燕は突然やってきた。ある夕方(2005年3月19日)、溝川脇の駐車場の道を歩いていると、素早く動く黒い影が辺りを飛び回っていた。寒気で葉を落としてしまった鳳凰樹の並木が右手にのびている。蝙蝠かと思ったが、舞い上がったかと思うと、素早く旋回して、また川の上に戻ってくる。飛び方を見ていると、燕だと分かった。百羽は超えていただろうか。溝川に集まっている羽蟲を狙っているのか、鳴き声も立てず、ひたすらに円を描いては、また戻ってくる。
その前日には、見かけなかったので、恐らくその日に一族で、この町に再び、渡ってきたのだろう。
餌をとりやすい場所で、長旅の空腹を癒していたのかもしれない。
その日から、あちこちの家の軒先に、巣作りを始めた姿を見かけるようになった。道の上を舞っては、電線にとまり、また、飛びたっている。
去年も、よく行っている豆花店の軒先に、子供たちが親の帰りを待っている姿を夏頃まで見かけた。ただ、いつ渡ってきたのかは、分からなかった。台湾も、燕の故郷なのだ。
燕の巣を初めて見たのは、お茶農家をしている祖父母の家だった。今はもう叔父の代に替わり、農業志望の若夫婦が後継に来たとき、その頃の家は建て替えられてしまったが、田の字型の四部屋の手前と裏とに縁側、右手に土間の玄関から続く台所があった。前には背の高い太い幹の松の木があり、目印になっていた。
小学校の低学年の頃、毎年、夏休みに何日か泊めて貰っていた。祖父母の家は街道へ抜ける道と茶畑へ向かう小径の角にあり、道を挟んで茶部屋と呼んでいた製茶の作業場が建っていた。そこに深い貯水槽があり、のぞき込んでも底が見えないぐらい深く見えた。茶部屋の隣と奧には、豚小屋があり、藁の発酵した臭いがしていた。屋根の付いた隣の小屋には、大きな母豚が此方を睨んでいた。茶畑へ開けたトタン屋根の奧の小屋には、子豚たちが走り回っていた。
小屋の前に金柑の木があり、毎年、冬の正月に遊びに行ったとき、黄色い実がなっているのを見ていた。酸っぱいと言って誰も食べなかったが、ある冬、私は弟と二人実をもいで、随分食べた。ほのかな甘味に鋭い新鮮な酸味が温州みかんとは違っていた。果物のおいしさが身にしみた。だが、その翌年、夏に行ったときには、実はなかった。「金柑は?」と叔父に聞いたが、「花が終わったばかりだから、冬にならないとね」と笑っていた。どうしても食べたいと言いだしたが、馬鹿を言うなと父に叱られた。
その代わり、夏の庭の木々には、油蝉、熊蝉、ニイニイ蝉、日暮らしなどがいくらでも鳴いていた。特にニイニイ蝉は、樹皮の色が変わって見えるほど集まっていて、手づかみしても逃げなかった。子供の背丈ほどのところでいぐらでも取れた。一番すばしこかったのは、日暮らしで、午後になると鳴き始めるが、木の高いところにいて姿は見えず、父に手伝ってもらって、竹を接いで虫取り網を長くし、やっと一度だけ採ることができた。しかし、纎細な鳴き声の主らしく、もう翌日には動かなくなっていた。
茶畑の間には、トマト、胡瓜、茄子、西瓜、枝豆などが植えられて、実った頃を見計らい、叔母に連れられて、もぎに行った。美味しかったのはトマトで、大振りな背中に背負う竹の籠の半分ほども採れたのを、持って帰った。そのまま洗って食べると、甘酸っぱい芯のとおった味がした。こうした野菜の味で、初めて美味しいと思った。今、食べるトマトは、品種が替わり、その時代のものに比べると、水っぽいぼやけた甘さで、もうその時の味がするトマトは、滅多に味わえない。
叔父の家は、宝の山だった。母屋の隣にある納屋の二階を改築して、叔父夫婦が住んでいたが、一階は、倉庫で、古い大型のラジオが棚の上に乗っていたり、鎌や鍬やさまざまな大きさの竹の籠、藁で作った背負子、お茶に使う茶ばさみなど、見かけない道具が半分開いた引き戸から小さい明かり取りの中におぼろに見えた。
