今年の夏は台風が多かった。高校時代に地理の時間で習った三つの熱帯性暴風雨のいずれもが今年夏の話題になっている。日本にはすでに十個に迫る数が接近し、アメリカのカリブ海沿岸も毎週のようにハリケーンに襲われている。サイクロンの洪水などでバングラデシュやインドの東部は大きな被害を受けたというニュースも流れた。台湾にも7月初めと8月終わりに二つ来て、記録的な豪雨で大きな被害をもたらした。が、今さら地球温暖化を憂いてみても、私ごときには、もはやどうすることもできない。そこで、「台風を楽しむ」ことができるかどうか考えてみることにした。
「台風を楽しむ」という点で思い出すのは、志賀直哉の作品だ。彼に『颱風』という作品がある。晩年に近い頃の作品で、台風の来る前日と当日の様子、収まったあとの奈良や大阪の被害を書いている。いつの台風かはまだ確認していないが、子供たちが当日、自動車で学校へ行ったと書いてあり、また、志賀が近くに住んでいた義母の家を見舞いに行ったと書いてあることから、かなり強い台風ではあったが身の危険を感じるほどではなかったことがわかる。おもしろいと思ったのは、志賀は、台風が来ると気が騒いで、外に行ってみたくなるという趣旨のことを書いていることだ。志賀には、『雪の日』と『雪の遠足』という書かれた時期は違うがやはり雪の降った前後二日のことを日記風に書いた作品があり、そこでも同じように心が騒ぐという趣旨のことを書いている。
有名な作家と私のような一介の市民を同列に書くのはおこがましい気もするが、同じ様な気分になった思い出は共通しているし、また、同じような気持ちを持った知人も知っているので、もっと多くの同士がいるに違いないと推測している。
今でも覚えている台風の思い出と言えば、幼稚園か小学校の低学年の頃だろうか。何回か同じようなことがあったので、幾つかの思い出が一つになってしまっている。とにかく台風が接近しているというので、急きょ、下校になり、友達と隊列を組んで帰った。空はまだ明るく、日の光も射していてとても台風が来るようには見えない。が、その後気が付いたのだが、台風の前日は、空の色が黄赤色がかって輝いたようになる。その日もまさにそうした空の色だった。雲もちぎれるように飛んでいく。同じ方向の友達と、「台風なんか来るか」と騒ぎながら、何となく落ち着かない気の騒ぐ感じがしていた。家では、母が雨戸を出して、台風に備えていた。遊びに出たいと言ったが、「台風が来るのになにしてるの」と叱られてしまった。夕方、帰った父は、板をガレージから持ち出して、雨戸に筋交いに打ち付けて、強風に備えた。停電になるかもしれないというので、いつもはいたずらを禁じられている懐中電灯が出され、蝋燭も机の上に置いてあった。停電になりそのまま寝てしまったこともあり、結局、大した風もなく、翌日、釘で打った筋交いをはずすのが大変だと言いながら父が仕事から帰って、釘拔きで釘を抜いていたこともあった。母が早くはずしてくれないととぶつぶつ言っていた。父が筋交いをはずすまで母は雨戸を開けることはできず、家の中は一日真っ暗だったのだ。
もう一つ、夏休みに入る前、毎年のように公民館で子供会の集会があったが、六年生の時だったか、司会を頼まれて議事をしている途中に、担任の先生が急に現れ、「台風が近づいたから、今日は解散して、みなですぐに帰りなさい」と、流会になったことがあった。六年生が分担して一二年生の手を引いて、家まで送っていったのを、思い出す。幸い大きな被害にあったことは一度もなかったが、小学生の頃まで、台風の襲来は、皆で備えるべき厳粛なものだった。
厳粛に迎えるべき台風が、年中ある単なる「大雨」「集中豪雨」の一種になってしまったのは、いつからだろうか。もう高校の頃には、台風と言っても、避難や休校になることはなく、まして大学に入ってからは、もう気象の災害があるという意識すら薄れていたようだ。ちょうど「Japan as NO.1」が言われ出した頃から、「台風」や「大雪」など天候に屬する災害は、「雨」や「雪」という日常的な気象の量的範疇に入れられ、日常的な限度を超えた場合がときどきあると言う程度にしか受け止められなくなったのではないだろうか。実際、小学生の頃、冬になればいつもあった豪雪被害も、1980年代には雪の量自体が減って、却って、スキーができないなど娯楽の話題の領域に入ってしまった。長崎豪雨災害や山陰集中豪雨など梅雨明けの集中豪雨という極めて特殊な例を除けば、その頃から、気象すらコントロールできているような錯覚に私のように街で暮らしていた多くの日本人は陥っていたのではないだろうか。
