川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

弘子さんを見舞う

2007-05-26 10:50:55 | 友人たち
「きいちご移動教室」の翌21日朝早く、新幹線で博多に向かいました。弘子さんの病「篤し」と聞いたからです。

昨年7月、天草への旅のはじめに佐賀県武雄市の郊外のお宅にお見舞いしたときには余命幾ばくもないと宣告されながら思ったより元気で、私たちをあれこれともてなしてくれました。
ここ犬走(いぬばしり)の里は弥生期以来、人々の営みがあったところで水清いところです。ホタルの乱舞が見事だと言います。
別れに際し、僕は来年夏、ホタルの頃にまた訪ねることを約束しました。水田の広がる丘の上の庭先で、弘子さんは遠ざかる私たちの車にいつまでも手を振って見送ってくれました。

博多から妻の運転するレンタカーで嬉野医療センターを訪ねました。夫のYさんが病室に案内してくれます。弘子さんは遠慮深い人で、親戚の方たちともあまり面会してないと聞いていたのですが、会ってもらえるということで、ともかく一安心。Yさんが私たちの訪問を知らせてくれます。
僕は闘病仲間としてその健闘をたたえ、約束を果たしに来たことを伝えました。私たちのことがわかったようです。うっすらと涙がにじんだように感じました。

土産に持ってきた写真を見てもらいました。4月29日の『<多文化共生をめざす>在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会終結記念の集い』の集合写真です。今朝、僕は当日の参加者にこれを発送して来たばかりです。
7年前に一緒に訪ねたことのあるTさんやかつての同僚であるKさんが写っています。Yさんが「みんな年をとったねー」といいながら指さして弘子さんに教えます。
昔話をしていると看護士さんが検温に来たのでYさんと別室で話をすることになりました。

この病院はかつて佐世保鎮守府の管轄下にあり海軍の専用だったということで、温泉町の西北の公園の中にあります。
病状について説明を受けていると「さっきの二人と会いたいといっている」と看護士さんが伝えてくれました。何を話すというわけではありませんがしばらくの時を過ごしました。
弘子さんが「水が飲みたい」とか短い言葉を発するたびにYさんはかいがいしく働きます。この部屋に寝袋を持ち込んでもう2週間にはなるようです。眠りから覚めたとき、Yさんが居ないと心配するので朝の4時頃には枕元に控えていると言います。
別れの時が来ました。Yさんが自分で摘んだ新茶を土産に持たせてくれました。今まではずうっと弘子さんが手塩にかけてきた嬉野茶です。「遠いところありがとうございました」とYさんが言うと、弘子さんが「遠いところありがとうございます」とはっきり挨拶してくれました。

その夜、私たちは嬉野温泉の和楽園という宿に泊まりました。窓の外に大きな樗(おおち)の木が枝を張り、花を咲かせています。昨日のバスの旅のテーマソング『夏は来ぬ』の一節にある風景です。
  樗散る 川辺の宿の 門遠く 水鶏(くいな)声して 
                  夕月涼しき 夏は来ぬ  
新茶の匂いのする温泉に浸り、昨日からの疲れはどこかに行ったようです。犬走の里で一緒にホタルを見ることはできませんが、弘子さんのおかげでこんな思いができたのです。

Yさんと僕は1969年に都立池袋商業高校に赴任し、文字通り苦楽を共にしました。全都ではじめて「主任」を廃止し、誰もが自分を生かせる職場づくりに取り組みました。
カリキュラムの改革で学校独自の「社会」の時間を作り、教師も生徒も時代の課題と向き合う努力も始めました。
そうした改革の中心にいたのがYさん・Nさん・僕の「はなの41年組」です。
速球一本槍で次々と難題を提起するのが僕だったとすれば職場の合意を形成するために地道な人付き合いを心がけたのがYさんたちでした。
非常勤講師組合の講師専任化闘争を巡って職場が分裂し、私たちが少数派になり、旧秩序が復活してからも、一人一人の生徒の生活現実を見据えることから教育活動を作っていこうとする私たちの営みは続きました。
「考える会」もそのような積み重ねの中から生まれたのです(75年)。
80年代の半ばに佐賀の実家に帰るまでYさんは一緒に歩いてくれました。僕にとっては人生の疾風怒濤期を共にしてくれたかけがえのない友人です。独特の節を持つ授業で生徒たちを魅了しました。

