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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

売木村「山村留学センター」

2012-04-13 12:36:30 | 出会いの旅

4月13日(金)☼

昨夕、5時過ぎ、川越に帰着しました。一週間にわたる三遠南信の旅を無事終えることができました。

これから娘が生活することになる三河の地の人々にお会いして親しくなれたことは何よりの喜びです。はからずも三河の各地を訪ねて天神地祇・諸仏に祈願する旅にもなりました。柄にもないことですが他郷に娘を嫁がせる親の心情が発露したのでしょう。

春爛漫、これ以上はない天候にも恵まれ、ただただ感謝あるのみです。おかげさまで体調も徐々に回復し、食欲旺盛で妻や娘を驚かせました。昨朝、朝風呂で体重を測ったら65Kg、出かける前より2kgは増えていました。抗生剤の服用の成果か、顔面や頭皮の湿疹・カサブタの状態もずいぶん改善されたので気分も良くなってきました。我が身にもめぐってきた春の日々を元気に過ごせそうです。

 旅のメモ。

11日(水)☂

 愛知県最高峰の茶臼山の真下に広がる茶臼山高原の標高は1200mあまり。しのつく雨の朝だが幾重にも重なる山並みが水墨画のようだ。スキー場にはまだ雪。朝風呂の後をゆっくり過ごして、信州(長野県)側に下る。

売木(うるぎ)村の「山村留学センター」を訪ねた。

ここに留学していたSさんのお孫さんのことを「川越だより」に書いたことがある。4年前のことだ。

 「山村留学を国策に」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/3640b42b594788f6670639b40abca9b4

突然の訪問だったが、教育委員会の「山村留学センター長」の村松松美さんが応対してくれた。途中からは指導員の若い女性お二人も加わってくれる。6人いる中学生は当然のことながら登校中でセンターは静寂。

     

(こどもたちはここで生活する。月に7日は農家にホームステイ)

 

 長く「育てる会」というNPO法人が運営してきた売木の山村留学は今春から売木村教育委員会の直営事業となったという。

村松さんは役場の職員をしながら長く留学生の「里親」を務めてきた。Sさんのお孫さんも世話したというので話は弾んだ。今は東京の高校2年生だが、売木中学留学中には長野県中学生弁論大会で一位になったとか。

 面白かったのはSさんとの縁。Sさんのお孫さんがホームステイしたときに「おじいちゃんの本がなぜここにあるの?」と聞いたらしい。村松さんはもともとSさんの本の愛読者で、奇縁に驚いた。祖父の本は読んだことがないというのでこども向きの本を買い求めてプレゼントしたという。『北朝鮮による拉致を考える : 中学生・高校生に知ってほしいこと』(明成社)、かな。

 ご両親にはお会いしたことがあるがSさんにも是非ここを訪ねてもらいたいと言っておられた。Sさんは僕が在日コリアン問題に気づいたとき、一緒に歩きながら道筋を教えてくれた大先輩。時に意見は違うことがあっても僕の感謝と尊敬の念が消えたことはない。

村松さんの人生話を少しだけ伺った。改めて、できればSさんと一緒にこういう機会を作りたいものだ。

僕は4年前に書いたと同じことを力説していた。現実は厳しく、なかなか「国策」にはなりそうもない。福島の原発事故があった昨年はなんと留学生は一人だけだったとか。村の呼びかけに応えて定員オーバーしているのかと僕は勝手に思っていた。

「集団疎開と山村留学」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/40743c8eb453ff8041ba55cd215f6c4a

指導員のお二人はそれぞれ東京と大阪の出身で子どもの時に山村留学を体験したという。こういう人はこの時代の「寳」。思い切り働けるように国策を樹立するのが火急の課題だ。

山村留学●http://www.sodateru.or.jp/blog/jimukyoku/archives/2012/02/post_41.html

12日(木)☼ 暖かい

伊那市の羽広荘。雨上がりの青空、南アルプス連峰の眺めが凄い。朝一のイチゴをお土産に買い込んだあと高遠の「国立少年自然の家」へ。広大で立派な施設。いつか、利用する日があるか。

