「郷に入れば郷に従え」ということわざを聞いたのは、いつの頃だったろうか。小学校の1、2年生の頃、物識りだったMからかもしれないし、あるいは、高学年になってからやはりよく本を読んでいた同級生のIからだったかもしれない。故郷を離れたことのなかった、その頃は、何のことかまったくわからなかったし、自分がこの土地を離れていったいどこに行くのか、考えたこともなかった。当時は、海外旅行はもちろん、国内の旅行でも交通手段や費用の点で、なかなか簡単ではなかった。
父が会社から出張を命じられて一ヶ月あまりアメリカへ行ったのは、1960年代の終わる頃、小学校3年生のときだった。当時、まだ成田空港はなく羽田空港が唯一の海外への空の玄関だった。見送りと出迎えに行ったはずだが、見送りの方はよく覚えていない。ただ、出発する前、土産や衣類を詰め込んだスーツケースが重量オーバーなので、包み紙をはずして少しでも軽くしようと、必死になっていた父の姿を想い出す。飛行機の発着が見える空港ビルの展望台から見送ったとき、空は晴れて、明るかった。大変だったのは、父が旅立ってからで、それまで、いつもいた父が急にいなくなり、母も留守を預かる緊張で夜など雨戸をきっちりしめたか、戸締まりをしたかどうか確認したり、火の元の用心をしたりで、必死だった。私と弟も心細かった。今から考えると、何をそんなに怖がっていたのか分からないが、アメリカの宿泊先へ向けて二回か三回、戦地へ送る慰問袋のように絵と手紙を入れて送った。父からも、風景写真の絵はがきが何通か届いた。やがて、父が帰国する日が来て、学校を早退して羽田まで行った。新幹線はもう開業していたから、東京駅から浜松町へ国鉄を乗り継ぎ、今度はモノレールへ乗り換えて、着いたのは、夏間近とはいえ日も暮れた頃だったようだ。が、父の乗った飛行機は到着が遅れ、出迎え客で混雑するロビーで、掲示板を見ながら、当て所もなく母子三人ただ待っていた。父がスーツケースを持って出てきたのは、もう8時過ぎだったのかも知れない。長旅でケースは鍵が壊れ、ベルトで締めてあった。再開の喜びを味わってばかりもいられず、これから浜松まで帰らねばと言うので、眠たくなった弟を母がおぶり、私は父に手を引かれて、また来た道を引き返した。何とか最終の新幹線に間に合って、家へ着いたのは、もう12時をとうに回っていた。こんなに遅くまで起きていたのは、おそらくそれが初めてだったろう。
父の鞄からは、いろいろ土産が出てきた。今でも実家に残っているが、当時同級生の間で流行っていた切手集めに乗って、私も切手がほしいと思い、アメリカの切手を頼んでいた。アポロ宇宙船が月に着いた頃で、そうした記念切手やアメリカのさまざまな人物が載った切手を父は郵便局に行って、買ってきてくれた。日本の沈んだ色調の切手と違い、鮮やかでしかも白みがかった印刷の切手がまぶしく見えた。ほとんどコレクションのなかった私の切手帳は、おかげでほとんどいっぱいになった。
もう一つは、ペナントだったような記憶がある。こちらのほうは、高校の頃まで集めていたが、観光地によくあった三角形の旗で、集め始めたのは、父がアメリカから買ってきてくれたのが、きっかけだったかもしれない。今はどこかに入ってもう分からない。
それから、少し経って船便で届いたアメリカのお菓子があった。今から考えても、いったい何のお菓子だったのか、その後、似たようなものを見たことがないが、柔らかい飴のようなものをひも状に伸ばしたもので、麺の把のように丸く纒められていた。色は、深緑と黒で、こちらは切手と違い何とも得体の知れない鈍い色だった。あるいは、送られてくる途中で、変質してしまっていたのだろうか。味も、酸っぱいような甘いようなよく分からないもので、結局、もてあまして、父が無理して食べることになってしまったようだが、そのうち見えなくなってしまった。あとは、ボールペンがあって、万年筆のような脹らみのある握りの半分に液体が入っていて、中に町の様子が描かれている。ちょうどその中間に溝が掘ってあり、そこを電車の絵が動くようになっていた。日本のボールペンは、黄色い柄の事務用しかなく、子供用やこうした遊び心のあるものは田舎の町では見なかった。文具と言っても、私達が使っていたのは、三菱の深緑の鉛筆に黄色や青などのセルロイド製の筆箱で、やっと筆箱などにキャラクターが付きだしたころだった。でも、高価で、持っている同級生はわずかだった。「ウルトラQ」や「ウルトラマン」がちょうどテレビで始まったころである。