弘子さんとは職場も違い親交があったとはいえません。
Yさんの帰郷に際し、相談(?)を受けたことがあります。何でも控えめで我慢強い(ように見える)弘子さんも教職を辞して夫君の故郷に帰るについては大きな決断が必要でした。
どのような意見を言ったか、よくは覚えていませんが僕のことですから、自分の人生が大事だとますます困らせるようなことを言ったのではないかと思われます。

還暦を迎えた01年の8月にTさんを誘ってはじめて佐賀を訪ねました。
私立高校の夏期講習で忙しいYさんに代わって、弘子さんが有田や武雄を始め、あちこちを案内してくれました。
この15年の間に地域の人々の間にしっかり根を下ろし、女性団体の役員を務めるなど欠かせぬ人になっているようでした。この地方の名物“皿踊り”を披露して私たちをもてなしてくれました。
ここまで来るには並大抵の努力ではなかったと思います。
僕が肺ガンの手術をしたことを知り、激励を受けた後、まもなく弘子さんの病状が伝えられてきました。寝耳に水のことです。余命幾ばくもないと宣告されたと聞き、僕は一人泣いてしまいました。

体力が回復して、天草への長旅に挑戦する最初の日にお見舞いしたのは先に書いたとおりです。
天草でお会いした文京高校の生徒のおばあちゃんは私たちの想像を絶する人生をくぐり抜けてきた愉快な方で、ガンとの闘いでも大先輩でした。僕は戴いたエネルギーの大きさを思い、できることなら弘子さんを天草に案内してあげたいと思ってきました。
それはもはやかないそうもなく、今はおだやかな日々が友人たち夫婦の間に続くことを祈るばかりです。

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2 コメント

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あの笑顔 (カツヨシ)
2007-05-26 18:12:06
 しみじみ懐かしい感情と、粛然として襟を正すような思いに包まれて、読みました。

 Yさんという一個の人格によって、「考える会」は、いやぼく自身が、どれほど支えられ助けられてきたことか。言葉を一つ一つ置いていくような誠実な語り口、怒りや悔しさを胸に秘めて明快に、時に熱く時にユーモラスに、波のように繰り出す熱弁、そしてあの味わい深い笑顔。生徒たちの尊敬と信頼を一身に集めていたのもうなずけます。ぼくにとっても、「困ったときのYさんだより」的存在でした。「(日本の学校に在籍する在日コリアンが集う)高校生交流会」でいつもリーダーシップを発揮していたのはYさんの学校のメンバーでした。「考える会」が荒川区の三河島で地域活動の拠点とした「木いちご舎」の名付け親もYさんでした。
 
 弘子さんについては、二つの場面が鮮やかに記憶の中に刻まれています。ひとつは、啓介さんも書いている(Yさん一家の帰郷をめぐっての)「相談」の場面です。啓介さんは概ねあのように意見を述べ、弘子さんの表情は微妙に揺れていました。もうひとつの場面はそれから15年後、啓介さんに誘われて佐賀を訪れたとき、Yさん夫婦の心のこもったもてなしを受け、「もうすっかりこの土地の人間になりました」とさりげなく言って、弘子さんが“皿踊り”を踊って見せてくれた光景です。穏やかで温かいあの笑顔で。本当に笑顔がよく似合う夫婦です。

 昨春Yさんはぼくの体調を気遣って電話をかけてくれ、弘子さんの様子も伝えてくれました。「粘り強く生き抜こうとしている姿に、こちらのほうが励まされているんですよ」と(努めて)明るく語るのでした。

 励まし合いいとおしみ合う日々が続きますように。
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無題 (h.matsumoto)
2007-06-01 00:39:24
濱づたひたづね來て
その住居見いでたり
菜畑と松の林に囲まれて
人遠くつつましき家のほとりに
わが友の立てる見ゆ

(中略)

われがためには 心たけき
道のまなびの友なりしが
家にして 長病みのその愛妻(はしづま)に
年頃のみとりやさしき君なりしとふ

その言(こと)やまことなるらむ
海に向ひて立つひとの
けさの姿のなつかしや
思はずも涙垂るれば
かなしみいはむと來しわれに
かがやかしきかの海の色かな
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