昼食は白樺湖畔。オカズは鯉の旨煮(うまに)。昨日の夕食の「残り」を妻が大事に持ってきた。羽広荘の夕食は豪華でとても食べきれない。

信濃路はまだ「冬」だが今日は湖畔も暖かい。佐久から群馬県下仁田に降りる。峠を下って街に近づくにつれて春景色が広がる。

 

 

 


南アルプス

2012-04-12 06:58:17 | 出会いの旅

4月12日(木)晴れ

伊那の丘の上に立つ国民宿舎です。6時前には陽がさしてきました。南アルプスの山々も姿を見せています。いよいよ旅の最終日です。

昨日は雨の中、売木村の山村留学交流センターを訪ねました。ここでも嬉しい出会いがあったのですが報告は帰ってからにします。


不思議な縁に恵まれて… 梶村秀樹さんの墓参り

2012-04-11 09:39:36 | 出会いの旅

4月10日(火)晴れ

桜の美しい岡崎城址を散歩。ここは家康の生まれたところで江戸時代は譜代大名の領地。

高速で移動し、豊川稲荷に参拝。長篠に向かおうとしたら三河の国一ノ宮「砥鹿神社」に出会ったのでまたまた参拝。ここで昼食。お稲荷さんの弁当。

長篠城近くで梶村秀樹さんの墓参りを試みる。鳶の巣山の中腹に梶村一族の墓を見つけたが「秀樹」さんの名が刻み込まれたそれを尋ね当てることはできなかった。鳶の巣山古戦場の碑を見て、むなしく帰途についたときに奇跡が起きた。

(これから後の顛末は川越に帰ってからのことにしよう。)

私たちはお墓参りはもちろんのこと、梶村さんの実家跡や菩提寺まで訪ねることができた。長年の願いがこんな形で実現し、感激。

 

(梶村さんの故郷 乗本の風景)

 

奇縁に恵まれた感動に包まれつつ、鳳来寺山に向かう。夕暮れ近く鳳来寺と東照宮に参詣。きつつきのドラミングが聞こえる。

愛知県の最高峰茶臼山の休暇村に着いたのは5時半近く。


三河好日

2012-04-10 07:16:05 | 出会いの旅

4月9日(月)晴れ

御油・赤坂と東海道の宿場を訪ねる。御油橋付近の土手の桜が豪華絢爛。松並木も歩いてみる。

続いてもう一つ、藤川宿。ここはゆっくり通り抜けた。岡崎の近くで楠の大木に魅せられて山中八幡に寄る。家康が一向一揆から逃れ、助かったという岩屋があった。

岡崎城方面が渋滞しているので花見は明日とし、急遽、蒲郡での昼食とする。

ここには40数年前一泊したことがあるがなんの記憶もない。潮干狩りで賑わう干潟を見ながら「竹島」に渡り、「八百富神社」に参詣した。

三河の人となる娘夫婦への加護を祈願。僕としては珍しく公式参拝。 

幡豆・吉良を経て4時過ぎにはJR岡崎駅前のホテル着。

三河出身の友人といえば神谷さん。明石住まいだが実家に帰っているかな?「娘を頼む」と久しぶりに電話してみた。

お母さんを看取って以来、三河に帰ることはめったにないらしい。今は僕とは「同病相哀れむ」関係になったとか。そうだったのか。

互いの「健闘」を祈って再会を楽しみにする。

 

 


無事、三河に入国

2012-04-07 17:23:53 | 出会いの旅

4月7日(土)☼

4時前無事愛知県豊橋駅前の「東横イン」に到着しました。まもなく、娘たちが来て夕食をともにしてくれるそうです。

6日(金)☼ 10時 川越~河口湖~富士が嶺開拓地~富士~浜名湖西~国民宿舎・奥浜名湖 16時

  仰ぎ見る冨士。 駿河路に入ると高速道路も花・花・花‥。快適な宿・ゆっくり休む。

7日(土)☼ 細江の街におりて都田川の岸辺の桜並木を散歩。満開。今日は「姫様道中」の初日で多くの人が祭りの「準備中」。

浜松市細江町の姫様道中のお姫様一行

 (こんなふうに賑わうのだろう)