台湾に来てから、変わったのは気象ではなく、そうした気象への備えを日本人が忘れてしまっていただけだったことを、思い知らされた。最初に台湾に遊びに来たときだから今からもう十年以上も前になるが、高雄にいた結婚前の家内の車で中正空港まで行ったことがある。七月の終わりだったが、その前後高雄は毎日続く大雨で高速道路はじめ北へ向かう国道や省道も各地で水没していた。雨と言っても、日本のように落ちてくる水滴が筋になって見えるような生やさしいものではなく、文字通り水の柱が天から落ちてくるような猛烈な雨あしだった。日本へ帰る前日の早朝、雨が一段落したところで、通過できる道を選びながら北へ向かい、昼頃、台南の北でやっと高速道路に入ったと思うと、また天候が悪くなってきた。台中を過ぎた辺りでまた雨になり、その内、雨あしが猛烈な勢いで変わった。滝に入ったようになり、ワイパーを最大にしても降ってくる雨の量が多すぎて、文字通り、前は全く見えない。雨が当たりにくい左右の窓で、外を確認しながら、非常表示灯を点滅させ、スピードを落として、路肩に近いほうへ移動した。前後の何台かの車も、同じように非常表示灯を点滅させ始めたので、やっとお互いの位置と車間が分かるようになった。日本でも、地域的なにわか豪雨があり、一度、高速道路で遭遇した経験がある。その時は、十分ぐらい路肩で待っていると、フロントガラスからの視界が全くないような雨あしは次第に弱まっていったが、台湾の場合は、その見込はなかった。辺りは夕方のように暗くなり、雨あしが衰える気配もない。結局、前後の車のライトを目印に、走り続けるしかなかった。猛烈な雨は一時間以上も続いた。高速道路は盛り土の上を通っているのに、なかば水に浸かったようになっていた。
その後も、気象の激しさを思い出させられる体験はいろいろあった。自家用のマンションを買って引っ越した年だったろうか、大きな台風に何度か襲われた。
一度は、屋上の扉を風が破り、そこから雨水がエレベータールームを水浸しにして、エレベーターが二台とも動かなくなったことがあった。風が当たる側の部屋に開いた窓からは、サッシを閉めておいても戸の隙間から風に押された雨水が、涌き水のように入ってきた。天気予報では「最大瞬間風速○㍍」とよく報告されるが、そのイメージは日本にいたときはそれほど深刻ではなかった。たまに強い台風が来れば、怖いもの見たさに外を歩いてみたくなる、そのときに体が風で押されるのを感じるぐらいのことだった。しかし、台湾の場合は、まず窓ガラスの心配をしなければならなかった。風の息に煽られて強化ガラスは皷膜が震動するように、びりびりと震えている。そのうちに「最大瞬間風速○㍍」が吹き募ると、ガラスは内側へ大きくたわみ、次の瞬間は、今度は外側へ限界まで引き戻される。サッシの枠全体も、限界に近いぐらいまで変形し、また、復元する。台風が通過している間は、その繰り返しだ。サッシのガラスには、破壊を防ぐためガムテープで×印に補強をした。隙間には、ぼろ布を詰めて、泉のように涌き出る雨水への目張りにした。
また、風は同じマンションでも上層階ほど、強くなる。一番強い風があたる側にあったある知人の家では、設置場所に固定したはずの据え置型クーラー(台湾では日本式の分離型ではなく、室内機と冷卻機が一体になった据え置型のクーラーが一般的だった。軽いものでも三十キロ以上はある。)が強風で飛ばされ落下した。空いた壁の穴からは、風に押された雨水が烈風とともに滝のように流れ込んできて、アッという間に部屋を浸水させてしまった。床上浸水は一階など地上部に近いところにあるばかりではない。報せを聞いた数人の住人が助けに入り、家具を隣の部屋へ移し、ベニヤの厚板をクーラーのなくなった穴に押し付けて、雨の侵入を食い止めようとした。同じ被害を受けた世帯が十件近くあった。
