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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

 「日本の大地震」  中国に住む友人から

2011-03-16 11:34:27 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

昨日はカツヨシさんが編集した「きいちご」7号が印刷所から届いたので直ちに発送作業を行いました。5月の「きいちご移動教室」の案内を
同封しました。
 私たちは未曾有の災害と経験したことのない原発事故のただ中にいます。中国や北朝鮮から帰国・来日した人々には不安も大きいのでは
ないかと思われます。移動教室は2ヶ月後ですが、安曇野(あずみの)への旅がみんなの心をつなげればいいなあ。

 今朝は川越でも停電がありました。トランジスターラジオで肉親や知友の消息を訪ねる番組を聞いていました。かつて訪ねたことの
ある三陸海岸の町や村の名が頻繁に出てきます。どこも津波で大打撃を受けました。尋ねた人にやがて朗報がもたらされることを祈るばかりです。
 
 我が家では7月24日以降はTVは見られなくなるはずです。今日は一足先にラジオの時代に帰った感じでした。
子どもの時に聞いたNHKの「尋ね人の時間」を思い出しました。旧「満州」や朝鮮の地名が頻繁に出てきました。中国大陸や朝鮮半島で生き別れた
肉親や知友の消息を尋ねる番組だったのです。そのころには電波も届かず、「日本」からはうち捨てられていた「残留孤児」の消息が分かるようになっ
たのは80年代も半ばを過ぎてからでした。北朝鮮に遺された人々の消息は今なお不明です。「日本」はこれらの人々を見捨てたママなのです。
拉致被害者とともに「北朝鮮残留日本人」の救出は喫緊の課題であるはずなのに日本の政府も国民も知らん顔を続けています。


 中国で日本語指導に従事している旧同僚の甲野さんからメールをもらいました。勝手ながら紹介します。

みなさんへ

福建省龍岩の甲野です。

地震から5日がたち、事態はよくならずに悪くなっているよう見えます。

地震、その後の津波、火災と死者・行くえ不明者が万を越えるとの報道に悄然と
しています。

そして、「世界一安全な原発」と言っていた福島原発の状況は悲惨としか言えま
せん。

「安全神話」をねつ造し、「災害の想定レベルが低いのではないか」という指摘批判を
無視してきた東電・政府の姿勢は「罪」としか言いえない。

当地・中国においてはリアルタイムで報道されています。地震を最初に知ったの
もTVでです。

また今回の地震でNHKラジオをライブで聴くようになりました。
日本で報道されていることはこちらでも詳細に知ることができます。
しかし、知ることはが出来ても何も出来ぬ悲しさに襲われています。

中国CCTVでは、特別報道、特別番組を連日報道しています。

過去三日間の映像ダイジェストに、鎮魂曲をバックに流し、ナレーションなしで
放映したりしていました。深い悲しみを感じさせます。

TVの報道は送れませんが、インターネットの中にある番組を紹介します。
土豆網というネットサイトです。

レクイエムではなく“We are the world”がバックです。

http://www.tudou.com/programs/view/xh09V41-CUg/

インターネットの書き込みでは、ほぼ90%以上が「日本、頑張れ」といったものです。
中には「右翼・軍国主義者を除いた善良な日本人頑張れ」なんてのもありますが。

どこかの馬鹿な知事が言ったように「日本人に対する天罰だ」との書き込みもあ
りますが、極めて少数で例外的です。

書き込みの「反日的なもの」は削除されているのかも知れませんし、

CCTVのレクイエムを流しての番組などある種胡散臭さを感じはしますが、

やはり中国人に対してだけでなく、日本へのメッセージであることは間違いない
でしょう。

原発の今後が悲しい方向に進まぬよう祈るばかりですが、
日本のみなさん、踏ん張って下さい。
祈るばかりです。

                                                 福建省龍岩市 甲野信夫

 

●グーグルの地震情報http://www.google.com/crisisresponse/japanquake2011.html


上関(かみのせき)原発工事は中止せよ

2011-03-15 08:59:09 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

我が家では、昨日予定されていた「計画停電」は結局実施されず、日常の生活に終始しました。

地震と大津波による被害の全貌が次第に明らかになりつつあります。一昨年、息子夫婦と訪ねた石巻の惨状がTVに映し出されるようになり、言葉を失ってしまいます。海の幸を心ゆくまで食べさせてくれた「水澤屋旅館」の消息は分かりません。

 福島原発の危機が次々と拡大し、人々を不安のただ中にたたき落としているというのに、中国電力はこの日も上関原発の建設工事を続けようとしたといいます。

 ●上関原発http://stop-kaminoseki.net/

 さすがに山口県知事が「工事中断」を要望したということですが、中国電力の社長には人としての判断能力が備わっているのでしょうか。

この数日来の出来事は大地震大津波に直面して人間の手で原発をコントロールすることが不可能であることをはっきりと教えてくれました。今までも繰り返し指摘されてきたことが誰の目にも明らかになったのです。

 福島原発がどのような結末を迎えるか、今は定かでありませんが、最悪の事態を想定してそれに備えるのが責任あるリーダーの役割です。

 上関原発工事はそのすべてを直ちに中止し、中国電力はもちろんのこと、すべての山口県民と全市民は福島原発で起きていることを注視し、「自然と人間」の関係のあり方にまで立ち返って私たちがどう生きたらよいかを議論しなければなりません。原発に頼って生きるということを続けていいのでしょうか?

 原発ゴミを受け入れることを拒否する運動の中で町長になった高知県東洋町の沢山さんのブログを紹介します。

原子力産業への弔鐘

http://sawayama.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-ba43.html

 

 

【原発爆発】
上関原発の工事中断要望 山口知事「慎重対応を」

2011.3.14 17:55

 二井関成山口県知事は14日の臨時記者会見で、同県上関町で建設計画中の上関原発について「海の埋め立てなどの準備工事の対応を極めて慎重に検討すべきだ」と中国電力に申し入れたことを明らかにした。福島第1原発の事故を受け、事実上、工事の一時中断を求めた。

 県によると、中国電力は「申し入れの趣旨を重く受け止める」と回答したという。

 県によると、上関原発は、福島原発と基本構造がほぼ同じ改良沸騰水型の軽水炉が使われる予定で、耐震性はマグニチュード(M)7・0~8・6を想定して設計されている。二井知事は「原発政策の必要性は認めるが、安全確保が大前提」とした。

 上関原発は、2012年に1号機の着工を予定。今年2月に、中断していた海面約14万平方メートルの埋め立て工事を再開していた。

 