出典●http://guppy.cocolog-wbs.com/nikond300/cat21405804/index.html#mce_temp_url#

10時前、人出を避け北へ。桜の美しい寺があったので寄ってみる。龍谷山正泉寺。静寂・平和。

龍潭寺。この辺は井伊谷といい、井伊家の本貫の地だという。近くの城山にもふうふう言いながら登ってみた。

ハクレン

午後は浜松から東海道に出て豊橋へ。途中、白須賀宿による。

 

 


みなみの桜

2012-03-14 23:54:17 | 出会いの旅

3時過ぎ、川越に無事帰着。天候に恵まれて、伊豆でのんびり過ごすことができました。

 

3月13日(火)☼

圏央道・中央道で須走へ。御殿場ー三島ー修善寺ー伊豆高原。

入浴・食事が精一杯。10時間ぐらい寝る。

 

●3月14日(水)☼

人ごみの河津を素通りして南伊豆町へ。「みなみの桜」は超満開。人の姿をほとんど見ない青野川に沿って歩く。菜の花も満開だ。

 出典●http://aoki-sazae.com/kaika.html

 

妻良の食堂で昼食。娘さんが大宮からこどもづもれで帰省中で家族が盛り上がっていた。

南伊豆町に別荘のあるKくんに電話してみた。残念ながらご本人は東京の自宅に帰ったばかりだった。

帰りは西伊豆を北上。松崎町石部に棚田があると言うので寄ってみた。

この辺には40数年前から来ているがこんな山の上まで耕されているとは思いもよらなかった。

 出典●http://ishibu-tanada.com/blog/category/photo/

●3月15日(木)☼

風が収まったので昼前に「イガイガ根」の駐車場に車を停めて、城ヶ崎海岸を少し歩く。タルセバのせいか、疲れやすく、海沿いの平地で昼食の後、小憩。午後はホテルに帰り入浴の後昼寝。

●3月16日(金)☼

海岸沿いの道を伊東に向かう。潮吹岩公園に寄る。昔と比べると小規模な「潮吹き」のようだが3度目で初めて目撃した。

ちーさんのブログ

 出典●http://ameblo.jp/izu-a-r-r/entry-10894523033.html

宇佐美で干物とみかんを買ったあと亀石峠へ。伊豆スカイラインー箱根ー御殿場ー山中湖ー道志村(昼食)ー相模湖ー中央道・圏央道ー川越。

スカイラインからの冨士の姿がすごい。仙石原のススキの原は野焼きの跡がくろぐろと広がっていた。

退職からまもなく10年、伊豆高原の保養所にはずいぶん世話になった。格安で保養できる特典が終了するので今までのようには利用できなくなる。

 


春は東三河へ

2012-02-05 10:27:11 | 出会いの旅

 2月5日(日)☼

縁あって4月初旬に愛知県東三河地方(豊川・豊橋・田原・蒲郡など)を訪ねることになりました。昨秋、遠州・浜松の村上くんに世話になったばかりです。今度はその西隣です。縁とは不思議なものですね。

 早速、黒い箱でどんなところか?探索して、旅の夢を膨らませています。

①御油(ごゆ)宿   

 東海道の宿場町。広重の「東海道五十三次」には旅人を奪い合う女たちのユーモラスな風景が描かれています。

次の宿場・赤坂まで松並木が残っているようです。

御油宿の松並木

②為当(ためとう)稲荷神社の春の大祭

お目当ては4月8日のこの神社の「花の撓(とう)」という神事です。吉凶を占い五穀豊穣を祈る祭りです。さて‥?

