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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

前原外相の辞任

2011-03-09 06:30:07 | 在日コリアン

 

前原外相が辞任しました。

このことに関わって僕も加入しているネットワークに在日コリアンの青年の投稿がありました。勝手ながら紹介させてもらいます。

前原外務大臣が辞任しましたねえ。国民的人気を誇り、外国に対しても毅然とし
た、正義感の強い政治家でしたので、意外でした。 


理由は、『外国人からの政治献金』です。日本の政治家が、外国人から献金を受
けて、国益を売り渡すのは、言語道断です。この法律の意味は、充分に理解でき
ます。     

しかし今回、前原外務大臣に献金していたのは、京都府内で焼肉屋さんを営んで
いる、在日韓国人女性です。前原外務大臣が中学生の時から、応援していました
。京都で真面目に焼肉屋さんを何十年も営んでいて、産まれ育ちも日本の方です
。‘日本のために働いてくれる政治家’なので、前原外務大臣のために献金した
のかなと思います。


前原外務大臣は個人的に好感を持っている政治家なので、こんな事でつまづいて
、非常に惜しいです。この問題は、次期総理大臣候補である前原氏の失態ではあ
りません。例の焼肉屋さんの方が、正々堂々と献金が出来ない。この事に問題が
あると思います。  


この問題を機に、例の焼肉屋さんのような方々が、どうすれば、堂々と政治献金
が出来るのか。そういった議論が、国会で成される事を期待してます。

僕の考え。

 前原前外相に「失態がなかった」とは言えません。外国人から献金を受けてはならないという法律の存在
は政治家なら知っていなければならないイロハのイです。
しかし、この方が指摘するように解決しなければならない問題はあります。

 特別永住資格を持つ在日コリアンをいつまでも「外国人」として処遇するママでいいかということです。
前原前外相は中学生のときにお父さんを「自死」で失っています。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/0373ed8cfdb781bc7ddfbd0b7241af3e

焼き肉屋のおばさんはそんなときから前原さんと交流し励まし続けてきたいわば「隣人」ではないかと僕は勝手に
想像しています。政治家になった暁に年、5万円程度政治献金するのは市民として自然なことです。

問題はコリアンのおばさんが法律上、日本の市民権を持っていないことです。そこには日本国家と在日コリアンの
ねじれにねじれた歴史があり、それが今日に至っても解決されていないのです。

私たちはこの問題を解決するため「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」を作って活動してきました。
 
これらの方々は元もと日本国民(またはその子孫)です。1952年、日本政府は独立と共に一片の通達でこの人たち
全員を「外国人」にしてしまったのです。ここに無理があったと私たちは考えます。
遅まきながら国籍選択の権利を認めるべきだと「国籍取得特例法」の制定を求めています。
http://members.jcom.home.ne.jp/j-citizenship/

今日はこれから友人たちと永田町に行って改めて国会と政府に陳情します。

自民党が前原外相の政治的資質を問題にするのは当然だとしても、少数の政治家をのぞいてこのような
問題を放置し続けた責任も自覚すべきです。

前原前外相にはほかにも政治資金を巡る疑惑があるなど僕はこの人を政治家として支持しているわけではありません。
(念のため付け加えておきます)。



 


「オール5」から40年(Ⅰ) 『読売』の記事

2011-03-09 04:45:36 | 父・家族・自分

高校の卒業式のシーズンです。今、『池商新聞』縮刷版をひもといてみると1971年3月9日に都立池袋商業高校の70年度の卒業式が行われていることがわかります。

 この年から卒業式での「君が代」斉唱が廃止になりました。生徒と教員の卒業対策委員会での議論の結果です。「制服の自由化」「就職テストの廃止」など学校のあり方を問う生徒の運動も表面化しました。

教員生活5年目の僕にとっても忘れられない年となりました。3年生全員の「政治・経済」を担当し、全員に「5」の評定をつけた最初の年だったのです。

その生徒たちが卒業していくのです。どんな思いをもって卒業式に臨んだのか?

 この僕の「オール5」はやがて「社会問題」に発展していきます。『池商新聞』の記事になったのがきっかけで?、7月には『読売新聞』が社会面のトップで報じたのです。どこから探し出してきたのか、本人の関知しない「手配写真」のような写真付きの記事です。

 埋もれたままになっている当時の資料を折に触れて紹介していくことにします。40年後に人々はどのように考えるのでしょうか?当時生徒だった人々はどのように受け止めてくれたのでしょう?