台所は、外にある井戸から手押しポンプで水を汲んで、使っていた。手押しポンプは、自宅近くにあって遊び場になっていたS院の境内にもあった。幼稚園の頃、或日、遊び仲間が水を入れ物に入れて持ってきて、呼び水にし、ポンプの中に入れて、二三人が力を合わせて、何回か押していると、その内、水が大変な勢いで口から噴き出してきた。当りはたちまち水浸しになり、今度は、できた水たまりで、遊んだ。何日か同じように遊んでいたが、その内に、幼稚園の先生から苦情が出て、水遊びはできなくなってしまった。叔父の家のポンプは、飲料水なので、遊びには使えなかった。
夏の朝、汲みたての水で顔を洗ったときの清々しさを覚えている。
台所の勝手口の隣には、味噌蔵があって、中にいくつかの樽が並んでいた。いつ頃までか祖母が自家用の味噌と醤油を造っていた。覚えているのは、その香ばしい醤油の香りと小振りの樽に入った金山寺味噌の味だ。大豆、麦などの粒を蒸して昆布などを加えて発酵させたもので、ご飯にかけて食べると、ぱさぱさしたご飯でもしっとりとしたこくのある微かな塩味で不思議においしくなった。お土産にもらって自宅で食べた。
風呂場も忘れられない。鉄の丸い風呂釜を薪で焚く五右衛門風呂で、そのまま入ると足をやけどしてしまう。入るときは円形に切った簀子を足の下に置いて一気に沈めて、簀子の上にのるようにした。最初は恐ろしくて入れなかったが、父が最初に入り、簀子を沈めてくれた後に、恐る恐る入った。周りの鉄の鎌の縁も触ると熱いので、寄りかかったりはできない。
しかし、釡を焚くのはおもしろかった。最初の火をおこしてもらった後、細い枝を入れて火を大きくし、太い薪を二三本入れて、火がつくと、後は、おもしろいように何でも燃えた。そのころ見ていたテレビ番組のサンダーバードに見立てて、アルミ箔にマッチ棒を包み隊員に見立て、それを何重にもいろいろな箱に包み、燃えさかる薪の間に入れた。火の消えた後におきを避けながら、残骸を捜索した。ぼろぼろになったアルミ箔が見つかったが、中身の隊員は小さな炭の粉になってしまっていた。遊びに行く度に二三度、そんなことをしていたが、あるとき、面白がって弟と薪をくべすぎ、風呂は沸騰して、熱くてはいれなくなってしまった。両親からさんざんに怒られて、当番失格。風呂焚きは、二度とできなくなってしまった。
叔父の今はもう建て替えられた、その広い母屋の玄関の梁に二つか三つ燕の巣があった。ある冬に行ったとき、梁に小さな板で張り出しが作ってある上に、ねずみ色と白の混ざった丸いものがあるのに気が付いた。「なぜ、板が打ってあるの?」「おじさんが子供の頃、燕の子が落ちないように、板を付けたんだよ」と母が答えた。
お茶造りは、4月5月の新芽が出る時期が最も忙しい。だから、その時期にお邪魔するのは遠慮していた。ただ、一度、新茶ができた頃、別の親戚への用事があった帰りに、玄関で新茶を飲ませてもらったことがあった。冬は人気のない茶部屋は、手伝いの人でいっぱいだった。叔父に案内してもらって、動いている機械の間で、蒸された広いの葉が、次第にもまれて細くなっては落ちていくところを見た。母屋に戻って、「今年も、良いお茶ができましたよ」と父と話しながら、叔父が私達家族に、もみ立てのお茶をふるまってくれた。鮮かな黄緑色のお茶からは、甘く香ばしい香りがした。濃い入れ方だったが、今でも想い出す、その味は、ほとんど苦みはなく文字通りの「甘露」だった。その当時はもちろん「甘露」という言葉は知らなかったが、花祭りか何かで、その字を見たとき、叔父の新茶がすぐに連想された。
お茶をいただいているその上を、玄い影が素早く通り過ぎていく。そして、くるっと向きを変えて、梁の板の上にとまった。燕だった。それは、私にとって、おそらく雀、鳩、烏以外に見た、初めての野鳥だったのではないだろうか。高度成長経済の中、全国に公害が広がり、「**喘息」ということばがいたるところにあり、市民運動が激しくなっていた頃だった。市街化された郊外の町でも、鳥の姿は、もうほとんどなかった。
