1.ソシュールの時代
原典を読んでみると、今の私達が思っている以上に、故人たちが真剣に時代に向き合い、対象を誠実に眺めていたのに驚かされることがある。そんな著作は、多くの本や手記が迫害に合い、焚書される過酷な歴史の中にあっても生命を失わず、また、埃を被ったまま忘れ去られて、史料の闇に沈んでいくこともないのかもしれない。19世紀後半から20世紀の初めを生きた現代言語学の祖と言われるソシュールの”一般言語学講義”もそうした原典のひとつだろう。
私がソシュールについて知ったのは、大学時代、本屋にまだ哲学・思想のコーナーが残っていて、サルトル全集や実存主義の本に混ざって、フランス構造主義の本が並んでいた頃だったろうか。その頃買ったと思われる小林英夫訳『一般言語学講義』岩波書店を、私は台湾に引っ越すとき、実家に残した本の中から選り分けて、引っ越しの荷物の中に入れた。それは、今、住んでいるマンションの本棚の中で、ずっと眠っていた。硝子のはまった書棚の扉を開け、取り出してみると、ハトロン紙はすでに茶色く変わり、初めてページを開いた頃は、淡いクリーム色だった本文のページは、色が濃くなっていた。
実は、講義でソシュールの業績を詳しく聞いたわけでもなく、買った本も、一度か、二度、開いただけで、その頃の私には、読み通す力もなく、この本は、そのまま時の経過に任されていたに過ぎなかった。
以前読めなかった本が、最近、かなり容易に読めるようになった。容易にと言っても、次第に老化が気になる年齢になって、記憶力や反射力が低下していく替わりに、自分の必要とする部分が取り出しやすくなったのかもしれない。あるいは、今までの経験・知識に関連づけの出来る部分が手掛かりになって、今は、必要としない部分を捨てて、読めるようになったからだろうか。
こうした読み方は、”その人の思想そのもの”をまったく再現しているわけではなく、自分に都合のいい部分だけを取ってくる恣意的な理解で、邪道だろう。しかし、替わりに、連想や関連づけは、自由にできる。正確な再現を捨てることで、自分に必要な思料やきっかけを得ることが出来る。
江川王文成(2005)『子供の創造的思考力を育てる 16の発想パターン』には、拡張、焦点化から、弁証法まで、16の思考法が実例入りで紹介されている。
最初の「拡大」は、「不用の用」、「大は小を兼ねる」だと言われている。ある概念なりことばなりについて、思考、方法、適用範囲などを変えることで、新しい発想を見出そうというものだ。
台湾に来て見て、「拡大」という発想はよく分かった。食べ物の例が分かりやすいだろう。たとえば、しゃぶしゃぶである。日本では、高級な鍋料理の一種に分類されて、それ以上の発展は望みようもない。台湾でしゃぶしゃぶ(さんずいに刷の字を当てて、音も似せている)が広がりだして、もう5年以上になるだろうか。以前にあった、さまざまな食べ放題の鍋を駆逐して、しゃぶしゃぶは、台湾の代表的な鍋料理の座を維持している。日本のしゃぶしゃぶは、テレビのグルメ番組などで見ると、庶民が気楽に食べられるものでないだけに、新しい創意や工夫から取り残され、ひたすら食材の高級さやタレやだしの高品質化を追求せざるを得ない料理法になっているのではないだろうか。台湾の場合は、「拡大」によってこの文化を輸入した。まず、食材を変えた。庶民的な料理として、キャベツやその他の野菜、かまぼこなどの鍋の具に、海老、薄切りの肉、などが少量ずつ一人用のセットの皿に盛られ、それを日本風のかつおやこんぶのだしが入った一人用の電子鍋に入れて、醤油や沙茶醤などで食べるというものだ。顧客の範囲を「拡大」したのだ。台湾では、日本料理の仲間だが、普通の日本風料理は、レストランの食べ放題だと、500元以上だが、しゃぶしゃぶは、日本風高級料理路線を捨てて、大衆的拡大を狙って、200元前後の値段で、広く受け入れられる料理に変わった。さらに、一人一個の電子鍋という形で、個人化を図り、大人数で一つの鍋に大量の具を入れて食べる台湾式の鍋が人数の制限を受けるのに対して、一人でもグループでも食べられる料理に変えた。
「思考(イメージ)」、「方法(鍋の形態)」、「適用範囲(庶民化)」いずれも日本の原型から大きく拡大され、転換されている。
私の読書も、日本にいるときは、”作者の思想全体を再現して理解しなくてはならない”という強迫観念に囚われて、ソシュールのような思想書は、買うだけで、ほとんど読まなかった。興味もなく、必要のない部分まで読む気力がなかった。完全でないなら読まないほうがいい、そうした強迫観念を学校教育でたたき込まれたことが、私の読書を気の進まないものにしていた。しかし、住む環境を変えたことで、もう日本式こだわりと脅迫にこだわりを持つ必要はなくなった。かといって、書かれたものを適当に要約してすますというわけにもいかない。そこで、原典の必要な部分だけを絞り込んで、自分の興味あるものに関連づけたり、恣意的に拡大させたりして読むという、邪道を私は採ることにした。
暫く、ソシュールの『一般言語学講義』を読みながら、私と私達が生きている時代に向き合ってみたいと思う。ソシュールについては、言語活動で生じる「ラング(社会的記号的言語体系)」と「パロール(個人的活動的言語)」の関係の中で、前者に焦点が当てられることが多かった。ネットで見つかる、解読も、多くは、「ラング」とそこから生まれる記号の問題に焦点を当てている。
ソシュールの理論とその基本概念
ソシュールの言語論(シニフィエ・シニフィアン)と構造主義
ソシュールの思想の概要
丸山圭三郎『ソシュールを読む』
しかし、彼の生きた時代に注目する記述は少ないようだ。
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フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857年11月26日 - 1913年2月22日)
