街の記憶&買っちゃった  by keisho

住んできた街などの記憶
本、マンガ、CD、DVDなどの購入記録

上馬 その2

2005-04-09 | 街の記憶
上馬(最寄駅は駒沢大学)に住むことの魅力はたくさんあった。

まずは、何かと移動するのに便利だった。

昔からの商店街などがある三軒茶屋へは歩いても行けた。
渋谷へは東急の駅3つなのですぐ行けたし、二子玉川へも駅3つだった。

また、下北沢へも車で約15分で行けたし、自由が丘へも車で約15分だった。
(ほどなく、向かいのアパートの駐車場を15,000円で借りていた)

環7が近いし、環8へも246を通ればすぐだった。
ということは、首都高や東名高速道路なども利用しやすかった。

しかも、当時は半蔵門線が半蔵門止まりだったため通勤の帰りは100%座ることができたし、青山一丁目表参道などにも気楽に途中下車できた。

つまり、どこへ遊びに行くのも買い物に行くのも殆どストレスはなかった。
恐らくこれが真の都会暮らしなのだと思う。
東京でも人気のあるスポットは、いきなり身近な場所になってしまった。

アパートのあった場所は、246沿いでも環7沿いでもなかったので騒音は殆ど気にならなかった。
また、都会ではあるがすぐそばに神社があり、祭りの時などには出店も出ていた。

早くから緑道(かつての用水跡)も整備されていたし、既に三茶には“冒険遊び場”もあったし、なんといっても15分も歩けば駒沢オリンピック公園に行くことができた。

驚いたのは、住宅地を散歩していると、いきなりレストランやケーキ屋さんが出てくることだった。
これらは、何だか趣味でやってるような店が多かった。


こう考えてみると、“狭くなったのに家賃が松戸の倍”というのも充分うなずけるものだった。


上馬 その1

2005-04-08 | 街の記憶
就職を機に、世田谷区上馬(かみうま)に引っ越した。
時代は1980年代半ばになっていた。

当時、許容できる通勤時間は“ドア・トゥ・ドアで30分”までだった。
会社が半蔵門にあったので、地下鉄半蔵門線とそのまま繋がっている東急新玉川線沿線が候補だった。

賑わいのある「三軒茶屋」が当初の希望だったが、悩んだ末に隣の「駒澤大学」で手を打ったのだ。
上馬は、国道246号(ニーヨンロク)を挟んで駒沢公園の反対側に位置していた。

上馬あたりは2階建ての住宅が多く、住んでいたのも2階建てアパートの2階だった。
ただし、1階はアパートではなく、全部が大家さんの家になっていた。

“6畳+DK+バス・トイレ”とかなり居住空間が狭くなったにもかかわらず、
逆に家賃は5万8千円と松戸時代の倍になっていた。

最初は給料が安かったので駐車場を近所で借りる余裕がなかった。

仕方がないので、「溝の口」にある友人の会社の寮の隣に駐車場を借りてもらっていた。
これは1年くらい続いたと思うが、その間は“クルマに乗る為にはまず電車に乗らねばならない”という実に理不尽な状況だった。

狭いながらも、“閑静な住宅地”での社会人生活が始まった。

(続く)

松戸 その2

2005-04-07 | 街の記憶
松戸は、80年代初頭に既に人口40万人を越える“大ベットタウン”だった。

常磐線で上野まで20分という距離は、通勤には程よいものだったようだ。
確かに買い物などでの不自由は全くなかった。
ただし、高知に住んだ時のような新鮮な驚きや発見も殆どなかった。

松戸には結局3年間住んでいた。だから愛着がないわけではない。
住んでいたのは“不気味な”新興住宅地ではなかったが、何だか面白味がなかった。

もちろん大学生活は快適で、楽しいこともいっぱいあった。
しかし、そもそもベッドタウンというのは、培った歴史が浅い分アイデンティテイに欠けているのだろう。
人とモノが溢れる街に感激するのは、田舎から出てきた者だけだろうと思う。