● 出典http://sankei.jp.msn.com/life/news/110314/trd11031417560028-n1.htm


「オール5」から40年(Ⅵ)「なぜ、オール5にするか」⑤

2011-03-15 05:30:22 | 父・家族・自分

 

なぜ、オール5にするか  鈴木啓介(1971年11月『池商新聞』)

(つづき)

6 評定は将来を決め利己主義者をつくる

 評定は選別を前提としている。憲法には法の前にすべて国民は平等である等と書いてあるが、現実は差別の折り重なった社会である。利子所得だけで世界一周の旅が出来る人もあれば、四畳半一間で親子5人が暮らしている人もある。こうしたことはなぜ生じたのか。

昔は身分によってこうした差別は当然とされていたが、今は身分差別のない自由な社会だから、本人の能力次第だなどと言われている。

社会のさまざまな階層の、さまざまなポストに人間を振り分けるために能力を測定する。それが成績評定である。

中学の段階で普工商農水と何によって選別されたかを考えてみればよい。そこでの能力が自己認識の力ではなく、国家の要求する真理を受け入れる能力、つまり、真に自己と対決し、みずからの現実を打開していく能力ではなく、自らを殺し、社会の常識に従っていく能力であるに過ぎないことは前述したとおりである。

 成績評定はこうして私たちの将来を決める基準となっているのである。

 このことは、生徒のお互いを競争者として登場させる。他人を出し抜き、蹴落としていく人間を生み出していく。多様化の進む高校の中で、競争に敗れた多くの諸君が、将来に希望を失い、無気力になっていく。

 このように評定は生徒を一人一人競争者に仕立てることによってバラバラにする。利己主義者を生み出し、厳しい相互批判を不可能にする。そこから共同の学習など生まれない。

 

7 評定はデタラメである

 評定はふつうテストに基づいて行われる。

 テストによって測定することが出来る能力は、たとえば英単語を記憶する能力ぐらいではないか。いずれにせよ、テストで測れる能力というものは、人間に必要な能力のほんのわずかな部分にすぎない。

 「その限られた範囲の能力で劣っているとみなされた者、というより、他に興味があることが多すぎて、つまらぬ暗記作業などに打ち込んでいられなかった者は、お前はバカだから手作業をやれ、と、自分から希望したわけでもない各種の作業を教育として強制される。」(1971年7月3日『毎日新聞』佐藤忠男)

 ほんのわずかな部分が能力として絶対視され、それがその教科の能力として、さらにはその人間の能力として、社会の中に通用しているのだ。

 まして、一人の教師が450人もの生徒の授業を受け持っていると、採点しやすい問題を作るとかいったようなことも起こる。日常の学習意欲や態度を重んずるといってみたところで、生徒の内、名前と顔がどのくらい一致するかといえば、オソマツなものである。

 ことほどさように、現実につけられている成績はデタラメ千万なものではないのか。そんなもので、人の一生が左右されたのではたまらない。(終了)

 この論文は『池商新聞』1971年7月20日、11月8日の二号にわたって連載されたものに加筆訂正され、1972年『婦人教師』3月号(明治図書)に発表された論文をそのまま書き写しました。『池商新聞』当時の記事の見出しは「学ぶ意味を考えよ」「授業が生活をおしつぶしている」で、それぞれ編集部のリードがついています。

 

 

 

 

 


「オール5」から40年(Ⅴ)「なぜ、オール5にするか」④

2011-03-14 10:22:26 | 父・家族・自分

 

なぜ、オール5にするか  鈴木啓介(1971年11月『池商新聞』)

(つづき)

3 国家の手による人間改造 

 成績評定とは、教師が生徒を裁き、その判決を1~5の数字で、その人間に貼り付けることである。よく真理を理解したものは「5」、さまざまな理由で理解しなかったものは「1」という具合に。

 前段で述べたことを敷衍すれば、「5」とは、国家の考える真理にそれだけ近づいたと言うことであるだろう。総理大臣をはじめとする政府の役人や、国会議員、財界の首脳といった国家の中枢を動かしている人々の大部分が東大卒であるという事実は、このことを何よりも物語っているであろう。

 成績評定は、教科書に代表される国家の真理をすべての生徒に強制し、人間の頭脳を国家の思想で満たすために行われるのではないか。

 国家の真理を拒否するものには、バカ、低能、非行少年、トロツキストなどのレッテルを貼るだけでは足りなくて、「1」をつけて学園から追放さえするのである。いつも不安から抜け出せないというYさんの感想が諸君の中にあるのは、このような現実に根ざしているのだと僕は考えている。

 4 評定は教師をおごらせる

 成績評定をする権限は、教師だけに与えられている強大な権力である。(なぜ、大学を出たものだけが教師になることが出来、なぜ、そういうものだけに、こうした権力がさずけられるのだろうか?)

 その意志があれば担任しているすべてを落第させることだって出来る。ある人が現代の医師についてこう批判している。

 患者はまな板のコイだ。黙って医者の言うことを聞かざるを得ない。暴れてみても急所を握られている。強いものと弱いものの論理が働く。「センセエ」とよばれる医師の側に錯覚、おごり、思い上がりが生ずることはないか。(7月8日『朝日新聞』”ひと”)

 患者を生徒に、医師(者)を教師に置き換えてみればよい。自らの進退をかけるのでなければ、教師の真理に対する批判を行うことは出来ない。そうした中で、長いものにはまかれろ式の生活態度が形成される。

 根源的な批判を封じた後には、権力を持つもののおごりが生ずるのはいわば当然である。「生徒は何も知らないから教えてやっている」といった意識から、落第しそうな生徒を規則を甘くして「救ってやる」という意識まで、さまざまな思い上がりの意識が私たちの中に生まれる。

 そこでは、自らの教えていることが一人一人の生徒にとって、どういう意味を持つかという、真の自己認識(自己評価)はおこなえるはずがない。

 

 5 評定は真の評価を不可能にする

 評定は教師への不信を生み、許された範囲でしかものを言わない人間を作り出す。評定されることを前提にして学習活動が行われるからである。担当教師によって生徒の態度が変わる、といったことはここに起因している。

 一人一人が現実の生活に根ざす自分自身の感情や体験、信条や思想というものを思い切りぶちつけることをのぞいて、どこに学習活動があり得ようか。

 自己を客観化することを通して、自己を認識することが評価であるとするなら、さまざまな対決を内に含んだ集団討論こそが保障されなければならない。

 評定は、このように、私たちに取って是非とも必要な評価と対立する。自分たちの生活に根付かない、一方的な授業に関心が持てないのは当然である。連帯して学ぶことを邪魔するといってもよい。

