以下の内容は、まったく個人的な感想、暫定的分析に過ぎない。きちんとした調査、研究の結果として、報告するものではないので、こんな捉え方もできるだろうというアイディアの提供だけである。また、特定の作家、個人などを誹謗中傷したり、あるいは、顕揚したりする意図はない。「ことば」の問題として、社会の話題になっている現象を取りだして見ようとしたものにすぎない。
ベストセラーにはベストセラーになる何らかの理由がある。小説の場合も、いろいろな理由が見出されるに違いないが、「ハリー・ポッター」シリーズの場合は、言語的構造にも、いくつかの鍵がありそうである。
「ハリー・ポッター」は、世界の多くの国で翻訳され、億単位の読者を獲得したと言われる。欧米はもちろん、台湾でも新刊が出ると、新刊を手にしようと並ぶ子供たちを報道するニュースが流れ、書店には繁体字版に訳されたシリーズが並んでいる。台湾の学生の何人かに聞いたところ、翻訳で読んだという学生は少なくなかった。ウエッブ上のファンサイトも数多く、作られた人気とばかりは言えない。
そこで、小説としての構成から、「ハリー・ポッター」の「読みやすさ」の秘密に迫って見ることにした。
第一回目は、伝統的な小説と類似した点から見ていきたい。
わたしも三巻までシリーズを読んでみたが、確かにおもしろく、かなり長い話を最後まで読ませてしまう「読みやすさ」があると思われた。
児童文学ではないが、たとえば、若者に人気のある吉本バナナ氏の小説と比べるとどうであろうか。氏の小説も、ほとんどテーマは一つ、つまり、登場人物の女性の「自立」あるいは「回復」を巡る物語だが、ハリーポッターも、同じく、少年たちの「自立」あるいは「成長」の物語である。テーマ性については、また、機会を改めて考えてみたいが、こうした登場人物の自立や成長を巡る物語は、19世紀から今に続く小説の古典的テーマで、かつては「教養小説」と呼ばれていた。日本では二葉亭四迷『浮雲』、夏目漱石『三四郎』、森鴎外『青年』というように、文学史の教科書に出てくるような作品が扱ってきたテーマである。これは、つまり、近代社会が生まれて以来、ずっと続いてきたテーマであるということであり、自立と成長というテーマが、それだけ近代人にとって困難で不可避の現実であるということを示しているのかもしれない。が、その意味では、「ハリー・ポッター」が一番伝統的でかつ解決が難しいテーマにそって書かれたということは、もう一度、確認しておいたほうがいいであろう。
インターネットで見るとファンタジーとしてのこうしたテーマに注目した論として、「千と千尋」「ハリー・ポッター」「ロードオブリング」の共通点を子供の自立と捉えた、
「大人への旅」(都市構造研究所)
があった。最近話題の映画ばかりでなく、童話やファンタジー自体がそういうテーマを追求するために生まれたと考えることも可能だろう。20年ほど前に流行したミヒャエル・エンデの「果てしない物語」や「モモ」など、与えられた試練を成長しながら乗り越えていくまったく同じテーマであり、古くは宮澤賢治の一連の童話、たとえば代表作と言われる「銀河鉄道の夜」も、銀河鉄道の旅をとおして少年が世界の意味を問い自らの足で歩き出す物語である。
しかも現代では文字で書かれた小説ばかりではなく、RPGゲームなども同じテーマ性を持っているものは少なくない。最近では、ポケットモンスターのシリーズは、ポケモンを友とし試練を超えていくまったく同じテーマである。
そういう同じテーマの中での広がりがあって、「ハリー・ポッター」もその中の一つとして出てきたものと言えるであろう。つまり最後まで読んでいっても突拍子もない結末にうんざりさせられるような心配はない。むしろ積極的に主人公たちの冒険につき合った方が自分もその冒険を乗り越えた気になれるのである。
が、「ハリー・ポッター」が話題を呼んだのは、文字離れが指摘される先進国で、子供たちを文字の世界に惹き付けたという点である。テーマ性だけではなく、長い物語を読み通させたもう一つの力は、書き方の問題であろう。
調べてみると、「ハリー・ポッター」の小説としての書き方は、これも伝統的な小説のスタイルをそのまま使っている。著作権の問題があるので、引用は控えるが、興味のある方は、騙されたと思って、第一巻152~153Pを開いていただきたい。