また、実際に通勤していない者にとっては、感覚的に東京は遠かった。

駅まで徒歩20分という“遠く”に住んでいたせいかもしれないが、“JRで20分”という距離は“地下鉄の20分”と比べて物理的にも遠かったのだと思う。
新橋あたりにはちょくちょく遊びに行ったが、特に新宿・渋谷方面、つまり“東京の西側”にはめったに行くことがなかった。

一時、アルバイトで都内に通った時期があった。

幸いにも常磐線ではなく千代田線で通えたのだが、あの電車の混みようは異常だった。
はっきり言ってどうかしてる。
ここ10年あまりで、首都圏の鉄道の混雑率はかなり低下しているようだが、当時は全くひどかった。
確か常磐線の駅では、毎朝入場規制していたようにも聞いた。

タダならともかく、運賃を払ってあの満員電車を我慢して利用しているというのは普通の事ではない。
全く理解できない世界だった。
心の中では、「こいつらは救いようの無いバカだ」とも思っていた。

その後、都内に就職した際、“松戸に住んで通う”という選択肢が0%だったのは言うまでもない。

松戸 その1

2005-04-06 | 街の記憶
大学院に進学し、松戸に引っ越した。千葉県の松戸市だ。
時代は既に80年代になっていた。

なぜ松戸かというと、単純に大学がそこにあったからだ。
関東の人間は、当たり前のように大宮や横浜からも通っていたようだが、私は大学というものは近所に住んで通うものだと考えていた。
また現実的には、江戸川を越えて千葉県に入ると家賃がぐっと安くなるせいもあった。

大学には農場もあってかなり敷地は広いのだが、地図で見る分には大学の隣に住んでいたことになる。
2階建てのアパートで、家賃は3万円弱だったと思う。

部屋は1階だったが、目の前には空き地が広がっており日当たりはよかった。
風呂場に富士山の絵が描かれていたり、3畳と6畳の部屋の間には欄間があったりと、アパートとしてはちょっと変わった部屋だった。

大学のすぐ側に住んでいたため通学にクルマを使うことは殆どなかったが、とりあえず高知からクルマも持って行った。
ただし、なぜがアパートの駐車場がタダで、空いている時に“停めたもの勝ち”だった。
また駐車場が満員の時でも、目の前の道路が行き止まり道路で“駐車し放題”だったため、幸運にも駐車場代を払うことは1度もなかった。

都内、千葉、茨城に親戚がおり、友人も東京にいたので、それまでにもちょくちょく関東に遊びに来ることはあったが、住んだのはこの時が初めてだった。
ただし関東とはいっても、坂道を登って、農場の中を抜けて、木々に囲まれた大学に通うという、実にのどかな光景ではあった。

また大学の研究室も、先生を含めてなぜか西の人間ばかりだったので(静岡出身者が最も東の人間だった)、特に違和感を感じることもなく関東での生活が始まった。

(続く)

南国土佐 その3

2005-04-05 | 街の記憶
大学3年になり専門課程に進むと、高知市の隣の南国市に引っ越した。

とってつけたような名前だが、ここは高知空港がある街だ。
大学の校舎、牛の放牧場、空港が整然と並んでいたが、考えてみれば不思議な光景だった。

農家の離れなどに下宿する学生も多かったが、私は市の“中心部”に家を借りた。
中心部といっても当時人口7万人足らずの市だったから、全くたいしたことは無かった。
しかし、本屋さんとかのお店が近くに無いと、どうも落ち着かない性分だったのだ。

また特筆すべき事があった。それは駅の名前だ。

当時国鉄の土讃線の駅も、土佐電鉄(トデン)の駅も「後免(ごめん)」だった。
なんでも、年貢を免除されて「天下御免」と言ってたのが、いつの間にか「後免」に変わったのだそうだ。
昭和55年5月5日に、何かの記念になるかな?と国鉄後免駅で切符を買ったことを覚えている。

さらに、トデンの後免駅は終着駅だったので、間抜けなことに平仮名で「ごめん」という表示をつけて走っていた。
初めて高知に来た人にとっては「なんのこっちゃ?」という風景でもあった。