1857年11月26日、スイスのジュネーヴに生まれる。一家は16世紀にフランスから移住してきた名家で、物理学・生物学を中心に多くの学者を輩出して来た一家であった。
1870年からギリシャ語を学び、1873年にギムナジウムに入る。1876年にパリ言語学会に入会し、10代にして数々の発表を行って名声を高める。この頃、ライプツィヒに留学する。
1878年暮れ、論文『インド・ヨーロッパ語における原始的母音体系についての覚え書き』を発表する。これは、ヨーロッパ圏の諸語の研究から、それらの祖となった印欧祖語の母音体系を明らかにしようとしたものである。この論文において半ば数学的な導出によりソシュールが提出した喉頭音仮説が、後にヒッタイト語解読によって実証され、これが20世紀の印欧祖語研究に大きな影響を与えることになる。
1878年7月にベルリンを訪れ、1879年暮れまでそこに滞在する。1880年からは再びライプツィヒに戻り、2月に論文『サンスクリットにおける絶対属格の用法について』をライプツィヒ大学に提出して博士号を得る。
1880年秋からパリに滞在する。1881年、パリ大学でミシェル・ブレアルの講義を聴講し、才能を認められて同大学の「ゴート語および古代高地ドイツ語」の講師となる。そこで10年間に渡って教鞭をとった後、ジュネーヴに戻る。1906年、ジョセップ・ウェルトハイマーの後を受けて一般言語学について1906年-1907年、1908年-1909年、1910年-1911年の三度にわたって講義を行う。
20世紀に入ったころから彼にとって言語学は中心的な興味の対象ではなくなり、もっぱら『ニーベルンゲンの歌』の研究やアナグラムに取り組むようになる。1912年の夏に健康を害して療養に入り、1913年2月22日、享年55で没した。
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年表を読んでみて、ソシュールの生きた時代は、明治時代とほぼ一致していることに、今回、初めて気がついた。(2007-07-20 21:59:03)
2.記憶を甦らせる功罪
前回書いてからかなりの月日が流れていった。私も白髮が増え、子どもたちは見る間に大きくなり、家族関係も変わってきた。もちろん移ろい形を変え、新に始まり、また過ぎ去っていくものも数知れない。再び、途切れた考察の糸を紡ぎ直し、書き継いでみることにしよう。
2009年の台湾の春節は1月26日だった。2008年後半に本格化したサブプライムローンの破綻が引き起こした21世紀の人類社会の予兆である世界同時恐慌の発端が明らかになった影響で、私の暮らす台湾社会もまた、母国の日本社会も大きな煽りを受けている。台湾では日本の一時金支給の変わりに3600元の消費券を一斉に1月末の春節前に支給した。・・・
私達は「物事を批判的に見よ」という理念を金科玉條のように学校でも、さまざまなメディアからも、また思想や批評からも、繰り返し繰り返し受け取ってきた。だから、こう書くといかにも時代の流れに目を向けているかのようだが、果たしてこうした事件を見て一定の見解を持つことが、個々の人生とその時々の選択にとって望ましいことなのかどうかどうか、私は疑うようになった。なぜならどの時代を生きたどの個人にも、こうした同時代のそのときどきの「大」問題があったが、100年、200年と経ってみると、それらの大半は共同体の記憶からも文書記録からも消滅して、ほとんど形跡もとどめていないからだ。100年前の社会的記憶をたどるのは実は容易なことではない。
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明治元年1868
1 戊辰戦争始まる。
3 五箇条の御誓文。
9 明治改元。
明治二年 1869
1 薩長土肥四藩主、版籍奉還奏請。
3 東京奠都。二官八省制度。
5 榎本武揚降伏。戊辰戦争終結
6 版籍奉還に勅許降る。
明治四年 1871
7 廃藩置県。
10 岩倉具視を中心とする遣欧使節団派遣。
明治五年 1872 太陽暦採用。
明治六年 1873
1 徴兵制公布。
6 岩倉ら遣欧使節団帰朝。
10 征韓論争。
征韓派敗れ、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣など連袂辞職(明治六年の政変)。
11 内務省設立(内務卿・大久保利通)。
明治七年 1874
1 民選議員設立の建白書提出。
2 佐賀の乱(首領・江藤新平)
4 台湾出兵。
明治八年 1875
4 元老院、大審院設置。立憲政体樹立の詔渙発。
5 ロシアとの間に千島樺太交換条約。
明治九年 1876
2 朝鮮国との間に日朝修好条規。
10 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、相次いで起こる。
明治十年 1877
2 西南戦争(前参議・西郷隆盛、薩摩で蜂起)。
5 木戸孝允病死。
6 立志社建白。
9 薩軍敗退、西郷自殺。西南戦争終結。最後の士族武装蜂起となる。
明治十一年 1878
5 大久保利通暗殺。
8 竹橋事件。
12 参謀本部設置(統帥権独立の端緒)。
明治十二年 1879 仏人ボアソナード、日本民法起草に着手(「民法出来て忠孝滅ぶ」と言われる)。
明治十三年 1880
3 自由民権運動いよいよ盛んとなる。国会期成同盟成立。
4 集会条例制定。
7 刑法・治罪法制定。
明治十四年 1881
4 農商務省設立。松方正義大蔵卿のデフレ政策「松方財政」はじまる。
10 国会開設の勅諭渙発。
明治十四年の政変(大蔵卿参議・大隈重信、廟堂を去る)
自由党結成(総理・板垣退助)。
明治十五年 1882
1 井上馨、条約改正に着手。
日本銀行条例により日本銀行成立。
3 伊藤博文、憲法調査のため西園寺公望らと渡欧。