これだけ世界中にいつでも簡単に行けるようになった今日でも、「アメリカ」ということばにまだ憧れに近い感覚を抱く人は少なくないかも知れないが、一ドル360円で父の月給が二三万程度だったはずのその当時は、かなり大変なことだった。テレビでは、ハワイが極楽の島のように紹介されていた。が、不思議なことに、私にとっては、アメリカは、そうしたものとはならなかった。弟は、その後、英語が好きになり、大学時代もよく「タイム」などを読んでいて、とうとう会社の研修でアメリカに一年留学したから、そのときの思い出が作用したのかもしれない。
やがて、私は高校を卒業し、西日本の大学へ行き、卒業後も、その県の県立高校に就職して、四年ほど勤めた。その後、大学院へ入り直し、東京の財団法人へ勤め、留学生だった家内の縁で、台湾に住むようになった今まで、もう故郷を離れていた時間が、そこで過ごした時間よりも長くなった。浮世絵師の葛飾北斎は五十回以上も引っ越したと聞いたことがあるが、私の引っ越しもかれこれ十回近くになった。
もちろん「郷にいれば郷に従え」ということばはもう知っていたが、台湾を除けば住み難いと感じる土地が多かった。と言っても、人情がいいとか悪いとかというより、自分の側の問題だった。大学時代に住んでいた町は、一番憂鬱な時を過ごしたところだ。そして、そうであったが故に、そうした中で「師」や「朋友」に惠まれた土地でもある。今、台湾の大学生を教えるようになって、学生時代の自分と同じだと感じる学生に、やはりときどき出会う。故郷を離れ、新しい環境に出合う、そして、いろいろな事件に出合う。そうした変化が受け入れられずに、こころがますますかたくなになってしまう。思春期の嵐のような自分の感情の動きにも、ついていけなかった。自分自身も周りの世界もすべてが、わたしを「傷つける」と感じられた。しかし、固まった自分の心を少しずつほぐしてくれたのは、出合った先生や友人だった。大学二年生の9月、どうにもたまらなくなって同じ学科のI先輩を訪ね、どうすればいいか相談した。I先輩は、M先生を紹介してくれた。M先生は、当時、大学の中で「歎異抄の会」を開かれていたH先生を紹介してくださった。「歎異抄の会」のお話はまったく分からなかったが、御講義が終わってから私は先生に個人的に尋ねた。H先生は、私の話を聞くと、「今日、別な会があるが来てみるかね」と仰った。町の西はずれにある、その会場を緊張しながら訪ねた。多くの人が集まっていた。先生のお話もあったが、なんのことかまったく分からなかった。一番後に座り、お話が終わるまで、持ってきた本を読んで、待っていた。お話の後、先生を部屋に訪ね、自分の窮状を訴えた。先生は「私は自分の家のとなりに寮を持っている。あなたのような学生を預かったことがある。まず、大事なのは規則正しい生活だ。朝起きる時間、夜、寝る時間、そして、運動をし三食きちんと食事をする。次に、あなたは世界が狭い。機会を見つけて、海外へ行ってみるといい。それから、あなたは弱い。あなたのような人には、良い友達、よい先生が必要だろう。ここにも寮があるが入ってみるかな」。そして、「これから、困ったときは、M君に相談しなさい」と笑顏で仰った。M先生の案内で、寮を見せてもらい、すぐに入ることにした。
寮の先輩や同輩に手伝ってもらい引っ越しをすませ、それから、半年ばかりほとんど寝て過ごした。夕方になると起き出して、寮の奥様とNさんが作ってくださった食事をみなと一緒に食べた。夜の勤行をして、風呂に入り、談話室でみなと話しながらテレビを見て、寝てしまった。寮の同級生Oが、何くれとなく、よく面倒をみてくれた。半年経って、新学期になったころ、朝も普通に起きて、大学へ行く元気が湧いてきた。ときどき休んだが、朝の勤行にも出られるようになった。寮で知り合った同級のFは「寝てばかりいるから、自殺するんじゃないかとみなで心配してたんだ」と後年、真顔で言った。今、思えば、寮の奥様はじめ先輩、同輩のみなには、さぞ迷惑だったに違いないと、恥ずかしくなるばかりだが、このとき寮で過ごす時間がなかったら、結局、大学を出ることもできず、最近、ニュースでよく話題になる「ひきこもり」のまま、悶々と、時を空過していただけだったろう。仏典の一句に「遇い難くしてさらに遇い難い」ということばがあるが、自分の最もひどい泥沼の時代に、こうして大きな命が生きて人に働きかけている場に出逢うことができたのは、まさに、かけがえのない邂逅だったのだ。