日本では、台風に対する警戒心が薄れてきたためか、もう自治体が休業や休校の指示を出すこともしなくなったが、台湾では、台風の上陸や暴風圈の接近が予想される場合は、「不上班不上課(全職種の休業と小学校から大学までの休校)」を出すのが通例になっている。台風接近の前日は、自治体の関係者ばかりではなく住民自身が浸水対策に土嚢を積んだり、排水溝を清掃したりする。それに、いつもクーラーが飛ばされ、雨水が滝のように流れ込んでくるような強風豪雨ばかりではないので、臨時休日になってしまい、暇をもてあました同じマンションの住人が、パーティーをしたり、ティータイムを開いたりして、雑談にふけっているときもあるが、いずれにせよ家族や友人が顔を揃えて家にいられるのは、ありがたいことだ。志賀直哉が書いた台風への気の騒ぎばかりではなく、台湾では、台風という危機に家族や友人が力を揃えて立ち向かう機会があり、そうして家族や住民の絆を固めている。
今年の台風で洪水にみまわれた地区では、公園で飼われていた鯉などが道へ泳ぎだし、水に浸かった家々から人々が繰り出して、それを捕まえている光景が中継された。浸水による被害を考えれば、日本なら「心的外傷」「ストレス」うんぬんという方向にすぐに話がいってしまいそうだが、台湾では、悲しみは乗り越えられるべきもの、当然受け止めるべきものと見る人が少なくない。1999年の921地震のときでも、倒壞した自宅のマンションのとなりで人々が自分の店の物資を提供しあい、燒き肉パーティーをして、野外での生活のつらさを乗り越えようとした。一方、例年にない数の台風が襲来した日本では、台湾並みの強風と豪雨の中、動き回ってけがをしたり行方不明なった方が、数百人も出たが、台湾ではそうした被害はほとんどない。危機の中に楽しみを見出そうとする台湾の人々と、危機の中、危機であることすら気が付かないで動いて被害に遭っている日本人とを見ると、どちらが、防災先進国なのか、簡単には判断できないだろう。台風の中、傘を吹き折られて困惑している男女の姿をニュース中継で見ると、「何をしているのか」と思わず言いたくなる。台風の日に買い物をしたり、取引先と商売したりすることしか頭にないのは、あまりにも自閉的ではないか。
今年は、不幸にも日本で多くの水害があり、命を失った方や被害を受けられた方も多い。台湾でも、山間部を中心に土石流の被害で多くの人命が失われ、台北市近辺での洪水被害も大きかった。被害を受けられた方には、心からお見舞い申し上げる。しかし、温暖化を進めなければもはや生活が成り立たない人類がこの世界で生きる以上、今後もこうした災害は自分の人生から消すことのできない一部であるということは、目をつむってはならない事実である。台風のような自然災害という危機でも、台湾の人々のように、それを受け止める精神的態度と環境的準備があれば、「楽しみ」を見出せないわけではない。バブル的幸福幻想は、災害への対応という面でも日本人の社会的病巣を生み出してきたとおもわれてならない。
「台風を楽しむ」という点で思い出すのは、志賀直哉の作品だ。彼に『颱風』という作品がある。晩年に近い頃の作品で、台風の来る前日と当日の様子、収まったあとの奈良や大阪の被害を書いている。いつの台風かはまだ確認していないが、子供たちが当日、自動車で学校へ行ったと書いてあり、また、志賀が近くに住んでいた義母の家を見舞いに行ったと書いてあることから、かなり強い台風ではあったが身の危険を感じるほどではなかったことがわかる。おもしろいと思ったのは、志賀は、台風が来ると気が騒いで、外に行ってみたくなるという趣旨のことを書いていることだ。志賀には、『雪の日』と『雪の遠足』という書かれた時期は違うがやはり雪の降った前後二日のことを日記風に書いた作品があり、そこでも同じように心が騒ぐという趣旨のことを書いている。
有名な作家と私のような一介の市民を同列に書くのはおこがましい気もするが、同じ様な気分になった思い出は共通しているし、また、同じような気持ちを持った知人も知っているので、もっと多くの同士がいるに違いないと推測している。
今でも覚えている台風の思い出と言えば、幼稚園か小学校の低学年の頃だろうか。何回か同じようなことがあったので、幾つかの思い出が一つになってしまっている。とにかく台風が接近しているというので、急きょ、下校になり、友達と隊列を組んで帰った。空はまだ明るく、日の光も射していてとても台風が来るようには見えない。が、その後気が付いたのだが、台風の前日は、空の色が黄赤色がかって輝いたようになる。その日もまさにそうした空の色だった。雲もちぎれるように飛んでいく。同じ方向の友達と、「台風なんか来るか」と騒ぎながら、何となく落ち着かない気の騒ぐ感じがしていた。家では、母が雨戸を出して、台風に備えていた。遊びに出たいと言ったが、「台風が来るのになにしてるの」と叱られてしまった。夕方、帰った父は、板をガレージから持ち出して、雨戸に筋交いに打ち付けて、強風に備えた。停電になるかもしれないというので、いつもはいたずらを禁じられている懐中電灯が出され、蝋燭も机の上に置いてあった。停電になりそのまま寝てしまったこともあり、結局、大した風もなく、翌日、釘で打った筋交いをはずすのが大変だと言いながら父が仕事から帰って、釘拔きで釘を抜いていたこともあった。母が早くはずしてくれないととぶつぶつ言っていた。父が筋交いをはずすまで母は雨戸を開けることはできず、家の中は一日真っ暗だったのだ。