立憲改進党(総理・大隈重信)、立憲帝政党(総裁・福地桜痴)結成。
7 朝鮮国に壬午事変勃発。翌月、済物浦条約締結。
11 福島事件。
明治十六年 1883 7 岩倉具視死没。
11 鹿鳴館落成、開館。
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前回書いた1857年生まれのソシュールの少年時代である、日本の明治時代の最初はこんな出来事が続いた時代であった。この時代は「明治維新」で大きく時代は変わったと私達は学校やメディアから言われ続けてきたが、よく考えてみれば、今に、その痕跡をとどめるものは都市の景観はもとより社会的文化的内実にも実はほとんど何もない。明治期から残る制度や建物は探すのも難しく、明治の文学はすでに古典文学全集に入れられるものになり、明治の新聞や記録など歴史史料としても入手は難しい。家族や生活の様子も実は、再現不可能なほどに、まったく違っている。たとえば、明治維新当時の毎日の食事や衣服を再現して見ろと言われても、できる人はほとんどいないだろう。呆れるほど、100年以上前から現代に残るものはないのである。
明治時代と現代が連続しているというのは、私達が持っている一種のドグマ(憶断、憶見)であり、私達が記憶をいつも構成していることにより出来上がった一種のドラマあるいは夢想ではないであろうか。そして、そのドラマあるいは夢想は灼熱の陽光に焼かれ乾ききった砂漠の砂や岩山のように潤いに欠け、自らは何も語ろうとはしない。その時代を知っているというのは、私達が乾ききった砂漠の上に現代を投影したまったくの幻影であり、蜃気楼にすぎないのではないだろうか。
過去を再現するのが、宇宙の果てを推測するのと同じ様に困難なことであると気がつくところから、過去は私達に本当の姿を語り始める。
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夏目漱石
慶応3年(1867年)1月5日、江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)で、夏目小兵衛直克、千枝の五男として生まれる。生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。
明治元年(1868年)、塩原昌之助の養子になる。
明治3年(1870年)、この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。[2]「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど、痘痕は目立ったらしい。
明治7年(1874年)、公立戸田学校下等小学第八級に入学。
明治9年(1876年)、公立市谷学校下等小学第四級に転校。
明治11年(1878年)
4月、市谷学校上等小学第八級を卒業。
10月、錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。
明治12年(1879年)、東京府立第一中学校正則科(日比谷高校の前身)に入学。
明治14年(1881年)、実母死去。第一中学退学。私立二松学舎に入学。
明治16年(1883年)、神田駿河台の成立学舎に入学。
明治17年(1884年)、大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。
明治21年(1888年)、夏目家に復籍。第一高等中学校英文科入学。
明治22年(1889年)、正岡子規を知る。
明治23年(1890年)、帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。『方丈記』を英訳する。
明治25年1892年)
4月、北海道後志国岩内郡吹上町に転籍し北海道平民になる。
5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。
明治26年(1893年)、大学卒業。高等師範学校(後の東京高等師範学校)に勤める。神経衰弱に。
明治27年(1894年)、初期の肺結核と診断される。
明治28年(1895年)
4月、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常松山中学に赴任。
12月、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と婚約。
明治29年(1896年)
4月、熊本県の第五高等学校講師に就任。
6月、鏡子と結婚。
7月、五高教授となる。
明治30年(1897年)
6月、実父直克死去。
7月、妻鏡子流産。
明治33年(1900年)、イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。
明治36年(1903年)、帰国後は一高、東京帝国大学講師に。
明治38年(1905年)、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表、連載を始める。
明治40年(1907年)、朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる。
明治43年(1910年)、胃潰瘍のため大吐血、一時危篤(修善寺の大患)。
明治44年(1911年)、養父塩原に金を無心される。
2月、文学博士号辞退。
8月、関西での講演後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。
大正2年(1913年)、強度の神経衰弱に悩まされる。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る