 まずは『読売』の記事を全文書き写してみます。

 

『読売新聞』1971年7月2日

 社会科は全員「5」です 池袋商で“造反通信簿”

  成績評価は教師の権力だ 真の教育は権力を捨てて…

  理想教育振りかざし 同僚、生徒に賛否の論争

                       写真 「オール5」問題で論争の池商新聞(円内は鈴木啓介教諭)

  間もなく一学期が終わるが、東京都立池袋商業高校の三年生四百三十余人の社会科の成績は全員「5」とすでに決まっている。というのは、担任の若い先生が「教師が成績評価という権力を持つかぎり、ほんとうの教育はできない」と、全員平等の「オール5」を宣言したからだ。この先生は今春卒業した四百二十人にもオール「5」をつけた。同僚や他校の先生仲間は、賛否まちまちで“一つの実験“として見守るかまえだが、都教育庁は「論理に飛躍がある」とシブイ顔。当の高校生たちも喜ぶより戸惑いの表情で、学校新聞で大論争。大学入試で内申書重視の方針が打ち出され、学校の通知表のあり方がクローズアップされている時だけに、論議を呼びそう。

 オール5」を宣言したのは同校三年の政治・経済科目担任の鈴木啓介教諭(29)。四十一年に東京教育大を卒業、大島高校を経て四十四年四月に池袋商高に転任してきた。今春の卒業生四百二十人にも実験的に「オール5」を与えたが、そのいい分はー。

 商業高校だから9割以上が就職していくが、そこに待っているのは、高卒は高卒としての位置や仕事。そのどうしようもない現状に生徒たちは半ばあきらめ、絶望している。このような生徒に政治・経済の断片的な知識を与えることがいったい何になるのか。高校教育は生徒自身が考え、行動する力を養う場でなければならない。

 そのために、まず教師と生徒をへだてる「成績評価」という“権力”をかなぐりすてることで、自らの理想教育に近づくことを決心したのだという。必修科目なので、成績評価をやめることはできない。いろいろ考え、たどりついたのが「オール5」。

 卒業生に「オール5」をつけたのに続いて、新学期はじまって間もなく、鈴木先生は担任している三年生に「全員オール5をつける」と宣言した。

 驚いたのは生徒たち。このほど発行した「池商新聞」で「オール5の周辺をさぐる」という特集を組み、まず3年の女生徒たちの紙上討論で論争の口火を切った。「喜ぶのは勉強もしないで適当に授業を聞いていた人だけよ」「努力した人は不満だわ。努力の結果をしりたいもの」「理想だけど勉強の意欲がわくかどうか疑問」「先生の気持ちがよく分かる」。同新聞の結論は「生徒の悲しい習性でみんなに5がつくのは妙な気持ち」ー。ラクになる、もうけたなどの“ふまじめ”な意見はほとんどなく、先生の意図を一生懸命読みとろうとしているが、驚きと戸惑いの方が強い。

 鈴木先生の授業は、教科書どおりやらず、基礎知識の参考書程度にし、素材はいつも身の回りの問題や新聞記事から取り、生徒たちに研究させ、討論する。テストは一度もない。

 こうした試みに同僚教師たちの反応は「みんながやれば、企業や大学にわが校の内申書を信用してもらえなくなり、生徒にマイナスだ」という現実論や「オール5よりオール3の方がよい」などの消極的賛成論など反応はさまざまだが、一つの実験として見守ろうという空気が強い。

 教頭の岩井教諭も「評価は成長する生徒に取って必要だし、先生も指導の反省のために必要。同一評価はまずい」という立場にたちながらも「今は学習成績の評価と人格評価が混同されている」と評価方法への疑問は認めている。

 「論理に飛躍」 都教育庁はシブイ顔

 都教育庁高校教育課、金沢課長の話「成績評価が生徒の将来を左右するという社会の仕組みには問題があるが、だからといって評価をやめてしまうのは論理に飛躍がありすぎる。純粋な若い先生の中には、こういう考えの人も多く、気持ちはよく分かるが、高校で教える基礎知識は、すぐには役立たないにしても、社会人として共通の教養を与えることによって正しい世論がだんだん出来ていく。そうした広い視野で将来に希望をもってもらいたい」