桜が散り躑躅や皐月の花の季節は過ぎた。台湾は不順な天候の中にも、新緑が濃くなり、夏を迎えようとしている。ここまで書く間にまた2ヵ月近く経ってしまった。時がこうして移ろっていく中で、人の思考は同じところを往復するばかりだが、そうした中にも僅かながら、光が見えてくるときがある。
十年一日
十年一日(中)
筆がなかなか進まないが、最初に書いていた、志賀直哉の話題に話を戻し、一先ず、まとめをつけることにしよう。
初回の時にこんなことを書いた。
*****
志賀直哉に『11月3日午後の事』という短編がある。こんな書き出して始まっている。「晩秋には珍しく南風が吹いて、妙に頭は重く、肌はじめじめと気持ちの悪い日だつた。自分は座敷で独り寝ころんで旅行案内を見ていた。さし当たり実行の的もなかったが、空想だけでも、かう云ふ日には一種の清涼剤になる。そして眠れたら眠る心算で居た。其処に根戸にいる従弟が訪ねて来た。」
(中略)
志賀直哉のこの短編には、実は、“時代”が鋭く描き出されている。一つは、冒頭の一文「晩秋には珍しく南風が吹いて、妙に頭は重く、肌はじめじめと気持ちの悪い日だつた」、もう一つは、登場者を出した「自分は座敷で独り寝ころんで旅行案内を見ていた」である。
*****
今回は、ずっと残したままになっていた「自分は座敷で独り寝ころんで旅行案内を見ていた」について書いてみたい。
この一節には、「“時代”が鋭く描き出されている」と書いたのだが、それは、「旅行案内」という志賀直哉が当たり前のように使った、こんなありふれた一語が、実は、豊かな大正という時代を焙り出してくれるからだ。
実は、「旅行案内」とは、日本の鉄道史の中では、その時代、その時代で極めて個性的な存在である。
Wikipediaの「時刻表」には、明治後半から大正そして昭和へと、急速に旧日本帝国が発展しそして破滅していったようすが、「時刻表」の変遷によって描き出されている。『十一月三日午後の事』は1919年の発表なので、その前後の「時刻表」の移り変わりを書き抜いてみると以下のようになる。
*****
1903年(明治36年)6月 庚寅新誌社の時刻表、「汽車汽船旅行案内」に揭載されていた「旅行案内」を別冊にして獨立。「汽車汽船旅行案内」か「旅行案内」のどちらかを購入した者に、もう片方をおまけとしてつけた。
1907年(明治40年)6月 當時日本最大の出版社であった博文館が「鐵道汽船旅行案内」を發行、時刻表市場に參入。 時刻表競爭はこの頃ピークに達した。
1915年(大正4年)1月 競爭の激しさを憂慮した當時の國有鐵道を運營していた鐵道院が斡旋に入り、庚寅新誌社・交益社・博文館の三社が合同して旅行案内社を創立、「汽車汽船旅行案内」・「鐵道船舶旅行案内」・「鐵道汽船旅行案内」の三誌は合同し鐵道院公認の時刻表である「公認汽車汽船旅行案内」となった。この時刻表は太平洋戰爭中まで刊行された。表紙には、合併前の三社を象徵する3本の松の繪が描かれ、「三本松の時刻表」と呼ばれた。
1925年(大正14年)4月 日本旅行文化協會(現在の財團法人日本交通公社・株式會社ジェイティービー(JTB)の前身)から「汽車時間表」が創刊され、「公認汽車汽船旅行案內」にかわる國有鐵道公認の時刻表となり、「公認汽車汽船旅行案內」は「汽車汽船旅行案內」に改題された。これが現在の「(JTB)時刻表」である。また「汽車汽船旅行案內」の方では、この頃ポケット版も販賣された。
*****
現在の私たちが鉄道旅行で当たり前のように使っている「時刻表」も自由競争の時代があり、それが、政府主導で「公認汽車汽船旅行案内」に統一され、今でも続くJTBの「時刻表」の原型になったわけである。志賀直哉の見ている「時刻表」は、年次から考えて、おそらく、この鉄道院公認の「公認汽車汽船旅行案内」であろう。
鉄道博物館には、この作品が書かれた頃の、鉄道の資料や時刻表などが收められているようだ。
こうした案内はどんな内容だったのだろうか。
時刻表博士まっこうくじらのウェブサイトには、「公認汽車汽船旅行案内」の復刻版による紹介がある。
旅行用の地図も各種発行されていた。
