台湾生活-日々のともしび-

台湾と日本を行き来する日本人の目から見た、日本や台湾の日常的できごとへの個人的感想

トロイの木馬─千年の復讐1─

2004-12-01 10:25:29 | 日々におもうこと
 ビデオレンタル店で「トロイ」のDVD版レンタルが始まったので、長男にせがまれて借りてみた。
 長男は、イラク戦争が始まった昨年頃から、「戦争」に興味を持ちだして、そのころ習っていた絵にいつも戦車や軍艦ばかり描くようになった。テレビで毎日のように中継される戦車やヘリコプターあるいは兵士の戦闘の場面が、頭に残っているらしい。去年の春、3月20日開戰してから、イラクの戦いは慢性化し、いつ果てるともしれないが、我が家に入り込んだ「戦争」も、続いている。長男は、第二次大戦や三国志、古代ギリシャやローマの戦争など、歴史上の戦いに興味が移り、関係した本を買ってくれと言ったり、プラモデルが欲しいと言いだして、今年の夏、日本へ帰ったとき、故郷のモデル屋でキングタイガーと雷電の模型を買ってきた。第二次大戦の戰記も何冊か書棚に並んでいる。このところは、毎晩、横山光輝の『三国志』を寝る前に読み聞かせている。通っている小学校の図書室から中国語に翻訳された版を借りてきて読んでいることもある。
 そんなわけで、古代ギリシアやローマの戦闘にも興味を持ち、マイクロソフトのPCゲーム「王国の世紀」や「国家の興亡」などのシリーズを、休みになるとよく遊んでいる。ビデオの「トロイ」もそうして興味を持ったらしい。映画の中に編集ミスで飛行機が写っているという話を聞いて、つまらない映画だろうという先入観を持っていたので、余り借りたくなかったが、せがまれてとうとう借りてしまった。

 私の子供の頃は、そうした戰記にはこと欠かなかった。書店に行けば、太平洋戦争や第二次大戦の戰記シリーズがいくつかの出版社から子度向きに出ていたし、プラモデルのシリーズも多かった。友達がずいぶん凝って、ドイツ軍の三号戦車や四号戦車、シュビームワーゲンなどを買い、当時は有機溶剤の着色料で色を付けていたのを思い出す。兵士の人形も作って、戦車と組み合わせて、ジオラマを作り、写真で撮ったりした。
 私は、軍艦のモデルをいくつか作った。高かったのでそうたくさんは買ってもらえなかったが、ビスマルク、長門、ビクトリー号など、いくつか作り、中でも帆船のビクトリー号は、塗料を買ってきて着色し、糸も自分で張った。
 テレビにも、戦争アニメが、消えることはなかった。小学校5、6年生の頃だろうか。私たちのプラモデルブームに火を付けたものの一つは、「決断」というアニメだったかもしれない。真珠湾攻撃から始まって、その後のいくつかの海戦や硫黄島などの戦いを描いたアニメで、戦場での提督の判断の誤りで、日本軍の軍艦が沈められたりする場面も多かった。作者は誰だったのか、いずれ調べてみたいと思うが、ミッドウエー海戦の話は特に印象に残っている。アメリカ軍の急降下爆撃機が南雲艦隊の空母に襲いかかる場面を、友達と再現して、誰かが「右30度敵機」というと対空放火が始まり、アメリカ軍機役の子が一人二人撃墜される真似をして、今度は、投下した爆弾のつもりで日本の空母役に体当たりして「命中」する、そんなことをして遊んでいた記憶がある。絵の上手だったKは、日本軍の戦闘機の絵などをリアルに描いていた。その後の、中学時代から始まった「宇宙戦艦ヤマト」のシリーズなども、同じ感覚で見ていた。1970年代の頃、日本はオイルショック、ドルショックの真っ只中だったが、私たち子供の世界には、テレビを通じて「戦争」が繰り返し入り込んでいた。もちろんベトナム戦争のニュースも、74年に終わるまで、ずっと、流れていた。

