川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

北朝鮮帰国者新潟港追悼集会(続報)

2011-12-15 08:44:20 | 韓国・北朝鮮

12月14日の「第3回あの日を忘れない新潟港追悼集会」の冒頭で李敬宰さんが次のような追悼の言葉を述べました。

 

追悼のことば

 一九五九年十二月十四日は、九七五人の在日朝鮮人および日本人妻らが乗った最初の帰国船が新潟港から北朝鮮に向けて出港した日です。あれから五十二年の歳月が流れました。

 あの日、新潟港から希望に燃えて北朝鮮に移住した帰国者たち。しかし、行った先は人間の住める国ではなかったのです。北朝鮮政府から最下層の身分に指定され、特別監視のもとに置かれました。強制収容所で亡くなった人や処刑された人は万単位の数に達すると推定されます。

 日本国籍を持っているのに北朝鮮公民とされた日本人妻のほとんどは、日本に帰る願いがかなわず異国の地で死去しました。日本人妻の遺言は「頭を日本海のほうに向けて埋葬してほしい」というものだったといいます。

 日本に残った帰国者の家族も帰国運動の犠牲者です。肉親が北朝鮮に囚われの身となり、帰国者を「人質」にした北朝鮮政府から数々の脅迫を受けたからです。北朝鮮への怨念を抱えたまま「憤死」した在日コリアンは多数にのぼります。

 これらの膨大な数にのぼる死者たちの霊は、いまだに安らぎの時を迎えられてはいません。

 私たちは、北朝鮮帰還事業開始から五十二年目のきょう、新潟港において「第三回『あの日を忘れない』新潟港追悼集会」を挙行し、帰国運動の犠牲者の霊の平安を祈るとともに、今も北朝鮮に幽閉されている帰国者全員の解放をめざすことを誓います。

                                                           二〇一一年十二月十四日

 

残留邦人らの救出訴え 北朝鮮帰還事業52年

2011.12.14 20:45 産経
北朝鮮帰還事業の開始から丸52年を迎えて開かれた追悼集会で、献花し手を合わせる脱北した日本人妻、斎藤博子さん=14日、新潟港

北朝鮮帰還事業の開始から丸52年を迎えて開かれた追悼集会で、献花し手を合わせる脱北した日本人妻、斎藤博子さん=14日、新潟港

 在日朝鮮人ら約9万3千人が北朝鮮へ渡った帰還事業の開始から丸52年となる14日、最初の船が出港した新潟港(新潟市)で、亡くなった人々を追悼する集会が開かれ、脱北した日本人妻らが現地に取り残された日本人や拉致被害者の救出を訴えた。

 集会に参加した大阪府の斎藤博子さん(70)は、昭和33年に地元・福井県の工場で働いていた在日の男性と結婚。36年に夫とともに乗船した。在日本朝鮮人総連合会から「北は地上の楽園で、いい生活ができる。3年で日本に帰れる」と聞かされていた。

 わずかな食料でしのぐ生活の中、平成5年に夫が病死。13年に脱北したが、残してきた娘の1人は餓死したという。

 帰還事業で日本人妻約1800人も北朝鮮へ渡航。斎藤さんは集会で「高齢化が進み、もう時間がない」と涙ながらに日本人らの帰国支援を訴え、献花した。

 出典●http://sankei.jp.msn.com/region/news/111214/ngt11121420470006-n1.htm

  

  (斎藤博子さん)

日本への帰国を果たせぬまま亡くなった帰還者らに献花=14日、新潟市中央区

新潟西港で北朝鮮帰還者の追悼集会

 北朝鮮帰還事業の第1船が新潟を出港してから52年となる14日、北朝鮮で亡くなった日本人妻らを追悼する集会が、新潟市中央区の新潟西港中央埠頭(ふとう)で開かれた。関係者ら約30人が参加、今も北朝鮮で暮らす人の救出に向けた誓いを新たにした。

 脱北者支援など人権問題に取り組む「移民政策研究所」(東京)が主催。帰還事業は1959年から84年まで続き、日本人妻約1800人を含む計9万3千人が日本海を渡った。

新潟日報2011年12月14日

出典●http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/30219.html

 


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