地図の資料館には、戦前に発行されていた絵地図や絵葉書の写真が出ていて、絵によって細かく観光地の名所が紹介されていたことが分かる。たとえば、昭和二年発行の「日本鳥瞰九州大図絵」を見ると、九州全土が細かく描かれ鉄道の路線などが忠実に記されている。志賀が作品を書いた頃にも、こうしたものは既に発行されていたのかもしれない。
『十一月三日午後の事』には、先にあげた冒頭に続いて、こうした件がある。寝ころんでいた「自分」の従弟が尋ねてきた。座敷に上がってきた従弟と「自分」は、こんなことを話している。
*****
二人は旅行の話をした。九州の方へ行くとすると汽車より豪州行きか何か、船の方が面白さうだといふやうな話をした。そして長崎までの汽車賃と舩賃とを、その本で調べたりした。
*****
ここに出てくる、「豪州行き」の船も、時代を象徴するような当時の花形の交通手段だった。
なつかしい日本の汽船には、この頃、就航していた豪州航路の汽船が紹介されている。以下の説明によると、志賀直哉がここで書いている「長崎」へ寄港する汽船は、日本郵船の豪州航路の船のようである。
*****
濠州航路 明29.10.3(1896)開設~大正期~昭16.8(1941)休止~戦後
日本郵船は開業当初より濠州航路開設を計画していたが日清戦争後、孟買航路と共に政府による特定助成航路として受命し使用船3隻(山城丸、近江丸、東京丸)をもって明治29年(1896)10月3日横濱出航の山城丸により開始した。
当初の寄港地は神戸/門司/長崎/香港/木曜島/タウンスビル/ブリスベーン/シドニーで明治32年(1899)8月からマニラにも寄港した。
*****
このページに出ている船の紹介には、建造から最後までが書かれている。大正期には「大正末期の就航船は安藝丸、三島丸、丹後丸の3隻で月1回の定期航海とした」の説明がある。無事に退役して解体された船もあるが、事故などで沈没したり、昭和まで使われた船の多くは第二次大戦中のアメリカ軍の雷撃などで多くが沈んでいる。
定期航路のページを見ていると、航路から戦前の日本が持っていた海外との活発な繋がりが浮かんでくる。
当時の海外旅行の主要手段だった客船の旅はどんな旅だったのだろうか。
夏目漱石の『夢十夜第七夜』は「何でも大きな船に乗つてゐる」という船の旅を題材にしている。また、志賀直哉は『暗夜行路 前篇第二』の最初を東京から神戸への船旅で始めている。芥川龍之介の『湖南の扇』も上海の港へ入る場面から始まっている。船を舞台にしたり取り入れている作家を捜していけば、随分、あることだろう。
文学者で台湾へ旅行した人も少なくない。今でも作品が読まれている有名な作家は佐藤春夫で、1920(大正9)年に台湾へ旅行し、台北、捕里、霧社、能高、台南を三週間旅している。作品集『霧社』がそのときの旅から生まれている。今でも推理小説の一種として読まれる『女誠扇綺譚』も台南を舞台にしている。
いずれまた書いていきたいが、北原白秋、宮本百合子、中村地平なども台湾で名を残している。真杉静枝などほとんど無名の作家もいる。
日本植民地文学精選集20巻の第13巻から20巻が台湾篇で、佐藤春夫の作品集も収められている。台湾と関係のある作家はもちろんだが、この時代、台湾や中国大陸、朝鮮など比較的近い外地へ出かけた作家は少なくない。
志賀直哉の『十一月三日午後の事』の一節には、千葉の田園からそうした外地へのあこがれを端的に示しているとも言える。そして、後半の軍の演習はそうした当時の日本帝国の外地との繋がりを示す、もう一つの側面なのである。
十年一日で書いたように、「自分」が出遭った軍の演習は、その季節外れの突発的な暑さに対応できない、本来事態の変化に柔軟であるべきはずの軍が陥っている硬直しきった非合理さと、自らの国民を苦しめるという内部へ向けられた暴力のゆえに後の日本帝国軍の悲惨な壊滅を予告している。そして、それはまさに個人が時代の狭間で時代を象徴する出来事にであう場合があることを示していた。
志賀の住んでいた我孫子は軍の演習地だった習志野の直ぐ北で、今でも志賀の旧住居地が保存されている。
志賀直哉邸跡
地図でたどると、志賀直哉が小説の中で書いている河の土手までの散歩が、どのような道筋だったか、だいたい再現できそうである。