 

為当稲荷神社花の撓・●http://www.tametou-inari.com/gyoji.html

 


牧水と神子元島 須崎の恵比須島で

2012-01-15 06:04:59 | 出会いの旅

 

 

1月11日(水)☼                     9時半頃から城ヶ崎海岸自然探求路を歩く。蓮着寺から海岸沿いのUP/DOWNの激しい道を6Kmぐらい。伊豆高原の駅に着いたのは12時半ごろ。よたよた、ゆっくり、ゆっくり。普通の人の2倍くらいの時間が掛かったかな。それでも歩き通すことができてよかった。すこし、自信を回復したか?歩きなれた道だが照葉樹林の植生も豊かで興味の尽きない3時間だった。

1月12日(木)☼                                                                               朝湯に入ると周りの木立は雪景色。元気な時だったら雪見酒もいいなと思うかな。どんどん晴れ上がってきたので下田の須崎の遊歩道を歩きに行く。ここもUP/DOWNは激しいが神子元島(みこもとじま)を遠望する景観はなかなか。何年か前に世話になった海上保安部OBの方の別荘によってみたが留守だった。今回はここから裏道を通って須崎港に引き返す。案内板を見たら「恵比須島」とあったので行ってみた。        

小さな島だが大いに気に入った。岩の形状が面白い。展望台のそばに若山牧水の歌碑がある。

 

友が守(も)る 灯台はあはれ わだなかの 蟹めく岩に 白く立ち居り 

 

「若山牧水は大正2年10月28日神子元島の灯台守である大学時代の学友古賀安治を訪ねる為渡島し、1

週間留った。その折の体験は、80首の大作となって歌集「秋風の歌」に収 められ、又小説「灯台守」や小品

「島三題」の一となった。わが郷土が大歌人によって詠まれたことを誇りとし、永遠に敬慕するよすがとしてそ

の中の1首を碑に刻み、この地に建てることにした。染筆は特に嗣子若山旅人に請うたものである。

                                                  昭和55年6月1日」

出典●http://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/ebisujima.html

 

 

僕の枕頭の書『若山牧水 伊豆箱根紀行』(木蓮社・村山道宣編)には小説『灯台守』と歌六首が収められている。この本によれば

牧水が神子元島の灯台を訪ねたのは29歳の時だ。

長男・旅人が生まれたばかりだったが自らの結社の機関誌の資金繰りなどから逃げ出すように東京を後にしたらしい。

『灯台守』を読むと友人に灯台守になることをすすめられて真剣に悩む様子が克明に綴られている。

そうはならなかったが過酷な自然条件のただ中での一週間の生活は牧水の自然観にただならぬ影響を与えたことだろう。

   

 

 船は五梃櫓 漕ぐにかひなの 張りたれど 濤(なみ)黒くして 進まざるなり

 次のうねりは われの帆よりも高々と そびえて黒く うねり寄るなり

これらの歌もこの時の作品。岩礁のおおい難路である。だからこそ神子元島灯台が作られた。いま、恵比須島の牧水歌碑の脇に立ってみても白波の寄る岩礁の向にその灯台は立つ。恵比須島の恵比須さんと神子元島の灯台が地元の漁師たちの心の支えだったとか。納得の行く話である。

 

 

 

 

 


大瀬崎

2012-01-14 11:38:00 | 出会いの旅

昨日午後、伊豆高原での保養から帰ってきました。

伊豆半島はたびたび訪ねるところですが今回も新たな発見?がありました。

 

1月10日(火)☼

 沼津から海沿いの道を大瀬崎へ。手術後に勝義さんや敬宰さんと一緒にドライブした道です。

①大ビャクシンの森

大瀬神社の社叢となっているビャクシンの森には驚くばかりです。海からほとんど距離のないところで何百年も風雪に耐えて来たのです。

 

②大瀬神社の彫刻

 富士山をバックに建つ大瀬神社の彫刻には目を見張るばかりです。龍や獅子、天狗・カラス天狗などが本殿の四周に彫り込まれています。

引手力命(ひきたじからのみこと)神社というのが正しい名前だとのことです。人里離れた岬の一角にあるありふれた神社に見えますがかなりの財力がなければこれだけ豪華な彫刻を施すことは困難でしょう。

 室町時代には熊野水軍の鈴木繁伴が此処に拠ったという館あとがあります。古来、海の神様として駿河湾一帯の人々の信仰を集めてきたのでしょう。

龍と獅子の彫刻 

出典●http://tottokocubtaro.seesaa.net/upload/detail/js/1127ose10.jpg.html

もう40年も昔、池商の先輩同僚の大木薫さんの実家で自転車を借りてこの辺から戸田・土肥・修善寺・沼津とサイクリングしたことがあります。帰ってから大木さんに旅の報告をしたら実家は西浦の平沢だとのことです。