茶部屋からは、活気とお茶の青いカテキンの香りが溢れていた。新緑をつみ取られた濃い緑色のお茶の木々からは、もう次の新芽が浅緑に伸びていた。
春から初夏へ移る頃。燕で想い出すのは、教員として勤めていた学校の二階にあった幾つかの巣だ。海に開けた山の裾野にあったその校地は、運動場の奧に二階建ての旧校舎、左手に新校舍があった。勤めだして二年目は、その新校舍の二階が副担任受け持ちの一年生の教室だった。
生徒とのトラブルは1Aで起こった。もっとも手におえなかったのはYというその前の年初めてついた3年生のクラスにいた女子生徒の弟だった。新学期の何回目かの授業中、YとKから来ていたN、Yと同じ町から通っているNとNSなどが教室の左端にかたまっていて、糸のついた五円玉を投げ合って遊んでいた。近づいて「おい、授業中だろ」というと、こいつというわけで睨み合いになり、今度は、糸のついた五円玉を私に投げ付けた。挑発だ。取り上げようとすると「お前は気に食わん」というわけで、YとNがドンと肩を衝いてきた。Kから来ていたNが「やっちまえ」とけしかける。頭のいいNSは様子を見ている。「手を出したら、こらえんぞ」といって、一歩さがり、様子を見た。にらみ合いが続いて、暫くして、そのままになった。
Yを休み時間に呼び出して、話そうとしたが、いきりたつばかりで、話にならなかった。次の時間も同じようなことが起り、女子の生徒が担任のY先生にそれとなく告げたようで、「先生、何かありましたか」と言われ、報告せざるをえなかった。
結局、授業妨害でKから来ていたNが、そして、暴力行為でNとYが停学になった。
この三人は、退学空けのあとも、何度かの喫烟や他の先生への暴言、暴力などで何度か停学になり、出席不足で単位が認められず、Nは一学期で、YとKから来ていたNは二学期の終わりに退学になった。しかし、もともと気のいいNは、退学になってからも、大きいからだをスクーターに載せて、ときどき学校に遊びに来た。強がりのKから来ていたNは、退学後、一度来て、「もう停学にできんだろう」と言いながら、教室の前で、煙草をふかせて見せた。
ひがみが強いYとは、その後、Oの高校で一度、会った。その定時制に替わっていたのだ。見かけて近づいていくと「YとK(1年の担任)はいい先生だった。お前は一番嫌いだ」と、ふてくされたように言った。今なら、「そうか、おれはお前が好きだけどな、残念だな、ふられたか」ぐらいで、切り返せるが、その当時はそこまでの余裕がなかった。癪にさわった。しかし、こっちも強がって「こっちは、どうだ」と聞くと「Oはいい先生ばかりだ」と言う。「また、がんばれ」「がんばらんよ」「どうして」「お前みたいな、先公に言われとうない。また、殴りたくなる。あっちへ行け」隣にガールフレンドらしい女子生徒が「この先公、何だ」という顔をして立っていた。
副担任受け持ちのB組では、担任のK先生とクラスのボス(名前が思い出せない。M中学の出身だった)との間で、騷動が続いていた。私が、Bでもめたのは、一年生から留年したやはりM中学のIだった。Iは、留年早々、喫烟で停学になり、その家庭訪問に行く途中、出歩いているところを前の年3年生の副担任で世話になった今は1年A組の副担任のYN先生と見かけた。YN先生が「どうしたんな」と車を寄せると、Iはいきなり助手席にいた私の腕をつかんで「お前が悪いんだ」とか何とか、わけの分からないことを言った。あとになって考えてみると、留年したのはお前が単位を出さなかったせいだということだったらしい。YN先生が「そんなことをしよったら、どうもならん。早く家へ戻れや」と言って、自宅へ帰らせた。
