコンドであるから手段としては実質前者しかない。だから好きだの嫌いだの言わずにくじ引きか何かで旦那を選んで出ていけばいいのにそうしない。なぜでしょうか。ブエンディーア家はベルナルダ・アルバの家や三人姉妹の家や人形の家と同じなのでしょうか。ガルシア・マルケスはなぜここまでアマランタをいびるのでしょうか。アマランタにとってこの家はどういう場所なのだろう、ということを、このあいだ教室で考えていた。
 ちなみに9-5から9-6にかけて孤独という語が二回出てくる。まずマルケスの求婚を断ったアマランタが<自らの頑固さという耐え難い重みに疲れ果て、へこたれない求婚者に最後の返事を言い渡すと、死ぬまで自らの孤独を泣くべく寝室に閉じこもってしまった(9-5)>。気落ちしたマルケス(作者じゃなくてヘリネルドね)は彼女の兄アウレリアーノに電話をして窮状を訴える。<会話が終わるとヘリネルド・マルケス大佐は荒涼とした街並みとアーモンドの木が濡れて光るのを見つめて、それから孤独に迷う自分の姿を見いだした(9-7)>。感傷的になったマルケスは<マコンドに雨が降っている(9ー8)>と、作者初期の短編「マコンドに降る雨をみているイサベルの独白」を思わせる台詞をはくのだが、アウレリアーノに、なに言ってんだお前、と相手にされず、がっくり。
 いっぽうのアウレリアーノは完全に煮詰まっていた。
 彼が煮詰まっているのはラテンアメリカ史の煮詰まり具合とほぼ同じである。9-13あたりの描写がとても面白いので精読してもらいたいが、ここで思い起こしておきたいのはこの地域の歴史における政治、というより利権をめぐる抗争が、常に土地をめぐってなされてきたいう事実である。俗にいう、ゲリラと独裁者とテロリストが火花を散らし合って、男女はいつも恋にふけり、老若男女みな道でサルサを踊っている……とかいうのはすべて妄言とデマであり、この地域の各国には憲法の骨格の下での保守とリベラルによる民主的対立軸が200年以上も安定して存在する、ただしスペインという厄介な国が300年間の植民地期の負の遺産として遺していった冨の格差があって、ここでいう「富」というのは資本の蓄積ではなく一部の白人富裕層(これが主として保守を形成する)とカトリック教会という二大勢力に占有された「土地」がもっぱらであり、これが解消されないまま長らく様々な経済活動が停滞している、20世紀になるとアメリカなどのグローバルパワーがこの地域に大きく関与してくるのも見逃せない(これはこの小説のバナナ会社のエピソードとして後半に顕在化)というのが大まかな正しい理解である。アウレリアーノはこの格差解消をマコンドを取り舞く(たぶんコロンビアのような)ひとつの国単位で試みていて、武装闘争ではそれがかなり成功に近づいているのだが、彼以外のそれこそ「みんな」はそろそろ戦争を終わらせたいので利害調整に入ってきている。つまり大人の連中が(というより有象無象だと書かれていますけど)紛争を収めて通常政治(というよりただの腐敗と妥協の日常ですが)にソフトランディングさせようとする段階になって、闘う男はすっかり煮詰まってしまったのだ。
 シモン・ボリーバル以来、独立したはいいけれど、植民地時代の負の遺産をどう解消しようかと考えてあれこれした末に、やっぱこいつらとは無理やな……となっていった男たち、その過去の煮詰まりのすべてがアウレリアーノに重くのしかかってくる。ヘリネルドが指摘するまでもなくアウレリアーノは<体のなかから腐りかけて(9-15)>いたのである。やはりアウレリアーノの抱えた孤独とは、もちろんアマランタやヘリネルドのそれとはかなり異質で、より社会的で共同体的で歴史記憶的な孤独であると言えるだろう。彼はこの章で書き溜めた末にもはや五巻にもなっていた自筆の詩をやいてしまう。闘う男は文学者でもあったわけだが、そういう男が詩を焼くというのがいかに自暴自棄であるか、この地域の文学をある程度知っていれば誰にでもわかるだろう。
 そして危うく親友をも裏切りかけたアウレリアーノは<カウディージョどもの血で血を洗う抗争(9-71)>にまで堕した革命にも絶望し、降伏条約調印の直後に自らの胸に銃弾を撃ち込むのである。
 といってもこの小説は人物の内面にアディクトしない、というよりほとんど内面の変化などを書かないので、この自殺未遂の場面も決してじめじめしてはいない。むしろコミカルですらあり、逆にそれゆえ、彼がなぜそこまで思いつめたのかを私なんかはくどくどしく考えてしまった。
 さて、ここで大きな区切りがあると私は考えている。
 ちょうどページも小説の中心あたり。
 なので次の10章のうえには鉛筆書きで(最初に読んだ時なのでもう30年前になるでしょうか)第二部と書いてある。そうだよな、正しい見立てだよ、と30年前の自分に言いたくなる。
 そして、この9章から「無垢の白痴」ともいえる天上的生物、あのレメディオスが前面に現れるようになった。このスペイン語の Remedios la bella は長らくわが国で小町娘のレメディオスとして知られてきた。過去に何度か学生諸君に代替訳を考えてもらったが、どれもこれもしっくりこない。英訳はきっと Remedios the beauty であろう、パラフレーズできる横文字はいいよなあ。皆さんはどうしたらいいと思われるでしょうか。これだけは永遠に小町娘のままでいいでしょうかね。個人的にはあかんと思ってますけど。
(前期のゼミが終わったのでブログのこの企画も10月までお休みです。)