 (つづく)

 

 


今朝から?輪番停電

2011-03-14 04:43:17 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

今日から輪番で停電となるそうです。パソコンで見ると私たちの住む川越市神明町は3つのグループに分かれており、我が家がどれに属するかは今に至っても分かりません。一番心配なのは冷凍庫ですが春先だから影響は少ないと妻は言っています。こんな時ですから被災地を最優先して復旧に全力を挙げて欲しい。エネルギー消費の無駄を省き、生活を見つめ直すいい機会かも。

東電は情報を全面公開し、市民の理解を得るようにつとめなければなりません。原発の事故を誰もが心配しているはずです。

 

昨日、交信した各地の友人たちの情報です。

 雅代さん(岩手県二戸市)(池商・81年卒) 12日19時頃まで停電したが被害はない。

 則子さん(荒川区)(池商・71年卒) 11日は職場から3時間かけて帰った。置物などが落ちて散乱。

 Kさん(江東区・脱北してきた方) 11日は職場から5時間かけて帰った。ついたのは一時過ぎ。家族が心配で一途に歩いた。家中散乱。

 精さん(埼玉・三郷市) 11日は学校(職場)で泊まる。自宅の本棚が倒れた。

 淑子さん(高知市・従姉) 11日に見舞いの電話をしてくれたが「通じなかった」。高知は異常なし。

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「オール5」から40年(Ⅳ)「なぜ、オール5にするか」③

2011-03-13 14:01:07 | 父・家族・自分

「2」から後は『池商新聞』11月8日号に掲載されました。教頭だった岩井利雄先生の「教育に含まれる二つの真理と評価」という論文も載っています。 

 

なぜ、オール5にするか  鈴木啓介(1971年7月『池商新聞』)

(つづき)

 2 教師の真理を打倒することこそ

 私たち教師は「真理を教える」ものとされている。真理という言葉は科学や道徳、文学等々といいかえてもよい。授業は真理の代弁者であることになっている、私の手によってすすめられる。

 もっとも、今日では私が真理だと考えることを教えることは困難である。文部省(国家)が学習指導要領というものを定め、この範囲内で教えよと私たちに強制しているからである。また、文部省が厳重な検定をした教科書を使わなければならないと法律によって強いているからでもある。何人かの教師が指導要領を逸脱して教えたというので懲戒免職になるといったこともおこっている(福岡県伝習館高校など)。つまり、教室では文部省(国家)の考える真理が教師の真理として教えられているのである。

 国家の真理とは何か?

 私はそれを今の社会で支配的な立場にいる人々にとっての真理だと思う。また、別の言い方をすれば、今の社会で多くの人に受け入れられている真理であるといってもよい。従って、そこでは、支配される人々にとっての真理は、また、今はまだ少数の人々にしか支持されていない真理はほとんど教えられることがない。

 例えば、同じようにこの学校に学んでいる在日朝鮮人の生徒諸君が私たちの想像もできないような条件の中で生きているにちがいないのだが、このような諸君にとっての真理が教えられたということがあっただろうか。朝鮮語という民族の言葉を奪われ、本名をさえ明かすことが困難な人々に、日本語のみならず、英語の学習を義務づけ、朝鮮への侵略をなんら反省することのない日本史を強制してきたのではなかったか。

 在日朝鮮人だけではない。身分差別に苦しむ被差別の人々、「本土」の差別政策のもとに呻吟してきた沖縄の人々、いや、それだけではない。朝から晩まで自分の労働力を売り続けなければ生きていくことの出来ない、私たちの父や母、祖父や祖母、兄や姉、それに私たち自身の苦しみや悲しみ、怒りや喜びを表現する力や、現状を打ち破って人間として生き抜いていく能力を形成していくなにかを教えてきたといえるだろうか。

 私はそれなりに国家の思想からは自由であるつもりで何年かを教師として生きてきた。教科書をそのままに教えるということはたしかにしなかった。それなりに生徒とともに考えるというあり方をしてきたであろう。

 しかし、今、諸君を前にして、私に教えることなど何もないと考える。

 私の身につけてきた学問や思想は、つまり、真理は、公害を生み出す企業の生産第一主義に荷担してきたそれらと本質的にかわるものでないことを自覚してきたからである。平和と民主主義の精神を教えると言いながら、朝鮮人の諸君の苦悩にみちた問いを今なお自らのものとなしえていないのである。

 私は、国家から自立しているつもりでいたが、決してそうではなかったのである。国家のほどこす初中等教育をうけ、さらに国立大学にまで学んだ(働く人々からそれだけ遠く自らを隔離した)人間が、そんなに簡単に、国家から自立など出来るはずはないのである。

多くの諸君が学校生活、なかんずく、授業に意欲を燃やせないのは、そこに自分たちのありのままの生活を持ち込むことが出来ず、一方的に教師の真理をのべたてられるからではないのか。

 授業と生活がかけ離れているだけでなく、授業と生活が対立しているのである。学校へ来るときは、生活の服を脱いで、学生服を着てくるなどという慣習はそうした現実の象徴であろう。

 公害問題に見られるように、既成の価値観では現状を打ち破っていくことが出来ないような現在、私たちにとって一番重要なことは、一人一人が価値観を創造することではないか。

 そのためには、わたしたち一人一人の生活を見つめ、苦しみや、怒りや、悲しみや、喜びをお互いにぶちつけることである。

 私は、教師として『資本主義の原理』などという講義をしているが、ここで述べる私の真理を、諸君が体験に基づいて、打ち砕くことである。資本主義の現実を一番よく知っているのは、汗水たらして働く人々なのだ。諸君は何よりもそうした人々に学び、私のように、言葉で学んできたものの真理を打ち倒すことがなければ、現実の問題は何一つ解決することが出来ないだろう。

 私が教師であり続けようとするのは、諸君の手によって、打ち倒されることによって、私自身も、新しい真理に到達できると確信するからである。(つづく)


今夕、「原子力資料情報室」が記者会見 中継あり

2011-03-13 10:03:16 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

この何十年来、危惧されてきた原発(原子力発電所)の危機が日本でも現実のものになりました。地震の多い列島です。ほんとうに大丈夫なのか?誰もが心配してきたことです。

 福島第一原発・一号炉、三号炉で「炉心溶融」事故が発生し、海水での冷却が始まったようです。「廃炉」になることを恐れて海水冷却に踏み切るのが遅れたとも聞きます。政府や東電の発表・説明はもどかしく、何を言っているのか、僕にはわかりにくいのが現実です。