 今、台湾のテレビにも日本のテレビにも、ニュースや映画以外にそうした「戦争」が現れることはもうないだろう。長男の世界に「戦争」を伝えたのは、明らかにニュースだった。しかし、自分の子供時代、戦争を伝えるメディアの第一は、「先生」や親だった。小学校の先生は、自分の子供時代の話をときどきしてくれたが、食べ物がまったくなく校庭を耕して薩摩芋を植えていたという話の他に、こんな話もあった。ある夜、外を見ていると、花火のようなものが海の方から隣の町のほうへ飛んでいく。季節外れだし、最近はもう花火などなかったことなので、きれいだなと思ってみていた。暫くすると、隣り町の方から火の手が上がり、やがて、自分の町の方にこんな話が伝わってきた。「アメリカ軍の駆逐艦が艦砲射撃を始めてI町が火事になった」故郷の静岡県は、第二次大戦末期、遠州灘にアメリカ軍が上陸するという噂があり、こうした小艦艇でのいやがらせのような砲撃はよくあったらしい。小学校の音楽の先生も似た想い出を話していた。また、富士山を目標にサイパン島などの基地から飛来するB29の集合、分離点で、静岡県の上空で、東あるいは西に分かれ、各都市を爆撃した後、再び上空で集合する。あまった爆弾は、通りがかりの街々に適当に落として始末していた。空母から飛来する艦載機の機銃掃射も多かった。父も同じ様な経験を話してくれたが、中学時代の先生の想い出話でそうした様子をきいたことがある。ある朝、中学生だった先生は、勤労奉仕で畑に出かける途中、同級生と二列で歩いていた。そのとき、いきなり艦載機のムスタングの攻撃を受けた。隊列はとっさに身を伏せたが、機関銃の弾が目の前を走っていく。二回か三回、それを繰り返して、ムスタングは飛び去っていった。起きあがってみると、倒れている友人がいた。その背中を見ると小さな穴が開いて、少し血が出ていた。向きを変えてお腹の方を見ると、血の海だった。付き添いの先生が救急箱を持って来て、鋏で服を切ったが、下腹部にはバレーボール大の穴があいていて、もう手の施しようはなかった。「機関砲は弾の回転が強いから、入ったところは小さいが、出るときは何十倍にもなるんだ」。先生はいつもの笑顏でそう話を終えた。中国戦線で下士官で闘っていた保健体育の先生もときどき戦場の話をしてくれた。癖の強い人で、何かと言うと閻魔帳を見せて「チェックするぞ」が口癖だったが、保健の時間は、よく体験談が出た。「日本軍の武器は牛蒡剣と三八銃、擲彈筒、そして、チェッカしかなかったんだ」誰かが「チェッカって何ですか」と聞くと、「チェコ製の機関銃だ。キンキンキンという高い音がするんだ。これをやると中国兵は、すぐに逃げ出すから分隊は助かったんだ」と先生は答えた。しかし、小さなものも含めると四〇〇〇回近い空襲を受けた静岡県には、まともな防空戦闘機は一機もなかったらしい。長男が買った雷電を父に見せると、「話には聞いていたが、そんな飛行機は見たことがない」と一言答えただけだった。「飛行場に並んでいたのは、赤とんぼという練習機だけさ」

 自分の子供時代の「戦争」体験もそうだが、「トロイ」の話も懐かしい想い出の一つだ。小学校の図書館には随分古い破れかけた本もあった。今でも覚えているのは小学校三年生のときだったか、先生が本を読もうと言って図書館から何十冊か本を持ち出してきて廊下に並べ、みなが好きな本を選んで読んだときのことだ。表紙が破れかけて茶色になったH・G・ウエルズの「宇宙戦争」の話があった。SFというものを読んだ最初だったかもしれない。挿し絵がありそれを時間の終わりまで見ていて、先生から早く返せと言われて残念だったのを覚えている。破れた本と言えば、題名も作者も思い出せないが、世界の七不思議を旅行記で紹介した本があった。作者は、世界の七不思議のあとを、旅行しながら、その歴史を紹介していく。「バベルの塔」「ネブカドネザルの空中庭園」「ロードスのアポロン像」「アレキサンドリアの大燈台と王立図書館」など、古代の不思議な世界が紹介されていた。作者は、最後、旅行の途中で行方不明になってしまったと記されていたのも、因縁めいて余計に神秘的な印象を与えた。いったいどういう本だったのか、いずれ突き止めてみたい気がする。図書館には、発掘記のシリーズが何冊かあり、登呂遺跡、北京原人、メソポタミア、エジプト、インカ帝国などの有名な考古学の発見が紹介されていた。そうした本がきっかけで、古代史に興味が湧き、親に買ってもらった本の中には、有名なツタンカーメンの発掘もあったが、古代ギリシアの世界を甦らせたシュリーマンの発掘記「夢を掘り当てた人」、白水社が出していた三冊本のギリシアローマ神話、岩波書店「風あらきトロイア」、アレキサンダー大王の伝記などがあった。仕舞には、子供向きではないが「沈默の世界史」という古代史発掘のシリーズや中央公論社の「世界の歴史」も少しずつ買ってもらった。断片的に読んで、読むのに高校生ぐらいまでかかったが、図版を見るだけでも随分おもしろかった。城塞の見取り図があると、それを真似して、自分の城を紙に書いたりした。今ならPCゲームの「信長の野望」や「三国志」が子供たちに同じような役割を果たしているのかもしれないが、立体性という点では、まだゲームはそこまでいっていない。発掘記をたどるだけで、古代から現代まで読んでいくことができるし、そして、ユーラシア大陸の東西、アメリカ大陸まで、地理的概念もカバーできてしまう。この夏、日本の書店をいくつか見てみたが、子供時代のそうした本はもうほとんど残っておらず、「ファンタジー」や「創作文芸」になってしまっていた。もちろん戰記など跡形もなかった。
 