大正4年(1915年)12月頃から、芥川龍之介などが木曜会に参加する。
大正5年(1916年)12月9日、胃潰瘍の悪化により、「明暗」執筆途中に死去。
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年表を、ソシュールと重ねてみると、ソシュールのほうが10年先輩だが、最も活躍した時期は20世紀の初頭の10年あまりで、亡くなった時期もほぼ同じだったことがわかる。ソシュールが現代にもその影響を留めている「一般言語学」について講義したのは、1906年-1907年、1908年-1909年、1910年-1911年の三度と言われているが、漱石が文学者として活躍したのも、ロンドン留学後に「吾輩は猫である」を発表した1905年から10年あまりに過ぎなかった。
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明治37年(1904年)には、明治大学の講師も務める。
その年の暮れ、虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。明治38年(1905年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
明治39年(1906年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下には内田百間、野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。
明治40年(1907年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。明治42年(1909年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。
修善寺の大患
東京・早稲田にある夏目漱石の銅像明治43年(1910年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期3部作の3作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。
同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。明治44年(1911年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の湯川胃腸病院(のちに湯川秀樹が婿養子となる)に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。大正元年(1912年)9月、痔の再手術。同年12月には、「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。大正2年(1913年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月ごろまで悩まされる。大正3年(1914年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間の利己を追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
大正4年(1915年)3月、京都へ遊び、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始。大正5年(1916年)には糖尿病にも悩まされる。その年の12月9日、大内出血を起こし「明暗」執筆途中に死去(50歳)。
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今からちょうど100年前、20世紀が始まったばかりの頃、ソシュールは晩年の10年あまりで『一般言語学講義』を残し、夏目漱石は主要作品を10年あまりで書き尽くした。
21世紀の今、100年後に読まれる作品を残している文化人がいるのかどうか?その答えを同時代人には出すことはできまい。
まだ1月の台湾の空は半ば冬半ば春のどんよりした霞空に覆われている。それでも早朝には日の光も射していた。
気がついてみると、木の間から、さえずる小鳥たちの声が微かに響いてくる。ブラインドを開けてみると、しかしもう陽は陰ってしまっていた。
光の届きそうな消えゆきそうな戸外の半ば翳った広がりを見ていると、春の訪れにはもう少し時間がかかりそうだった。(2009-01-31 13:26:58加筆)
原典を読んでみると、今の私達が思っている以上に、故人たちが真剣に時代に向き合い、対象を誠実に眺めていたのに驚かされることがある。そんな著作は、多くの本や手記が迫害に合い、焚書される過酷な歴史の中にあっても生命を失わず、また、埃を被ったまま忘れ去られて、史料の闇に沈んでいくこともないのかもしれない。19世紀後半から20世紀の初めを生きた現代言語学の祖と言われるソシュールの”一般言語学講義”もそうした原典のひとつだろう。
私がソシュールについて知ったのは、大学時代、本屋にまだ哲学・思想のコーナーが残っていて、サルトル全集や実存主義の本に混ざって、フランス構造主義の本が並んでいた頃だったろうか。その頃買ったと思われる小林英夫訳『一般言語学講義』岩波書店を、私は台湾に引っ越すとき、実家に残した本の中から選り分けて、引っ越しの荷物の中に入れた。それは、今、住んでいるマンションの本棚の中で、ずっと眠っていた。硝子のはまった書棚の扉を開け、取り出してみると、ハトロン紙はすでに茶色く変わり、初めてページを開いた頃は、淡いクリーム色だった本文のページは、色が濃くなっていた。
実は、講義でソシュールの業績を詳しく聞いたわけでもなく、買った本も、一度か、二度、開いただけで、その頃の私には、読み通す力もなく、この本は、そのまま時の経過に任されていたに過ぎなかった。