だが、もう一つ困ったのは、自分がいったい何になるのか、何になれるのか定まらない、定められないということだった。これは、もどかしいものだ。「世の中は無意味だ」「人間は所詮信用できない」「大人の世界は下劣だ」と若者が同じように構えてしまうのは、裏返して言えば、自分が何者でもないことをよく分かっているからだろう。すべてが選択可能な気がする、しかし、何一つ容易に門戸を開いてはくれない、何かをしようとすれば、まず自分のこころのなかに重い塊やしこりが生じて身動きをとれなくさせてしまう。若者が純粋だというのは、裏返せば、何者でもない「人」であるということである。家族や仲間の一員としては、かけがえのない「一人」である。しかし、「何者」かでなければ、「人」は「人間」にはなれない。持ち場を与えられなければ、狭い「人」の中でしか生きられなくなってしまう。
今、やっと少しばかり「人」として「父」と言う役割、「夫」と言う役割、「子」という役割、「友人や先輩後輩または同輩」という役割と同時に、「人間」として「社会人」と言う役目、「先生」という役目、「研究者」と言う役目、「地域の一員」という役目を続けることができようになったが、大学生から教員を経て大学院にいた時期は、「JAPAN AS NO.1」の時代で、メーカーの絶頂期でもあり金融や証券、商社が花形だった。医科や歯科関係に進んだ高校の同級生も多かった。コンピューター関係や多様なサービス業などの発展以前であり、文学部出身者の就職は限られていた。社会的レースに遅れてはならなかった。私のように、社会的ストレスを感じて「ひきこもり」や「鬱状態」になっても、「モラトリアム」などと言われて認めてはもらえなかった。そして、あえて社会的なレールから外れていくのは、徃々にして「怠けている」としか見られなかった。挫折はそのまま敗残であった。一度、競争に遅れてしまうと、就職は遠かった。
大学四年生のとき、ニュースでは「リクルート」が話題を集めていた。希望する就職先をはがきで出してみた。今思えば、情報型サービス産業のはしりなのだろうが、私の所に届いたのは、故郷にある布団会社の求人案内一通だった。そういう選択をすれば、今また違う人生があったろう。結局、一年留年して教員資格を取り、大学のある県の県立高校を受験した。
一次試験合格の通知が来て、二次試験は面接だった。7月の暑い日射しがまぶしい中、自転車でF高校の会場へ行った。面接官は二人の先生で、「学校では、どんな担当を希望するか」と聞かれた。「生活指導や道徳教育に興味があります」と自分の経験を想い出して言った。
合格通知をもらって、M先生やK先生の紹介で、ある高校に赴任が決まった。観光で行くには、いい土地だし、今、行けばもう少し何とか仕事になったかもしれないが、ここでもまた「郷に入れば、郷に従え」ということわざとは裏腹に、そのときの私には受け入れがたい土地だった。「人」の面もそうだが、「先生」という役目を持てあました。着任して、3年生に配属された。女性の家庭科のベテランM先生がA組、若いY先生がB組で、A組にはやはりベテランのT先生と同じ時に来た臨時採用のU先生、B組に私が副担任だった。新任式が終わって研究室に行こうとして、二階にある三年生の教室の前を通った。三年生の男子が集まっていた。剃り込みを入れた髮型の何人かが睨んできた。こちらもにらみ返した。Iという3Aの生徒が「おまえもSと同じだ」と言っていきなりつかみかかってきた。後ろにいたOという生徒が「やっちまえ」と言って鉄の傘立てを持ち上げて私達に押し付けてきた。壁際に追い詰められた。「そんなことをしてもお前のためにならない」と私は言った。他の先生たちが上がってくる気配を感じて、集まった生徒たちはさっと引いていった。名前もまだその時は知らない初対面の挨拶だった。翌日、3Aの授業があったとき、教室へ入るとIがまたつかみかかってきた。二人でもつれながら、「そんなことをしてもお前のためにならない。自分を大事にしろ」とまた私は繰り返した。Iは手を離して、席に戻ってしまった。