川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

上野の山でお花見

2009-04-02 10:26:03 | 友人たち
 31日にバンコクの秋月くんからメールがあったのを皮切りに池商87年3月卒業生(3年間HR担任)、池商78年3月卒業生(一年次のみ担任・1-7)から嬉しい連絡が届いています。
 ぼくの事情で一年次のみの担任だった78年卒業生とは30年以上の空白があります。大久保(今は西條)さんが頑張って50歳記念の再会を実現しようと仲間探しを続けています。中間報告だと言って一覧表を届けてくれました。電話が通じた一人一人と喜び合う姿を想像することが出来ます。
 <1-7>もほんとうに仲の良いクラスでした。解散にあたり、大島旅行をしたことがみんなの記憶に焼き付いているようです。
 これらの人々と再会できる日も遠くではあリません。

 31日(火)くもり

 きいちご基金の花見の日です。10時日暮里駅に集合したのは世話人の他に優子さん。誠くんのお母さんです。残留孤児の夫に付き添って来日して20数年が経ちます。闊達(かったつ)でやさしく気配りの行き届くひとです。
 谷中の墓地の桜通り、満開まではまだ少しあります。坊城俊民校長の墓に寄りました。池商時代、若いぼくのことを見守ってくれたひとです。先輩、上司に大切にして貰うというのはほんとうに嬉しく、ありがたいことです。年をとればとるほどそう思われます。
 寛永寺で今日、定年を迎える精さんが合流。今日も学校に出て仕事を済ませて、休暇を取って駆けつけてくれたのです。いかにも精さんらしい。
 近くの人が上野の山について丁寧に教えてくれます。今の博物館辺りに本堂があり、山全体が寛永寺の領地だったようです。大名の一行が参詣する風景を描いた錦絵や戊辰(東台)戦争の錦絵が根本中堂の前に展示されていて往事を偲ぶよすがになります。寛永寺の伽藍(がらん)はほとんどが焼かれて、この根本中堂も川越の喜多院から持ってきたものだと言います。

 寛永寺http://blog.goo.ne.jp/ttomo115/e/c1f0f3df8a0e2faf126aa2b3cd7490c6
 

 博物館前の噴水広場を過ぎると桜並木。その取っつきの一等地に場所を定めて私たちの花見が始まりました。枝振りがいいのか、頭上の花を撮影する人だかりのど真ん中です。
 服治くんが顔を見せてくれてびっくり。昨日、動物園を案内してくれた人です。都庁での退職辞令交付式?に出席して職場に戻る途中、気づいてくれたのです。僕らが目立つところに陣取っていた証かも知れません。
 本日、東京都を退職する二人のために乾杯!しようと思ったら服治くんは固辞して職場に向かってしまいました。最後の最後まで仕事に忠実な公務員です。
 
 いつものことながら優子さんの気配りに驚きます。手作りの大きな餃子様の御馳走(韮菜盒子)が冷めないように、なんと氷枕にお湯を入れて暖めてきてくれたのです。この韮菜盒子がまたなかなかのもので初物に手を出さないぼくが珍しいことに二つもいただきました。

 韮菜盒子(チュウチェホウズ) http://blogs.yahoo.co.jp/maidomaido4649cn/44759712.html

 優子さんのお連れ合いはお祖母ちゃん(残留婦人)の長男ですが血縁関係がない(夫の連れ子)という理由で年金も生活給付金も受けられません。実子同様に生活をともにし、実子以上に親の面倒を見てきたのに理不尽な仕打ちです。優子さんは一人で5回も厚生省に掛け合いに行ったと言います。
 残留孤児は血縁のない中国人に育てられた人々です。日本政府が援護となったら血縁がないことを理由に拒否するとしたら理にも情にも悖(もと)ることになります。
 このことをぼくは先日知ったばかりです。裁判中の人がいると聞きました。近く知り合いの弁護士に聞いてみたいと思っています。
 人生の話は尽きることなく、私たちの交流は続きます。天候が怪しくなってきた頃、打ち止めとし、帰路に就くことにしました。
 東照宮、上野大仏、清水(きよみず)堂、王仁(わに)記念碑、彰義隊墓、西郷隆盛像と歩いたところで大阪からやってきたという青年の大道芸にしばし見とれました。ぼくから見ると綱渡りなどは奇跡に近く、感心するばかりです。それでも投げ銭は百円玉一個。けちくさいのです。大きな声でお礼の言葉だけはしっかりとどけてきました。

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