このページは、魔法学校へ行くハリーが、知り合ったロンと車内販売のおばさんからお菓子を買い、買った「蛙チョコレート」の中から「アルバス・ダンブルドア」のカードを取り出す場面である。
細かい技法については、また、稿を改めて見ていきたいが、こうした物語の書き方で、注目されるのは、たとえば152P1~5行目までの書き方と、6~10行目までの書き方の違いである。152P1~5行目までは、「十二時半ごろ、~おばさんが~開けた。「(おばさんのことば)」ハリーは~立ち上がったが、~ロンは~口ごもった。ハリーは~出た。」というように、「十二時半ごろ」という特定の時に一回限りあった「おばさん」「ハリー」「ロン」という人の動きを、一つ一文で捉えている。映画にすれば、この五行ですぐに魔法列車の一シーン中の一カットを作れるであろう。だが、実は、こうした書き方は、現代では極めて評判が悪いが、伝統的な私小説などが追求してきた書き方である。引用は避けるが、志賀直哉『或る朝』などを見ていただくといいであろう。
次に、6~10行目までを見ると、ここは、前の五行とは違って、動きは書かれていない代りに、「金貨・銀貨が~鳴っている」「バーティー・ボッツの百味ビーンズだの・・・・不思議なものがたくさんあった」というように、「~が~ている」「~がある」という文で、「金貨・銀貨」や「百味ビーンズ」のようなものを登場させている。つまり場面の中に、「金貨・銀貨」や「百味ビーンズ」という新しい登場者(この場合は持ち物や品物)を出して、シーンの情景を豊かにしている訳である。映画で言えば、カメラがワゴンの上の品物を写しているところであろう。
「金貨・銀貨」は、列車に乗る前にグリンゴッツ銀行で預金を下ろした場面をもう一度思い出させるし、「百味ビーンズ」などは、いかにも、魔法列車らしい雰囲気を作り出すであろう。同時に、「ダーズリー家では~持ったことはなかった」「~が買える」というように、その間に、ハリーの期待も現れているようである。伝統的な小説の用語では、いわゆる「情景描写」と言われるものにあたるであろう。
以降の、11行目からは、また、動きを捉える文を中心にハリーとロンのやり取りになっている(それ以外の文も三つほど見られるが、ここではふれない)。
そして、154P4行目に「男の顔だ。~ひげを蓄えている。~「アルダス・ダンブルドア」と書いてある。」とある。ハリーがカードを見た内容を、こう書いている。先ほどのワゴンの場面も同じだが、ハリーという人物が見た視線の捉えた内容をこうした文で捉えていると言えるだろう。しして、ハリーは、この部分で、ハリーにとっての人生の導き手とも言える人物・魔法学校の「アルダス・ダンブルドア」校長の顔を初めて見たことになる。そして、こうした部分のおかげで、ハリーは初めて会った校長を見誤らずに見つけられるということになる。こうした部分は、広い意味での以降の物語の伏線になるであろう。小説では「プロット」と呼ばれるが、そうした工夫は、小説家が苦心してきたところである。
こう見てくると、伝統的な小説で工夫されてきたさまざまな書き方が、そのまま生かされていることがわかる。しかも、翻訳者は、使っている文型まで、志賀直哉などの時代と同じものを使って訳しているのが興味深い。
こうした伝統的小説の技法を生かしている点が、「読みやすさ」や「おもしろさ」の一つになっていると言えるだろう。決して、新奇な比喩や、奇矯な形容で、作品を展開しているわけではない。
どこにでもあるテーマを、ずっと使われてきた書き方で書いているから、「読みやすい」「おもしろい」というのは、皮肉に聞こえるかもしれないが、「ハリー・ポッター」は、かつては「純文学」という特権的階級のための文学が生み出した小説のテーマと技法を、世代と空間を越える物語に純化あるいは消化したと言えるであろう。そうした普遍化の一つの例なのである。
これがずっと読み継がれる物語になるかどうかは、今後のストーリーの展開にかかっていると言えるだろうが、もし、それが新しい自立あるいは回復の物語を紡ぎだしているなら、それは空間と世代を越えていると言う意味で、新しい「神話」、新たな「聖経」にもなりえるかもしれない。