Oが「まだやっちまえ」と言いながらけしかけていたが、Iは「もういい」と言って立ち上がらなかった。他の生徒たちも席へ戻った。同じ日、同じような挨拶が二AのI、K、Oの三人組からあった。前から殴りかかってくるIを突き飛ばし、後ろから殴っていたKを振り払って、「そこまでだ」と言いながら、教壇へ戻った。三人は、教室から出て行った。休み時間、IとKを呼んで話をしたが、柄の小さい分、劣等感の強かったIとKには、話は通じなかった。隣の部屋にいたT先生は、「挨拶が来ましたね。助けに入ろうかと思ったが、挨拶は一人で受けるしかないでしょう。前任のS先生が生徒たちから反発を買ったのは、一人で応対できなかったからです」。二回目の授業でも同じことで、二Aの担任だったSK先生が他の生徒から話を聞きつけて、結局、「対教師暴力」で二人は停学になった。二AのIMなど、後に一緒にキャンプに行ったことがある生徒たちが助けてくれたらしい。IとOはその後の何回かの事件の後で退学になり、Kだけが三年生にあがり、卒業した。何年か経って、あるレストランで偶然Kを見かけたことがある。Kも私を認めたらしかった。トイレに行くついでに声を掛けようかと思いながら近づいていくと、彼女らしい女性を前に「みなに殴られていた先生だ」と自慢そうに話している声が聞こえてきた。殴ったのはお前だろうと言いたくなったが、今、何か言うと強いことを彼女に見せるために、また、同じことをするだろうなと思い、そのまま知らん顔で通り過ぎた。
新任の一ヶ月目は、こんな緊張した毎日が続いた。
「3年B組金八先生」がテレビで話題になっていた。生徒たちもそのことを言った。そんな役目は果たせそうになかった。ある時、ベテランのT先生は「所詮、私達の仕事は、知識の切り売りだ。年金をもらうまで、そうして無事に勤めることを考えるしかないだろう。先生はどんな先生になるんですか」と言った。
3年目で一年生の担任になり、自分のクラスを持ったが、私自身にも、他の先生にも、そして、生徒たちの間でも、同じ様な事件はその後も絶えることはなかった。ストレスで肝臓が悪くなり、毎日、微熱が出た。医者は、点滴をしましょうと言った。結局、4年目の5月に休職してしまった。
「先生」は勤まらなかった。ただ、この間、毎月、H先生の会に出てお話を聞くことにしていた。ちょうど善導大師の『観経疏』のお話だった。特に、「二河白道」の比喩に、先生は時間をかけ、何回も繰り返し、お話なさった。休職する前にH先生に相談すると、「刀折れ矢尽きたというところだ。折れない矢になるしかない。お話を聞きなさい」と仰った。
郷里へ帰って、約10ヵ月休んだ。担任していたクラスの生徒たちがお見舞いに、手紙や作文をくれたが、もう先生はできないと思った。父母は「職を失う」のを恐れた。しかし、私は、大学院へ入り直すと主張した。父は「やめるのはよくない。将来、どうするのか」と言った。思わず、大きな声を出した。父は、黙ってしまった。生徒たちが、私に向かってしていたことを、私が父にしていた。
職を棄て、アルバイトをしながらの大学院生活が始まった。そこで、台湾の留学生だったSに出逢った。
台湾を初めて訪れたのは、大学院博士課程を修了して台湾にSが帰った年の夏だった。私も、同じ年に修士課程を終えて、東京の財団法人に勤めていた。Sの実家は、高雄の近くにあった。Hというその町を全く知らなかったが、降下を始めた機窓から見える、7月の熱い日が照付ける台湾の大地は、よく耕されて、溜め池や畑が広がっていた。やがて、機体に横付けされたタラップ車の上に立つと、辺りを包む熱気が、子供の頃の夏休みの雰囲気を想い出させた。
迎えに来ていたSに案内されて、ターミナルの外へ出た。片側四車線の広いとおりの歩道や分離帶には、葉を茂らせた高い椰子が並んでいた。オートバイや車が忙しく通り過ぎて行った。あたりには熱い大気につつまれた、街の熱気が、喧騷になって私の全身を包んでいた。まったく違う街の景色だったが、小学生の頃の、今はもう建て代わって失われた故郷の街並みに立っているかのような、不思議に懐かしい、あたたかい感覚が甦ってきた。「やっと、故郷に帰った気がする」そんな思いが自然に浮かんできた。放浪を続ける旅人が、長い間の異郷の旅を経る間に忘れてしまった、もともと帰るはずの所へ、偶然にもたどり着いたような気がした。
