台湾生活-日々のともしび-

台湾と日本を行き来する日本人の目から見た、日本や台湾の日常的できごとへの個人的感想

古色蒼然─移ろいゆくものと現れるもの(1)─

2005-05-19 12:40:00 | 日々におもうこと
 昨年のことだったが、日本にいる両親から電話でこんな依頼があった。「家に置いてあるコンピューターだけど、今度、大型ゴミが有料化されるから、今の内に処分してもいいか」一瞬考えたが、「もう今の時代では使えない物ばかりだから、適当に片づけて」と答えた。
 10年前は新型だったPCも、今では、もう無用の長物だった。
 台湾に引っ越すとき持って来られずに家に置いてきたPCは二台あった。
 一台は、94年頃発売された今の一体型Macintoshの原型のような型で、CDROMと130MGのハードディスクが付いたMacOS7搭載のもの、もう一台は、32ビットCPU搭載、フロッピーディスク2台に内蔵型ハードディスクが付いたNECのPC9801ESだった。
 二台ともに、それぞれ想い出がある。Macintoshは、台湾に来る前、ホテルに仏教聖典を寄贈している東京のB財団に勤めていたとき買ったものだ。大蔵経を英語訳する事業のために何台かのMacintoshがあり、ドイツのデュッセルドルフに仏教寺院を建てていたときでドイツ関係の仕事でそれを使ったことがあった。自分でも欲しくなり、もらった給料をはたいて新しく出た型を買うことにした。勤めて四ヶ月ばかりした9月、ドイツへ出張する機会があった。仕事が一段落したころ、一日休みがあり、それを利用してデュッセルドルフの街の散策を兼ねて、欲しいと思っていたMacintoshのドイツ語版WORDを買いに行くことにした。上司のKさんに断って、電話帳でそれらしい店の住所を確かめホテルのフロントで場所を聞いてみた。地図で場所を教えてもらうと、ホテルから歩いて行ける位だった。比較的繁華街にあったホテル前の通りを歩いていった。昼前ぐらいだったが人影はまばらで、歩いているのは中高年の人ばかりだった。もうすぐ冬に入るドイツも街は沈んで見えた。それに、建物の色調も茶色や黒っぽい。ドイツの街を何カ所か見たが、日本や台湾では当たり前に見られる店の看板やネオンなどは、まったく目立たなかった。途中で見たスーパーマーケットは、表に小さな木の表札が出ているだけで、窓から奧まで広がる陳列棚やカートを押すオーバーで太目に見える中年の婦人がレジらしい場所の前に立っているのが目に入らなければ、民家と見分けがつかなかった。
 目的の店は、木の作業小屋のような作りで、「Machintosh」とは何の関係もなさそうだった。後ろには、紅葉した雑木林がすでに茶色に変わり、あたりは一面に落ち葉がひっそり積もっていた。
 木の扉を押して入ると、カウンターの奧に事務所らしくいくつか机が置いてあった。受付けらし女性が一人いて、立ち上がって、何か尋ねた。私は、語彙の少ないドイツ語で少し話したが、うまく通じなかった。英語に切り換えて、「Macintoshのソフトが欲しいのですが?」と聞くと、英語ができる人がいると言って、その男性を呼んできた。後から、四五人の男性が何だというように続いて出てきた。英語で何とか意思が通じて、「新しいのはないが見本が一つあるからこれでいいか」「いくらか」「***マルクでどうだ」計算してみると、6万円ぐらいだった。「もう少し安くならないか」と聞くと、「消費税が10%かかるが、それは払わなくていいよ」と答えた。「カードは使えるか」と尋ねると、「現金だけだ」「じゃあ、両替してくるから、銀行を教えてくれ」
 教えてもらった通りを少し行くと、敷石道に昔風の二三階建の石造りの家々が並んでいて、その左手に「Deutch Bank」という目立たない看板が見えた。入ってみると、中は、日本の郵便局ぐらいで、右手にガラス越しの窓口があり、何人かが並んでいた。持っていった日本円を出して、両替してもらった。出張旅費としてもらったほとんど全額だったが、これも記念だと思った。
 今考えると、ソフト店ではなく、プログラマーの店だったのかもしれないが、奇妙な旅行者が来て、いきなりソフトを見せてと言われても、相手に合わせて親切に対応してくれた素朴さがうれしい気がする。
 日本に帰ってから、早速、installしてみたが、ドイツ語のスペルチェッカーとグラマーチェッカーが付いていて、手紙などを書くときに使えそうだった。しかし、半年程して、台湾に仕事が決まり、こちらに移るとき、税関の検査に新型は引っかかりやすいというので、ソフトのフロッピーだけ持ってきて、本体はそのまま、置いてきてしまった。Chinese Language Kitも探して、入れてあったが、こちらも使わずじまいになってしまった。

