台湾生活-日々のともしび-

台湾と日本を行き来する日本人の目から見た、日本や台湾の日常的できごとへの個人的感想

神話の時代─アリストテレスの『詩学』と歴史またはシンクロニシティ─

2011-12-12 22:00:01 | 日々におもうこと
 こうして、このブログを開いたのは、1年半ぶりになる。暫く開いていなかったので、パスワードを忘れてしまっていた。メモを取りだして、ログインして見ると、2010年5月に書いた断片が残っていた。以下の部分は、その時に書いたものだが、結局、その後慌ただしく、さまざまな出来事が起こる中で手付かずのままになり、時が流れ去ってしまった。


 台湾に来て1年目に生まれた長男は今年高校受験の歳になった。試験が迫っているのに、長男は他人事のように、自分の時間を過ごしている。MP3を聞く聞かないで、さっきも親子喧嘩になった。中学生だった自分を父や母はどう思っていたのだろう。

 私の高校受験の頃を思い返してみると、中学生だった自分には今の自分の歳を迎えることなどとうてい考えられなかった。40歳を越えた自分があろうとは、思いも依らないことだった。此所まで書いて以前付き合っていた女性とそんなことを話したことがあったのを思い出したが、しかし、それは大学生のときで、20歳の自分にすら思い描けない未来を、15歳の私が思い描いていたはずもない。すべては萠芽にすぎなかった。
 考えていたのは、テストの成績、異性のクラスメートへの憧憬、同級生とのたわいのない遊びや反発、そして、半ば背伸びして読んでいた、しかし空想癖を刺激して止まなかった通っていた中学校の図書室や自転車で休みになると出かけた市立図書館の本、そしてもらった小遣いを貯めて、なるべく安い版を探して、当時は繁華街に何軒かまだあった大きめの本屋を回って買った文庫本のことぐらいだろう。
 その当時の時間を取り戻す術がないのと同じように、県外へ転校してしまった人も多い当時の同級生たちと会う機会はもう二度となく、両親と弟の典型的な核家族4人で住んでいた、当時は子供たちにあふれていた郊外の住宅地は、住んでいた家はもちろん、一緒に走り回っていた幼なじみの家や、遊び場にしていた場所も含め、今は半ば廃墟に変わり、半ばは取り壊されて空地と化し、当時の街並みも活気も今はもうまったく失われている。そうした時間を過ごした人々が二度と集まる縁はなく、一番身近な血縁の家族すら、もう二度と共通の時空を過ごす方途はない。父は亡くなり、弟は都会へ出て、そして私は台湾で暮らしている。故郷に残っているのは母だけになった。そして自分にとってはほぼ世界のすべてだったあの頃の故郷の街並みも、私が大学へ行くために故郷を離れてからバブル経済全盛期に大半は地上げされて、更地に変わり、今では残っている当時の家竝の方がもう少ない。
 あそこにはアパートがあった、彼処はMの家だったのに、幼なじみの家は更地に変わっている。よく通っていた店は腐りかけた雨戸がしまって壁は一面に蔦に覆われている。以前友達との行き来に使っていた狭い道は草に覆われてもう痕跡をたどることもできなかった。


 中学校の図書室は放送室や生徒会室などがある棟の2階にあって、教室を改造した部屋のようだった。
もちろんその頃の私は台湾で日本語教師をすることなど、想像すらできなかったし、その頃の日本社会は自足していて、外国人に日本語を教えることなどまったく考えても居なかっただろう。しかしなぜかみな図書室が好きだった。休み時間になると雑談室に変わり、閲覧用の机はいろいろな学年の生徒に占領されていた。上級生が来ると下級生は追い払われることもあった。私は本棚の傍に行って、借りる本を探していた。
 何を借りたのだろうか?今、覚えているのは、エンリケ航海王子の伝記、マゼランの探検記など、挿し絵入りの児童向けの大航海時代の探検家の伝記である。キャプテン・クックの航海記もシリーズに含まれていたような気がする。マゼランのセブ島での最後の戦闘や、ハワイで倒れたクック船長の最後の場面は、ずっと旅を続けた大切な仲間を失うようで、なかなか読むことが出来なかった。

 よく眺めていたのは画集である。同級生や上級生も仲間で集まっては、おしゃべりしながら、よく見に来ていた。西洋画のシリーズだったので女性の裸体画に惹かれていたのかもしれないが、今でも覚えている一枚は、イギリスの発狂した19世紀の画家のスケッチである。今、インターネットで調べてみると、おそらく彼の絵だと思われる。