WIKIPEDIAには、習志野について以下のような説明がある。
=====
由来
1873年(明治6年)4月29日にこの地で陸軍大將西鄉隆盛の指揮の下に行われた近衛兵の大演習を觀閱した明治天皇によって同年5月13日に習志野と命名された。
「習志野」または「習志野原」の命名について、大演習での陸軍少將篠原國幹の目覺しい指揮に感銘した天皇の「篠原に習え」という言葉が元になった(習篠原→習志野原)という說があり、『習志野市史・第1卷』(1995年)でもこれを「逸話」として紹介している。
陸軍と習志野
廣大な平坦地ではあるが生活用水となりうる水源の乏しい下總台地は古くから牧として利用され、江戶時代このあたりは幕府によって設置された小金牧の一部とされた。
明治維新の後、牧は東京から適度な距離にあることから陸軍の演習場としてしばしば使用されるようになり、明治天皇が「習志野」と命名することとなった近衛兵大演習もその1つである。 1874年(明治7年)に陸軍演習場として一帶が買收された。町村制施行(1889年〔明治22年〕)後の千葉郡二宮村、幕張村、大和田村にまたがる。
1899年(明治32年)、騎兵第一・第二旅團が千葉郡津田沼村大久保に設置され(1901年〔明治34年〕末に編成完了)、日露戰爭での騎兵の活躍を通じて「習志野」の名は廣く知られるようになった。1910年(明治43年)には騎兵學校(1917年〔大正6年〕より陸軍騎兵學校)が東京・上目から二宮村の習志野演習場敷地內に移轉してきた。
演習場內には糧秣倉庫(糧秣本廠習志野秣倉庫)や廄舎が置かれたが、そのうち幕張町(1896年〔明治29年〕町制施行)實籾の高津廄舎の一部は日露戰爭の際に捕虜收容所とされ、第一次世界大戰の際にもドイツ人捕虜を收容した。
1901年(明治34年)、津田沼村大久保に陸軍習志野衛戍病院が設置される(ただし敷地の大部分は二宮村三山に屬する)。
1908年(明治41年)、千葉に鐵道連隊(聯隊)が設置され、同第三大隊が津田沼に置かれた(1918年〔大正7年〕に鐵道第二連隊に昇格)。津田沼から習志野の演習場を經て連隊本部(のち鐵道第一連隊)のある千葉とを結ぶ軍用輕便鐵道が敷設され、後には松戶との間にも敷設されている。
こうして「習志野」は千葉郡北部の津田沼町(1903年〔明治36年〕町制施行)、二宮村(1928年〔昭和3年〕に町制施行して二宮町)、大和田町(1891年〔明治24年〕町制施行)、幕張町にまたがって分佈する陸軍諸施設とともに一帶の地名として理解されるようになった。
第一次世界大戰後、近代戰への變革の中で騎兵とともに知られた習志野も變化を迎えた。 1936年(昭和11年)、大久保の騎兵旅團敷地內に戰車第二連隊(聯隊)が置かれ、騎兵部隊の機甲化(戰車部隊化)の始まりを象徵した。千葉市砂に開設された陸軍戰車學校が當初は習志野(二宮町)に置かれたとする資料もある。 騎兵旅團敷地には1931年(昭和6年)に陸軍習志野學校も開設され、毒ガスをはじめとする化學兵器についての研究・教育が行われたとされている。
=====
志賀直哉が選んだ土地がたまたまこうした明治から昭和にかけての激動を如実に写している土地であったゆえに、志賀直哉は時代と個人の切り結ぶ瞬間に行き会わせ、しかもそれを記録に留めることができたのである。
以上を整理してみると、以下のような関係が、一の作品から浮かんでくる。
地球規模での気候変化→志賀直哉の個性の才能→偶然の散歩→思わぬ気候変化の中で起こった軍の異変の目撃→隠されていた軍の本質に出遭った志賀の戸惑いと怒り→志賀の描写力で作品に刻まれた「時代の本質」
こうして土地の記憶、物の記憶が交錯するところで、志賀直哉の作品隠していた時代の記憶が、私たちの前にありありと浮かび上がってくる。
「十年一日」とは、過ぎ去る光陰を惜しむ言葉だと思っていたが、世代を越えた記憶を留めその時代を再現する方法があることを、一編の小説が見事に教えてくれる。過ぎ去る光陰を惜しむのは、一面では、目前にある宝蔵を見過ごしてることと変わらないのかもしれない。
十年一日
十年一日(中)
筆がなかなか進まないが、最初に書いていた、志賀直哉の話題に話を戻し、一先ず、まとめをつけることにしよう。