 その本体にも、想い出は生き生きと詰まっている。しかし、時は過ぎ、当時の最新型も今では、性能だけみれば、PDAやワープロ専用機にも負けるような、低機能パソコンに変わってしまった。想い出だけを残し、母の電話に、廃品に出すことを承諾することにした。

 もう一台は、大学院生時代に初めて買ったデスクトップ型のPC9801ESだった。98の二代目だった。

 それを買う四年ほど前、教員をしていたとき、PC98シリーズのラップトップ型LV21を買った。当時、初めて出た携帯できるパソコンだった。学校に出入りしていたコンピューター店を通したが、30万を越える価格だった。白黒の液晶モニターの全面にキーボードが付き、側面にFD二台、背後にシリアルやパラレル端子が付いていた。肝臓を壊し、毎日、微熱が出て休職する直前のことだった。注文した荷物はそのままになり、休職したまま夏休み過ぎた頃、休んでいた実家へ送ってもらった。しかし、愚かなことにゲームはおろか、ワープロソフトも何もない。付いているのは、N88 Disk Basicというフロッピーで動かす、Basic言語だけだった。
 早速、入れて動かしてみると、フロッピーを読み込む音がして、作業用diskを作成しますという指示が出た。新しいフロッピーを入れると、フォーマットしていますという表示が出て、その内、コピーが始まった。Diskは出来たが、それでおしまいだった。入れて起動させてみても、最後はプロンプトが点滅しているばかりだった。卒業した大学には、文学部生を対象にしたコンピューターの授業はなかった。
 一太郎シリーズのVer。4(?)が出た頃だったが、実用ソフトの値段は高く、たぶん1セット6万円ぐらいだったのではないかったろうか。それに、その頃は、OSという概念やMS-DOSの機能はまったく理解できなかった。Basicのプロンプトに困惑して、取り敢えず動かしたいと思った。「動かすのにプログラムが要る。」実用ソフトよりは安かったゲームソフトを出入りの業者に頼んだ。
 さぞ、おかしな先生だろうと思われたろうが、届いたゲームを入れてみると、初めて、画面に以前見た、それらしい表示が現れた。
 学生時代に、お世話になっていた浄土真宗のK団にあったコンピューターが、私の初めてさわったコンピューターだった。PC9801Fという、16ビットCPUに8インチのフロッピードライブで動かす型だった。アイリスというデータベースソフトとワープロソフトの一太郎があり、画面に平仮名と漢字を表示させることが出来た。操作の仕方を教えてもらい、漢字変換をしてみた。今のように高性能ではなく、誤変換を直すのにキーの操作がよく分からなくなった。しかし、初めて、日本語の文章が画面に現れたのは、驚きだった。
 コンピューターの歴史の記事を見れば、この1980年代前半当時の事情はよく分かるだろう。その前のBビットPC88シリーズを勤め先の高校の同僚は持っていたし、院生の頃、K団の寮で一緒だったKもやはり88シリーズで、よく遊んでいた。本当に高価な庶民には手の届かない「電子の箱」だった。