大祭や遠足で小さい頃から大瀬崎にはよく行ったそうです。(僕が室戸岬に行ったと同じようなものかな)。お互い、元気なうちに大木さんを誘って故郷をゆっくり案内してもらう楽しみが湧いてきました。大祭は4月4日だということです。 


飯豊連峰

2011-12-18 07:26:07 | 出会いの旅

新潟から帰って3・4日経ったがあちこちから眺められた飯豊(いいで)連峰の景観が思い出される。

14日朝、寺泊の宿を出て日本海沿岸を新潟に向かった。新潟近くなって車窓に遠く雪の山並みを見たときは思わず感嘆の声をあげたものだ。

   (瓢湖からの遠望)

 出典●http://terujiji.tea-nifty.com/yamayama/2008/12/index.html

 

 福島潟では16日に今年初めて積雪があったという。青々としていた菜の花畑も雪の下になったのかな。見てきたばかりの風物が雪化粧している様子を想像して楽しんでいます。

      (福島潟)

出典●http://kamuri9.blog14.fc2.com/blog-entry-59.htm

坂中英徳さんの北朝鮮帰国者救出への熱い思いに共鳴して12・14集会に参加するようになって3年。おかげで冬の新潟の良さも知ることができるようになった。皆さんが新潟を訪ねたら福島潟には是非寄ってみてください。僕はもうすっかり魅了されました。

HP「水の公園 福島潟」●http://www.pavc.ne.jp/~hishikui/index.html


ヒシの実

2011-12-17 15:57:48 | 出会いの旅

新潟の福島潟はガンの仲間の大ヒシクイが越冬することで有名だと知りました。「ビュー福島潟」で見た実物大の模型は結構大きく、羽を広げると170cmもあるということです。カムチャッカ半島からわたってくるそうです。

 ヒシの実が大好きなので「ヒシクイ」だとか。何も知らなかったなあ。ところで「ヒシ」って?「ヒシの実」って?妻に教えてもらいました。

          (ヒシ)

                 

 (ヒシの実)

出典●http://www.mitene.or.jp/~kakoya/p/hisi.html

 菱形(ひしがた)というのはヒシの実の形から来ているのですね。殻が硬いけれどクリのような美味しさがあるといいます。アイヌは菱の実を「ペカンペ」と呼び食料にしたそうです。

 ヒシの実採り●http://www.youtube.com/watch?v=pjfJzZodfGk


新潟 水辺三昧

2011-12-16 07:05:07 | 出会いの旅

12月12日(月)☂

 10時前新潟着。雨。レンタカーで北方文化博物館(豪農の館)を見学したあと、阿賀野川の岸辺をゆっくり遡る。水量の豊かな川である。途中、流れの傍にまで降りてその景観に見とれた。

 

  

今宵の宿のある咲花温泉の対岸にある川下りの舟の乗り場で若い船頭さんの話を聞いた。埼玉・越谷の出身だという。この辺は夏に水害に見舞われ、川下りのコースもまだ完全には復旧していないらしい。「菅名岳」という酒に関わる話が印象に残った。

 毎年「寒九の水汲み」に多くの人が参加する。寒さの厳しくなる「寒の入り」から九日目に菅名岳に登り「どっぱら清水」を清酒「菅名岳」の仕込み水にするために運び出すのだ。一人が20リットルを背負うという。楽な仕事ではないがこれに参加した人に「菅名岳」を味わう権利が生ずるらしい。

 

13日(火)☼

 朝から快晴。碧水荘は阿賀野川の水辺に建つ。水害から復旧したばかり。その庭で。

 

  

瓢湖(ひょうこ)

ちょうど餌をやる時間だった。カモの群れが盛り上がる。

シベリアからやって来た白鳥の姿があちこちの田んぼに見られた。稲の根っこを掘って食べるのだという。

 

  

福島潟

後ろに見えるのは飯豊(いいで)連峰か。展望台も水辺の散歩も心に残る。こちらにはオオヒシクイが滞留している。冬の新潟にこんないいところがあった。春にも来てみたい。

たんぼに描かれた絵の原画は小学生の作品

    

 

 

 


秋野不矩美術館  秋葉街道の旅メモ④

2011-12-03 06:14:19 | 出会いの旅

 

 

11月12日(土)☼

 「静岡県森林公園森の家」のあさは素晴らしかった。夜来の雨で綺麗になった空に登る朝陽!