以前読めなかった本が、最近、かなり容易に読めるようになった。容易にと言っても、次第に老化が気になる年齢になって、記憶力や反射力が低下していく替わりに、自分の必要とする部分が取り出しやすくなったのかもしれない。あるいは、今までの経験・知識に関連づけの出来る部分が手掛かりになって、今は、必要としない部分を捨てて、読めるようになったからだろうか。
こうした読み方は、”その人の思想そのもの”をまったく再現しているわけではなく、自分に都合のいい部分だけを取ってくる恣意的な理解で、邪道だろう。しかし、替わりに、連想や関連づけは、自由にできる。正確な再現を捨てることで、自分に必要な思料やきっかけを得ることが出来る。
江川王文成(2005)『子供の創造的思考力を育てる 16の発想パターン』には、拡張、焦点化から、弁証法まで、16の思考法が実例入りで紹介されている。
最初の「拡大」は、「不用の用」、「大は小を兼ねる」だと言われている。ある概念なりことばなりについて、思考、方法、適用範囲などを変えることで、新しい発想を見出そうというものだ。
台湾に来て見て、「拡大」という発想はよく分かった。食べ物の例が分かりやすいだろう。たとえば、しゃぶしゃぶである。日本では、高級な鍋料理の一種に分類されて、それ以上の発展は望みようもない。台湾でしゃぶしゃぶ(さんずいに刷の字を当てて、音も似せている)が広がりだして、もう5年以上になるだろうか。以前にあった、さまざまな食べ放題の鍋を駆逐して、しゃぶしゃぶは、台湾の代表的な鍋料理の座を維持している。日本のしゃぶしゃぶは、テレビのグルメ番組などで見ると、庶民が気楽に食べられるものでないだけに、新しい創意や工夫から取り残され、ひたすら食材の高級さやタレやだしの高品質化を追求せざるを得ない料理法になっているのではないだろうか。台湾の場合は、「拡大」によってこの文化を輸入した。まず、食材を変えた。庶民的な料理として、キャベツやその他の野菜、かまぼこなどの鍋の具に、海老、薄切りの肉、などが少量ずつ一人用のセットの皿に盛られ、それを日本風のかつおやこんぶのだしが入った一人用の電子鍋に入れて、醤油や沙茶醤などで食べるというものだ。顧客の範囲を「拡大」したのだ。台湾では、日本料理の仲間だが、普通の日本風料理は、レストランの食べ放題だと、500元以上だが、しゃぶしゃぶは、日本風高級料理路線を捨てて、大衆的拡大を狙って、200元前後の値段で、広く受け入れられる料理に変わった。さらに、一人一個の電子鍋という形で、個人化を図り、大人数で一つの鍋に大量の具を入れて食べる台湾式の鍋が人数の制限を受けるのに対して、一人でもグループでも食べられる料理に変えた。
「思考(イメージ)」、「方法(鍋の形態)」、「適用範囲(庶民化)」いずれも日本の原型から大きく拡大され、転換されている。
私の読書も、日本にいるときは、”作者の思想全体を再現して理解しなくてはならない”という強迫観念に囚われて、ソシュールのような思想書は、買うだけで、ほとんど読まなかった。興味もなく、必要のない部分まで読む気力がなかった。完全でないなら読まないほうがいい、そうした強迫観念を学校教育でたたき込まれたことが、私の読書を気の進まないものにしていた。しかし、住む環境を変えたことで、もう日本式こだわりと脅迫にこだわりを持つ必要はなくなった。かといって、書かれたものを適当に要約してすますというわけにもいかない。そこで、原典の必要な部分だけを絞り込んで、自分の興味あるものに関連づけたり、恣意的に拡大させたりして読むという、邪道を私は採ることにした。
暫く、ソシュールの『一般言語学講義』を読みながら、私と私達が生きている時代に向き合ってみたいと思う。ソシュールについては、言語活動で生じる「ラング(社会的記号的言語体系)」と「パロール(個人的活動的言語)」の関係の中で、前者に焦点が当てられることが多かった。ネットで見つかる、解読も、多くは、「ラング」とそこから生まれる記号の問題に焦点を当てている。
ソシュールの理論とその基本概念
ソシュールの言語論(シニフィエ・シニフィアン)と構造主義
ソシュールの思想の概要
丸山圭三郎『ソシュールを読む』
しかし、彼の生きた時代に注目する記述は少ないようだ。
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フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857年11月26日 - 1913年2月22日)
1857年11月26日、スイスのジュネーヴに生まれる。一家は16世紀にフランスから移住してきた名家で、物理学・生物学を中心に多くの学者を輩出して来た一家であった。
1870年からギリシャ語を学び、1873年にギムナジウムに入る。1876年にパリ言語学会に入会し、10代にして数々の発表を行って名声を高める。この頃、ライプツィヒに留学する。
1878年暮れ、論文『インド・ヨーロッパ語における原始的母音体系についての覚え書き』を発表する。これは、ヨーロッパ圏の諸語の研究から、それらの祖となった印欧祖語の母音体系を明らかにしようとしたものである。この論文において半ば数学的な導出によりソシュールが提出した喉頭音仮説が、後にヒッタイト語解読によって実証され、これが20世紀の印欧祖語研究に大きな影響を与えることになる。
1878年7月にベルリンを訪れ、1879年暮れまでそこに滞在する。1880年からは再びライプツィヒに戻り、2月に論文『サンスクリットにおける絶対属格の用法について』をライプツィヒ大学に提出して博士号を得る。