異郷は空間の異なりにはなく、自分の中に、そして人と人の間に、また人と時間の間に生まれる。異郷を生み出すのはなによりも人と出逢う自分自身のかたくなさである。が、それを故郷に変えるのも、また、私自身と人との出逢いである。
Sを「家内」と呼ぶようになり、台湾に住んで、もう十年が過ぎた。
父が会社から出張を命じられて一ヶ月あまりアメリカへ行ったのは、1960年代の終わる頃、小学校3年生のときだった。当時、まだ成田空港はなく羽田空港が唯一の海外への空の玄関だった。見送りと出迎えに行ったはずだが、見送りの方はよく覚えていない。ただ、出発する前、土産や衣類を詰め込んだスーツケースが重量オーバーなので、包み紙をはずして少しでも軽くしようと、必死になっていた父の姿を想い出す。飛行機の発着が見える空港ビルの展望台から見送ったとき、空は晴れて、明るかった。大変だったのは、父が旅立ってからで、それまで、いつもいた父が急にいなくなり、母も留守を預かる緊張で夜など雨戸をきっちりしめたか、戸締まりをしたかどうか確認したり、火の元の用心をしたりで、必死だった。私と弟も心細かった。今から考えると、何をそんなに怖がっていたのか分からないが、アメリカの宿泊先へ向けて二回か三回、戦地へ送る慰問袋のように絵と手紙を入れて送った。父からも、風景写真の絵はがきが何通か届いた。やがて、父が帰国する日が来て、学校を早退して羽田まで行った。新幹線はもう開業していたから、東京駅から浜松町へ国鉄を乗り継ぎ、今度はモノレールへ乗り換えて、着いたのは、夏間近とはいえ日も暮れた頃だったようだ。が、父の乗った飛行機は到着が遅れ、出迎え客で混雑するロビーで、掲示板を見ながら、当て所もなく母子三人ただ待っていた。父がスーツケースを持って出てきたのは、もう8時過ぎだったのかも知れない。長旅でケースは鍵が壊れ、ベルトで締めてあった。再開の喜びを味わってばかりもいられず、これから浜松まで帰らねばと言うので、眠たくなった弟を母がおぶり、私は父に手を引かれて、また来た道を引き返した。何とか最終の新幹線に間に合って、家へ着いたのは、もう12時をとうに回っていた。こんなに遅くまで起きていたのは、おそらくそれが初めてだったろう。
父の鞄からは、いろいろ土産が出てきた。今でも実家に残っているが、当時同級生の間で流行っていた切手集めに乗って、私も切手がほしいと思い、アメリカの切手を頼んでいた。アポロ宇宙船が月に着いた頃で、そうした記念切手やアメリカのさまざまな人物が載った切手を父は郵便局に行って、買ってきてくれた。日本の沈んだ色調の切手と違い、鮮やかでしかも白みがかった印刷の切手がまぶしく見えた。ほとんどコレクションのなかった私の切手帳は、おかげでほとんどいっぱいになった。
もう一つは、ペナントだったような記憶がある。こちらのほうは、高校の頃まで集めていたが、観光地によくあった三角形の旗で、集め始めたのは、父がアメリカから買ってきてくれたのが、きっかけだったかもしれない。今はどこかに入ってもう分からない。
それから、少し経って船便で届いたアメリカのお菓子があった。今から考えても、いったい何のお菓子だったのか、その後、似たようなものを見たことがないが、柔らかい飴のようなものをひも状に伸ばしたもので、麺の把のように丸く纒められていた。色は、深緑と黒で、こちらは切手と違い何とも得体の知れない鈍い色だった。あるいは、送られてくる途中で、変質してしまっていたのだろうか。味も、酸っぱいような甘いようなよく分からないもので、結局、もてあまして、父が無理して食べることになってしまったようだが、そのうち見えなくなってしまった。あとは、ボールペンがあって、万年筆のような脹らみのある握りの半分に液体が入っていて、中に町の様子が描かれている。ちょうどその中間に溝が掘ってあり、そこを電車の絵が動くようになっていた。日本のボールペンは、黄色い柄の事務用しかなく、子供用やこうした遊び心のあるものは田舎の町では見なかった。文具と言っても、私達が使っていたのは、三菱の深緑の鉛筆に黄色や青などのセルロイド製の筆箱で、やっと筆箱などにキャラクターが付きだしたころだった。でも、高価で、持っている同級生はわずかだった。「ウルトラQ」や「ウルトラマン」がちょうどテレビで始まったころである。
