goo blog サービス終了のお知らせ 

川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

コメントをいただいて

2007-07-13 05:09:24 | 友人たち
 昨日(12日)は高校野球の応援に行きました。近くの初雁球場での開幕第一戦が川越工業と北本高校だったのです。一塁側の川工の応援席に座ったのですが北本も自然観察公園の散歩などでなじみでもあり、熱心な川工応援とはいえなかったかもしれません。それでも秋葉という選手がたびたび出塁するのが印象に残りました。
 今朝、カツヨシさんのコメントを読ましていただいて、秋葉祐一君とやっとつながりました。そういえば駿台学園の秋葉君も野球部の一員であり、部内の「いじめ」がかれを追いつめたのでした。水曜日の夜、カツヨシさんが精魂傾けて編集した『きいちご』創刊号が届いたので、喜びの声を届けようと電話をしたのですが留守でした。秋葉君の13回忌だったのですね。
 秋葉君の死に関わるさまざまな資料をいただいて、文京・山吹の子どもたちに読んでもらって意見交流をしてきました。いじめはどの子にとっても他人事ではありません。体験や目撃から「みんなにあわせる」生き方を身につけ、他者と深く関わることができなくなったと語る子どもがいかに多いことか。
 この現実に気づかず、あるいは、知らんぷりをして子どもたちを競争に駆り立てる教師や親や世の「丈夫な奴」(鹿児島のことわざ)が右にも左にもいかに多いことか。
 やっとのことで耳にする子どもたちのことばに僕もただただ頷いてきただけです。民主主義の確立といいますが、子どもの世界の現実に思いを致し、その背景に迫っていかない限り、言葉だけになることは明らかです。
 岩屋寺でのことは本当に説明の付かないことです。なんの情報も持たず、偶然訪ねたお寺の参道で秋葉さんがまだ見てもいない、真新しいお地蔵さんに出会ったのですから。その当時、僕の中にもカツヨシさんの何分の一かの秋葉君が宿っていたのでしょうか。そのときの僕は四国巡礼をする親の思いを想像するだけで精一杯でした。
 今年は授業もなく、秋葉君のことを思い出すこともなかったかもしれません。こういう機会があったことを感謝します。

 ほっかりさんのコメントで明日、友人たちが集まって、村田さんの新盆の集いをすることを知りました。そういえば明後日は山下弘子さんの七七忌です。このブログをはじめてからまだ日も浅いのに二人の大切な友を喪いました。友人たちがそれぞれに集いを持つわけですが、こころは皆さんと共にあることをお伝えします。
 カツヨシさんとTさんが明日、我が家に来てくれて久しぶりに「清談会」をやります。勝手ながら僕らなりの新盆ということにします。
 
 matumotoさんとはもう少しで出会うところでしたね。確かに風呂にたどり着くまでの心配りができているところとそうでないところがあります。ほんの数回のことですが僕も父をつれて温泉に行ったことがあります。手すりのない浴槽に入れるのは本当に怖い。重い父の体をアザラシのように滑り込ませたことを思い出します。

 お母さんだとそういうわけにもいきませんね。浴室から出てきたときの厨房からの熱気、僕の妻はそれが気になるようです。温泉は好みによって違っても散歩やお昼はご一緒できるかもしれません。月曜日もたいていウチにおりますから電話でもしてください。月曜日は娘が休日で車が空いているため、僕らが利用することができるのです。おかあさんにお会いできたら嬉しいです。

 
 


