今年ももうすぐ終戦あるいは敗戦の日が来る。
台湾でこの日をテレビで見るのも、もう何回目だろうか。
私は戦後の生まれだが、子供の頃の8月15日と言えば、朝、街が鳴らすサイレンで黙祷した思い出がある。8月6日や9日にも、やはり同じように黙祷の時間があった。今もしているのかどうか。中学や高校の頃に同じように鳴らしていたのかどうか、思い出せないが、幼稚園か小学校の頃、いったい何があったのかと母親に聞いた記憶が残っている。
日本には日本の8月15日があるが、海外には海外の8月15日があることは忘れてはならないだろう。戦前の日本帝国が降伏した日は、台湾にとっては植民地支配の終わりとその後の新しい時代の始まりの日であり、韓国やその他の地域でも、同じように、日本の支配あるいは日本軍による占領が終わった日であり、解放の日、あるいは植民地からの独立の日・・・というように、決して、意味するものは一つではない。この日をどう評価するかは、日本人にとっても海外の人にとっても、それぞれであろうし、「評価」が一つになることは、それぞれの置かれた状況がまったく違っていた以上、そもそもありえないだろう。皮肉に受け取らないでいただきたいが、日本で「平和が大事だ」というのは、終戦として、あるいは敗戦として言っているとしても、アジアや大平洋での戦争に関係した他の諸国では決して、終わりでも負けでもないからである。たとえば、8月のアジア・サッカーで日本チームを攻撃した中華人民共和国では、日本軍に対する勝利の日であり、大陸本土での対日戦争の終結の日になるが、中国大陸の東北部では、侵攻する旧ソビエト軍下に取り残された日本人居住者が追われていた日であると同時に、台湾との関係で言えば、その後に台湾に移った国民党と、今の中華人民共和国を作った共産党との、内線が始まるろうとする日でもある。逆に、8月15日でなくても、6月にアメリカ軍に占領された沖縄では、17万を越える死者を出し、過酷な戦後の占領が始まっていた。違う動きをするそれぞれの人々が、このとき、ぶつかり合っていたということは、今を考えるためにも忘れてはならないことではないだろうか。
そして、「評価」だけではなく、日本人の中だけですら、実は、「経験」も決して一致することはない。父方の祖父が当時は日本領だった樺太(今のロシア領サハリン)で教師をしていた関係で、8月といえば旧ソビエト軍による樺太の日本人住民に対する攻撃が始まった日である。8月15日の後もソビエト軍は攻撃を続け、樺太の日本人を抑留し、殺し続けた。幸い父は引き上げていて難を逃れたが、現地で召集された叔父も抑留されシベリアへ八年近くも送られていたと聞いた。8月にお盆で祖父の家に行くと、そうした話題が父と叔父との間でときどき出たのを覚えている。祖父や祖母から、直接、その当時の話を聞いたことはないが、抑留された叔父の無事を祈りながら戦後の何年間も待たなければならなかったはずで、祖父たちの戦争が決して8月15日で終わった訳ではなかったと思う。
海外に取り残されていた何十万という日本人と日本国内に居た日本の旧植民地や占領地の人々、戦災で壊滅した都市に帰らなければならなかった人と、ともかくも戦災から免れた人というように、記録から想像するだけでも、個々人にとっては無数の状況が生まれていたはずで、そうしたものを教科書の年表のように片づけてしまいながら、一方で「平和」を唱えるところから、「風化」が始まるのではないかという気がしている。「風化」とは個々人の生きた多様な記憶の抽象化、一般化に他ならないのではないか。
アジア・大平洋の億を超える人々が体験した「戦争」の記憶が五十年あまりで消えるというのは、そもそもありえないことではないか。まだ今なら、そうした記憶をたどることはできるはずである。
もう一つは、これから起ころうとする戦争の予兆に、謙虚に耳を傾けることであろう。日本の周辺の国々である台湾・韓国では、今も義務兵役を青年に課している。台湾の私の教え子たちも祖国を守るために、大学を卒業すると、兵役に就いている。台湾の最前線は、中華人民共和国の沿岸に接する金門や馬祖の島嶼部だが、そうした地域にも卒業生が赴任している。もちろん対岸の中華人民共和国の攻撃に対する守備隊としてである。日本では、「戦争への備え」と「戦争」とが、一つにされているが、台湾では、「戦争への備え」は「戦争への抑止」だと言われている。
日本と台湾の戦争に対する考え方の違いは、置かれた状況の違いから来ていると思われる。戦争を巡る個々人の状況、個々の国家、地域の状況がまったく違っていたように、今でも、戦争の予兆に対する状況は、それぞれの国で全く違っているということは、謙虚に受け止めるべきことだと思う。
記憶に対してと同様、現状に対しても、教科書的な抽象化が始まると、途端に、「平和」は「風化」すると思われる。「平和を守る」ということは、例えば台湾のように、具体的な形をもった一連の行動であって、「ことば」や「理想」ではないからである。
道で出会った一人のご老人からでも、「記憶」を伺うことはできるし、旅先であった海外の方に、今の「戦争」を聞くこともできるはずである。自分の住む世界に、謙虚に耳を傾けたいと、改めて、感じた。