これだけ世界中にいつでも簡単に行けるようになった今日でも、「アメリカ」ということばにまだ憧れに近い感覚を抱く人は少なくないかも知れないが、一ドル360円で父の月給が二三万程度だったはずのその当時は、かなり大変なことだった。テレビでは、ハワイが極楽の島のように紹介されていた。が、不思議なことに、私にとっては、アメリカは、そうしたものとはならなかった。弟は、その後、英語が好きになり、大学時代もよく「タイム」などを読んでいて、とうとう会社の研修でアメリカに一年留学したから、そのときの思い出が作用したのかもしれない。
やがて、私は高校を卒業し、西日本の大学へ行き、卒業後も、その県の県立高校に就職して、四年ほど勤めた。その後、大学院へ入り直し、東京の財団法人へ勤め、留学生だった家内の縁で、台湾に住むようになった今まで、もう故郷を離れていた時間が、そこで過ごした時間よりも長くなった。浮世絵師の葛飾北斎は五十回以上も引っ越したと聞いたことがあるが、私の引っ越しもかれこれ十回近くになった。
もちろん「郷にいれば郷に従え」ということばはもう知っていたが、台湾を除けば住み難いと感じる土地が多かった。と言っても、人情がいいとか悪いとかというより、自分の側の問題だった。大学時代に住んでいた町は、一番憂鬱な時を過ごしたところだ。そして、そうであったが故に、そうした中で「師」や「朋友」に惠まれた土地でもある。今、台湾の大学生を教えるようになって、学生時代の自分と同じだと感じる学生に、やはりときどき出会う。故郷を離れ、新しい環境に出合う、そして、いろいろな事件に出合う。そうした変化が受け入れられずに、こころがますますかたくなになってしまう。思春期の嵐のような自分の感情の動きにも、ついていけなかった。自分自身も周りの世界もすべてが、わたしを「傷つける」と感じられた。しかし、固まった自分の心を少しずつほぐしてくれたのは、出合った先生や友人だった。大学二年生の9月、どうにもたまらなくなって同じ学科のI先輩を訪ね、どうすればいいか相談した。I先輩は、M先生を紹介してくれた。M先生は、当時、大学の中で「歎異抄の会」を開かれていたH先生を紹介してくださった。「歎異抄の会」のお話はまったく分からなかったが、御講義が終わってから私は先生に個人的に尋ねた。H先生は、私の話を聞くと、「今日、別な会があるが来てみるかね」と仰った。町の西はずれにある、その会場を緊張しながら訪ねた。多くの人が集まっていた。先生のお話もあったが、なんのことかまったく分からなかった。一番後に座り、お話が終わるまで、持ってきた本を読んで、待っていた。お話の後、先生を部屋に訪ね、自分の窮状を訴えた。先生は「私は自分の家のとなりに寮を持っている。あなたのような学生を預かったことがある。まず、大事なのは規則正しい生活だ。朝起きる時間、夜、寝る時間、そして、運動をし三食きちんと食事をする。次に、あなたは世界が狭い。機会を見つけて、海外へ行ってみるといい。それから、あなたは弱い。あなたのような人には、良い友達、よい先生が必要だろう。ここにも寮があるが入ってみるかな」。そして、「これから、困ったときは、M君に相談しなさい」と笑顏で仰った。M先生の案内で、寮を見せてもらい、すぐに入ることにした。
寮の先輩や同輩に手伝ってもらい引っ越しをすませ、それから、半年ばかりほとんど寝て過ごした。夕方になると起き出して、寮の奥様とNさんが作ってくださった食事をみなと一緒に食べた。夜の勤行をして、風呂に入り、談話室でみなと話しながらテレビを見て、寝てしまった。寮の同級生Oが、何くれとなく、よく面倒をみてくれた。半年経って、新学期になったころ、朝も普通に起きて、大学へ行く元気が湧いてきた。ときどき休んだが、朝の勤行にも出られるようになった。寮で知り合った同級のFは「寝てばかりいるから、自殺するんじゃないかとみなで心配してたんだ」と後年、真顔で言った。今、思えば、寮の奥様はじめ先輩、同輩のみなには、さぞ迷惑だったに違いないと、恥ずかしくなるばかりだが、このとき寮で過ごす時間がなかったら、結局、大学を出ることもできず、最近、ニュースでよく話題になる「ひきこもり」のまま、悶々と、時を空過していただけだったろう。仏典の一句に「遇い難くしてさらに遇い難い」ということばがあるが、自分の最もひどい泥沼の時代に、こうして大きな命が生きて人に働きかけている場に出逢うことができたのは、まさに、かけがえのない邂逅だったのだ。