傷持ち三羽ガラスの温泉談議

2007-07-11 11:48:32 | 出会いの旅
 先週末は珍しく、東京通いがつづきました。勢いに乗って夜遅くまで議論をしました。すこし疲れたので、月曜日には都幾川町の四季彩館に連れて行ってもらいました。
 湯からあがって休憩していると僕の手術後の傷に気づいた方が話しかけてくれました。自分もこの4月に手術を受けたばかりで、傷跡が痛くてつらいという話です。もう一人の方は10年前にやはり、ガンの摘出手術をしたそうです。露天風呂に他に客はなく3人とも長風呂をしてしまいました。偶然のことに3人は1941年の生まれであることもわかりました。
 風呂というものはおもしろいものですね。裸のつきあいというけれど、こういうことは初めてでした。僕たちは65歳で年金生活者。昼間から温泉に浸る果報者ですがこのような事情持ちも少なくないのでしょう。70の大台になるまではなんとか元気な命をいただいて人生を楽しみたいという願望で一致したところでお開き。待ちくたびれた妻が声をかけにきたのです。
 ここの温泉は一日800円、近くの玉川温泉はいくらか安いそうです。そのせいでまもなく一周年を迎える四季彩館は客が少なく静かだと事情通の人が話していました。身につまされる話ですがよくわかる気がします。
 僕はこの4月から年金収入だけになりました。妻はもともと無収入です。(二人合わせて何とか一人前の仕事をさせてもらっていると私たちは考えてきました)。嘱託で働いていた3月までとは月、13万円ぐらい収入が減りました。年間の医療保険料負担は2倍になるなどさまざまな負担がのしかかってきます。年金生活者としての生活のあり方をうち立てなければやっていけなくなります。
 それでも温泉は四季彩館のほうを選んでいます。自然環境に恵まれ、静かな落ち着きがあるからです。川越市では65歳になると銭湯やいくつかの温泉が200円安くなる切符を12枚配布します。有り難いことですが四季彩館は対象外です。東後楽会館という老人施設にある温泉(?)は60歳から無料ですが今のところ行く気になれません。
 残留孤児の支援策がまとまり、決着が付いたというニュースがありました。国民基礎年金の満額支給と特別支援金。医療費と住宅費に補助がつくということです。裁判闘争という苦労の果てのことですがともかくは良かったと勝手に思っています。これでも近年まれに見る早期解決です。選挙を意識したのかどうか安倍自民党の智恵の寄せ集めです。残留孤児の友人たちがどう思っているか近く会って聞いてみたいと思っています。

萱野茂さんとアイヌ新法

2007-07-10 11:57:17 | 出会いの旅
 千歳空港に『アイヌの人たちの文化』というパンフレットが置いてあったのはアイヌ新法が成立して今年が10周年になることを記念する小さい展示の開催に伴うサービスでした。
 皆さんは『アイヌ新法』と俗称されている法律の名を聞いたことがありますか。1899年に制定された『北海道旧土人保護法』を廃止して1997年に立法された、『アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等にかんする知識の普及及び啓発に関する法律』のことを指します。
 日本の公文書上、ほんの最近までアイヌの人たちは「旧土人」と呼ばれ、「保護」の対象とされていたことがわかります。この時代を共に生きている同胞という認識がなかったのです。
 これが僕が育てられてきた民主主義日本のもう一つの現実だったのです。アイヌの人たちがこの現実に立ち向かい新法制定を明確に要求するようになったのは1970年前後からです。萱野茂(かやのしげる)という人がその中心人物の一人です。
 僕がアイヌの人たちの歴史や現実に関心を持つようになったのもこの動きに触発されたからです。1973年の夏休みに池袋商業高校の生徒たち20余名と北海道池田町の農家に分宿させてもらって、農民の生活を知るという試みをしたときに、平取という町に泊まり、二風谷(にぶだに)アイヌ文化資料館を訪ねました。萱野茂さんが創設して1年後のことです。
 アイヌの人々の生活の場でアイヌの人々の話を聞いたのはこれがはじめてです。僕のことですから「研究」ということをしたわけではありませんが、学べば学ぶほどアイヌの人たちの自然観や世界観は興味深いものです。
 生態系の破壊が極限まで近づき、人類の生存が脅かされているという認識を持っている人なら、くめども尽きぬ哲学的学びをすることができます。カムイに関わる短い文章を読むだけでもこれはおもしろいなーと皆さんも思いませんでしたか。
 こんな人々の文化を否定し、「旧土人」などとさげすんできた私たちの歴史に未来があるわけがありません。萱野さんが『滅亡』にまで追いつめられたアイヌ語をその生涯をかけて再生させ、人々と協力してアイヌ新法を成立させてくれたことは私たちの未来にかすかな希望の灯火をともしてくれた快挙です。
 おかげでその意志さえあれば私たちはこの東京のど真ん中にいてもアイヌ語を学びアイヌの哲学に耳を傾けることができるのです。この法律に基づいてアイヌ文化振興・研究推進機構が作られ、「アイヌ文化交流センター」が東京駅前に作られたりしたのです。
 萱野さんは1998年5月31日、僕のつとめていた都立文京高校に来ておはなしをしてくれました。私たちが始めた連続講座<民族共生教育をめざして>の最初の講師として来てくださったのです。73年にはじめてお目にかかってから25年経っていました。
 萱野さんはその間にアイヌ語をはじめとする文化の復権につとめられただけではなく、晩年には参議院議員になり、日本は単一民族国家である等という偏見にとらわれた議員たちを説いて、ついに全会一致でアイヌ新法を成立させました。
 国会にアイヌ語が響くという有史以来の出来事もありました。頭の固い議員たちもアイヌの長老の品格と説得に脱帽せざるを得なかったのです。
 民主主義の精神を体現している人とはこういう人のことを言うのではないか。お話を聞きながら改めて深い敬意を感じました。萱野さんは自分の仕事が終わるとさっさと国会議員を辞め、二風谷に帰って行かれました。「猟師は足下が暗くならないうちに帰る」という言葉が印象的です。