 この問題にずうっと取り組んできた故・高木仁三郎さんが遺した「原子力資料情報室」の存在を思い出しました。

 HPに記者会見のお知らせが載っています。昨夜の会見の様子も見られるようです。東電と政府は情報を100%、迅速に公開し、全市民の協力を得てこの危機を切り抜けなければなりません。

 女川原発(宮城県)など他の原発はどうなっているのでしょう。未曾有の天災です。いったん、運転を止めて様子を見るべきではないかと、素人は思うのですが。記者会見を聞いてみたいと思います。

 

 

 一般 : 3/13(第2回)福島原発に関する原子力資料情報室 記者会見

投稿者: 原子力資料情報室 投稿日時: 2011/3/13 0:28:28 (4339 ヒット)

特定非営利活動法人原子力資料情報室

2011年3月13日17:00より
(第2回)福島原発に関する原子力資料情報室 記者会見

福島原発に関する記者会見(第2回)を3月13日17:00より行います。ぜひご取材ください。

また、ビデオニュース・ドットコム( http://www.videonews.com/ )および岩上チャンネル( http://iwakamiyasumi.com/ )によるUstream中継で記者会見をご覧いただけます。

「福島第一、第二原子力発電所の10機の原子力発電所で、いったい何が起こっているのか。今後どんな危険性が迫っているのか。政府・東京電力は、事故状況の詳細について公表せず、「専門家」のコメントも的はずれと感じませんか。
私たちは、原子力発電所の設計を行っていた技術者も交えて、原子力発電所の基本的な仕組みや設計方法から、福島の原発の深刻な状況、今後の安全確保対策等の問題について、詳しくお話させていただきます。」(12日の記者会見の案内文より)


【発言者】(予定) 
上澤 千尋(原子力資料情報室・原子力安全問題担当)
後藤 政志(柴田 宏行) 東芝・元原子炉格納容器設計者
海渡 雄一(弁護士・浜岡原子力発電所運転差止弁護団)
伴  英幸(原子力資料情報室・共同代表)

【記者会見会場】
原子力資料情報室
〒162-0065 東京都新宿区住吉町8-5曙橋コーポ2階B
http://www.cnic.jp/map.html

★ビデオニュース・ドットコム( http://www.videonews.com/ )
および岩上チャンネル( http://iwakamiyasumi.com/ )でUstream中継で記者会見をご覧いただけます。

【主催】
特定非営利活動法人原子力資料情報室

【問合せ】
原子力資料情報室 http://www.cnic.jp/  
住所:〒162-0065 東京都新宿区住吉町8-5曙橋コーポ2階B
電話:03-3357-3800 FAX:03-3357-3801



2013年3月12日20:00~行いました記者会見の録画を下記サイトからごらんいただけます。
○videonews.com
http://www.ustream.tv/recorded/13269582

○岩上安身チャンネル
(前編はインタビューです。その後記者会見)
http://www.ustream.tv/recorded/13269017



●原子力資料情報室 http://cnic.jp/modules/news/


「荒浜の壊滅」を聞く  大地震・おお津波

2011-03-12 11:22:30 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

昨日の地震は69年の人生で初めて体験する「大地震」でした。2階の部屋で昼寝中でした。起きて、柱につかまりながら時の過ぎゆくのを待ちました。

 時とともに揺れが大きくなり、この家が空中分解する時がついに来たのかと思いました。

この家は1971年3月に買った建て売りです。ちょうど40年になります。埋め立てた田んぼの上の「掘っ立て小屋」のようなものです。地震対策で定年時に退職金を奮発して補強することを考えたのですが大工さんから断られました。あまりにもざっとした造りで補強のしようがないのです。

 大きな揺れは3,4分は続いたでしょう。横揺れの大きさの割には本棚の本も落ちません。空中分解も免れました。2階にいたせいか、比較的冷静でした。空中分解しても、ざっとした造りなどで「圧死」する要素は少ないのです。

 二階の階段の踊り場の壁がはがれたのが最大の被害です。あとは食器戸棚のワイングラスが一個破損しただけです。

とりあえず、たいしたことがなく、「助かったなあ」という感じです。

近所でも大きな被害はありませんが裏の家の瓦屋根が破損しています。岩手県と福島県の出身の隣人が故郷の親戚の心配をしていますが電話が通じないとのことです。

TVが報じる東北沿岸各地の映像を見続けました。阿武隈川河口地区や名取川河口地区に津波が押し寄せて来るのをリアルタイムで見ました。このあたりは05年3月に訪ねたところです。白石から阿武隈川を下り、河口部の鳥の海に寄ったあと、伊達政宗が掘らせたという「貞山堀」(じょうざん堀)をたどって仙台にまでいきました。

http://www.youtube.com/watch?v=NrQ9vkZlC-c

このあたりの村という村が壊滅したといいます。27日は「閖上」(ゆりあげ)という珍しい地名のところで泊まりました。閖上もただではすまなかったはずです。28日、貞山堀の藤塚という港で「建築板金」の嶺岸さんという方にあれこれと教えてもらいました。荒浜から仙台に向かいました。ここで浜に出て海を眺めました。北から南までどこまでも砂浜が続いている単調な海岸です。この荒浜に200人以上の遺体が放置されたままだと言います。

福島県の小名浜から「原発通り」を通って、相馬に抜ける海沿いの道も99年12月以来、何度か訪ねました。お隣の奥さんの故郷は浪江で、この通りにあります。相馬地方の集落の「壊滅」と福島原発の危機が伝えられています。

未曾有の大地震だといいます。高度成長期以後半世紀の間に作られた堅牢な防潮堤も自然の脅威の前には役に立たなかったのでしょう。今はただ、救出を待つ人が一人でも多く助け出されることを祈るばかりです。

 東京の学校に勤めるカツヨシさんと精さんは昨夜、学校で泊まったということです。けさがた、地震があった長野県木島平村の高山さんとも連絡が取れました。無事、元気で何よりです。(正午過ぎ)

 

 


