川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

美雪さん

2013-05-28 10:46:48 | 友人たち

5月27日(月)晴

昼過ぎに美雪さんが来てくれた。1977年3月、池袋商業高校卒業のコリア系の人だ。

何年か前から年賀状に川越を訪ねたいと書いてくれていた。一人息子のTくんが大学を出て自立したので余裕ができたのか声をかけると飛んできてくれた。

僕が会うのは10数年前、南こうせつのディナーショーに招待してもらって以来、かな。妻とは遠い昔、日暮里のおばあちゃんの家を訪ねて一緒に話を聞かせてもらって以来だ。

夕方まであらためて半生の話や家族の近況を聞かせてもらった。病気のお母さんを兄妹4人が協力しながら支えている様子を聞いて安堵したり、感心したり…。うれしい半日だった。

 高校生のとき、『生きることの意味』(高 史明著)を読んでもらった。その感想文を読んで以来、人生のともだちになった。勝手に。

僕は35歳。想像もできない困難と闘う17・8歳の生徒の話に耳を傾けた。


 

父を幼くして喪った彼女はこの頃、精神を病んだおかあさんの面倒を見ながら、一家の長女として家族の生活を切り盛りしていた。

「朝鮮人のくせに生活保護をもらい、そのうえ子どもを高校にやったり、浪人までさせている」という声にさいなまれながらも、閉じ込めておくだけの病院に疑問を持って、母の病院探しにも走り回っていた。やすらぎは優しく見守ってくれる祖母の存在だけだった。


僕が何かの力になりえたということはない。開放病棟がある「南埼玉病院」を紹介したことぐらいではないか。無力感にとらわれたと思う。

それでもともだちでありたいという思いは消えることなく人生の折節に出会うことがあった。 

今日聞いた話の中では兄妹3人が朝鮮学校に入れられそうになった話が「面白かった」。


 

朝鮮総連の活動家だった親戚のおばさんがいた。夏休みに行われる総連の「夏季学校」に連れて行かれた。後日、立派な作文を書いたお兄さんに大きな額縁に入った金日成の肖像画が贈られた。

 翌年の春、三人は朝鮮学校に連れて行かれ、全校生徒の前に並ばされた。どうも日本の学校からの転校生として紹介されるようだ。

 怖かった。これはやばいと三人して必死になって脱走した。


 

1960年代の後半のことと思われる。子どもを通称名で日本の学校にやる親をまるで犯罪者のように責める親族の話は前にも聞いたことがあるが、東京朝鮮第一初級学校(荒川区東日暮里)を巡ってこんな話があったとは。嫌がる家族を無理やり説得して北朝鮮に送る活動と重なって見える。

日本生まれのお母さんと済州島生まれのおばあちゃんは総連の学校には批判的だったが抗するすべがなかったのか。

それでも2人が兄妹を守ってくれたと美雪さんは感謝している。

兄は国立大学を卒業して今は社長さん、妹2人もそれぞれにがんばって自分の生き方を大切にしている。祖母を看取り、母に寄り添って生きてきた美雪さん。「なんで自分だけが」という言葉が聞かれるのかと思ったが、それは全然違った。

おばあちゃんの慈愛を享受して育った彼女にはおばあちゃんと生きるのは自然そのもの。長女として兄妹への思いやり、目配りも忘れなかった。それが今、みないい年頃になって、それぞれの形で母を支えることにつながった。僕はそう理解した。

それでも苦しい時期が何度もあったに違いない。よくがんばった。池商時代からずうっと付き合っているともだちが2人はいるという。僕はその2人の顔を思い出すことができないが、いい友達を持ってよかったなあとしみじみと思う。

 今度は兄妹や友人たちに会ってみたい。心して生きなければ。

 

 

 

 

 


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