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ダッド、リチャードRichard Dadd ( 1817-1886 ) イギリス
父親を殺した狂気の画家である。
1817年、イギリス南東部ケント州チャタムで生まれる。
父親は薬剤師で、薬局を経営していた。化学や地質学の講師としても活躍し、町の名士であった。
リチャード・ダッドは優秀な子供であった。13歳で古典文学の知識を身につけた。
本格的に絵を描き始めたのは、13歳からである。1837年、ロイヤル・アカデミースクールの学生許可をとる。
初めての展示も同年である。作品は『眠るティターニア』がロイヤルアカデミーに、『パック』が英国芸術家協会に展示された。この展示で批評家に絶賛された。
将来を有望視された画家であった。
弁護士サー・トーマス・フィリップスが、ヨーロッパ、中東旅行に同行する画家を求めていた。ダッドはこの仕事を得て、10ヶ月の旅行に出た。
この旅行でダッドは数多くのスケッチをしている。
しかし、旅の後半から、ダッドの様子がおかしくなる。弁護士フィリップスやその他の人々に取り付いている悪魔に悩まされ、ローマ法王を殺す衝動に悩まされた。
ダッドは、狂いそうな自分を抑え、急いで帰国した。
狂いそうになる自分を、父親にだけは、なんとか隠しながら、『海辺で休息する隊商』を描き上げた。しかし、そのころには、精神状態は破壊の道をたどっていた。
ダッドはエジプトの神オシリスの支配下にあり、悪魔を殺すのが彼の使命だ、と思い始めた。
1843年、ダッドは、父親を散歩に誘い、コバム公園で、父親を刺し殺した。
そのすぐ後、フランスへ逃げた。しかし、乗合馬車に乗っているとき、たまたま、乗り合わせた人を殺そうとして、逮捕された。
フランスの精神病院で10ヶ月を過ごした後、イギリスへ送還された。
裁判では、正気ではない、と判断され、精神病棟に収監される。
ダッドは、父親を殺したとは思っていなかった。自分の父親だと嘘をついている男を殺した。その男には悪魔がとり付いていたので、神が、自分に、その男を殺せ、と命じた、と主張したのである。
一生涯、精神病棟で過ごしたダッドにとって、絵を描くことで、知性の破壊を免れた。絵の話になると、聡明に話すことができた。しかし、いったん妄想の世界に入り込むと、話は、つじつまが合わなくなった。
1884年、結核で亡くなる。
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 インターネットには彼の有名な絵がいくつか出ているが、私が見ていたスケッチは見つからなかった。画集を一緒に見ていた中学の友人とは、中学の卒業式で分かれた後、今まで会う機会はない。


 台湾で生まれた中三になった長男を見て、それから考えてみても、台湾に移り住んでから、すでに15年の月日を数えたことになる。
 「定住」という行為を考えただけでも、日本に居たときもっとも長く住んでいたのは故郷の実家の18年だった。大学に行ってから一つの場所に長く住んでいたことはない。下宿、寮、勤め先、大学院、就職と2~3年で次々に住む場所とともに境遇や生活も変わっていった。
 私と私を取り巻く世界との関わりの中で多くの変化が生じた。その中には、私と周囲との関係が遷っていったこともあれば、自分の中で何かが生まれ何かが消えていったこともあり、新しく見えるものが顕れる一方で今まで見えていたものが見えなくなったこともある。移ろっていゆくものには限りがない。

 1年半前に書いていた断片を読み返してみると、二度と手に届かない多くの思い出が次々によみがえってくる。

 
 大学時代から、高校教員を経て大学院に入り直した頃まで、なぜか本を集めなくてはならないという思いにかられて、当時はS町にあった大学生協や古本屋、バスセンターのK書店、今はもうなくなったアーケード街のMなどに行って、哲学、文学、思想などの本を見付けては買っていた。中公バックスで出ていた古典哲学の翻訳、実存主義のハイデガーやヤスパース、当時、紹介されたばかりだった記号論、身体論、現象学、読者論、文芸学、古典文学大系そしてソシュールや言語哲学のオースチンなどの翻訳、国語学の橋本進吉や時枝誠記の古本、国文学関係の雑誌。寮の六畳はこうした本で埋まっていた。今ならネットオークションで高値が付きそうなP.K、ディックや光瀬龍のSFや森村誠一などの推理小説の文庫本、『カムイ伝』などの漫画も段ボールに数箱分あったが、これはいつの間にかなくなってしまった。10年以上も買い続けていたが、ほとんど買っただけでまったく読まないものがほとんどだった。今は「本オタク」とでも呼べばよさそうだが、なぜ食費や流行のウオークマンなどの替わりにこうした本を買わなければならないのか、自分でも理由は分からなかった。
 今年、日本語教育で有名な台湾のF大学の日本語学科が「身体論」のシンポジウムでの論文を募集した。家内は『1Q84』に出る牛河と青豆のセックスに関わる身体描写を取り上げ、私は日本統治時代に発行されていた『台湾日日新報』の広告の身体図案を取り上げた。家内は慣れないテーマで苦しんだ。「身体論の本、ない」「ああ、大学の時に買ったのを持ってきていれば、あるはず」本棚を探してみた。大学時代に買って一度も読んでいない市川浩や湯浅慎一の本を日本から持ってきていた。10年前まで吸っていた煙草の煙や埃で茶色に変色していたが、読むには問題なかった。家内は慣れない身体論やCiniiで見付けた哲学の論文などで夏休みは悪戦苦闘の毎日だった。秋に入った、ある夜「『1Q84』には2人が肉体的に引き裂かれるという描写がよく出てくる」と家内が困り果てていった。「失われた半身を求めるようなという言い方もある」「ふーん、それはギリシア神話の話だろう。アンドロギュノスと言って、最初人間は男女一体の形だったがゼウスの怒りで二つに引き裂かれたという話だ」中学校の頃、読んでいたギリシア神話の陰惨な鉄の時代の頃の話のような気がした。出典をネットで調べてみると『饗宴』のアリストファネスの寓話だと分かった。『1Q84』にはプラトンが出ていた。こんな形で家内の論文は動き出した。