Iは、停学中も、こんな調子で出歩き、外でいろいろ不愉快な事件を起こすようになって、とうとう、退学させられることになった。Iは、退学が決まった日、お礼参りというわけで、手下のTを使って私を新校舍一階の一番人目に付きにくい改段下に呼びだして、「殴らせろ」決闘を申し込んできた。「お前がK(担任)に言わなければ・・・」肩の当りを一発殴られた。外で見かけたときのことだろう。Iは母親がいなかった。父親は、裏社会の下積みのような、評判の人物だった。在学中のIは、よく、人目につかない時を狙って、気に食わないクラスの同級生や私をはじめ弱そうな先生たちに、嫌がらせをし、こんな暴力をふるった。肩や背中を殴るのは、顔を殴らなければ、目立たないから、言い逃れができるという考えからだろう。
Iは何度か手を出そうとし、私は、間をとって、私は相手にならないでいた。挑発は続いたが、「こんなことをしよっても、どうもならん」と言って、やがて、階段を上り、職員室へ戻った。人は良いが乗せられやすいTが介添え役という役柄でそばに立っていた。教師が暴力をふるった。裁判だ。教育委員会だ。そんな作戦を立てていたのかもしれない。
十分余りして、Iは猛り狂って、職員室へ押し掛けてきた。人は、どうすれば逆境から強くなれるのだろうか。何とか鬱憤をはらしたい。気が済まないのだ。胸ぐらを捕まれて、押し合いになった。Yシャツのボタンがとんだ。すぐに、K先生が止めに入ってくれて、私は旧校舎一階の事務室へ退避し、Iは、一年生のときの担任だったT先生のいる新校舍の二階へあがった。T先生は、Iをなんとか立ち直らせようと、親身に世話をしていた。
どのぐらい経ったろうか。気が静まったのかIが、事務室へやってきて、「悪かったな。お前じゃ、なかったか」と言った。T先生が、うまくなだめてくれたらしい。T先生が後ろからやってきて、「やっと、収まったようなので、今のうちに」。緊張していたときは感じなかったが、腹立ちをおさえていると、胃に応える。痛いと、初めて気が付いた。そうそうに職員室へ引き上げた。K先生から、「被っていただいて」と礼を言われた。留年したIをどうするか、二人で話し合ったとき、役を決めておいたのだ。暴力傾向の強いIを一年生と一緒にしてはおけなかった。
Iとは、その後、一度会ったことがある。半年ぐらい経ったときだったか、教員官舎に電話を掛けてきて、「助けてくれ」と言う。何のことか分からなかったが、ともかく車で行ってみた。M中学の子分たちをつれてIが道ばたでたむろしていた。K先生ともめて退学になったB組のボスもいた。Iが「殴っちゃれ」とボスに言った。彼は、「こいつはいい。殴りたいのはKだ」あてが外れたのか、結局、Iは「Oまで乗せてってくれ」と言った。少し迷ったが、「一回だけだぞ」と言って、乗せることにした。Iは乗り込んで、「音楽!」と言った。在り合せのテープをかけてやった。Oに着いて、「どこに行くんな」「*(同級生だった2年生のボス)のとこだ」「危ないことをすなよ」Iは道を指示して、車が何台か停まっている駐車場らしいところへ来て「ここだ」と言い、降りた。「来なよ」私も降りて「危ないことすなよ」「やかましい。来なよ」そして、どんと私の肩を衝いて「来なよ!」「ありがとな」姿は闇の中に消えていった。
生徒たちとの騷動が続いていたこんな5月、比較的おとなしいグループだったK地区の何人かが、廊下の天井を見上げながら、集まって騒いでいた。Kから来ていたKHなどもいたような気がする。別の棟の教室である授業の時間だった。「はよ、行かんと。何を見てるんな」「あれ」「何だ」指さした先に黒い姿がかたまっていた。見ていると細かくふるえている。巣の外壁にすがりついている燕の子達だった。四羽いた。もう一羽が、廂のコンクリートの壁にいた。
「飛び立つぞ」誰かが言った。首を外側に向け、様子を窺うように、細かく振っている。何分か過ぎ、思い切って、一羽が、廊下へ舞い降り、ぐるっと向きを変えて、明るい運動場の方へ飛び出していった。巣立ちの日がきたのだ。
「親があそこにいるぞ」一人が指さした。巣のある壁のとなりの、AとBの教室の間にある水飲み場の壁に、親らしいやや大きめの燕がとまって、尻尾を動かしていた。