この後免両駅の間がなんとか“中心地”を形成しており、そこに小さな一戸建てを借りていた。
なりゆきから友人と2人で借りていたのだが、友人は1年足らずで大学をリタイヤしてしまい、その後は1人で住むハメになった。

そこで問題となったのは家賃だ。
2人で月3万円を払うことは可能だったが、1人で3万円はつらかった。
で、隣に住む大家さんと直談判することになった。

「このまま住みたいんで、なんとか2万円くらいになりませんか?」
「居てもらいたいんやけんど、2万5千円は貰わんとねぇ…」

交渉の結果、間をとって2万3千円になった。
よくよく考えてみると毎月7千円OFFだ。よく承知してくれたものだと思う。

家の裏には神社があり、日曜日になると境内に鶏を持ち寄って人が集まって来た。
なんと、闘鶏をやっていたのだ。
もちろん賭けていたようだが、土佐の“日常”にはいつも驚かされた。

また、家のすぐそばには乾物屋があり、美味しそうなものがずらりと並んでいた。
特にフグのみりん干しは絶品で、ポロポロする食感は忘れられない。
道路の拡張でもあったらすぐに無くなりそうな小さな店だったが、あの店はまだあるのだろうか?


南国土佐 その2

2005-04-04 | 街の記憶
「土佐、高知と聞いて何をイメージするか?」
坂本竜馬、自由民権運動、はりまや橋、一本釣り、酒、土佐犬、台風。
こんなところだろうか…。

県の人口は約80万人しかなく、10万人以上の都市は高知市だけで、たいした産業もない。
つまり、現金収入が少ないという意味では“貧しい土地”であり、共稼ぎが当たり前だった。
女性も男性と同じように稼ぐ結果として、女性は元気で強かった。
男女同権には経済的な自立が必要だということが実感できる土地だった。

イメージ通り女性も含めて酒飲みは多く、「司牡丹」「土佐鶴」などの地元銘柄が一般的に飲まれていた。
しかし、毎年開催され、TVでも報じられる「1升瓶早飲み大会」は信じられない光景だった。
女性の優勝者でも、1升の酒を飲み干すのに2~3分だったのではないだろうか?
少なくとも5分はかからなかったと思う。

宴会好きの土壌からは、皿鉢(さわち)料理という文化も生まれている。
大皿に旬の食材などを盛り合わせたものだが、大人も子供も、酒飲みもそうじゃない者も、ずっと居る者もちょっと顔を出した者にも対応できるように工夫されている。

当時、高校野球も強かったが高校相撲も結構盛んだった。
市内の高校のグランドに、屋根のついた土俵が当たり前のようにあるのを見た時には驚いた。
子供の頃に大相撲名古屋場所で見て以来、久々に目にした土俵だった。

高知市の中心部には高知城があった。
木造の趣がある城で、観光客用の土佐犬も常駐しており、桂浜とともに観光名所となっていた。
しかし、地元の人にとっては“賭け将棋”の場でもあった。
高知では公営以外の賭け事も実に盛んで、ごく日常的な事だったのだ。

住んでいたのは1970年代後半までのことだから、現在どんな風になっているかはわからない。
しかし、中心部にはいわゆる色町も残っており、いわゆる“飲む、打つ、買う”が揃っていて“金があれば飲んで遊ぶ”という土地柄だったように思う。

農業、つまり土地に縛られるイメージも薄く、平地に住んでいれば温暖な気候も享受できるため、(実際にはアキラメだったかも知れないが)明らかに後年住んだ東北地方とは異なる“ある種楽天的な気風”があったと思う。

(続く)

南国土佐 その1

2005-04-03 | 街の記憶
大学に入って実家を出た。

そもそもいつまでも家にいるべきではないと思っており、また漠然と地方都市への憧れもあり、地方国立大学ばかり受験していた。
「単に旅行したかっただけじゃないのか?」という非難が友人の一部にあったが、決してそうではない。
つらく苦しく、まぁ少しは楽しかった浪人生活をへて南国土佐の高知大学に入った。