出典J.K.ローリング作/松岡 佑子訳(1999)『ハリー・ポッターと賢者の石』静山社
ベストセラーにはベストセラーになる何らかの理由がある。小説の場合も、いろいろな理由が見出されるに違いないが、「ハリー・ポッター」シリーズの場合は、言語的構造にも、いくつかの鍵がありそうである。
「ハリー・ポッター」は、世界の多くの国で翻訳され、億単位の読者を獲得したと言われる。欧米はもちろん、台湾でも新刊が出ると、新刊を手にしようと並ぶ子供たちを報道するニュースが流れ、書店には繁体字版に訳されたシリーズが並んでいる。台湾の学生の何人かに聞いたところ、翻訳で読んだという学生は少なくなかった。ウエッブ上のファンサイトも数多く、作られた人気とばかりは言えない。
そこで、小説としての構成から、「ハリー・ポッター」の「読みやすさ」の秘密に迫って見ることにした。
第一回目は、伝統的な小説と類似した点から見ていきたい。
わたしも三巻までシリーズを読んでみたが、確かにおもしろく、かなり長い話を最後まで読ませてしまう「読みやすさ」があると思われた。
児童文学ではないが、たとえば、若者に人気のある吉本バナナ氏の小説と比べるとどうであろうか。氏の小説も、ほとんどテーマは一つ、つまり、登場人物の女性の「自立」あるいは「回復」を巡る物語だが、ハリーポッターも、同じく、少年たちの「自立」あるいは「成長」の物語である。テーマ性については、また、機会を改めて考えてみたいが、こうした登場人物の自立や成長を巡る物語は、19世紀から今に続く小説の古典的テーマで、かつては「教養小説」と呼ばれていた。日本では二葉亭四迷『浮雲』、夏目漱石『三四郎』、森鴎外『青年』というように、文学史の教科書に出てくるような作品が扱ってきたテーマである。これは、つまり、近代社会が生まれて以来、ずっと続いてきたテーマであるということであり、自立と成長というテーマが、それだけ近代人にとって困難で不可避の現実であるということを示しているのかもしれない。が、その意味では、「ハリー・ポッター」が一番伝統的でかつ解決が難しいテーマにそって書かれたということは、もう一度、確認しておいたほうがいいであろう。
インターネットで見るとファンタジーとしてのこうしたテーマに注目した論として、「千と千尋」「ハリー・ポッター」「ロードオブリング」の共通点を子供の自立と捉えた、
「大人への旅」(都市構造研究所)
があった。最近話題の映画ばかりでなく、童話やファンタジー自体がそういうテーマを追求するために生まれたと考えることも可能だろう。20年ほど前に流行したミヒャエル・エンデの「果てしない物語」や「モモ」など、与えられた試練を成長しながら乗り越えていくまったく同じテーマであり、古くは宮澤賢治の一連の童話、たとえば代表作と言われる「銀河鉄道の夜」も、銀河鉄道の旅をとおして少年が世界の意味を問い自らの足で歩き出す物語である。
しかも現代では文字で書かれた小説ばかりではなく、RPGゲームなども同じテーマ性を持っているものは少なくない。最近では、ポケットモンスターのシリーズは、ポケモンを友とし試練を超えていくまったく同じテーマである。
そういう同じテーマの中での広がりがあって、「ハリー・ポッター」もその中の一つとして出てきたものと言えるであろう。つまり最後まで読んでいっても突拍子もない結末にうんざりさせられるような心配はない。むしろ積極的に主人公たちの冒険につき合った方が自分もその冒険を乗り越えた気になれるのである。
が、「ハリー・ポッター」が話題を呼んだのは、文字離れが指摘される先進国で、子供たちを文字の世界に惹き付けたという点である。テーマ性だけではなく、長い物語を読み通させたもう一つの力は、書き方の問題であろう。
調べてみると、「ハリー・ポッター」の小説としての書き方は、これも伝統的な小説のスタイルをそのまま使っている。著作権の問題があるので、引用は控えるが、興味のある方は、騙されたと思って、第一巻152~153Pを開いていただきたい。