初夏の日射しが、運動場をまぶしく照らしている。廊下からは、斜め向かいの旧校舍裏手の石切場が見られた。その斜面の常緑の木々からも若葉が伸びて、浅緑に見えた。
夕方、もう一度、巣を見たとき、もう子燕の姿は一羽もなかった。
その前日には、見かけなかったので、恐らくその日に一族で、この町に再び、渡ってきたのだろう。
餌をとりやすい場所で、長旅の空腹を癒していたのかもしれない。
その日から、あちこちの家の軒先に、巣作りを始めた姿を見かけるようになった。道の上を舞っては、電線にとまり、また、飛びたっている。
去年も、よく行っている豆花店の軒先に、子供たちが親の帰りを待っている姿を夏頃まで見かけた。ただ、いつ渡ってきたのかは、分からなかった。台湾も、燕の故郷なのだ。
燕の巣を初めて見たのは、お茶農家をしている祖父母の家だった。今はもう叔父の代に替わり、農業志望の若夫婦が後継に来たとき、その頃の家は建て替えられてしまったが、田の字型の四部屋の手前と裏とに縁側、右手に土間の玄関から続く台所があった。前には背の高い太い幹の松の木があり、目印になっていた。
小学校の低学年の頃、毎年、夏休みに何日か泊めて貰っていた。祖父母の家は街道へ抜ける道と茶畑へ向かう小径の角にあり、道を挟んで茶部屋と呼んでいた製茶の作業場が建っていた。そこに深い貯水槽があり、のぞき込んでも底が見えないぐらい深く見えた。茶部屋の隣と奧には、豚小屋があり、藁の発酵した臭いがしていた。屋根の付いた隣の小屋には、大きな母豚が此方を睨んでいた。茶畑へ開けたトタン屋根の奧の小屋には、子豚たちが走り回っていた。
小屋の前に金柑の木があり、毎年、冬の正月に遊びに行ったとき、黄色い実がなっているのを見ていた。酸っぱいと言って誰も食べなかったが、ある冬、私は弟と二人実をもいで、随分食べた。ほのかな甘味に鋭い新鮮な酸味が温州みかんとは違っていた。果物のおいしさが身にしみた。だが、その翌年、夏に行ったときには、実はなかった。「金柑は?」と叔父に聞いたが、「花が終わったばかりだから、冬にならないとね」と笑っていた。どうしても食べたいと言いだしたが、馬鹿を言うなと父に叱られた。
その代わり、夏の庭の木々には、油蝉、熊蝉、ニイニイ蝉、日暮らしなどがいくらでも鳴いていた。特にニイニイ蝉は、樹皮の色が変わって見えるほど集まっていて、手づかみしても逃げなかった。子供の背丈ほどのところでいぐらでも取れた。一番すばしこかったのは、日暮らしで、午後になると鳴き始めるが、木の高いところにいて姿は見えず、父に手伝ってもらって、竹を接いで虫取り網を長くし、やっと一度だけ採ることができた。しかし、纎細な鳴き声の主らしく、もう翌日には動かなくなっていた。
茶畑の間には、トマト、胡瓜、茄子、西瓜、枝豆などが植えられて、実った頃を見計らい、叔母に連れられて、もぎに行った。美味しかったのはトマトで、大振りな背中に背負う竹の籠の半分ほども採れたのを、持って帰った。そのまま洗って食べると、甘酸っぱい芯のとおった味がした。こうした野菜の味で、初めて美味しいと思った。今、食べるトマトは、品種が替わり、その時代のものに比べると、水っぽいぼやけた甘さで、もうその時の味がするトマトは、滅多に味わえない。
叔父の家は、宝の山だった。母屋の隣にある納屋の二階を改築して、叔父夫婦が住んでいたが、一階は、倉庫で、古い大型のラジオが棚の上に乗っていたり、鎌や鍬やさまざまな大きさの竹の籠、藁で作った背負子、お茶に使う茶ばさみなど、見かけない道具が半分開いた引き戸から小さい明かり取りの中におぼろに見えた。
台所は、外にある井戸から手押しポンプで水を汲んで、使っていた。手押しポンプは、自宅近くにあって遊び場になっていたS院の境内にもあった。幼稚園の頃、或日、遊び仲間が水を入れ物に入れて持ってきて、呼び水にし、ポンプの中に入れて、二三人が力を合わせて、何回か押していると、その内、水が大変な勢いで口から噴き出してきた。当りはたちまち水浸しになり、今度は、できた水たまりで、遊んだ。何日か同じように遊んでいたが、その内に、幼稚園の先生から苦情が出て、水遊びはできなくなってしまった。叔父の家のポンプは、飲料水なので、遊びには使えなかった。