初回の時にこんなことを書いた。
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志賀直哉に『11月3日午後の事』という短編がある。こんな書き出して始まっている。「晩秋には珍しく南風が吹いて、妙に頭は重く、肌はじめじめと気持ちの悪い日だつた。自分は座敷で独り寝ころんで旅行案内を見ていた。さし当たり実行の的もなかったが、空想だけでも、かう云ふ日には一種の清涼剤になる。そして眠れたら眠る心算で居た。其処に根戸にいる従弟が訪ねて来た。」
(中略)
志賀直哉のこの短編には、実は、“時代”が鋭く描き出されている。一つは、冒頭の一文「晩秋には珍しく南風が吹いて、妙に頭は重く、肌はじめじめと気持ちの悪い日だつた」、もう一つは、登場者を出した「自分は座敷で独り寝ころんで旅行案内を見ていた」である。
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今回は、ずっと残したままになっていた「自分は座敷で独り寝ころんで旅行案内を見ていた」について書いてみたい。
この一節には、「“時代”が鋭く描き出されている」と書いたのだが、それは、「旅行案内」という志賀直哉が当たり前のように使った、こんなありふれた一語が、実は、豊かな大正という時代を焙り出してくれるからだ。
実は、「旅行案内」とは、日本の鉄道史の中では、その時代、その時代で極めて個性的な存在である。
Wikipediaの「時刻表」には、明治後半から大正そして昭和へと、急速に旧日本帝国が発展しそして破滅していったようすが、「時刻表」の変遷によって描き出されている。『十一月三日午後の事』は1919年の発表なので、その前後の「時刻表」の移り変わりを書き抜いてみると以下のようになる。
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1903年(明治36年)6月 庚寅新誌社の時刻表、「汽車汽船旅行案内」に揭載されていた「旅行案内」を別冊にして獨立。「汽車汽船旅行案内」か「旅行案内」のどちらかを購入した者に、もう片方をおまけとしてつけた。
1907年(明治40年)6月 當時日本最大の出版社であった博文館が「鐵道汽船旅行案内」を發行、時刻表市場に參入。 時刻表競爭はこの頃ピークに達した。
1915年(大正4年)1月 競爭の激しさを憂慮した當時の國有鐵道を運營していた鐵道院が斡旋に入り、庚寅新誌社・交益社・博文館の三社が合同して旅行案内社を創立、「汽車汽船旅行案内」・「鐵道船舶旅行案内」・「鐵道汽船旅行案内」の三誌は合同し鐵道院公認の時刻表である「公認汽車汽船旅行案内」となった。この時刻表は太平洋戰爭中まで刊行された。表紙には、合併前の三社を象徵する3本の松の繪が描かれ、「三本松の時刻表」と呼ばれた。
1925年(大正14年)4月 日本旅行文化協會(現在の財團法人日本交通公社・株式會社ジェイティービー(JTB)の前身)から「汽車時間表」が創刊され、「公認汽車汽船旅行案內」にかわる國有鐵道公認の時刻表となり、「公認汽車汽船旅行案內」は「汽車汽船旅行案內」に改題された。これが現在の「(JTB)時刻表」である。また「汽車汽船旅行案內」の方では、この頃ポケット版も販賣された。
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現在の私たちが鉄道旅行で当たり前のように使っている「時刻表」も自由競争の時代があり、それが、政府主導で「公認汽車汽船旅行案内」に統一され、今でも続くJTBの「時刻表」の原型になったわけである。志賀直哉の見ている「時刻表」は、年次から考えて、おそらく、この鉄道院公認の「公認汽車汽船旅行案内」であろう。
鉄道博物館には、この作品が書かれた頃の、鉄道の資料や時刻表などが收められているようだ。
こうした案内はどんな内容だったのだろうか。
時刻表博士まっこうくじらのウェブサイトには、「公認汽車汽船旅行案内」の復刻版による紹介がある。
旅行用の地図も各種発行されていた。