巨大地震 お見舞い

2011-03-11 17:58:35 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

川越市の鈴木啓介です。

我が家でも「大揺れ」を初めて体験しました。義母宅を含め被害はありません。関東大震災を体験した義母は落ち着いたものでした。

各地との電話は通じません。東北など各地の人々の無事を祈ります。 11日18時

夜になって横浜駅西口に近い息子から電話がありました。自宅も「BAR招福堂」も被害はないとのことです。20時50分


「都教委の処分は職権濫用」 原告が逆転勝訴 

2011-03-11 07:05:24 | こどもたち 学校 教育

昨日、東京高裁が卒業式で君が代の強制に従わなかった教職員を懲戒処分にしたのは職権濫用で取り消せという判決を出しました。都教委の命令そのものは「合憲」とお墨付きを与えたのですから、「原告勝訴」と喜んでばかりはいられません。

 しかし、友人たちの良心に基づく、やむにやまれぬ行動を正当なものと認め、処分は不当と判決しました。これは原告たちの長年の闘いが独善的なものではなく、民主主義と人権の確立・擁護に寄与してきたことを裁判所も認めざるを得なかったことを示しています。

 学校を上意下達の権力機関に再編してしまった石原都政にこの判決が打撃を与えることが出来るかどうかは未知数です。教育委員会は上告し、その姿勢はますますかたくなになるかもしれません。

 石原知事は今日、四選出馬を表明すると伝えられています。石原路線を死守したいと頑張るつもりでしょう。

 これからが勝負時です。民主主義と人権の確立・擁護を目指す人々がイデオロギー的な偏向・呪縛から自らを解放し、より広範な市民の支持を獲得出来るかどうか。それがカギだと僕は思います。

 昨日は土肥隆一という人が醜態をさらし、石原支持勢力を大いに鼓舞しました。こんな人に権力を任せられないというのはごく自然なことです。

 「贖罪意識」に絡み取られ、歴史と現実をありのままにとらえられなくなった人の犯す取りかえしのつかない誤りです。左派の友人たちの多くに同質の弱点があります。

 都知事選挙を前にして、「民主主義と人権」を旗印とする市民派は石原知事に対抗できる候補を擁立できるでしょうか。

 

 東京「日の丸・君が代」処分取消訴訟(一次訴訟)原告団・弁護団

                 声 明


1 本日(3月10日)、東京高等裁判所第2民事部(大橋寛明裁判長)は、都立学校の教職員168名が卒業式等の国歌斉唱時に校長の職務命令に従って起立斉唱・ピアノ伴奏しなかったために懲戒処分(1名が減給、167名が戒告)されたことに対し、処分の取消しと国家賠償を求めた事件につき、教職員らの請求を棄却した第一審東京地方裁判所判決を取消し、懲戒処分を取消す逆転勝訴判決を言い渡した。

2 本件は、東京都教育委員会(都教委)が2003年10月23日付で全都立学校の校長らに通達を発し(10・23通達)、卒業式・入学式等において国歌斉唱時に教職員らに対し、指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること、伴奏すること等を命じて、「日の丸・君が代」の起立斉唱強制を進める中で起きた事件である。
 都教委は、卒業式等の国歌斉唱時に起立斉唱またはピアノ伴奏せよという校長の職務命令に違反したとして、控訴人らを戒告・減給等の懲戒処分とした。

3 判決は、控訴人らの不起立行為等は、自己の個人的利益や快楽の実現を目的としたものでもなく、生徒に対し正しい教育を行いたいなどという歴史観ないし世界観又は信条及びこれに由来する社会生活上の信念等に基づく真摯な動機によるものであり、少なくとも控訴人らにとっては、やむにやまれぬ行動であったということができる、と判示した。


 さらに、「歴史的な理由から、現在でも『日の丸』・『君が代』について、控訴人らと同様の歴史観ないし世界観又は信条を有する者は、国民の中に少なからず存在しているとみられ、控訴人らの歴史観等が、独善的なものであるとはいえない。また、それらとのかかわりにおいて、国歌斉唱に際して起立する行動に抵抗を覚える者もいると考えられ、控訴人らも、1個人としてならば、起立を義務づけられることはないというべきであるから、控訴人らが起立する義務はないと考えたことにも、無理からぬところがある」と判示した。
 そして、控訴人らの行為によって卒業式等が混乱したという事実はなかったこと等も踏まえ、結論として、不起立行為などを理由として懲戒処分を科すことは、社会通念上著しく妥当を欠き、重きに失するとして、懲戒権の範囲を逸脱・濫用するものであるとして違法であるとし、控訴人らに対してなされた各懲戒処分を取り消した。
 一方で、10・23通達及び職務命令は、憲法19条及び20条に違反せず、改定前教育基本法10条の「不当な支配」にもあたらないと判断した。
 また、損害賠償請求については認めなかった。

4 私たちは、判決が、本件懲戒処分を裁量権逸脱として取り消したことを、高く評価する。
 一方で、「日の丸・君が代」を職務命令をもって強制することを憲法19条違反、改定前教育基本法10条違反と判断しなかったことについては、承服しがたい。

5 都教委は本件において下された司法判断を上告せずに受け入れ、すべての教職員に対する懲戒処分を撤回するとともに、直ちに10・23通達を撤回し、教育現場での「日の丸・君が代」の強制をやめるべきである
 この判決を機会に、教育現場での「日の丸・君が代」の強制に反対するわたしたちの訴えに対し、皆様のご支援をぜひともいただきたく、広く呼びかける次第である。

 2011年3月10日

東京「日の丸・君が代」処分取消訴訟(一次訴訟)原告団・弁護団
 
●「川越だより」より

「君が代」の強制と裁判」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/1c211a976ee886b2a0c06fdca1dd7c8e

 

 


「オール5」から40年(Ⅲ)「なぜ、オール5にするか」②

2011-03-11 04:47:30 | 父・家族・自分

 

なぜ、オール5にするか  鈴木啓介(1971年7月『池商新聞』)

1 オール「5」提案の波紋

 (つづき)

「私は考えてみると今までテストというものを目標にする以外の勉強はしたことがないように思います。政治経済とか、倫理社会とか、そういうような科目については、五段階でも何でも、評価するということは出来るわけがないと思います。人間一人一人の考えについて、点数などつくわけないし、ついても、それは信じられるようなものではないと思います。

 

 この間、担任の先生と面接したとき、今の勉強についてどう思うかと問われました。私はテストのための勉強でしかないと言いました。が、今はそれしかしようがないし、今まで、生まれて十七年間、そういう方法でしか、勉強したことのない私には、とても他の目標での勉強なんて思いもよりません。それだけ私たちは、昔からずっと目的をあやまって、それになれて、テストの時期になれば勉強するといったように、機械的なものになってきてしまっているのではないかと思います。」