台湾に来て初めて買ったコンピューターは、学生に見積もりを頼んだIBMAT規格だった。まだ5インチのFDと3.5インチのFDが付いていて、ハードディスクは512MBだった。日本の98シリーズとは、1.2MB2HDのフロッピーのフォーマットが違っていて、512B2DDのフロッピーでデーターをやりとりする必要があった。もちろんソフトの互換性はまったくなく、PCDOSでハードディスクにシステムを作り、バッチファイルでメニューを作ったりして、動かしていた。学生は、中国語入力ソフトを、config.sysとautoexec.batの中に命令を書いて組み込んでくれた。「竒天」というエディターソフトが、ワープロとして使われていた。日本語システムと中国語システムを切り換えて、日本語のゲームをしている学生も多かった。MSDOSは、DOSコマンドにみだったが、PCDOSはフロッピー10枚ほどで、DOSコマンド、中国語の表示システムと入力システム、エディターとファイルマネジャーが付いていた。
 しかし、持っているソフトが少ないので、ATマシンは買ったままになってしまった。日本語の文書は、日本から持ってきた家内のPC9801FAと私が持ってきたEPSONの98互換機で作っていた。ハードディスクは日本テクサの120MBと180MBをSCSI接続で外付けしていた。MSDOSver5にMSーWindows3.1を載せて使っていたが、日本語入力をするATOK4かMATU2を組み込んで、DOS版のワープロVJEーPENやVZエディターを使った方が早くて便利だった。
 ATを買って暫く経ってから、コンピューターの見積もりをしてくれた学生が「中国語のソフトをコピーしてあげましょう。」と言った。「何か御礼に日本語のソフトで欲しい物はないかい」と聞くと、「日本語版のWindows3.1とシビライゼーションを持っていますか」と聞かれた。「NECの日本語版のWindows3.1だけど大丈夫?」と聞くと、「MSDOSを持っているから、installすれば使えるでしょう」「シビライゼーションは好きかね?」「中文版は何回もやったけど、日文版もやってみたくて」
 彼は、外付け式のハードディスクに中国語版ウインドウズと日本語のゲームを何本か入れて持ってきてくれた。ケーブルを接続して、コピーしようとしたが、しかし、ディスクが認識されず、うまくいかない。結局、コピーは失敗だった。悪戦苦闘した彼に、手作りで日本料理を御馳走した。天ぷらと、味噌汁などだったが、彼は滿足したように「いつか日本に行って食べてみたい」と言った。
 しかし、彼には随分迷惑をかけてしまった。コピー出来なかった原因は、ウイルスで、彼が自宅に帰ってハードディスクをチェックしたところ、ウイルスが見つかったと言うのだ。我が家のATが感染していて、そこから彼のハードディスクに移り、彼の自宅のパソコンにも移ってしまった。彼はシステムを入れ替えなくてはならなくなったと言った。
 買った店に電話をかけて、駆除を依頼した。顏馴染みの店員がやってきて、フロッピーに入った駆除ソフトを起動した。見つかったのは、NATUSという台湾ではよくあるウイルスだった。ハードディスクは、クラスターが破壊されていて、もう一度、システムを入れ替えなくてはならなかった。フロッピーも調べて見ると、一枚からウイルスが見つかった。ドライバーメーカーのディスクだった。
 苦労をかけた彼には、家内の発案で、卒業のとき、出張で行ったパリで買ったネクタイをお祝いに挙げた。彼は、フロッピーに入れた日本のゲームを50枚ほど、プレゼントしてくれた。

 当時は、最新の動向だったコンピューターの話題も、こうして書いてくると、古色蒼然としたわすれられた過去の断片にしかすぎなくなる。そうしたものを最先端のものだと思って、追いかけていた時代が、大学卒業後も15年あまり、続いた。
 しかし、新しいものは新しくない。新しいものは、新しいものによって命を失う。

 昨年の夏休み、日本の実家に帰ったとき、置いていった本の整理をした。家内が「記号論や身体論の本はないの」と聞いた。大学生だった20年以上前に買った市川浩「精神としての身体」とか菅孝行「関係としての身体」など、身体論関係の哲学書や、ジュリア・クリステバ「テクストとしての小説」ウンベルト・エーコ「記号論」など、今、文学研究で最先端だと言われている論の本が、随分あった。
 多くの本は、すでに外箱は日焼けで茶色に変わり、カバーのカラー印刷も色が薄れている。積もった埃で、本体にも染みが浮いている。
 「何が新しいのか」と家内に問いかけた。家内は、「あなたは先見の明があったわね」と笑った。
 開け放した窓から、夕暮れの日射しが、床に乱雑に広げた本を赤く染めた。台湾へ送る段ボール箱に、広げた本を詰め始めた。

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1 コメント

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2005-03-07 15:35:47
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