 「イランカラプテー」 日本語の「こんにちわ」に対応するアイヌ語です。あなたの心にそっとふれさせてくださいという意味だと聞きました。屈斜路湖畔のコタンの店で声に出したら、アイヌのお兄さんが喜んでいろいろなことを教えてくれました。アイヌの人たちの文化に出会うことはこちこちになった心身を解きほぐす効能があるように思います。
 
 
 
 

カムイ

2007-07-07 10:33:09 | 出会いの旅
 千歳空港で『アイヌの人たちの文化』(アイヌ文化振興・研究推進機構刊)というパンフレットを見つけて、機内で読みました。わかりやすい文章で感心しました。一部を紹介します。

 信仰…
 カムイー神々
 アイヌの人たちは、生きていく上で役に立つもの、自分たちの力の及ばないものをカムイ(神)が支配したり、あるいはカムイがそれらの姿に変身して存在していると考えました。(略)
 
 アイヌモシリに来訪するカムイ、
 カムイを送るアイヌの人たち…

 アイヌモシリ(人間が住む世界)では動物や用具類の姿をしたカムイは、普段はカムイモシリ(神々が住む世界)で人間と同じ姿をして、人間と同様の生活を営んでいますが、一つの義務として、ある時期、アイヌモシリを訪れます。その際、たとえば、山の神であれば、クマの毛皮と爪を身につけ、クマの姿に変身してアイヌモシリを訪れます。人間は山野でカムイを迎え(=現実には狩猟でクマを射止めることです)、肉と皮をいただいた後、盛大な儀礼を行って、カムイをカムイモシリに送り帰します。この儀礼をカムイホプニレなどといいますが、もうひとつ、狩猟で捕獲した仔グマをコタン(集落)に連れ帰り、1年ないしは2年育てた後、やはり盛大な儀礼を行って、カムイモシリに送り帰します。この儀礼をイオマンテ(あるいはイヨマンテ=クマの霊送り)といいます。これらの儀礼で、アイヌの人たちは、カムイモシリへと旅立つカムイに、来年も肉と毛皮を持ってアイヌモシリを訪れるようにとお願いします。
 こうして、人間に送られ、カムイモシリに帰ってきたカムイは、仲間のカムイを集めて、人間からもらった土産を分け与え、アイヌモシリがいかにいいところかを話して聞かせます。そうすると、仲間のカムイは「そんなにいいところなら、おれたちも来年は訪れてみよう」ということで、翌年、アイヌモシリに多くのカムイが訪れることになります。これを現実で見ると、狩猟でたくさんの獲物を得ることができるということになります。ちなみに、カムイはアイヌモシリを訪れ、人間の役に立つたびにカムイとしての位があがっていくとされており、こうした行為や考えは、日々の食糧を自然に求めた漁狩猟採集の民としてのアイヌの人たちの世界観を如実に物語っています。(略)