1880年秋からパリに滞在する。1881年、パリ大学でミシェル・ブレアルの講義を聴講し、才能を認められて同大学の「ゴート語および古代高地ドイツ語」の講師となる。そこで10年間に渡って教鞭をとった後、ジュネーヴに戻る。1906年、ジョセップ・ウェルトハイマーの後を受けて一般言語学について1906年-1907年、1908年-1909年、1910年-1911年の三度にわたって講義を行う。
20世紀に入ったころから彼にとって言語学は中心的な興味の対象ではなくなり、もっぱら『ニーベルンゲンの歌』の研究やアナグラムに取り組むようになる。1912年の夏に健康を害して療養に入り、1913年2月22日、享年55で没した。
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年表を読んでみて、ソシュールの生きた時代は、明治時代とほぼ一致していることに、今回、初めて気がついた。(2007-07-20 21:59:03)
2.記憶を甦らせる功罪
前回書いてからかなりの月日が流れていった。私も白髮が増え、子どもたちは見る間に大きくなり、家族関係も変わってきた。もちろん移ろい形を変え、新に始まり、また過ぎ去っていくものも数知れない。再び、途切れた考察の糸を紡ぎ直し、書き継いでみることにしよう。
2009年の台湾の春節は1月26日だった。2008年後半に本格化したサブプライムローンの破綻が引き起こした21世紀の人類社会の予兆である世界同時恐慌の発端が明らかになった影響で、私の暮らす台湾社会もまた、母国の日本社会も大きな煽りを受けている。台湾では日本の一時金支給の変わりに3600元の消費券を一斉に1月末の春節前に支給した。・・・
私達は「物事を批判的に見よ」という理念を金科玉條のように学校でも、さまざまなメディアからも、また思想や批評からも、繰り返し繰り返し受け取ってきた。だから、こう書くといかにも時代の流れに目を向けているかのようだが、果たしてこうした事件を見て一定の見解を持つことが、個々の人生とその時々の選択にとって望ましいことなのかどうかどうか、私は疑うようになった。なぜならどの時代を生きたどの個人にも、こうした同時代のそのときどきの「大」問題があったが、100年、200年と経ってみると、それらの大半は共同体の記憶からも文書記録からも消滅して、ほとんど形跡もとどめていないからだ。100年前の社会的記憶をたどるのは実は容易なことではない。
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明治元年1868
1 戊辰戦争始まる。
3 五箇条の御誓文。
9 明治改元。
明治二年 1869
1 薩長土肥四藩主、版籍奉還奏請。
3 東京奠都。二官八省制度。
5 榎本武揚降伏。戊辰戦争終結
6 版籍奉還に勅許降る。
明治四年 1871
7 廃藩置県。
10 岩倉具視を中心とする遣欧使節団派遣。
明治五年 1872 太陽暦採用。
明治六年 1873
1 徴兵制公布。
6 岩倉ら遣欧使節団帰朝。
10 征韓論争。
征韓派敗れ、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣など連袂辞職(明治六年の政変)。
11 内務省設立(内務卿・大久保利通)。
明治七年 1874
1 民選議員設立の建白書提出。
2 佐賀の乱(首領・江藤新平)
4 台湾出兵。
明治八年 1875
4 元老院、大審院設置。立憲政体樹立の詔渙発。
5 ロシアとの間に千島樺太交換条約。
明治九年 1876
2 朝鮮国との間に日朝修好条規。
10 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、相次いで起こる。
明治十年 1877
2 西南戦争(前参議・西郷隆盛、薩摩で蜂起)。
5 木戸孝允病死。
6 立志社建白。
9 薩軍敗退、西郷自殺。西南戦争終結。最後の士族武装蜂起となる。
明治十一年 1878
5 大久保利通暗殺。
8 竹橋事件。
12 参謀本部設置(統帥権独立の端緒)。
明治十二年 1879 仏人ボアソナード、日本民法起草に着手(「民法出来て忠孝滅ぶ」と言われる)。
明治十三年 1880
3 自由民権運動いよいよ盛んとなる。国会期成同盟成立。
4 集会条例制定。
7 刑法・治罪法制定。
明治十四年 1881
4 農商務省設立。松方正義大蔵卿のデフレ政策「松方財政」はじまる。
10 国会開設の勅諭渙発。
明治十四年の政変(大蔵卿参議・大隈重信、廟堂を去る)
自由党結成(総理・板垣退助)。
明治十五年 1882
1 井上馨、条約改正に着手。
日本銀行条例により日本銀行成立。
3 伊藤博文、憲法調査のため西園寺公望らと渡欧。
立憲改進党(総理・大隈重信)、立憲帝政党(総裁・福地桜痴)結成。
7 朝鮮国に壬午事変勃発。翌月、済物浦条約締結。
11 福島事件。
明治十六年 1883 7 岩倉具視死没。
11 鹿鳴館落成、開館。
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前回書いた1857年生まれのソシュールの少年時代である、日本の明治時代の最初はこんな出来事が続いた時代であった。この時代は「明治維新」で大きく時代は変わったと私達は学校やメディアから言われ続けてきたが、よく考えてみれば、今に、その痕跡をとどめるものは都市の景観はもとより社会的文化的内実にも実はほとんど何もない。明治期から残る制度や建物は探すのも難しく、明治の文学はすでに古典文学全集に入れられるものになり、明治の新聞や記録など歴史史料としても入手は難しい。家族や生活の様子も実は、再現不可能なほどに、まったく違っている。たとえば、明治維新当時の毎日の食事や衣服を再現して見ろと言われても、できる人はほとんどいないだろう。呆れるほど、100年以上前から現代に残るものはないのである。
