台湾生活-日々のともしび-

台湾と日本を行き来する日本人の目から見た、日本や台湾の日常的できごとへの個人的感想

十年一日─過ぎゆく時を知るには─時代と個人が交錯するはざまに─

2005-12-14 13:58:44 | 日々におもうこと
 今年の台湾は気候の変動が激しかった。春先から初夏にかけては大雨が続いた。例年、台湾の梅雨は、しとしとした小雨が続くことが多い。春霞のおだやかな曇り空に湿った温かい雨粒が大地を潤した。台風が来なければ、日本のような梅雨明けの集中豪雨はそれほどなかった。しかし、今年の梅雨は、台風の雨量以上に大粒の激しい雨が降った。わずか二三日で3000ミリという記録的な大雨になった地域もある。洪水もひどいところは二週間以上ひかなかった。
 夏の台風も、やはり豪雨で、南部を中心に橋や河川沿いで大きな被害が出た。最南部の塀東では、主要橋梁が損壊して、交通途絶が続いた地区が少なくない。中央山脈に点在する村落でも同じで、川沿いの道は、濁流にのまれ、集落全体が河道になってしまった地区もあった。921地震後の、この五年余り、雨の度に土石流がひどくなり、多くの死者が出たり、上水道が汚染で使えなくなったりする被害が目立つ気がする。山間部での山葵田や茶畑の開発、檳榔椰子の栽培の広がりなど開発の影響に、地震による地盤の弱化が作用しているのかもしれない。
 9月から10月は、夏のような強い日射しが続いて、秋は来なかった。例年、秋に入って夏の痛いほど鋭い陽光が、透明な大気の中でも柔らかく感じられるようになると、台湾の秋になる。夏の積乱雲がいつしか消えて、日本の秋空と同じ高層雲に変わっていく。しかし、今年は、晴れると30度を超えた。日射しは、透明な大気の中で、さらに突き刺すように鋭く感じられた。以前行ったことのあるインドの激しい陽光を思い出した。乾燥した大気の中、乾いた大地に照付ける陽光は、ガラスに反射する光のように、尖っていた。
 10月も中旬に入り、秋らしい日々がやっと続くようになったかと思うと、今度は、寒波が来た。毎年、この時期に日本から来る教育実習の女子学生達は、なぜか不思議に秋の台風にめぐり会うことが多かった。一週間の実習の一日は台風の「不上班不上課」で臨時の休みにかわってしまった。テレビで一日過ごすか、雨が弱まれば、誘いに来た台湾の学生達と遊びに出かけたりした。が、今年は、一月早い寒波の中だった。南国のイメージが強い台湾だが、北回帰線から北の地域は、日本に寒波が来ると、同じように寒波に見舞われる。上着の持ち合わせがない学生は、付き添いの学生に頼んで、夜市へ追加の服を買いに出た。
 しかし、11月になると今度は、また30度を超える日が続いた。10月に冬支度をした後、寒さを予期して、衣服も冬服に入れ替えたが、長袖では、汗でシャツが臭うぐらい、気温が高くなった。夏の寝具と入れ替えた、冬の掛け布団や毛布も使えず、かえってクーラーをつけないと暑くて寝られないほどだった。