地図の資料館には、戦前に発行されていた絵地図や絵葉書の写真が出ていて、絵によって細かく観光地の名所が紹介されていたことが分かる。たとえば、昭和二年発行の「日本鳥瞰九州大図絵」を見ると、九州全土が細かく描かれ鉄道の路線などが忠実に記されている。志賀が作品を書いた頃にも、こうしたものは既に発行されていたのかもしれない。
『十一月三日午後の事』には、先にあげた冒頭に続いて、こうした件がある。寝ころんでいた「自分」の従弟が尋ねてきた。座敷に上がってきた従弟と「自分」は、こんなことを話している。
*****
二人は旅行の話をした。九州の方へ行くとすると汽車より豪州行きか何か、船の方が面白さうだといふやうな話をした。そして長崎までの汽車賃と舩賃とを、その本で調べたりした。
*****
ここに出てくる、「豪州行き」の船も、時代を象徴するような当時の花形の交通手段だった。
なつかしい日本の汽船には、この頃、就航していた豪州航路の汽船が紹介されている。以下の説明によると、志賀直哉がここで書いている「長崎」へ寄港する汽船は、日本郵船の豪州航路の船のようである。
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濠州航路 明29.10.3(1896)開設~大正期~昭16.8(1941)休止~戦後
日本郵船は開業当初より濠州航路開設を計画していたが日清戦争後、孟買航路と共に政府による特定助成航路として受命し使用船3隻(山城丸、近江丸、東京丸)をもって明治29年(1896)10月3日横濱出航の山城丸により開始した。
当初の寄港地は神戸/門司/長崎/香港/木曜島/タウンスビル/ブリスベーン/シドニーで明治32年(1899)8月からマニラにも寄港した。
*****
このページに出ている船の紹介には、建造から最後までが書かれている。大正期には「大正末期の就航船は安藝丸、三島丸、丹後丸の3隻で月1回の定期航海とした」の説明がある。無事に退役して解体された船もあるが、事故などで沈没したり、昭和まで使われた船の多くは第二次大戦中のアメリカ軍の雷撃などで多くが沈んでいる。
定期航路のページを見ていると、航路から戦前の日本が持っていた海外との活発な繋がりが浮かんでくる。
当時の海外旅行の主要手段だった客船の旅はどんな旅だったのだろうか。
夏目漱石の『夢十夜第七夜』は「何でも大きな船に乗つてゐる」という船の旅を題材にしている。また、志賀直哉は『暗夜行路 前篇第二』の最初を東京から神戸への船旅で始めている。芥川龍之介の『湖南の扇』も上海の港へ入る場面から始まっている。船を舞台にしたり取り入れている作家を捜していけば、随分、あることだろう。
文学者で台湾へ旅行した人も少なくない。今でも作品が読まれている有名な作家は佐藤春夫で、1920(大正9)年に台湾へ旅行し、台北、捕里、霧社、能高、台南を三週間旅している。作品集『霧社』がそのときの旅から生まれている。今でも推理小説の一種として読まれる『女誠扇綺譚』も台南を舞台にしている。
いずれまた書いていきたいが、北原白秋、宮本百合子、中村地平なども台湾で名を残している。真杉静枝などほとんど無名の作家もいる。
日本植民地文学精選集20巻の第13巻から20巻が台湾篇で、佐藤春夫の作品集も収められている。台湾と関係のある作家はもちろんだが、この時代、台湾や中国大陸、朝鮮など比較的近い外地へ出かけた作家は少なくない。
志賀直哉の『十一月三日午後の事』の一節には、千葉の田園からそうした外地へのあこがれを端的に示しているとも言える。そして、後半の軍の演習はそうした当時の日本帝国の外地との繋がりを示す、もう一つの側面なのである。
十年一日で書いたように、「自分」が出遭った軍の演習は、その季節外れの突発的な暑さに対応できない、本来事態の変化に柔軟であるべきはずの軍が陥っている硬直しきった非合理さと、自らの国民を苦しめるという内部へ向けられた暴力のゆえに後の日本帝国軍の悲惨な壊滅を予告している。そして、それはまさに個人が時代の狭間で時代を象徴する出来事にであう場合があることを示していた。
志賀の住んでいた我孫子は軍の演習地だった習志野の直ぐ北で、今でも志賀の旧住居地が保存されている。
志賀直哉邸跡
地図でたどると、志賀直哉が小説の中で書いている河の土手までの散歩が、どのような道筋だったか、だいたい再現できそうである。