明治時代と現代が連続しているというのは、私達が持っている一種のドグマ(憶断、憶見)であり、私達が記憶をいつも構成していることにより出来上がった一種のドラマあるいは夢想ではないであろうか。そして、そのドラマあるいは夢想は灼熱の陽光に焼かれ乾ききった砂漠の砂や岩山のように潤いに欠け、自らは何も語ろうとはしない。その時代を知っているというのは、私達が乾ききった砂漠の上に現代を投影したまったくの幻影であり、蜃気楼にすぎないのではないだろうか。
過去を再現するのが、宇宙の果てを推測するのと同じ様に困難なことであると気がつくところから、過去は私達に本当の姿を語り始める。
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夏目漱石
慶応3年(1867年)1月5日、江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)で、夏目小兵衛直克、千枝の五男として生まれる。生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。
明治元年(1868年)、塩原昌之助の養子になる。
明治3年(1870年)、この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。[2]「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど、痘痕は目立ったらしい。
明治7年(1874年)、公立戸田学校下等小学第八級に入学。
明治9年(1876年)、公立市谷学校下等小学第四級に転校。
明治11年(1878年)
4月、市谷学校上等小学第八級を卒業。
10月、錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。
明治12年(1879年)、東京府立第一中学校正則科(日比谷高校の前身)に入学。
明治14年(1881年)、実母死去。第一中学退学。私立二松学舎に入学。
明治16年(1883年)、神田駿河台の成立学舎に入学。
明治17年(1884年)、大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。
明治21年(1888年)、夏目家に復籍。第一高等中学校英文科入学。
明治22年(1889年)、正岡子規を知る。
明治23年(1890年)、帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。『方丈記』を英訳する。
明治25年1892年)
4月、北海道後志国岩内郡吹上町に転籍し北海道平民になる。
5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。
明治26年(1893年)、大学卒業。高等師範学校(後の東京高等師範学校)に勤める。神経衰弱に。
明治27年(1894年)、初期の肺結核と診断される。
明治28年(1895年)
4月、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常松山中学に赴任。
12月、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と婚約。
明治29年(1896年)
4月、熊本県の第五高等学校講師に就任。
6月、鏡子と結婚。
7月、五高教授となる。
明治30年(1897年)
6月、実父直克死去。
7月、妻鏡子流産。
明治33年(1900年)、イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。
明治36年(1903年)、帰国後は一高、東京帝国大学講師に。
明治38年(1905年)、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表、連載を始める。
明治40年(1907年)、朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる。
明治43年(1910年)、胃潰瘍のため大吐血、一時危篤(修善寺の大患)。
明治44年(1911年)、養父塩原に金を無心される。
2月、文学博士号辞退。
8月、関西での講演後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。
大正2年(1913年)、強度の神経衰弱に悩まされる。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る
大正4年(1915年)12月頃から、芥川龍之介などが木曜会に参加する。
大正5年(1916年)12月9日、胃潰瘍の悪化により、「明暗」執筆途中に死去。
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年表を、ソシュールと重ねてみると、ソシュールのほうが10年先輩だが、最も活躍した時期は20世紀の初頭の10年あまりで、亡くなった時期もほぼ同じだったことがわかる。ソシュールが現代にもその影響を留めている「一般言語学」について講義したのは、1906年-1907年、1908年-1909年、1910年-1911年の三度と言われているが、漱石が文学者として活躍したのも、ロンドン留学後に「吾輩は猫である」を発表した1905年から10年あまりに過ぎなかった。
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明治37年(1904年)には、明治大学の講師も務める。
その年の暮れ、虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。明治38年(1905年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