このページは、魔法学校へ行くハリーが、知り合ったロンと車内販売のおばさんからお菓子を買い、買った「蛙チョコレート」の中から「アルバス・ダンブルドア」のカードを取り出す場面である。
細かい技法については、また、稿を改めて見ていきたいが、こうした物語の書き方で、注目されるのは、たとえば152P1~5行目までの書き方と、6~10行目までの書き方の違いである。152P1~5行目までは、「十二時半ごろ、~おばさんが~開けた。「(おばさんのことば)」ハリーは~立ち上がったが、~ロンは~口ごもった。ハリーは~出た。」というように、「十二時半ごろ」という特定の時に一回限りあった「おばさん」「ハリー」「ロン」という人の動きを、一つ一文で捉えている。映画にすれば、この五行ですぐに魔法列車の一シーン中の一カットを作れるであろう。だが、実は、こうした書き方は、現代では極めて評判が悪いが、伝統的な私小説などが追求してきた書き方である。引用は避けるが、志賀直哉『或る朝』などを見ていただくといいであろう。
次に、6~10行目までを見ると、ここは、前の五行とは違って、動きは書かれていない代りに、「金貨・銀貨が~鳴っている」「バーティー・ボッツの百味ビーンズだの・・・・不思議なものがたくさんあった」というように、「~が~ている」「~がある」という文で、「金貨・銀貨」や「百味ビーンズ」のようなものを登場させている。つまり場面の中に、「金貨・銀貨」や「百味ビーンズ」という新しい登場者(この場合は持ち物や品物)を出して、シーンの情景を豊かにしている訳である。映画で言えば、カメラがワゴンの上の品物を写しているところであろう。
「金貨・銀貨」は、列車に乗る前にグリンゴッツ銀行で預金を下ろした場面をもう一度思い出させるし、「百味ビーンズ」などは、いかにも、魔法列車らしい雰囲気を作り出すであろう。同時に、「ダーズリー家では~持ったことはなかった」「~が買える」というように、その間に、ハリーの期待も現れているようである。伝統的な小説の用語では、いわゆる「情景描写」と言われるものにあたるであろう。
以降の、11行目からは、また、動きを捉える文を中心にハリーとロンのやり取りになっている(それ以外の文も三つほど見られるが、ここではふれない)。
そして、154P4行目に「男の顔だ。~ひげを蓄えている。~「アルダス・ダンブルドア」と書いてある。」とある。ハリーがカードを見た内容を、こう書いている。先ほどのワゴンの場面も同じだが、ハリーという人物が見た視線の捉えた内容をこうした文で捉えていると言えるだろう。しして、ハリーは、この部分で、ハリーにとっての人生の導き手とも言える人物・魔法学校の「アルダス・ダンブルドア」校長の顔を初めて見たことになる。そして、こうした部分のおかげで、ハリーは初めて会った校長を見誤らずに見つけられるということになる。こうした部分は、広い意味での以降の物語の伏線になるであろう。小説では「プロット」と呼ばれるが、そうした工夫は、小説家が苦心してきたところである。
こう見てくると、伝統的な小説で工夫されてきたさまざまな書き方が、そのまま生かされていることがわかる。しかも、翻訳者は、使っている文型まで、志賀直哉などの時代と同じものを使って訳しているのが興味深い。
こうした伝統的小説の技法を生かしている点が、「読みやすさ」や「おもしろさ」の一つになっていると言えるだろう。決して、新奇な比喩や、奇矯な形容で、作品を展開しているわけではない。
どこにでもあるテーマを、ずっと使われてきた書き方で書いているから、「読みやすい」「おもしろい」というのは、皮肉に聞こえるかもしれないが、「ハリー・ポッター」は、かつては「純文学」という特権的階級のための文学が生み出した小説のテーマと技法を、世代と空間を越える物語に純化あるいは消化したと言えるであろう。そうした普遍化の一つの例なのである。
これがずっと読み継がれる物語になるかどうかは、今後のストーリーの展開にかかっていると言えるだろうが、もし、それが新しい自立あるいは回復の物語を紡ぎだしているなら、それは空間と世代を越えていると言う意味で、新しい「神話」、新たな「聖経」にもなりえるかもしれない。
出典J.K.ローリング作/松岡 佑子訳(1999)『ハリー・ポッターと賢者の石』静山社