 アイヌの人たちにとってカムイは絶対的なものではなく、時には、カムイに意見を言うこともあります。また、カムイもアイヌの人たちの力を必要として存在しており、アイヌの人たちの日々の暮らしはカムイとの共生でありました。
 
 どうですか。僕はカムイが仲間同士で話し合う場面など想像するだけで楽しくなります。こういう世界観を持っている人たちが私たちの先住民であり、その後裔の人々が今もこの列島で生活しているのです。
 このパンフレットはさらにアイヌの人たちの「衣・食・住」について詳しく語り続けますが割愛します。
 読んでみたい方は次の所へ。HPもあります。
  アイヌ文化交流センター  03-3245ー9831
   中央区八重洲2-4-13 アーバンスクエアー八重洲

日本海からオホーツクへ(続)

2007-07-05 10:30:20 | 出会いの旅
03年の今頃、家族4人で利尻島・礼文島を旅しました。本当は島に渡る前日にサロベツ原野を訪ねる予定でした。濃霧のため飛行機が稚内空港に着陸できず、上空を舞い続けたのですが、結局、旭川空港に着陸。私たちは深夜、列車で稚内につくという有様でした。そのため、サロベツを訪ねることはあきらめることとなりました。
 利尻・礼文の旅は感動の連続でした。特に礼文島は印象に残ります。桃岩展望台というところから知床という村に至る山道は本当にこんなところがこの地上にあるのかと思わせるほどでした。レブンウスユキソウなどきびしい気象条件のなかで生き抜いてきた植物と景観が見事に融合して立ち去ることができないスポットの連続です。
 僕は高山のお花畑のすばらしさを体験したことがありません。ですから井の中の蛙なのですが、花の好きな人には是非訪ねてほしいところです。花の道を堪能して元地灯台の所に出ると、海を隔てた目の前に利尻富士。今でもその感動が生き生きと蘇ってきます。
  礼文町観光案内・散策路マップ
 今回は稚内便を避け、海沿いの道をゆっくりとドライブしたわけですが、礼文島で体験したぞくぞくするような感動を味わったとはいえません。しかし、立ち寄ったどのスポットでもさまざまな花が精一杯、その美しさをみせてくれて、それはそれでいいものです。4年前に私たちと一緒に礼文の山道を歩き通した義母は、今回の旅では車の中で一休みということもしばしば。やはり、歳相応ということでしょう。片肺飛行の僕にもちょうどいい旅でした。
 参考までに私たちの旅の経費を紹介します。
往復飛行機代と札幌のホテル代(素泊まり) 2万9400円
レンタカー代(4泊5日)2万5000円 一人あたり 8300円程度
宿泊料 岬センター(2食付き) 7665円
    宗谷パレス(同上)   8500円
    びふか温泉(同上)   7000円
ガソリン代  約9500円  一人あたり 3200円程度
高速代     5350円  一人あたり 1800円程度
 ほかに昼食代など
 往復の飛行機(ホテル一泊)などはグランシャリオツアーズの企画商品を利用しています。

 私たちの旅はたいていこんな感じです。同行してもいいかなという奇特な方がおられたら教えてください。4名の旅が費用からいっても理想的です。

日本海からオホーツクへ

2007-07-03 12:57:14 | 出会いの旅
 6月28日から4泊5日で北海道を旅してきました。妻の母(88)との三人道中。体調がやや優れなかった義母も娘との旅というので元気づき、楽しい5日間を過ごすことができました。老父や老母の介護に忙しい姉や友人たちのことを思うと義母が達者で居てくれるのはまことに有り難いことです。一緒に旅をするだけで親孝行ですねーなどといわれるのです。ぼくが行ってみたいところに連れて行ってもらうというのが本当なのですが。