 

 私の風変わりな提案は、「オール5ショック」とでもいった波紋を投げかけたようだが、そのような中でIさんはこのように書いた。

「十七年間、テストのためにしか勉強しなかった」「他の目標での勉強なんて思いもよりません」などという告白に目を通したとき、私はあらためてショックを受けていた。

 こうした、さまざまな生徒諸君との出会いの中で、授業とは何であるのか、教師である自分の存在は、ほんとうはどんなものであるのかということが、はじめて、見えてくるような気がした。

 Sさんは「先生が評価できずにつけたものを、私たちは黙って受け取らなければいけないのか。評価することはむずかしいと思います。ならなぜ、この数字を与えるのか。まだ、つけない方がいいと私は思います。だけど、こう書いたら先生は困ってしまいますね。点を付けるのが先生の役目ですから。」と指摘したが、現実の教師ー生徒の関係の中では「点を付けるのが先生の役目」だというもっとも本質的な自分の姿を発見したのである。

 「教師は真理の伝達者である」などといった教育や教師を定義することばにとらわれて生きてきた私には、こんな当たり前の現実さえ、はっきりとは見えなかった。すでに誰かが作り上げた言葉の世界、つまり、自分の現実の生活との対決のないきれいな言葉の世界に、自分がどんなに深く入り込んでいたかを感じずにはいられなかった。

 点数を付ける、つまり生徒の成績を評定し、単位の認定をするーそうした権力こそが、正に教師を教師たらしめ、現実の教師ー生徒の関係を律している。この権力とのたたかいを始めることなしには、教師ー生徒の関係のうえに成り立っている授業を変えることは出来ない。それが私なりの結論だった。

 私は、直ちに成績評定をする権限や単位を認定する権限を放棄することは出来ないが、そのような権力との闘いを前に述べたような形で始めようと思った。

 それは同時にMくんをはじめ、多くの諸君のように、現実の中に開き直る生き方と対決することでもあると思った。現実の中に開き直ることは結局、現実を肯定し、『単位の奴隷』に自ら甘んずることではないか。そのことはやがて『賃金の奴隷』や『地位の奴隷』に甘んずることにつながるだろう。

 生徒諸君は『単位を求める生徒』としての自分の姿を屈辱をもって認識し、そのような自らとの対決を始めなければならない。

 資本主義の社会で生きていく限り、誰もが、単位や賃金や地位やの奴隷であることから免れることは出来ないが、そうした自らの屈辱的な現実との対決を内にはらみ続けなければ、何者の奴隷になることをも拒否する力を育んでいくことは出来ない。教師も生徒も、それぞれが自分を教師たらしめ、生徒たらしめているものとの闘いを持続し、その闘いのうめき声を響きあわすのでなければ、人間として学び会う喜びは見いだせないのではないかと考えた。

 Mくんの言葉で言えば「授業は友と語り、自分を見つめる絶好の場である」ような状態に少しでも近づけたいと思った。週2回、否応なしにある政経の時間を「点を付ける役目」として過ごすことに私はとても耐えられないと思った。

 与えられた教科書、与えられた教室、厳重な出席管理、与えられた集団(クラス・学年)、そして通知簿、内申書、進級、卒業などといった恐ろしい仕組みを考えるとき、見通しなどあるはずがなかった。

 あれから一年有余、旧三年生がともかく「全員5」で卒業し、新三年生と否応なしに相まみえることになった。基本的には旧年度の方針を継続しながら私なりの反省のうえに、一学期の授業を進めてきたわけだが、ここに、評定について、私の考えてきたことを披瀝して、諸君の積極的な批判と学習者としての自立を訴えたい。(つづく)

 


「オール5」から40年(Ⅱ) 「なぜ、オール5にするか」①

2011-03-10 06:57:28 | 父・家族・自分

「読売」の記者が「オール5」を記事にしようとしているのを知って僕はやむなくインタビューに応じたが、この記者の姿勢は信頼に値するとは見えなかった。興味本位の話題造りか、何かの陰謀があるか…。

 7月2日の「読売」の記事を知ったのはどこかの駅であった。偶然出会った学生時代の知人に教えられた。いやな感じの記事に思えた。

 一番驚いたのは僕の写真。記者は撮影は求めなかった。どこから入手したのか。僕には「手配写真」のように見えて不愉快だった。この記者は自分の書いた記事の載った『読売新聞』をついに送ってこなかった。

 記事内容にも問題がある。僕が拒否しているのは「評定」であって、学習における評価を否定しているのではない。もっとも肝腎のことがわかっていない。

 それに僕は「理想教育」はかくあるべしと行動しているわけではない。自分の日々の授業が意味のあるものになっていない現実を何とか打開するために暗中模索しているのだ。「理想教育ふりかざし」等という見出しは不適切きわまりない。

 この記事の影響でTVの「モーニングショー」にも出るはめになった。「評価」の難しさがテーマで、それはそれでいいとしても僕が提起している問題とは違う。

 そんなこともあって僕は自分の考えを改めて社会に示す必要に迫られた。「なぜ、オール5にするか」という文章を『池商新聞』に掲載してもらった。

 

 なぜ、オール5にするか  鈴木啓介(1971年7月20日『池商新聞』)

1 オール「5」提案の波紋

「私にとって池商とはなんであったか。一年の時から計算実務、簿記に苦しみ、二年になっても商業科目は大嫌いであった。三年になれば三年で実践というものに苦しみ、会社が決まって、あと卒業だけになった今も落第という恐怖にさらされている。私はどうしていつも、こういう不安にさらされているのだろうか?もしこれが出来ないと私たちは社会に出て行けないような欠陥人間なのだろうか。

 私たちが三年になるまで数人の友達が学校を退学させられた。それも風紀的な悪いことをしたのではない。みんな一科目が出来なかったために、この学校から追放されたのだ。なんと恐ろしいことだろう。そういう不安の中で私は生きてきた。やはり池商にきたのは間違いだったのだろうか…」。

 Yさんの『私にとって池商とは』の一節である。またM君は『俺にとって学校生活とは』で次のように述べる。

「…勉強は落ちない程度にやる。学校生活を続けるための手段のようなものだ。…」

 熱意を持って学ぼうとしているように見えるYさんの手記の中に「卒業だけになった今も落第という恐怖にさらされている」という文章を読んだのは、意外でもあったし、多少オーバーな表現ではないかと思いもした。