WIKIPEDIAには、習志野について以下のような説明がある。
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由来
1873年(明治6年)4月29日にこの地で陸軍大將西鄉隆盛の指揮の下に行われた近衛兵の大演習を觀閱した明治天皇によって同年5月13日に習志野と命名された。
「習志野」または「習志野原」の命名について、大演習での陸軍少將篠原國幹の目覺しい指揮に感銘した天皇の「篠原に習え」という言葉が元になった(習篠原→習志野原)という說があり、『習志野市史・第1卷』(1995年)でもこれを「逸話」として紹介している。
陸軍と習志野
廣大な平坦地ではあるが生活用水となりうる水源の乏しい下總台地は古くから牧として利用され、江戶時代このあたりは幕府によって設置された小金牧の一部とされた。
明治維新の後、牧は東京から適度な距離にあることから陸軍の演習場としてしばしば使用されるようになり、明治天皇が「習志野」と命名することとなった近衛兵大演習もその1つである。 1874年(明治7年)に陸軍演習場として一帶が買收された。町村制施行(1889年〔明治22年〕)後の千葉郡二宮村、幕張村、大和田村にまたがる。
1899年(明治32年)、騎兵第一・第二旅團が千葉郡津田沼村大久保に設置され(1901年〔明治34年〕末に編成完了)、日露戰爭での騎兵の活躍を通じて「習志野」の名は廣く知られるようになった。1910年(明治43年)には騎兵學校(1917年〔大正6年〕より陸軍騎兵學校)が東京・上目から二宮村の習志野演習場敷地內に移轉してきた。
演習場內には糧秣倉庫(糧秣本廠習志野秣倉庫)や廄舎が置かれたが、そのうち幕張町(1896年〔明治29年〕町制施行)實籾の高津廄舎の一部は日露戰爭の際に捕虜收容所とされ、第一次世界大戰の際にもドイツ人捕虜を收容した。
1901年(明治34年)、津田沼村大久保に陸軍習志野衛戍病院が設置される(ただし敷地の大部分は二宮村三山に屬する)。
1908年(明治41年)、千葉に鐵道連隊(聯隊)が設置され、同第三大隊が津田沼に置かれた(1918年〔大正7年〕に鐵道第二連隊に昇格)。津田沼から習志野の演習場を經て連隊本部(のち鐵道第一連隊)のある千葉とを結ぶ軍用輕便鐵道が敷設され、後には松戶との間にも敷設されている。
こうして「習志野」は千葉郡北部の津田沼町(1903年〔明治36年〕町制施行)、二宮村(1928年〔昭和3年〕に町制施行して二宮町)、大和田町(1891年〔明治24年〕町制施行)、幕張町にまたがって分佈する陸軍諸施設とともに一帶の地名として理解されるようになった。
第一次世界大戰後、近代戰への變革の中で騎兵とともに知られた習志野も變化を迎えた。 1936年(昭和11年)、大久保の騎兵旅團敷地內に戰車第二連隊(聯隊)が置かれ、騎兵部隊の機甲化(戰車部隊化)の始まりを象徵した。千葉市砂に開設された陸軍戰車學校が當初は習志野(二宮町)に置かれたとする資料もある。 騎兵旅團敷地には1931年(昭和6年)に陸軍習志野學校も開設され、毒ガスをはじめとする化學兵器についての研究・教育が行われたとされている。
=====
志賀直哉が選んだ土地がたまたまこうした明治から昭和にかけての激動を如実に写している土地であったゆえに、志賀直哉は時代と個人の切り結ぶ瞬間に行き会わせ、しかもそれを記録に留めることができたのである。
以上を整理してみると、以下のような関係が、一の作品から浮かんでくる。
地球規模での気候変化→志賀直哉の個性の才能→偶然の散歩→思わぬ気候変化の中で起こった軍の異変の目撃→隠されていた軍の本質に出遭った志賀の戸惑いと怒り→志賀の描写力で作品に刻まれた「時代の本質」
こうして土地の記憶、物の記憶が交錯するところで、志賀直哉の作品隠していた時代の記憶が、私たちの前にありありと浮かび上がってくる。
「十年一日」とは、過ぎ去る光陰を惜しむ言葉だと思っていたが、世代を越えた記憶を留めその時代を再現する方法があることを、一編の小説が見事に教えてくれる。過ぎ去る光陰を惜しむのは、一面では、目前にある宝蔵を見過ごしてることと変わらないのかもしれない。