 大学時代か教員時代かよく覚えていないが、今から20年以上前のある日、実家に帰っていた弟が英語の本を一生懸命読んでいた。私は英語は苦手だが、弟はペーパーバックを時々買って読んでいた。題名を見ると「Synchronicity」と書かれていた。何の本かやりとりしたような記憶もあるが説明は覚えていない。ただ記憶の片隅にその単語がなぜか残っていた。今年3月11日の東北関東大震災が起こり、福島原発の大爆発があって、日本列島も日本社会も日本人も取り返しのつかないような大きな痛手を受けた。福島から数百キロも離れた母の実家の、叔父の茶畑からもセシウムが検出された。叔父の家には小学校時代、夏休みと正月、いつも遊びに行っていた。夏、畑からもいで食べたまだ青いトマト、鶏舎や豚舎の堆肥の臭い、冬に実った金柑の酸味・・・一面の茶畑が広がる中、夏は製茶の香りがただよい、冬は富士山が晴れ渡った空に浮かんでいた。もうおそらく二度ともとには戻らないかもしれない、そんな気がした。叔父の畑は定期的に献上茶を出している、県内の製茶農家には有名な畑だった。40年以上かかって作り上げてきた緑茶の伝統も、一瞬にして崩れてしまった。

 地震から2ヵ月か3ヵ月が過ぎた頃、ある夜、私はインターネットで情報を探していた。「偶然」について書きたいと思っていた。「不幸な偶然」「ありえない巡り合わせ」・・・。Googleのヒットを見ると「シンクロニシティ(Synchronicity)」と書かれたWikipediaのページが出てきた。「シンクロニシティ!!」

 シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは「意味のある偶然の一致」のことで、日本語訳では「共時性(きょうじせい)」とも言う。非因果的な複数の事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された独: Synchronizitätという概念の英訳である。 何か複数の事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような複数の事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見なす。ユングは、ノーベル物理学賞受賞理論物理学者ヴォルフガング・パウリと後に1932年から1958年までパウリ=ユング書簡と呼ばれるパウリの夢とそれに対するユングの解釈におけるシンクロニシティの議論をし、それをまとめて共著とした"Atom and Archetype:The Pauli/jung Letters, 1932 - 1958"(『原子と元型』)を出版している。

 30年近く前、大学時代に買った本の中に、黄みがかった表紙のユング・パウリ『原子と元型』という本があったのを思い出した。調べて見ると弟が読んでいた本の翻訳らしいものも、今、出ていると分かった。8月、免許の更新に実家に戻ったとき、2階の本置き場で探してみた。しかし、それらしい本は見当たらなかった。窓から外を見ると、8月の薄曇りの空は以前と何も変わっていなかった。だが、計ってみればガイガーカウンタの針はふれるかもしれない・・・。ここはすでに自分が知っていた世界ではない、この時空をどう受け止めればいいのか。この時代に生まれ合わせたことは、どんな意味をもっているのか。「シンクロニシティ」だとすればそれはどんな意味のある偶然なのか。今までの不思議な暗合は、今後の偶然を呼び出す鍵になるのだろうか。

 12月11日、台湾にも寒波が訪れて、雨模様の日曜日だ。溜まった仕事を片づけて、ぼんやり窓を見ていた。北台湾の冬は鉛色の空が年明けまで続く。高校まで過ごした、太平洋岸の故郷の明るい冬空を思い出した。もう壊してしまった以前の実家の、陽光のさす谷の口に面した2階の部屋は、眠りを誘うぐらいに気分がゆったりとしていた。その部屋から台地の縁に広がる夕焼けをよく眺めた。外は肌を刺す南アルプスからの乾いた風が吹きつのっていたとしても、室内の暖かい空気は冬を忘れさせてくれた。高校になってからだが、そんな晴れの日、郊外の山に出かけてみると、乾燥した透明な冬の光の中に冬枯れの山々がどこまでも県北まで紫色に霞んでいた。山と山が次々に重なり合い、どこまでもそれが広がっていく静寂、氷のように白々とした陽光、風の音が冬の大気の緊張を振動させている。
 あの頃、安心してなにも考えずに過ごすことができた故郷の野山は2011年3月11日から後、もうどこにもない。(2011年12月12日 未完)


 


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