 しかし、「学校は真理を学ぶところだ」といった観念からではなく、あるがままの自分の姿を通して現実をみるとき、程度の差こそあれ、生徒諸君の多数がYさんの表現に共感するだろう。

 『テストのために勉強する自分』『高卒の資格を取るために学校に来る自分』をそこに見いださなくてもすむ人はおそらくはいないからである。「落第」という「恐怖」にさらされ、「不安」にさらされて行う勉強のどこに、生活意欲をかきたてる要素がありえよう。「現在、俺にとって、学校は友と語り、自分を見つめる絶好の場であることがほとんどだ」と述べるMくんが、学校に居続けるための「手段」として、「落ちない程度に」やっているのは賢明であるかもしれない。学ぶことが、それ自体、生きること、それ自体、目的であるのではなくて、学ぶことが、恐怖に支配され、強制され、≪とにかく生きる≫ための手段になっている今日の学校、Mくんの生き方は、そのような現実のうえにひらきなおる生き方であろう。

 昨年の4月、はじめての授業のとき、生徒諸君は正直であった。政治や経済をなぜ学ぶかと問うたとき、ともかくも関心を持って、いささかでも主体的に学ぼうとする人はごく少数であった。「時間割にきめられているから」「授業に出なければ卒業できないから」「とにかく高校では学ぶことになっているから」等々。そして、「できれば、政治の学習なんて避けて通りたい人」が圧倒的多数であった。YさんやMくんの指摘するようなことは現実の教育の中では、当然過ぎるほど当然なのかもしれない。そのような中で、私は次のような政経の授業に対する方針を提案した。

  

 ①教科書にとらわれることなく、私たちが生きていく上で、今これを学ぶ必要があると思うことをみんなで出し合って学ぼう。資料も私たちの手で作っていこう。

 ②学習の主体は生徒でなければならない。したがって、評価の主体も生徒各人でなければならない。教師の一方的な評定のために必要なテストはしない。

 ③成績評定はしない方向を追求したい。しかし、しなければ「卒業」が不可能になるという事態もありうるので、これから一年かかってみんなで考えていきたい。ぼくは、たとえば「全員5」という評定をすることを考えている。これはみんながよく学習したというのではなく、評定できない、評定してはならない、という意味でつける「5」ということになる。従って、空白、あるいは「0」ということと同じ「5」だ。

                                                             (つづく)

 

 

 

 

 


前原外相の辞任

2011-03-09 06:30:07 | 在日コリアン

 

前原外相が辞任しました。

このことに関わって僕も加入しているネットワークに在日コリアンの青年の投稿がありました。勝手ながら紹介させてもらいます。

前原外務大臣が辞任しましたねえ。国民的人気を誇り、外国に対しても毅然とし
た、正義感の強い政治家でしたので、意外でした。 


理由は、『外国人からの政治献金』です。日本の政治家が、外国人から献金を受
けて、国益を売り渡すのは、言語道断です。この法律の意味は、充分に理解でき
ます。     

しかし今回、前原外務大臣に献金していたのは、京都府内で焼肉屋さんを営んで
いる、在日韓国人女性です。前原外務大臣が中学生の時から、応援していました
。京都で真面目に焼肉屋さんを何十年も営んでいて、産まれ育ちも日本の方です
。‘日本のために働いてくれる政治家’なので、前原外務大臣のために献金した
のかなと思います。


前原外務大臣は個人的に好感を持っている政治家なので、こんな事でつまづいて
、非常に惜しいです。この問題は、次期総理大臣候補である前原氏の失態ではあ
りません。例の焼肉屋さんの方が、正々堂々と献金が出来ない。この事に問題が
あると思います。  


この問題を機に、例の焼肉屋さんのような方々が、どうすれば、堂々と政治献金
が出来るのか。そういった議論が、国会で成される事を期待してます。

僕の考え。

 前原前外相に「失態がなかった」とは言えません。外国人から献金を受けてはならないという法律の存在
は政治家なら知っていなければならないイロハのイです。
しかし、この方が指摘するように解決しなければならない問題はあります。

 特別永住資格を持つ在日コリアンをいつまでも「外国人」として処遇するママでいいかということです。
前原前外相は中学生のときにお父さんを「自死」で失っています。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/0373ed8cfdb781bc7ddfbd0b7241af3e

焼き肉屋のおばさんはそんなときから前原さんと交流し励まし続けてきたいわば「隣人」ではないかと僕は勝手に
想像しています。政治家になった暁に年、5万円程度政治献金するのは市民として自然なことです。

問題はコリアンのおばさんが法律上、日本の市民権を持っていないことです。そこには日本国家と在日コリアンの
ねじれにねじれた歴史があり、それが今日に至っても解決されていないのです。

私たちはこの問題を解決するため「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」を作って活動してきました。
 
これらの方々は元もと日本国民(またはその子孫)です。1952年、日本政府は独立と共に一片の通達でこの人たち
全員を「外国人」にしてしまったのです。ここに無理があったと私たちは考えます。
遅まきながら国籍選択の権利を認めるべきだと「国籍取得特例法」の制定を求めています。
http://members.jcom.home.ne.jp/j-citizenship/

今日はこれから友人たちと永田町に行って改めて国会と政府に陳情します。

自民党が前原外相の政治的資質を問題にするのは当然だとしても、少数の政治家をのぞいてこのような
問題を放置し続けた責任も自覚すべきです。

前原前外相にはほかにも政治資金を巡る疑惑があるなど僕はこの人を政治家として支持しているわけではありません。
(念のため付け加えておきます)。



 


「オール5」から40年(Ⅰ) 『読売』の記事

2011-03-09 04:45:36 | 父・家族・自分

高校の卒業式のシーズンです。今、『池商新聞』縮刷版をひもといてみると1971年3月9日に都立池袋商業高校の70年度の卒業式が行われていることがわかります。

 この年から卒業式での「君が代」斉唱が廃止になりました。生徒と教員の卒業対策委員会での議論の結果です。「制服の自由化」「就職テストの廃止」など学校のあり方を問う生徒の運動も表面化しました。

教員生活5年目の僕にとっても忘れられない年となりました。3年生全員の「政治・経済」を担当し、全員に「5」の評定をつけた最初の年だったのです。

その生徒たちが卒業していくのです。どんな思いをもって卒業式に臨んだのか?