当時国鉄の高知駅に降り立ち、路面電車(土佐電鉄)に乗るため歩道橋にのぼり、ふと振り返った時に目に映った風景は忘れられない。
駅舎の背景に真っ青な空と緑の山々が、ハッキリクッキリとまるで絵葉書のように見えたことを覚えている。
名古屋とは空気が違うと感じたものだった。

アパートを探そうと大学の事務所に行き、紹介物件リストを見て驚いた。
なんと、殆どの物件が5~6千円/月だった。
いくら70年代の後半とはいえ、いくら地方都市とはいえ、いくら学生下宿とはいえ、どう考えても安過ぎる。
いくら捜しても、1万円以上の物件は見当たらなかった。

確かに3千円のアパートに住んでいた奴がいたし、大学が紹介するのは安い物件だけだとしても、これは最初のカルチャー・ショックだった。
結局、数ヶ月間5千円の下宿に住んだ後、学校脇の1万2千円の“高級”アパートに引っ越して住んでいた。
実はどちらも色々な出来事があり、忘れることができない思い出も多い。

大学は高知市の西部に位置し、目の前に国鉄の駅(朝倉)も土佐電鉄(略してトデンという)の駅もあったので、日常生活も中心部へ行くことにも不便はなかった。
ただ、私が住んでいた時には幸い何もなかったのが、しょっちゅう鏡川が氾濫していたようで、「できれば2階に住め」というのが定説だったようだ。

市街地とはいえ、山沿いに住むと日常的にムカデに遭遇することになった。
実はそれまでムカデというものを見たことがなかったし、あまりのグロテスクさ、脅威のスピード、なかなか死なないシブトサにすっかりまいってしまった。
天井からムカデが落ちてくる恐怖に耐えきれず、最初の下宿は引き払ってしまったのだ。

最初にムカデの洗礼を受けたせいか、クモなどは全く平気だった。
当時は水洗便所ではなかったが、便所の壁には10cmくらいの土グモが当たり前のようにへばりついていた。
布団を干していると、その上でトカゲが昼寝しているというのどかな光景もみることができた。

大学構内の街路樹が「ワシントン椰子」だったように明らかに南国の風情は見せていたが、冬にはコタツが必要なくらい寒かった。
意外と知られていないが、四国でも山間部ではスキーができるくらい雪が積もるのだ。
西日本一高い石鎚山などがそびえる四国山脈は、冬は雪で覆われ、高知~愛媛間の国道は閉鎖されていた。
イメージできないかも知れないが、市内のガソリンスタンドではごく当たり前にチェーンを売っていた。

これは四国に共通することだが、特に高知では、海沿いのわずかな平野に人々がへばりついて住んでいるという印象が強い。
高校野球の予選参加校が27校程度だということで、いかに人口が少ないかがわかると思う。

(続く)

港区!

2005-04-02 | 街の記憶
幼稚園に入る前に、河口湖から港区に引っ越した。

ただし港区といっても、名古屋市の港区だ。
東京の港区とはかなりイメージが違い、簡単に言うと“労働者の街”だった。

子供の頃、つまり昭和40年代には、近くの臨港線に蒸気機関車が走り、ドブ川と共に“黒っぽい風景”をつくっていた。
港湾労働者の宿舎みたいなのも近くに多く、住宅地の中に鉄工所なども混在していてなんだか危うい雰囲気もあった。
ちょうど高度成長時代だったので、バイパス道路の建設に伴う立ち退きなども身近にみられ、完全に撤去される前の空家は秘密の遊び場にもなっていた。

あの頃の街は、しょっちゅう物売りを見かけた。

さすがに「紙芝居」は小さい頃しか見かけていないが、「ロバのパン屋」「飴細工」「わらび餅」はよく覚えている。
もちろん「ラーメン」の屋台や「さお竹」なども来ていた。