だが、もう一つ困ったのは、自分がいったい何になるのか、何になれるのか定まらない、定められないということだった。これは、もどかしいものだ。「世の中は無意味だ」「人間は所詮信用できない」「大人の世界は下劣だ」と若者が同じように構えてしまうのは、裏返して言えば、自分が何者でもないことをよく分かっているからだろう。すべてが選択可能な気がする、しかし、何一つ容易に門戸を開いてはくれない、何かをしようとすれば、まず自分のこころのなかに重い塊やしこりが生じて身動きをとれなくさせてしまう。若者が純粋だというのは、裏返せば、何者でもない「人」であるということである。家族や仲間の一員としては、かけがえのない「一人」である。しかし、「何者」かでなければ、「人」は「人間」にはなれない。持ち場を与えられなければ、狭い「人」の中でしか生きられなくなってしまう。
今、やっと少しばかり「人」として「父」と言う役割、「夫」と言う役割、「子」という役割、「友人や先輩後輩または同輩」という役割と同時に、「人間」として「社会人」と言う役目、「先生」という役目、「研究者」と言う役目、「地域の一員」という役目を続けることができようになったが、大学生から教員を経て大学院にいた時期は、「JAPAN AS NO.1」の時代で、メーカーの絶頂期でもあり金融や証券、商社が花形だった。医科や歯科関係に進んだ高校の同級生も多かった。コンピューター関係や多様なサービス業などの発展以前であり、文学部出身者の就職は限られていた。社会的レースに遅れてはならなかった。私のように、社会的ストレスを感じて「ひきこもり」や「鬱状態」になっても、「モラトリアム」などと言われて認めてはもらえなかった。そして、あえて社会的なレールから外れていくのは、徃々にして「怠けている」としか見られなかった。挫折はそのまま敗残であった。一度、競争に遅れてしまうと、就職は遠かった。
大学四年生のとき、ニュースでは「リクルート」が話題を集めていた。希望する就職先をはがきで出してみた。今思えば、情報型サービス産業のはしりなのだろうが、私の所に届いたのは、故郷にある布団会社の求人案内一通だった。そういう選択をすれば、今また違う人生があったろう。結局、一年留年して教員資格を取り、大学のある県の県立高校を受験した。
一次試験合格の通知が来て、二次試験は面接だった。7月の暑い日射しがまぶしい中、自転車でF高校の会場へ行った。面接官は二人の先生で、「学校では、どんな担当を希望するか」と聞かれた。「生活指導や道徳教育に興味があります」と自分の経験を想い出して言った。
合格通知をもらって、M先生やK先生の紹介で、ある高校に赴任が決まった。観光で行くには、いい土地だし、今、行けばもう少し何とか仕事になったかもしれないが、ここでもまた「郷に入れば、郷に従え」ということわざとは裏腹に、そのときの私には受け入れがたい土地だった。「人」の面もそうだが、「先生」という役目を持てあました。着任して、3年生に配属された。女性の家庭科のベテランM先生がA組、若いY先生がB組で、A組にはやはりベテランのT先生と同じ時に来た臨時採用のU先生、B組に私が副担任だった。新任式が終わって研究室に行こうとして、二階にある三年生の教室の前を通った。三年生の男子が集まっていた。剃り込みを入れた髮型の何人かが睨んできた。こちらもにらみ返した。Iという3Aの生徒が「おまえもSと同じだ」と言っていきなりつかみかかってきた。後ろにいたOという生徒が「やっちまえ」と言って鉄の傘立てを持ち上げて私達に押し付けてきた。壁際に追い詰められた。「そんなことをしてもお前のためにならない」と私は言った。他の先生たちが上がってくる気配を感じて、集まった生徒たちはさっと引いていった。名前もまだその時は知らない初対面の挨拶だった。翌日、3Aの授業があったとき、教室へ入るとIがまたつかみかかってきた。二人でもつれながら、「そんなことをしてもお前のためにならない。自分を大事にしろ」とまた私は繰り返した。Iは手を離して、席に戻ってしまった。Oが「まだやっちまえ」と言いながらけしかけていたが、Iは「もういい」と言って立ち上がらなかった。他の生徒たちも席へ戻った。同じ日、同じような挨拶が二AのI、K、Oの三人組からあった。前から殴りかかってくるIを突き飛ばし、後ろから殴っていたKを振り払って、「そこまでだ」と言いながら、教壇へ戻った。