夏の朝、汲みたての水で顔を洗ったときの清々しさを覚えている。
台所の勝手口の隣には、味噌蔵があって、中にいくつかの樽が並んでいた。いつ頃までか祖母が自家用の味噌と醤油を造っていた。覚えているのは、その香ばしい醤油の香りと小振りの樽に入った金山寺味噌の味だ。大豆、麦などの粒を蒸して昆布などを加えて発酵させたもので、ご飯にかけて食べると、ぱさぱさしたご飯でもしっとりとしたこくのある微かな塩味で不思議においしくなった。お土産にもらって自宅で食べた。
風呂場も忘れられない。鉄の丸い風呂釜を薪で焚く五右衛門風呂で、そのまま入ると足をやけどしてしまう。入るときは円形に切った簀子を足の下に置いて一気に沈めて、簀子の上にのるようにした。最初は恐ろしくて入れなかったが、父が最初に入り、簀子を沈めてくれた後に、恐る恐る入った。周りの鉄の鎌の縁も触ると熱いので、寄りかかったりはできない。
しかし、釡を焚くのはおもしろかった。最初の火をおこしてもらった後、細い枝を入れて火を大きくし、太い薪を二三本入れて、火がつくと、後は、おもしろいように何でも燃えた。そのころ見ていたテレビ番組のサンダーバードに見立てて、アルミ箔にマッチ棒を包み隊員に見立て、それを何重にもいろいろな箱に包み、燃えさかる薪の間に入れた。火の消えた後におきを避けながら、残骸を捜索した。ぼろぼろになったアルミ箔が見つかったが、中身の隊員は小さな炭の粉になってしまっていた。遊びに行く度に二三度、そんなことをしていたが、あるとき、面白がって弟と薪をくべすぎ、風呂は沸騰して、熱くてはいれなくなってしまった。両親からさんざんに怒られて、当番失格。風呂焚きは、二度とできなくなってしまった。
叔父の今はもう建て替えられた、その広い母屋の玄関の梁に二つか三つ燕の巣があった。ある冬に行ったとき、梁に小さな板で張り出しが作ってある上に、ねずみ色と白の混ざった丸いものがあるのに気が付いた。「なぜ、板が打ってあるの?」「おじさんが子供の頃、燕の子が落ちないように、板を付けたんだよ」と母が答えた。
お茶造りは、4月5月の新芽が出る時期が最も忙しい。だから、その時期にお邪魔するのは遠慮していた。ただ、一度、新茶ができた頃、別の親戚への用事があった帰りに、玄関で新茶を飲ませてもらったことがあった。冬は人気のない茶部屋は、手伝いの人でいっぱいだった。叔父に案内してもらって、動いている機械の間で、蒸された広いの葉が、次第にもまれて細くなっては落ちていくところを見た。母屋に戻って、「今年も、良いお茶ができましたよ」と父と話しながら、叔父が私達家族に、もみ立てのお茶をふるまってくれた。鮮かな黄緑色のお茶からは、甘く香ばしい香りがした。濃い入れ方だったが、今でも想い出す、その味は、ほとんど苦みはなく文字通りの「甘露」だった。その当時はもちろん「甘露」という言葉は知らなかったが、花祭りか何かで、その字を見たとき、叔父の新茶がすぐに連想された。
お茶をいただいているその上を、玄い影が素早く通り過ぎていく。そして、くるっと向きを変えて、梁の板の上にとまった。燕だった。それは、私にとって、おそらく雀、鳩、烏以外に見た、初めての野鳥だったのではないだろうか。高度成長経済の中、全国に公害が広がり、「**喘息」ということばがいたるところにあり、市民運動が激しくなっていた頃だった。市街化された郊外の町でも、鳥の姿は、もうほとんどなかった。
茶部屋からは、活気とお茶の青いカテキンの香りが溢れていた。新緑をつみ取られた濃い緑色のお茶の木々からは、もう次の新芽が浅緑に伸びていた。