 この僕の「オール5」はやがて「社会問題」に発展していきます。『池商新聞』の記事になったのがきっかけで?、7月には『読売新聞』が社会面のトップで報じたのです。どこから探し出してきたのか、本人の関知しない「手配写真」のような写真付きの記事です。

 埋もれたままになっている当時の資料を折に触れて紹介していくことにします。40年後に人々はどのように考えるのでしょうか?当時生徒だった人々はどのように受け止めてくれたのでしょう?

 まずは『読売』の記事を全文書き写してみます。

 

『読売新聞』1971年7月2日

 社会科は全員「5」です 池袋商で“造反通信簿”

  成績評価は教師の権力だ 真の教育は権力を捨てて…

  理想教育振りかざし 同僚、生徒に賛否の論争

                       写真 「オール5」問題で論争の池商新聞(円内は鈴木啓介教諭)

  間もなく一学期が終わるが、東京都立池袋商業高校の三年生四百三十余人の社会科の成績は全員「5」とすでに決まっている。というのは、担任の若い先生が「教師が成績評価という権力を持つかぎり、ほんとうの教育はできない」と、全員平等の「オール5」を宣言したからだ。この先生は今春卒業した四百二十人にもオール「5」をつけた。同僚や他校の先生仲間は、賛否まちまちで“一つの実験“として見守るかまえだが、都教育庁は「論理に飛躍がある」とシブイ顔。当の高校生たちも喜ぶより戸惑いの表情で、学校新聞で大論争。大学入試で内申書重視の方針が打ち出され、学校の通知表のあり方がクローズアップされている時だけに、論議を呼びそう。

 オール5」を宣言したのは同校三年の政治・経済科目担任の鈴木啓介教諭(29)。四十一年に東京教育大を卒業、大島高校を経て四十四年四月に池袋商高に転任してきた。今春の卒業生四百二十人にも実験的に「オール5」を与えたが、そのいい分はー。

 商業高校だから9割以上が就職していくが、そこに待っているのは、高卒は高卒としての位置や仕事。そのどうしようもない現状に生徒たちは半ばあきらめ、絶望している。このような生徒に政治・経済の断片的な知識を与えることがいったい何になるのか。高校教育は生徒自身が考え、行動する力を養う場でなければならない。

 そのために、まず教師と生徒をへだてる「成績評価」という“権力”をかなぐりすてることで、自らの理想教育に近づくことを決心したのだという。必修科目なので、成績評価をやめることはできない。いろいろ考え、たどりついたのが「オール5」。

 卒業生に「オール5」をつけたのに続いて、新学期はじまって間もなく、鈴木先生は担任している三年生に「全員オール5をつける」と宣言した。

 驚いたのは生徒たち。このほど発行した「池商新聞」で「オール5の周辺をさぐる」という特集を組み、まず3年の女生徒たちの紙上討論で論争の口火を切った。「喜ぶのは勉強もしないで適当に授業を聞いていた人だけよ」「努力した人は不満だわ。努力の結果をしりたいもの」「理想だけど勉強の意欲がわくかどうか疑問」「先生の気持ちがよく分かる」。同新聞の結論は「生徒の悲しい習性でみんなに5がつくのは妙な気持ち」ー。ラクになる、もうけたなどの“ふまじめ”な意見はほとんどなく、先生の意図を一生懸命読みとろうとしているが、驚きと戸惑いの方が強い。

 鈴木先生の授業は、教科書どおりやらず、基礎知識の参考書程度にし、素材はいつも身の回りの問題や新聞記事から取り、生徒たちに研究させ、討論する。テストは一度もない。

 こうした試みに同僚教師たちの反応は「みんながやれば、企業や大学にわが校の内申書を信用してもらえなくなり、生徒にマイナスだ」という現実論や「オール5よりオール3の方がよい」などの消極的賛成論など反応はさまざまだが、一つの実験として見守ろうという空気が強い。

 教頭の岩井教諭も「評価は成長する生徒に取って必要だし、先生も指導の反省のために必要。同一評価はまずい」という立場にたちながらも「今は学習成績の評価と人格評価が混同されている」と評価方法への疑問は認めている。

 「論理に飛躍」 都教育庁はシブイ顔

 都教育庁高校教育課、金沢課長の話「成績評価が生徒の将来を左右するという社会の仕組みには問題があるが、だからといって評価をやめてしまうのは論理に飛躍がありすぎる。純粋な若い先生の中には、こういう考えの人も多く、気持ちはよく分かるが、高校で教える基礎知識は、すぐには役立たないにしても、社会人として共通の教養を与えることによって正しい世論がだんだん出来ていく。そうした広い視野で将来に希望をもってもらいたい」

 

 


夏奈さん  「小さな音楽会」

2011-03-07 03:31:08 | 映画  音楽 美術など

3月6日(日)晴れ 

「そごう」の10階のウナギ屋で明子さんと昼食。今秋には上の娘さんが結婚とのこと。同級の友人たち(81年3月・池商卒)の中には最近、おばあちゃんになった人もいるという。卒業から30年だ。自然でめでたいことだが高校生の時代の印象が強く実感がわかない。

 2時から川口市民会館の大ホールで明子さんの次女・荒木夏奈(なつな)さんらの弦楽合奏が始まった。澤和樹さんという先生と東京芸大器楽科3年生24名のユニット。芥川也寸志・タルティーニ・チャイコフスキー。会場の一番前で、2時間近く夢心地。夏奈さんをはじめ演奏する若者の表情もよく見える。

 ●TGS24弦楽合奏団http://d.hatena.ne.jp/kiku-art/20110301/1298905290

 演奏が終わって私たちに気づいた夏奈さんが舞台の上から挨拶してくれた。この前会ったときから二年近がたっている。僕はただただ嬉しかった。僕のことを憶えていて声をかけてくれたのだ。

 お母さんが読んだ『小蓮の恋人』を夏奈さんも読んでくれたらしい。お母さんには昨年、主人公「小蓮」こと上村満智子さん(「中国残留孤児二世」)との出会いがあった。母娘がそれぞれどんな感想を持ったか、上村さんも聞きたいだろう。今年はそんな出会いを作れるといいなあ。

 若い人が技術はもちろん心を磨いてどんどん魅力的になっていく。そういう人と出会うことが出来て僕にも精気がよみがえる。花粉症に耐えて出かけて良かったなあ。

 ●「上野での出会い」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/bcd4327b28ff6bc322b2bc1bea1d1a97

 ●「小蓮の恋人」http://randomkobe.cocolog-nifty.com/center/2010/01/100-116a.html


 

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