 志賀直哉に『11月3日午後の事』という短編がある。こんな書き出して始まっている。「晩秋には珍しく南風が吹いて、妙に頭は重く、肌はじめじめと気持ちの悪い日だつた。自分は座敷で独り寝ころんで旅行案内を見ていた。さし当たり実行の的もなかったが、空想だけでも、かう云ふ日には一種の清涼剤になる。そして眠れたら眠る心算で居た。其処に根戸にいる従弟が訪ねて来た。」
 志賀直哉といえば、「私小説」作家の代表であり、そこでの評価も大方は贊否半ばで固定化している。しかし、自分を鏡として、時代を写し取るという点から言えば、志賀直哉には夏目漱石の小説がおそらく明治期に始まり今も続く近代家族の危機とそこから生まれるさまざまな人間のつながりの危機を忠実に写し取っているように、そうしたつながりの危機の中で自分を通して、つながりの緊張や軋みを描きとっているように思われる。
 “志賀直哉は文章の職人に過ぎない”という評価は、一面では、社会という関係に誰でもそれに容易にたどりつける実体があり、むしろ難しいのは、その法則や意義を描き出すことで、偉大な思想はそれをなしえたという前提でなされたものではないだろうか。もしこうした仮定が許されるならば、こうした考え方をする人々は、彼が描き取ろうとした時代の動きが何であったのか、よく分からなかったのかもしれない。果たして時代は、誰にでも明かな実体なのだろうか。
 志賀直哉のこの短編には、実は、“時代”が鋭く描き出されている。一つは、冒頭の一文「晩秋には珍しく南風が吹いて、妙に頭は重く、肌はじめじめと気持ちの悪い日だつた」、もう一つは、登場者を出した「自分は座敷で独り寝ころんで旅行案内を見ていた」である。
 冒頭の一文「晩秋には珍しく南風が吹いて、妙に頭は重く、肌はじめじめと気持ちの悪い日だつた」とよく似た書き方を志賀直哉は他の作品でも用いている。
 京都での一人暮らしを描いた『寓居』は、「十月だと云ふのに烈しい北風が吹いて、其上、曇つて気持ちの悪い日だ。幸輔は朝から苛々した不機嫌で理もなくものに当たり散らしたい気分だつた」と始まっている。ともに、10月11月の秋の頃、季節外れの「南風」や「北風」があり、そのせいで「妙に頭は重く、肌はじめじめと気持ちの悪い日」であったり、「曇つて気持ちの悪い日」で「苛々した不機嫌で理もなくものに当たり散らしたい気分」になっている。その他、白樺派の仲間との交友を描いた『廿代一面』には、「米田英介は春の始めから、今年は何となく頭を悪くしそうな気がして居た。(中略)そして、二週間程すると、矢張り危ないと思つてゐた、自分でもどうにもならない不機嫌がやつて来た。」このように、季節の変化と志賀の気分の浮き沈みは、彼の作品にしばしば書かれている。
 季節と30代頃までの志賀直哉の気分はかなり関係があったようで、そうした変化に敏感だったことが窺われる。もっともそればかりではなく、20世紀前半での気候変動も大きく関わっていたと考えられる。20世紀の前半は19世紀から続く低温化傾向の時代で、降雨量や日照は安定しなかった。当時、凶作が大きな社会問題になったのもそうした環境が作用していたのである。気候変動の様子は、今、さまざまな検討が行われているが、彼の作品は、自分の気分という測定装置で、環境の変動を捉えていたわけである。
http://www.jma.go.jp/jma/press/0103/06a/spm.html#fig1
 たかが気分とは言っても、不機嫌の直接の対象にされた人々ばかりでなく、そうした変動を受けている社会にも関わっている。この『十一月三日午後の事』は、この後、散歩に出た「自分」と「従弟」が、演習を行う陸軍部隊の行軍の様子を目撃する場面をずっと描いている。
 11月という、本来はもう衣更えも済んで、冬装備に変え寒さに備えたはずの軍隊は、時ならぬ異常な高温に苦しめられ、倒れるものが続出する。いくら暑くても冬用のマントや防寒装備を脱げない中、脱落者が次々に倒れていく。一般的な評では、志賀直哉の「反軍思想」が端的に現れていると言われるが、そればかりではないであろう。
 この作品は、1919年の発表で、当時は、第一次大戦中に成立したロシアのソビエト政府に対して、ロシア革命後の1918年から1922年にかけ、日本はアメリカやイギリスなどと共にシベリアに兵士を送っているところであった。冬用の重装備を付けた演習も当然そうした地域への派遣を前提にしていたと思われる。日本の当時の動きを、こうした形で、描き取っているのである。
 さらに、言えば、この作品は、後の日中戦争、太平洋戦争での日本の敗戦をも予感させる。
 一つは、季節外れの高温の中、計画通りに冬季装備での「冬季行軍演習」を強行した軍の硬直した非現実的な判断力の低さが、作品中での描写からありありと伝わってくるからである。そして同時に、そうした非合理さでしか巨大な世界の動きに立ち向かえない当時の日本の重苦しさも感じられる。大日本帝国の軍隊がどのような力で動かされていたか、志賀直哉はただその動きを写しているだけだが、一枚の記録映画として、明らかに時代を伝えている。
 もう一つは、兵士の倒れていく描写が、食糧も武器もなく太平洋戦線やビルマ戦線で倒れていった無数の兵士の死に様を連想させる。
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「おい起て。起たんか」頭の所に立つてゐた伍長が怒鳴つた。一人が腕を持つて引き起さうとした。伍長は續け樣に怒鳴つた。倒れた人は起きようとした。俯伏しに延び切つた身體を縮めて一寸腰の所を高くした。然しもう力はなかつた。直ぐたわいなくつぶれて了ふ。二三度其動作を繰り返した。芝居で殺された奴が俯伏しになつた場合よくさう云ふ動作をする。それが一寸不快に自分の頭に映つた。倒れた人は一年志願兵だつた。他の兵隊から見ると脊も低く弱さうだつた。
 「これは駄目だ。物を去つてやれ」と士官が云つた。踏切番人のかみさんが手桶に水をくんで急いで來た。自分はそれ以上見られなかつた。何か狂暴に近い氣持が起つて來た。そして涙が出て來た。
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 志賀直哉の作品は、小さな個人的な経験だとしても、その当時の社会全体を象徴しているようなそうした出来事に逢うことができることを、教えている。むしろ、時代は、大きなことばを掲げることで、色褪せていくのではないか。

 台湾に移り住んでこの秋で十年経ったが、多くの出来事があったにもかからわらず、本当に流れるように過ぎてしまった。いつか見たニュースでは、若い世代と熟年世代では、自分の年齢に対する感覚の違いがあると言っていた。若い世代は実年齢より1、2歳高く、30才以降の熟年世代では次第に実年齢より低くなって50歳代では十歳以上も若く感じているという。
 若いときの経験は濃い。周囲の変化への反応も速い。だから、時間あたりで経験される情報の密度は濃く、実際の時間経過以上の蓄積があってもおかしくはない。一方、三十を過ぎる頃から、新しい経験は受け入れにくくなる。流行の変化にも次第に関心がなくなる。流行と時代の先端を行っていたはずが、後発の世代に中心が移っていく。この頃から「懐メロ」とか「以前は」という気持ちが強くなる。時間に対する同一性が現在ではなく、若いときのまま固定してしまう場合も多いのかもしれない。

 


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