Crónica de los mudos

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ガルシア・マルケス『百年の孤独』8

2024-07-09 | 北中米・カリブ
 籐のロッキングチェアに座ったアマランタはしかけた刺繡を膝に乗せ、頬にシャボンを塗りたくったアウレリアーノ・ホセが初めての髭剃りをすべく剃刀をバナナの房で研ぐ様子を見つめていた。彼はニキビから血を流し、生えたばかりの金髪の口髭を整えようとして上唇を切り、結局は前と同じ姿になったが、その念入りな仕事はアマランタにその瞬間から自分が老い始めたという印象を残した。
 「あなたのころのアウレリアーノにそっくりね」と彼女は言った。「もうすっかり大人になって」(8-1、2)

 アウレリアーノ・ホセは大佐とピラール・テルネーラの息子。嫡子のいない異常事態に直面している(はずなのに、なぜか誰もそれを問題視しないという意味ではとても善良な)ブエンディーア家のなかでは、娼婦の子ではあるけれど、いちおう男系の希望の星といってもいい立場にある。父親違いの兄アルカディオは前章で死んでしまった。アルカディオとサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダ(名前、長っ!)のあいだには双子の兄弟とレメディオスという母親譲りの美しい子の3人が生まれているので、こちらにもいちおう男子は残ったけれど、アウレリアーノ・ホセにも期待したいところである、私がブエンディーア家のオッサンのひとりなら。
 この冒頭のスペイン語で気になったのが penca という語で、アウレリアーノ・ホセはこれで剃刀を研いでいる。バナナの房という意味なのだが、果たしてバナナの房で剃刀を研げるだろうか。きっとこれは食用のプランテン・バナナで青いやつだろう。ペルー等でもふつうに副菜として揚げたバナナを見かけるが、あれの生のものなのかもしれない。
 さて甥っ子をふと見ながら老いを感じるアマランタ、この小説のなかでも特筆して困った女と言える彼女であるが、状況から察するにこの時点で30代半ば、甥っ子は高校生という感じでしょうか。彼女は子どものころに家に引き取られた甥っ子を母親代わりに見守ってきて、お風呂にも入るなど親密な仲を築いてきたが、甥っ子が第二次性徴を迎えるころになって困ったことになる。

アウレリアーノ・ホセは居間の時計が十二時のワルツを鳴らさないいうちは眠れなくなり、肌の衰え始めた熟練の処女は自分が育てたその夢遊病者が蚊帳のなかに潜り込んでくるのを感じないうちは片時も心の平安を得られぬようになり、それが自らの孤独の緩和剤であるなどとは思いもしなかった。(8-3)

ガルシア・マルケスが madura doncella と称しているようにアマランタはそれなりの性欲を抱いているにもかかわらず(だから甥の肉体にも反応する)公式の性行為(つまり結婚)をしないという状況に居ついてしまっていて、すでにそれが円熟の領域にさしかかっている。もちろんセックスや結婚を拒否する女というこうしたステレオタイプ化はこれまでも相当に問題視されてきていると思うが、この小説のフェミニズム的観点からの批判的な読みについてはその種の研究にお任せすることにして、家父長制度という建付けに照らしわせて彼女の孤独を考えてみたとき、アマランタが決してブエンディーアという家を去って違う家の一員になろうとしないのはなぜだろうという疑問がわいてくる。彼女に限らずレベーカもよく刺繍をするが、おそらくフロイト的にはこれまた性欲解消のシンボルなのであろう。しかしそれはまたひとつのラボール、ひとつの家庭内仕事であって、彼女が非家父長的環境にいてふつうの職業人として大人になっていれば、セックスをしようがしなかろうがそのラボールかそれに代わる社会活動をすることで自由に生きていることだろう。アマランタは、実は、男どもが愚かすぎるためにまともに機能しなくなっているブエンディーアという家の家父長制的建付けが自律的に生き延びるために犠牲者としてこうなっている、つまり家父長制という呪いを一身に受けてそれを体現している存在だと言えるかもしれない。
 知らんけど。
 さて、一番身近にいた異性のおばさんと不毛ないちゃつきをするうちに<突然の孤独(8-3)>に襲われたアウレリアーノ・ホセは(男どものご多分にもれず)マコンドの岡場所(つまり娼館)カタリノの店に通うようになり、それなりに大人になっていく。
 そしてマコンドを取り巻く沼地の国ではアウレリアーノ大佐率いるリベラル派が優勢になっていき、彼の活躍がヘリネルド・マルケスら盟友を通じてマコンドにも伝わるようになってくる。