 この公園は広大で一日かけても歩ききれない感じ。●http://www.morinoie.biz/nature/

 村上くんに案内してもらったので浜松はどこも忘れられないが二俣の秋野不矩(ふく)美術館は印象深い。絵はもちろんのことだが建物そのものが四周の景観に溶け込んでいる。インドの民家にヒントを得ているのか。

 

 

「外壁は、藁入りモルタルに左官用ハケで土を塗った仕上げ、内部は、白大理石の床に、ざらっとした漆喰塗りの壁、天井。この土っぽい壁に掛けられた、一連のインドの風景や自然をとらえた「絵」が、圧倒的によい。」出典●http://www.kaguraoka.info/report/man/man12.htmlDSC05721.JPG

 

 秋野不矩美術館●http://machi-log.jp/spot/929

 


峠の国盗り綱引き合戦 秋葉街道の旅メモ③

2011-11-26 17:17:55 | 出会いの旅
10日(木)の宿は民宿「このた」。静岡県境・兵越峠(ひょうごしとうげ)に近い長野県飯田市(旧南信濃村)の山里・此田の傾斜地に建つ。夕食後女将さん・若主人との話が弾む。大屋敷さん親子。絵の上手な高校生とそのお母さんは学校に近い町でアパート住まいだという。
 遠山郷 の写真
 お話のなかに「国盗り綱引き合戦」が出てきた。
 
 毎年10月に行われる遠州軍(静岡県浜松市天竜区水窪・みさくぼ町)との戦いで今年は信州軍が勝利し、国境が1m太平洋側に移動した。信州側は遠州灘までを攻略して信州を海のある国にしたいが25回にわたる合戦は五分五分で目的達成はおぼつかないのが現状だ。此の合戦の信州軍の先鋒はこのところ大屋敷さんが務めている。
 
 これは去年の写真だがなるほど若主人の戦闘姿が写っている。
遠山郷 峠の国盗り綱引き合戦の写真 
 
 今年の戦いの様子がユーチューブに登載されている。よかったらご覧になってください。僕は参加したことがあるわけではないのにいつの間にか合戦のただ中にいるような気になった。
 
2011年10月23日 第25回 峠の国盗り綱引き合戦
 
 翌日(11月11日)は朝から雨もようだったがその昔、武田信玄が兵を進めたという兵越峠で現代の綱引き合戦の戦場を見学した。
 中央構造線が通るこの辺リは地盤がもろく国道152号は青崩峠を貫通することができず未完成のままだ。車は迂回する林道で兵越峠を超えている。思ったより広くて立派な合戦場が峠の頂上部分に整備されていた。観戦席も用意されていた。
 
 こういう合戦ならいつまでも続いて欲しいものだ。村落の少子高齢化で似たようなイヴェントが終結したところもあるようだ。
 
 このあとは雨が本降りになった。青崩峠を見学したあと傘をさして秋葉神社に詣でた。浜松の産業界の守護神なのか、参道をはじめ境内のいたるところが花崗岩張りの豪華な作りであった。これに比べると里宮は質素でどこの村にもあるお宮さん。昔からの土産屋兼食堂でお昼とした。

校歌と部落差別   秋葉街道の旅メモ②

2011-11-25 09:43:15 | 出会いの旅

9日に泊まった赤石荘の露天風呂は良かった。お湯はツルツルだし、正面遠くに宝剣岳が見える。横浜から来て絵を描いているという同世代の方と長湯した。度々来ては描いているという。

 10日(木)の午前中に中央構造線博物館とろくべん館に寄った

 ●http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/subindex01-02rokuben.htm

 「ろくべん館」(大鹿村民俗資料館)の入口近くに旧大河原小学校の校歌板が架かっていた。四周の景観が謳い込まれ、郷土愛に満ちた詩である。

 