もう一つ、夏休みに入る前、毎年のように公民館で子供会の集会があったが、六年生の時だったか、司会を頼まれて議事をしている途中に、担任の先生が急に現れ、「台風が近づいたから、今日は解散して、みなですぐに帰りなさい」と、流会になったことがあった。六年生が分担して一二年生の手を引いて、家まで送っていったのを、思い出す。幸い大きな被害にあったことは一度もなかったが、小学生の頃まで、台風の襲来は、皆で備えるべき厳粛なものだった。
厳粛に迎えるべき台風が、年中ある単なる「大雨」「集中豪雨」の一種になってしまったのは、いつからだろうか。もう高校の頃には、台風と言っても、避難や休校になることはなく、まして大学に入ってからは、もう気象の災害があるという意識すら薄れていたようだ。ちょうど「Japan as NO.1」が言われ出した頃から、「台風」や「大雪」など天候に屬する災害は、「雨」や「雪」という日常的な気象の量的範疇に入れられ、日常的な限度を超えた場合がときどきあると言う程度にしか受け止められなくなったのではないだろうか。実際、小学生の頃、冬になればいつもあった豪雪被害も、1980年代には雪の量自体が減って、却って、スキーができないなど娯楽の話題の領域に入ってしまった。長崎豪雨災害や山陰集中豪雨など梅雨明けの集中豪雨という極めて特殊な例を除けば、その頃から、気象すらコントロールできているような錯覚に私のように街で暮らしていた多くの日本人は陥っていたのではないだろうか。
台湾に来てから、変わったのは気象ではなく、そうした気象への備えを日本人が忘れてしまっていただけだったことを、思い知らされた。最初に台湾に遊びに来たときだから今からもう十年以上も前になるが、高雄にいた結婚前の家内の車で中正空港まで行ったことがある。七月の終わりだったが、その前後高雄は毎日続く大雨で高速道路はじめ北へ向かう国道や省道も各地で水没していた。雨と言っても、日本のように落ちてくる水滴が筋になって見えるような生やさしいものではなく、文字通り水の柱が天から落ちてくるような猛烈な雨あしだった。日本へ帰る前日の早朝、雨が一段落したところで、通過できる道を選びながら北へ向かい、昼頃、台南の北でやっと高速道路に入ったと思うと、また天候が悪くなってきた。台中を過ぎた辺りでまた雨になり、その内、雨あしが猛烈な勢いで変わった。滝に入ったようになり、ワイパーを最大にしても降ってくる雨の量が多すぎて、文字通り、前は全く見えない。雨が当たりにくい左右の窓で、外を確認しながら、非常表示灯を点滅させ、スピードを落として、路肩に近いほうへ移動した。前後の何台かの車も、同じように非常表示灯を点滅させ始めたので、やっとお互いの位置と車間が分かるようになった。日本でも、地域的なにわか豪雨があり、一度、高速道路で遭遇した経験がある。その時は、十分ぐらい路肩で待っていると、フロントガラスからの視界が全くないような雨あしは次第に弱まっていったが、台湾の場合は、その見込はなかった。辺りは夕方のように暗くなり、雨あしが衰える気配もない。結局、前後の車のライトを目印に、走り続けるしかなかった。猛烈な雨は一時間以上も続いた。高速道路は盛り土の上を通っているのに、なかば水に浸かったようになっていた。
その後も、気象の激しさを思い出させられる体験はいろいろあった。自家用のマンションを買って引っ越した年だったろうか、大きな台風に何度か襲われた。