大学生の頃に友人と話していて思った事だが、田舎の人間は「ロバのパン屋」を全く知らなかったので、「ロバのパン屋」が来たことは都会の証明だったような気がしている。
また、かなり小さな頃の「ロバのパン屋」は、その名のとおり実際にロバが牽いていたのだが、同世代で記憶に残っているものはいなかった。

名古屋に落ち着いてからも、港区の中で2度引越しをしているが、現在の家が最も便利な地域にある。
小学校、中学校、区役所、郵便局、電話局、水道局、診療所など、殆どの公的施設に徒歩5~6分くらいで行くことができる。
当時は市電(路面電車)の駅、今は地下鉄の駅も近くにある。
現在は見る影もないが、当時は表通りにびっしりと店舗が並び生活面でも不自由はなかった。

ただし子供にとって重要だったのは、「駄菓子屋」のたぐいだ。

やきそば、お好み焼き、ところてん、カキ氷など、この手のものは「駄菓子屋」で買うものだと思っていた。
スーパーで「お好み焼き」を売っているのを初めて見た時は、少々驚いたものだった。

子供の行動範囲内に3軒あった「駄菓子屋」は、オモチャを買う店でもあった。

「凧」「鉄独楽」だけでなく、わけのわからない“駄オモチャ”が所狭しと並んでいた。
そうそう「銀玉鉄砲」を忘れるわけにはいかない。
ひとしきり“拳銃ごっこ”をした後に、皆んなでもくもくと銀玉を拾う姿は何だか情けない気もするが、やはりオモチャのエースは「銀玉鉄砲」だろう。
もし「駄菓子屋」がなかったら、どんなにか味気ない少年時代だったろうと思ってしまう。

今も両親が名古屋に住んでいるので、ここが「実家」ということになる。
「田舎はどこですか?」「郷里はどちら?」と聞かれた時は、ちょっと言葉のイメージが違うなぁと思いつつも「名古屋です」と答えることにしている。

ああ、富士山

2005-04-01 | 街の記憶
当時父親が働いていた、兵庫県養父郡八鹿町(現養父市?)の八鹿病院で私は生まれたらしい。
今は昔、昭和30年代のことだ。
生後3ヶ月で引っ越したそうなので、当然全く記憶はない。
しかしそのおかげで、「お生まれは?」と聞かれれば「兵庫県」と答えざるをえない。
いつのことだったか忘れたが、“風にあおられて鉄橋から電車が落ちた”場所がこの辺りだったと思う。

その後、愛知県の弥富町というところにも住んでいたというが、ここについても全く記憶がない。
昔、父親が撮った写真を見たことがあったが、そのせいか“つくしがいっぱいの土手”というイメージしかない。

私の記憶が始まったのは、その後に住んでいた山梨県の河口湖町だ。

幼稚園に入る前のことだからかなり断片的な記憶でしかないが、縁側の雨戸をガラガラと開けると小さな池のある庭があり、その背景には富士山がどーんとそびえていた記憶がある。
この池では、カエルの卵を獲ってきてママゴトの“ご飯”にして遊んでいたようだ。
ポカポカと陽があたる縁側でよく遊んでいたが、何かのひょうしにレコードを踏んで割ってしまい母親に怒られた覚えがある。
以後、現在に至るまでレコードを割ることはなかったから、生涯一度の経験だった。
また、裏の台所の窓から外を覗くと、下方に河口湖が見え隠れしていたような気がする。
後から聞いた話では、確かに河口湖畔の富士山側の斜面に住んでいたようだ。

およそ20年後に関東に住むようになり、ちょくちょく富士山を見に行く機会ができたのだが、富士山は何やら懐かしい特別の山だった。
ただし、すっかり観光地になっていた河口湖はどうもイメージが違い、人が少ない西湖の方が落ち着ける場所だった。

人間のメモリーには限度があるから、どうでも良い事や都合の悪い事はどんどん忘れていくようになっている。
しかし、“最初の記憶”というのが必ずある。
それが富士山の姿と重なっているというのは、結構幸せなことではないかと思っている。