春から初夏へ移る頃。燕で想い出すのは、教員として勤めていた学校の二階にあった幾つかの巣だ。海に開けた山の裾野にあったその校地は、運動場の奧に二階建ての旧校舎、左手に新校舍があった。勤めだして二年目は、その新校舍の二階が副担任受け持ちの一年生の教室だった。
生徒とのトラブルは1Aで起こった。もっとも手におえなかったのはYというその前の年初めてついた3年生のクラスにいた女子生徒の弟だった。新学期の何回目かの授業中、YとKから来ていたN、Yと同じ町から通っているNとNSなどが教室の左端にかたまっていて、糸のついた五円玉を投げ合って遊んでいた。近づいて「おい、授業中だろ」というと、こいつというわけで睨み合いになり、今度は、糸のついた五円玉を私に投げ付けた。挑発だ。取り上げようとすると「お前は気に食わん」というわけで、YとNがドンと肩を衝いてきた。Kから来ていたNが「やっちまえ」とけしかける。頭のいいNSは様子を見ている。「手を出したら、こらえんぞ」といって、一歩さがり、様子を見た。にらみ合いが続いて、暫くして、そのままになった。
Yを休み時間に呼び出して、話そうとしたが、いきりたつばかりで、話にならなかった。次の時間も同じようなことが起り、女子の生徒が担任のY先生にそれとなく告げたようで、「先生、何かありましたか」と言われ、報告せざるをえなかった。
結局、授業妨害でKから来ていたNが、そして、暴力行為でNとYが停学になった。
この三人は、退学空けのあとも、何度かの喫烟や他の先生への暴言、暴力などで何度か停学になり、出席不足で単位が認められず、Nは一学期で、YとKから来ていたNは二学期の終わりに退学になった。しかし、もともと気のいいNは、退学になってからも、大きいからだをスクーターに載せて、ときどき学校に遊びに来た。強がりのKから来ていたNは、退学後、一度来て、「もう停学にできんだろう」と言いながら、教室の前で、煙草をふかせて見せた。
ひがみが強いYとは、その後、Oの高校で一度、会った。その定時制に替わっていたのだ。見かけて近づいていくと「YとK(1年の担任)はいい先生だった。お前は一番嫌いだ」と、ふてくされたように言った。今なら、「そうか、おれはお前が好きだけどな、残念だな、ふられたか」ぐらいで、切り返せるが、その当時はそこまでの余裕がなかった。癪にさわった。しかし、こっちも強がって「こっちは、どうだ」と聞くと「Oはいい先生ばかりだ」と言う。「また、がんばれ」「がんばらんよ」「どうして」「お前みたいな、先公に言われとうない。また、殴りたくなる。あっちへ行け」隣にガールフレンドらしい女子生徒が「この先公、何だ」という顔をして立っていた。
副担任受け持ちのB組では、担任のK先生とクラスのボス(名前が思い出せない。M中学の出身だった)との間で、騷動が続いていた。私が、Bでもめたのは、一年生から留年したやはりM中学のIだった。Iは、留年早々、喫烟で停学になり、その家庭訪問に行く途中、出歩いているところを前の年3年生の副担任で世話になった今は1年A組の副担任のYN先生と見かけた。YN先生が「どうしたんな」と車を寄せると、Iはいきなり助手席にいた私の腕をつかんで「お前が悪いんだ」とか何とか、わけの分からないことを言った。あとになって考えてみると、留年したのはお前が単位を出さなかったせいだということだったらしい。YN先生が「そんなことをしよったら、どうもならん。早く家へ戻れや」と言って、自宅へ帰らせた。
Iは、停学中も、こんな調子で出歩き、外でいろいろ不愉快な事件を起こすようになって、とうとう、退学させられることになった。Iは、退学が決まった日、お礼参りというわけで、手下のTを使って私を新校舍一階の一番人目に付きにくい改段下に呼びだして、「殴らせろ」決闘を申し込んできた。「お前がK(担任)に言わなければ・・・」肩の当りを一発殴られた。外で見かけたときのことだろう。Iは母親がいなかった。父親は、裏社会の下積みのような、評判の人物だった。在学中のIは、よく、人目につかない時を狙って、気に食わないクラスの同級生や私をはじめ弱そうな先生たちに、嫌がらせをし、こんな暴力をふるった。肩や背中を殴るのは、顔を殴らなければ、目立たないから、言い逃れができるという考えからだろう。