アウレリアーノ・ブエンディーア大佐は生きていたが、どうやら自国政府を攻撃するのは諦めて、カリブのその他の共和国で優勢になっていた連邦派に加わっているようだった。彼は古郷からますます遠く離れたところでいろいろな名前で出没していた。そのころ彼を奮い立たせていた考えが中央アメリカ連邦派の統合とアラスカからパタゴニアまでの保守派体制打倒であったことが、やがて知られるようになる。(8-6)

やはりアウレリアーノ大佐はフランシスコ・モラサンであり、ミランダであり、ボリーバルなのである。独立革命時にアメリカ合衆国的な規模の連邦制をそれぞれ模索して失敗した人たちのすべての霊魂を寄せ集めてフィデル・カストロの味付けをした男、それがアウレリアーノだと考えて間違いないだろう。
 なぜフィデルの味付けか?
 それはこの章で粛清が描かれているからだ。
 マコンドには保守派の将軍、といっても軍を嫌う民間人でモンカダという町長が赴任していた。立場が異なるアウレリアーノと親友になったモンカダはマコンドから軍を一掃し、おかげでマコンドは映画館ができたりして(あとウルスラばーちゃんの尽力で!)ふたたび繁栄の時代を迎える。この間、アマランタと甥っ子がもめたり、アウレリアーノ大佐の17人の私生児がマコンドにやってきたりするが、その間、実はアウレリアーノ大佐は外国で過激化していた。
 そしてマコンドで事件が起きる。
 アウレリアーノ・ホセが保守派の兵士に撃たれて死んでしまうのだ。
 あ~あ、また嫡子が死んじゃいました。
 どーすんだ!
 と私がブエンディーアなら思います。
 さて、リベラルの暴動を恐れたモンカダ町長はやむなく軍服姿に戻って戒厳令を引くも、そこへアウレリアーノ大佐が千人の屈強な部下を連れて凱旋してくる。8-37は激変したアウレリアーノのことが子細に描かれていて大切なところだ。気づいたのはウルスラばーちゃんだが、その変化は「革命を成就させた人」に起きるもの。いまや急進左翼と化したアウレリアーノは例の兄アルカディオの土地問題を解決すべく(ラテンアメリカの急進左翼が必ず手を付ける農地改革のメタファーだろう)未亡人(にして義妹の)レベーカのもとへいき、あんたがそんな薄情者とは知らなんだ、と呆れられる。
 そして彼はいまや数少ない親友となったモンカダに死刑を宣告するのだ。

 「覚えておいてくれ」とアウレリアーノは相手に言った。「私が銃殺するんじゃない。革命が君を銃殺するのだ」
 モンカダ将軍は彼が入るのを見ても寝台から起きようともしなかった。
 「馬鹿を言うな」と彼は答えた。(8-43-45)

 この小説が書かれたのは1967年。思えば革命キューバの影の部分が顕在化する数年前のことである。パディージャ事件後もガルシア・マルケスはキューバとカストロを支持し続けたことで知られるが、政治的立場とは別に文学は文学なりの真実を語ってしまう。よきことを成し遂げようとした男がかつての輝きを失ってひとりの意志もない殺人者と化してしまう現実をこんな数ページに圧縮してしまうのだ。
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