大河原小学校校歌
    森 識作詞 

 南アルプの名を負いて
 盟主とそそる 赤石岳
 岩根洗うて せんかんと
 四時に流るる 小渋川

 山嶺遠く 天がけり 
 白雲つねに湧くところ 
 見上ぐる空の その峡に 
 我らが郷土 大河原 
 
 鳥倉山に 秋たけて 
 雪こそつもれ 青木谷 
 大西山に 春すぎて  
 夕べ涼しき 島川原 
 
 山の端近き 御所のあと 
 信濃の宮に 福徳寺 
 夕日に映ゆる 松平 
 追手かためし 堀田城 
 
 ああ 山川の霊うけて 
 古き歴史の 血をおそう 
 我らが行くて 想うとき 
 高き希望に燃ゆるかな 
 
 高嶺に花の香をさぐり 
 谷間に水の精をくみ 
 大地にめぐむ 悠久の 
 平和と文化をうちたてん

ここに名前はないが作曲したのは大河原小学校の先生だったという。その先生が「の出身らしい」という噂が流れて、先生は忽然としてこの村から姿を消した、とか。

 いつごろの話か聞き忘れたが僕の記憶に深く残った。藤村の「破戒」が世に出たのは明治の終わりころだが、同じ信州にこんな話が隠されていたのか。「平和と文化をうちたてん」と謳っている。第二次大戦後のことであろう。やりきれない話だがこれが雄大で美しい自然に恵まれた信濃の人間界の現実だったのだ。

今はどうなっているのか?

 大阪の市長選挙を前にした新潮社や文藝春秋社の雑誌の「橋下たたき」はいくらなんでもひどすぎる。「橋下の出自は」「父はヤクザで自殺した」「いとこは殺人事件に関係」‥。いくら「公人」だと言っても人々の心のなかに差別が温存されているなかでこんなことを書き散らすことが許されていいのか。

 僕は橋下徹候補に対するこの卑劣極まりない差別攻撃とそれを許容しそれに与する者たちを許すことはできない。解放同盟はどうしているのか?解放の旗を振り続けてきた大阪の教師たちはどうしているのか?

 橋下候補の政策に賛成するか反対するかとは別次元の問題だ。こんな攻撃を許しておいて「人権」を唱えてどんな意味があるのだろう。

  参考意見● http://kanrishoku.jp/column.html

 

もうひとつ、注目というより疑念に思うのは、解放同盟の対応である。

 解放新聞大阪府連版に、大阪府連が『週刊新潮』・『週刊文春』に、抗議文を送付したことが載っている。しかし、問題の性質と影響力の大きさを考えれば、中央本部で取り組むべき課題と思うが、どういうわけか大阪府連が抗議主体となっている。しかも、直接の当事者、橋下前府知事と連絡を取った形跡が無いのは不思議だ。橋下氏は、氏のツイッターで精力的に、2誌の取材記者の実名を上げてまで批判している。

 北口末廣委員長名で出された大阪府連の抗議文には、「私たちは、こうした差別をなくすために運動を進めていますが、橋下徹氏を擁護するために抗議しているのではありません。」との一文をわざわざ記している。

 どんな意図の下に書き記された一文か、意味不明だが、直接の被害者であり、当事者である橋下氏に対して、彼が公人であり、また、いかに政治的主張や立場が対立しているとはいえ、あまりにも冷酷な一文と言わざるを得ない。

 解放同盟は、差別に反対するか否かの一点で結集した大衆団体だ。

 だからこそ、差別ハガキを何百枚も送りつけられ、くじけそうになる重圧と苦しみの中から抗議糾弾に立ちあがった東京在住のUさんに、解放同盟の東京都連は全力で支え、共に闘っているのである。

 どのような立場の違いがあろうとも、差別(しかも選挙前というこの時期に差別キャンペーンが張られたことは非常に問題だろう)に抗議して正面から週刊誌2誌と対決している橋下氏を支え、この点において擁護すべきではないのか。本末転倒した一文と断ぜざるを得ない。

 政治的思惑を優先させて、橋下氏に会おうともせず、また励まそうともしない組織は、“兄弟愛”にあふれた宣言の精神とは、かけ離れていると言わざるを得ない。