三人は、教室から出て行った。休み時間、IとKを呼んで話をしたが、柄の小さい分、劣等感の強かったIとKには、話は通じなかった。隣の部屋にいたT先生は、「挨拶が来ましたね。助けに入ろうかと思ったが、挨拶は一人で受けるしかないでしょう。前任のS先生が生徒たちから反発を買ったのは、一人で応対できなかったからです」。二回目の授業でも同じことで、二Aの担任だったSK先生が他の生徒から話を聞きつけて、結局、「対教師暴力」で二人は停学になった。二AのIMなど、後に一緒にキャンプに行ったことがある生徒たちが助けてくれたらしい。IとOはその後の何回かの事件の後で退学になり、Kだけが三年生にあがり、卒業した。何年か経って、あるレストランで偶然Kを見かけたことがある。Kも私を認めたらしかった。トイレに行くついでに声を掛けようかと思いながら近づいていくと、彼女らしい女性を前に「みなに殴られていた先生だ」と自慢そうに話している声が聞こえてきた。殴ったのはお前だろうと言いたくなったが、今、何か言うと強いことを彼女に見せるために、また、同じことをするだろうなと思い、そのまま知らん顔で通り過ぎた。
新任の一ヶ月目は、こんな緊張した毎日が続いた。
「3年B組金八先生」がテレビで話題になっていた。生徒たちもそのことを言った。そんな役目は果たせそうになかった。ある時、ベテランのT先生は「所詮、私達の仕事は、知識の切り売りだ。年金をもらうまで、そうして無事に勤めることを考えるしかないだろう。先生はどんな先生になるんですか」と言った。
3年目で一年生の担任になり、自分のクラスを持ったが、私自身にも、他の先生にも、そして、生徒たちの間でも、同じ様な事件はその後も絶えることはなかった。ストレスで肝臓が悪くなり、毎日、微熱が出た。医者は、点滴をしましょうと言った。結局、4年目の5月に休職してしまった。
「先生」は勤まらなかった。ただ、この間、毎月、H先生の会に出てお話を聞くことにしていた。ちょうど善導大師の『観経疏』のお話だった。特に、「二河白道」の比喩に、先生は時間をかけ、何回も繰り返し、お話なさった。休職する前にH先生に相談すると、「刀折れ矢尽きたというところだ。折れない矢になるしかない。お話を聞きなさい」と仰った。
郷里へ帰って、約10ヵ月休んだ。担任していたクラスの生徒たちがお見舞いに、手紙や作文をくれたが、もう先生はできないと思った。父母は「職を失う」のを恐れた。しかし、私は、大学院へ入り直すと主張した。父は「やめるのはよくない。将来、どうするのか」と言った。思わず、大きな声を出した。父は、黙ってしまった。生徒たちが、私に向かってしていたことを、私が父にしていた。
職を棄て、アルバイトをしながらの大学院生活が始まった。そこで、台湾の留学生だったSに出逢った。
台湾を初めて訪れたのは、大学院博士課程を修了して台湾にSが帰った年の夏だった。私も、同じ年に修士課程を終えて、東京の財団法人に勤めていた。Sの実家は、高雄の近くにあった。Hというその町を全く知らなかったが、降下を始めた機窓から見える、7月の熱い日が照付ける台湾の大地は、よく耕されて、溜め池や畑が広がっていた。やがて、機体に横付けされたタラップ車の上に立つと、辺りを包む熱気が、子供の頃の夏休みの雰囲気を想い出させた。
迎えに来ていたSに案内されて、ターミナルの外へ出た。片側四車線の広いとおりの歩道や分離帶には、葉を茂らせた高い椰子が並んでいた。オートバイや車が忙しく通り過ぎて行った。あたりには熱い大気につつまれた、街の熱気が、喧騷になって私の全身を包んでいた。まったく違う街の景色だったが、小学生の頃の、今はもう建て代わって失われた故郷の街並みに立っているかのような、不思議に懐かしい、あたたかい感覚が甦ってきた。「やっと、故郷に帰った気がする」そんな思いが自然に浮かんできた。放浪を続ける旅人が、長い間の異郷の旅を経る間に忘れてしまった、もともと帰るはずの所へ、偶然にもたどり着いたような気がした。
異郷は空間の異なりにはなく、自分の中に、そして人と人の間に、また人と時間の間に生まれる。異郷を生み出すのはなによりも人と出逢う自分自身のかたくなさである。が、それを故郷に変えるのも、また、私自身と人との出逢いである。
Sを「家内」と呼ぶようになり、台湾に住んで、もう十年が過ぎた。