川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「甲子園の心」 佐藤道輔さん

2009-06-24 12:51:48 | こどもたち 学校 教育
高校野球の夏の大会が近づいてきたので大島高校野球部にかかわる記事を検索したらこんなニュースが飛び込んできました。

     元東京都高野連理事長の佐藤道輔さん死去
                朝日・2009年6月20日3時0分

 佐藤 道輔さん(さとう・みちすけ=元東京都高校野球連盟理事長)が16日、脳梗塞(こうそく)で死去、71歳。通夜・葬儀は近親者で行った。

 都立高校の社会科教諭で、32年にわたり硬式野球部監督を務めた。78年と85年には東大和高を率いて夏の西東京大会で準優勝。退職後もペルーの子どもたちに野球用具を贈る活動などを続けた。04~06年、都高野連理事長。著書に「甲子園の心を求めて」(報知新聞社)など。


佐藤さんはぼくの前任者です。61年4月から66年3月まで5年間に亘って大島高校の社会科の教員を勤められています。野球部の指導にあたるとともに舎監として寮生と起居を共にされました。佐藤さんが転任されたあと66年4月にぼくが赴任したというわけです。一度もお会いした記憶はありません。
 高校野球の指導者として当時から知られていたのか、そのお名前は忘れたことはありません。大島の一年先輩であるバタやンやモリさんはその人柄をよくしっていることでしょう。

 『甲子園の心を求めて』という著作があるそうです。


     『甲子園の心を求めて』
http://maglog.jp/benkei-books/index.php?module=Article&action=ReaderDetail&article_id=101970


 いま、大島高校『創立50周年記念誌』をひもといてみると、佐藤さんのこんな文章があります。

 大島高校にはいい生徒たちがいっぱいいた。私の若さにまかせた強い要求に応えて、自らの道を切りひらいていった優れた青年たちを、私は数多く知っている。…。今でも、あの頃のチームが、最も高校生らしく、強かったと私は考えている。ユニホームを泥まみれにして闘う球児たちは、私の胸のなかに輝いて残っている。


 退職の1年半後に書かれた文章です。教員生活の一番最初に出会った大島の高校生たちのチームが「最も高校生らしく、強かった」と述べておられます。甲子園にでたわけではありません。それでも「強かった」のです。佐藤さんはこの言葉で私たちに何を伝えようとしたのでしょう。

 『甲子園の心を求めて』を読めばその心が分かるかも知れません。野球部の顧問の仕事はアンテツさんが受け継いだのではなかったかと思います。民主主義の原理に忠実な方で批判精神にもあふれていました。アンテツさんは佐藤さんの心をどう読みとっていたのでしょうか。お聞きしてみたいと思います。

 夏の大会の東東京大会は7月11日から始まります。大島高校は16日になんと都立文京高校とあたります。
 ぼくが最初に世話になった学校と退職を迎えた学校の対戦です。どこに座って応援するか、難問です。
 部員も100人を超す文京は自慢のブラスバンドつきの大応援団です。対する大島はどんなチームなのでしょうか。応援団は例年だと大先輩のトランペット一つです。在京のOBOGたちが仕事の都合をつけて参じます。
 両校のOBOGの皆さん、7月16日(木)10時、明大球場です。

 両校に『甲子園の心』はやどっているのでしょうか。佐藤さんのご冥福を祈ります。(合掌)









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