 シュリーマンによる「トロイ」の発掘は、それまで実在しないと考えられていた古代の世界を甦らせた画期的な発掘だった。ヨーロッパに150年前、古代史ブームを起こし、そして現代に繋がる考古学を生み出したのは、狂人扱いされても諦めず、遂に「トロイ」の故地を見つけだしたシュリーマンの努力によると言っても言い過ぎではない。新しいことを始めるというのは、まさに、彼のような業績を言うのだろう。後世、シュリーマンには様々な批判が浴びせられているが、「トロイ」の発掘がなければ、「神話」が甦ることもなく、古代の失われた世界は、たとえその後に発掘が行なわれたとしても、人のロマンを掻きたてることのない古色蒼然とした「古物」の世界のままだったかもしれない。シュリーマンの伝記にも潤色はいろいろあるだろうが、子供時代に読んだ両親に贈られたギリシア神話のトロイ陥落の挿し絵がその後のトロイ発掘のきっかになったこと、両親を失い天涯孤獨になったシュリーマンが驚異的な外国語習得能力を示して、商人として成功する様子、そして、商売で得た資金を発掘に注ぎ込んで、遂にトロイを見つけだすまでの苦労など、映画にして、見てみたい気がする。「トロイ」にたどり着くまでの足取りも劇的だ。最後に二つの候補地が残ったとき、彼は、ホメロスの「イリアス」の記述を頼りにした。ヘクトールがアキレスと決闘したとき、「イリアス」ではヘクトールは、アキレスに追いかけられて、走ってトロイの城壁の周りを七回回ったと書いてある。シュリーマンは、この記述にしたがって、ヒサリックの丘なら走って回ることができることを確かめ、ここで発掘を続け、ついに、古代ギリシアの以前の世界にたどりついた。神話の記述を徹底的に信頼したのは、魏志から「邪馬臺國」ではなく「邪馬壹國」を発見した古田武彦の方法とも似ている。インターネットでもヒットが多いが、おもしろいのは、浜田耕作(青陵)という戦前の考古学者が、「シュリーマン夫人を憶ふ」という題で、シュリーマン夫人のソフィアの追悼文を残していることだ。氏もシュリーマンの伝記に限り無い夢を持って、20世紀前半の困難な時代に、考古学を目指した人のようである。
 青空文庫「シュリーマン夫人を憶ふ」
 シュリーマンは、子供の頃、両親を失い正規の教育を受けることはできなかった。ギリシア語の教養もそれほどない。それを助けたのは、ギリシアで出会った30才年下のソフィア夫人だった。「トロイ」発見のきっかけとなった「イリアス」をギリシア語で読んでくれたのは、彼女だったのである。シュリーマンは「トロイ」で見つけた黄金の装飾品を、王妃ヘレネに付けるように、彼女に付け写真を撮った。子供の頃読んだ彼の伝記には、その写真が載っていたが、同じ写真を浜田耕作も見て、随筆の中に、記している。

 書いているうちに、長くなってしまったので、ここで一先ず区切りを付けることにするが、ロマンの翼は、一枚の絵や一編の物語から羽ばたくものだというのは、時代も洋の東西も問わないだろう。「ファンタジー」や「創作文芸」もそうしたきっかけになるだろうが、戰記や発掘物語、伝記などドキュメンタリー類も同じ役割を持っていることを、今の作家や編集者、ゲーム作者たちが忘れてしまったのは、何とも残念な気がする。「トロイ」の続きは、また、改めて書くことにしたい。

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