明治39年(1906年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下には内田百間、野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。
明治40年(1907年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。明治42年(1909年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。
修善寺の大患
東京・早稲田にある夏目漱石の銅像明治43年(1910年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期3部作の3作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。
同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。明治44年(1911年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の湯川胃腸病院(のちに湯川秀樹が婿養子となる)に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。大正元年(1912年)9月、痔の再手術。同年12月には、「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。大正2年(1913年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月ごろまで悩まされる。大正3年(1914年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間の利己を追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
大正4年(1915年)3月、京都へ遊び、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始。大正5年(1916年)には糖尿病にも悩まされる。その年の12月9日、大内出血を起こし「明暗」執筆途中に死去(50歳)。
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今からちょうど100年前、20世紀が始まったばかりの頃、ソシュールは晩年の10年あまりで『一般言語学講義』を残し、夏目漱石は主要作品を10年あまりで書き尽くした。
21世紀の今、100年後に読まれる作品を残している文化人がいるのかどうか?その答えを同時代人には出すことはできまい。
まだ1月の台湾の空は半ば冬半ば春のどんよりした霞空に覆われている。それでも早朝には日の光も射していた。
気がついてみると、木の間から、さえずる小鳥たちの声が微かに響いてくる。ブラインドを開けてみると、しかしもう陽は陰ってしまっていた。
光の届きそうな消えゆきそうな戸外の半ば翳った広がりを見ていると、春の訪れにはもう少し時間がかかりそうだった。(2009-01-31 13:26:58加筆)
初めまして。私は台湾の澎湖島で日本語教師をしているものでハンドル名が甘ちゃんというものです。相互リンク先を探していてkei_shin347さんのブログを見ました。
日本語教師をしながらずっと台湾に留まっておられるようですね。
私は台湾や中国で日本語の教師をしたい人を援助したいと考えています。簡単に日本語教師はこれこれだと決めつけることは難しいので、様々な人の経験を通して日本語教師を理解して頂くことにしました。是非kei_shin347さんの経験や書いておられる事を日本語教師たちに読んで貰えたらと思い、相互リンクして頂けたらと願っています。
掲載サイトは以下の通りです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4300/kyousi.html
紹介して頂きたい当方サイトの情報です。
【タイトル】台湾で日本語教師をしよう!
【リンクURL】http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4300/kyousi.html
【紹介文】台湾や中国なら日本語教師が出来ます。
以下のタグをそのまま貼り付けて頂いても結構です。
台湾で日本語教師をしよう!
台湾や中国なら日本語教師が出来ます。
ブログですと制限があるかも知れません。その時は説明文をカットして下さって構いません。
よろしくお願い致します。
甘ちゃん
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4300/kyousi.htmlにて相互リンクさせて頂いて
おります。この度、当サイトの運営する別のサイトのランクアップを目指して、リンクページがランク2以上の
サイトと相互リンクを結びたいと思いまして、ご連絡させて頂いております。ランクアップを図りたいサイトは
http://www.geocities.jp/genanyoujijiang2000/で、台湾の阿甘語言学校中国語科は留学生を募集中
というタイトルです。貴サイトはhttp://www.geocities.jp/genanyoujijiang2000/gogakuryuugakuindex.htmlに
すでに登録済みです。現在そのリンクページのランクは2です。お返事お待ちしています。
甘ちゃん@台湾
相互リンクをブログのページに出しました。これからも宜しく願いします。
それにしても、今年は天候が異常ですね。3月、台湾北部は冬と夏が同居するような毎日でした。