一度は、屋上の扉を風が破り、そこから雨水がエレベータールームを水浸しにして、エレベーターが二台とも動かなくなったことがあった。風が当たる側の部屋に開いた窓からは、サッシを閉めておいても戸の隙間から風に押された雨水が、涌き水のように入ってきた。天気予報では「最大瞬間風速○㍍」とよく報告されるが、そのイメージは日本にいたときはそれほど深刻ではなかった。たまに強い台風が来れば、怖いもの見たさに外を歩いてみたくなる、そのときに体が風で押されるのを感じるぐらいのことだった。しかし、台湾の場合は、まず窓ガラスの心配をしなければならなかった。風の息に煽られて強化ガラスは皷膜が震動するように、びりびりと震えている。そのうちに「最大瞬間風速○㍍」が吹き募ると、ガラスは内側へ大きくたわみ、次の瞬間は、今度は外側へ限界まで引き戻される。サッシの枠全体も、限界に近いぐらいまで変形し、また、復元する。台風が通過している間は、その繰り返しだ。サッシのガラスには、破壊を防ぐためガムテープで×印に補強をした。隙間には、ぼろ布を詰めて、泉のように涌き出る雨水への目張りにした。
また、風は同じマンションでも上層階ほど、強くなる。一番強い風があたる側にあったある知人の家では、設置場所に固定したはずの据え置型クーラー(台湾では日本式の分離型ではなく、室内機と冷卻機が一体になった据え置型のクーラーが一般的だった。軽いものでも三十キロ以上はある。)が強風で飛ばされ落下した。空いた壁の穴からは、風に押された雨水が烈風とともに滝のように流れ込んできて、アッという間に部屋を浸水させてしまった。床上浸水は一階など地上部に近いところにあるばかりではない。報せを聞いた数人の住人が助けに入り、家具を隣の部屋へ移し、ベニヤの厚板をクーラーのなくなった穴に押し付けて、雨の侵入を食い止めようとした。同じ被害を受けた世帯が十件近くあった。
日本では、台風に対する警戒心が薄れてきたためか、もう自治体が休業や休校の指示を出すこともしなくなったが、台湾では、台風の上陸や暴風圈の接近が予想される場合は、「不上班不上課(全職種の休業と小学校から大学までの休校)」を出すのが通例になっている。台風接近の前日は、自治体の関係者ばかりではなく住民自身が浸水対策に土嚢を積んだり、排水溝を清掃したりする。それに、いつもクーラーが飛ばされ、雨水が滝のように流れ込んでくるような強風豪雨ばかりではないので、臨時休日になってしまい、暇をもてあました同じマンションの住人が、パーティーをしたり、ティータイムを開いたりして、雑談にふけっているときもあるが、いずれにせよ家族や友人が顔を揃えて家にいられるのは、ありがたいことだ。志賀直哉が書いた台風への気の騒ぎばかりではなく、台湾では、台風という危機に家族や友人が力を揃えて立ち向かう機会があり、そうして家族や住民の絆を固めている。
今年の台風で洪水にみまわれた地区では、公園で飼われていた鯉などが道へ泳ぎだし、水に浸かった家々から人々が繰り出して、それを捕まえている光景が中継された。浸水による被害を考えれば、日本なら「心的外傷」「ストレス」うんぬんという方向にすぐに話がいってしまいそうだが、台湾では、悲しみは乗り越えられるべきもの、当然受け止めるべきものと見る人が少なくない。1999年の921地震のときでも、倒壞した自宅のマンションのとなりで人々が自分の店の物資を提供しあい、燒き肉パーティーをして、野外での生活のつらさを乗り越えようとした。一方、例年にない数の台風が襲来した日本では、台湾並みの強風と豪雨の中、動き回ってけがをしたり行方不明なった方が、数百人も出たが、台湾ではそうした被害はほとんどない。危機の中に楽しみを見出そうとする台湾の人々と、危機の中、危機であることすら気が付かないで動いて被害に遭っている日本人とを見ると、どちらが、防災先進国なのか、簡単には判断できないだろう。台風の中、傘を吹き折られて困惑している男女の姿をニュース中継で見ると、「何をしているのか」と思わず言いたくなる。台風の日に買い物をしたり、取引先と商売したりすることしか頭にないのは、あまりにも自閉的ではないか。
今年は、不幸にも日本で多くの水害があり、命を失った方や被害を受けられた方も多い。台湾でも、山間部を中心に土石流の被害で多くの人命が失われ、台北市近辺での洪水被害も大きかった。被害を受けられた方には、心からお見舞い申し上げる。しかし、温暖化を進めなければもはや生活が成り立たない人類がこの世界で生きる以上、今後もこうした災害は自分の人生から消すことのできない一部であるということは、目をつむってはならない事実である。台風のような自然災害という危機でも、台湾の人々のように、それを受け止める精神的態度と環境的準備があれば、「楽しみ」を見出せないわけではない。バブル的幸福幻想は、災害への対応という面でも日本人の社会的病巣を生み出してきたとおもわれてならない。