台湾でこの日をテレビで見るのも、もう何回目だろうか。
私は戦後の生まれだが、子供の頃の8月15日と言えば、朝、街が鳴らすサイレンで黙祷した思い出がある。8月6日や9日にも、やはり同じように黙祷の時間があった。今もしているのかどうか。中学や高校の頃に同じように鳴らしていたのかどうか、思い出せないが、幼稚園か小学校の頃、いったい何があったのかと母親に聞いた記憶が残っている。
日本には日本の8月15日があるが、海外には海外の8月15日があることは忘れてはならないだろう。戦前の日本帝国が降伏した日は、台湾にとっては植民地支配の終わりとその後の新しい時代の始まりの日であり、韓国やその他の地域でも、同じように、日本の支配あるいは日本軍による占領が終わった日であり、解放の日、あるいは植民地からの独立の日・・・というように、決して、意味するものは一つではない。この日をどう評価するかは、日本人にとっても海外の人にとっても、それぞれであろうし、「評価」が一つになることは、それぞれの置かれた状況がまったく違っていた以上、そもそもありえないだろう。皮肉に受け取らないでいただきたいが、日本で「平和が大事だ」というのは、終戦として、あるいは敗戦として言っているとしても、アジアや大平洋での戦争に関係した他の諸国では決して、終わりでも負けでもないからである。たとえば、8月のアジア・サッカーで日本チームを攻撃した中華人民共和国では、日本軍に対する勝利の日であり、大陸本土での対日戦争の終結の日になるが、中国大陸の東北部では、侵攻する旧ソビエト軍下に取り残された日本人居住者が追われていた日であると同時に、台湾との関係で言えば、その後に台湾に移った国民党と、今の中華人民共和国を作った共産党との、内線が始まるろうとする日でもある。逆に、8月15日でなくても、6月にアメリカ軍に占領された沖縄では、17万を越える死者を出し、過酷な戦後の占領が始まっていた。違う動きをするそれぞれの人々が、このとき、ぶつかり合っていたということは、今を考えるためにも忘れてはならないことではないだろうか。
そして、「評価」だけではなく、日本人の中だけですら、実は、「経験」も決して一致することはない。父方の祖父が当時は日本領だった樺太(今のロシア領サハリン)で教師をしていた関係で、8月といえば旧ソビエト軍による樺太の日本人住民に対する攻撃が始まった日である。8月15日の後もソビエト軍は攻撃を続け、樺太の日本人を抑留し、殺し続けた。幸い父は引き上げていて難を逃れたが、現地で召集された叔父も抑留されシベリアへ八年近くも送られていたと聞いた。8月にお盆で祖父の家に行くと、そうした話題が父と叔父との間でときどき出たのを覚えている。祖父や祖母から、直接、その当時の話を聞いたことはないが、抑留された叔父の無事を祈りながら戦後の何年間も待たなければならなかったはずで、祖父たちの戦争が決して8月15日で終わった訳ではなかったと思う。
海外に取り残されていた何十万という日本人と日本国内に居た日本の旧植民地や占領地の人々、戦災で壊滅した都市に帰らなければならなかった人と、ともかくも戦災から免れた人というように、記録から想像するだけでも、個々人にとっては無数の状況が生まれていたはずで、そうしたものを教科書の年表のように片づけてしまいながら、一方で「平和」を唱えるところから、「風化」が始まるのではないかという気がしている。「風化」とは個々人の生きた多様な記憶の抽象化、一般化に他ならないのではないか。
アジア・大平洋の億を超える人々が体験した「戦争」の記憶が五十年あまりで消えるというのは、そもそもありえないことではないか。まだ今なら、そうした記憶をたどることはできるはずである。
もう一つは、これから起ころうとする戦争の予兆に、謙虚に耳を傾けることであろう。日本の周辺の国々である台湾・韓国では、今も義務兵役を青年に課している。台湾の私の教え子たちも祖国を守るために、大学を卒業すると、兵役に就いている。台湾の最前線は、中華人民共和国の沿岸に接する金門や馬祖の島嶼部だが、そうした地域にも卒業生が赴任している。もちろん対岸の中華人民共和国の攻撃に対する守備隊としてである。日本では、「戦争への備え」と「戦争」とが、一つにされているが、台湾では、「戦争への備え」は「戦争への抑止」だと言われている。
日本と台湾の戦争に対する考え方の違いは、置かれた状況の違いから来ていると思われる。戦争を巡る個々人の状況、個々の国家、地域の状況がまったく違っていたように、今でも、戦争の予兆に対する状況は、それぞれの国で全く違っているということは、謙虚に受け止めるべきことだと思う。
記憶に対してと同様、現状に対しても、教科書的な抽象化が始まると、途端に、「平和」は「風化」すると思われる。「平和を守る」ということは、例えば台湾のように、具体的な形をもった一連の行動であって、「ことば」や「理想」ではないからである。
道で出会った一人のご老人からでも、「記憶」を伺うことはできるし、旅先であった海外の方に、今の「戦争」を聞くこともできるはずである。自分の住む世界に、謙虚に耳を傾けたいと、改めて、感じた。