Iは何度か手を出そうとし、私は、間をとって、私は相手にならないでいた。挑発は続いたが、「こんなことをしよっても、どうもならん」と言って、やがて、階段を上り、職員室へ戻った。人は良いが乗せられやすいTが介添え役という役柄でそばに立っていた。教師が暴力をふるった。裁判だ。教育委員会だ。そんな作戦を立てていたのかもしれない。
十分余りして、Iは猛り狂って、職員室へ押し掛けてきた。人は、どうすれば逆境から強くなれるのだろうか。何とか鬱憤をはらしたい。気が済まないのだ。胸ぐらを捕まれて、押し合いになった。Yシャツのボタンがとんだ。すぐに、K先生が止めに入ってくれて、私は旧校舎一階の事務室へ退避し、Iは、一年生のときの担任だったT先生のいる新校舍の二階へあがった。T先生は、Iをなんとか立ち直らせようと、親身に世話をしていた。
どのぐらい経ったろうか。気が静まったのかIが、事務室へやってきて、「悪かったな。お前じゃ、なかったか」と言った。T先生が、うまくなだめてくれたらしい。T先生が後ろからやってきて、「やっと、収まったようなので、今のうちに」。緊張していたときは感じなかったが、腹立ちをおさえていると、胃に応える。痛いと、初めて気が付いた。そうそうに職員室へ引き上げた。K先生から、「被っていただいて」と礼を言われた。留年したIをどうするか、二人で話し合ったとき、役を決めておいたのだ。暴力傾向の強いIを一年生と一緒にしてはおけなかった。
Iとは、その後、一度会ったことがある。半年ぐらい経ったときだったか、教員官舎に電話を掛けてきて、「助けてくれ」と言う。何のことか分からなかったが、ともかく車で行ってみた。M中学の子分たちをつれてIが道ばたでたむろしていた。K先生ともめて退学になったB組のボスもいた。Iが「殴っちゃれ」とボスに言った。彼は、「こいつはいい。殴りたいのはKだ」あてが外れたのか、結局、Iは「Oまで乗せてってくれ」と言った。少し迷ったが、「一回だけだぞ」と言って、乗せることにした。Iは乗り込んで、「音楽!」と言った。在り合せのテープをかけてやった。Oに着いて、「どこに行くんな」「*(同級生だった2年生のボス)のとこだ」「危ないことをすなよ」Iは道を指示して、車が何台か停まっている駐車場らしいところへ来て「ここだ」と言い、降りた。「来なよ」私も降りて「危ないことすなよ」「やかましい。来なよ」そして、どんと私の肩を衝いて「来なよ!」「ありがとな」姿は闇の中に消えていった。
生徒たちとの騷動が続いていたこんな5月、比較的おとなしいグループだったK地区の何人かが、廊下の天井を見上げながら、集まって騒いでいた。Kから来ていたKHなどもいたような気がする。別の棟の教室である授業の時間だった。「はよ、行かんと。何を見てるんな」「あれ」「何だ」指さした先に黒い姿がかたまっていた。見ていると細かくふるえている。巣の外壁にすがりついている燕の子達だった。四羽いた。もう一羽が、廂のコンクリートの壁にいた。
「飛び立つぞ」誰かが言った。首を外側に向け、様子を窺うように、細かく振っている。何分か過ぎ、思い切って、一羽が、廊下へ舞い降り、ぐるっと向きを変えて、明るい運動場の方へ飛び出していった。巣立ちの日がきたのだ。
「親があそこにいるぞ」一人が指さした。巣のある壁のとなりの、AとBの教室の間にある水飲み場の壁に、親らしいやや大きめの燕がとまって、尻尾を動かしていた。
初夏の日射しが、運動場をまぶしく照らしている。廊下からは、斜め向かいの旧校舍裏手の石切場が見られた。その斜面の常緑の木々からも若葉が伸びて、浅緑に見えた。
夕方、もう一度、巣を見たとき、もう子燕の姿は一羽もなかった。