 28日(木)千歳からレンタカーで札幌へ。
 29日(金)国道231号で日本海の沿岸を北上。石狩川河口の砂嘴の尖端が「はまなすの丘」と名付けられた花園。石狩川が海に入る風景とハマナス、ハマボウフウなどの群生に心を奪われる。
 石狩灯台 『喜びも悲しみも幾歳月』のロケ地。高峰秀子、佐田啓二が地元の人たちと一緒に写っている。近くに本郷新の『無辜の民』という彫刻。生きる自由を奪われた開拓民の悲しみ。
  石狩灯台とはまなすの丘公園@北海道人の独り言
 雄冬岬展望台。昼食。エゾメバルの煮魚。
 増毛町 丸一本間家という豪商の家を見学。ニシン漁で沸く明治期に回漕業や呉服店を経営して天塩国一の財をなした本間泰蔵の家。近くにニシン船も展示。
 初山別村「岬センター」泊。新しい村営の温泉。夜、娘の電話でMさんからフグセットが届いたと知らされる。刺身はやむなく一人でいただいたという。

 30日(土) 天塩川歴史資料館 赤煉瓦の旧役場庁舎を再生した優れた資料館。天塩川の奥地に深く入り込んだ人々が木材の移出に励んだという。ニシンと材木のまち。このあたりは幕末には庄内藩に警備が命じられたという。赴任した藩士の日誌などが展示されている。
  石狩灯台とはまなすの丘公園@北海道人の独り言
 天塩川の河口には大きな港が作られているが、河川敷は美しい公園がつづく。まさに大河、海に入る光景。
 サロベツ原生花園 今回の旅の目玉。今にも雨になりそうな天候で風も強い。木道を急いで歩く。見晴るかすエゾカンゾウ(ニッコウキスゲの近似種)の原。
 休憩舎で昼食、あげジャガイモ、美味。
 宮ノ台展望所と徳満駅 サロベツ原野をながめたあと、近くの宗谷本線の駅に寄る。寂れたホームにプレハブの駅舎。一日に五本、ワンマンカーが停まる。
 稚咲内(わかさかない)から左に利尻島(雲の中から裾だけ)を見ながら北上。エゾスカシユリの群生がつづく。素晴らしい。
 浜勇知のこうほねの家 コウホネの咲く池の周り一面のエゾカンゾウ。利尻、礼文の島影が目の前。
 ノシャップ岬 風強く、白波激しくせめぎ合う。寒流水族館を見学するも『寒流』に対する理解はいっこうに進まない。船員保険「宗谷パレス」泊。温泉。

 7月1日(日)宗谷岬の最北端の地で記念撮影をしたあと、大韓航空機撃墜事件(1983・サハリン沖)犠牲者の慰霊塔を見る。
 国道238号を南下、左にオホーツク海。猿払あたりから真っ青に晴れ渡る。
 ベニヤ原生花園 35年愛飲するよつば乳業の工場のすぐ近く。コウリンタンポポとタンポポモドキの群生がつづく。浜に出てオホーツクの潮をなめる。 
 浜頓別・クッチャロ湖 水鳥観察館で白鳥の渡り先、シベリアについて学ぶ。昼食。
  浜頓別町Web
 枝幸町・神威岬公園 ノハナショウブやコウリンタンポポの群生。紺青の海に突き出た岬の景観。ゆっくり昼寝をしたいが…。
 オホーツクと別れがたく雄武町幌内まで南下、ここから道道60号で美深へ。2車線の立派な道、対向車ほとんどなし。途中の仁宇布というところで「トロッコ王国」を発見。美幸線の廃線を利用してNPOがトロッコを運行している。オホーツク(枝幸)への悲願を達成することなくここまでで廃線になったという。
 この日の宿はびふか温泉。天塩川の中洲の公園の中にある。快適で安い。天塩川のほとりを散歩。対岸の森の中をジーゼルカーが稚内方向に走るのを垣間見る。あの徳満の駅にも停まるのだろう。時がゆったりと流れていく。

 2日(月)Sさんが少年期を過ごしたという士別から道央道に乗り、千歳へ。雪の残る大雪山、暑寒別岳(?)が見える。石狩川が大雪山に発し、旭川を経て石狩平野に出ていることをはじめて知る。天塩川が天塩岳に発し、士別、名寄などを北上し、日本海に注ぐ大河であることもはじめて知ったことである。