年末に書き加えたあと、続きを書けないままに年を越して、旧正月も明けてしまった。もう新学期だ。十年一日─過ぎゆく時を知るには(前)─
季節は移って、既に今年の春の訪れが、不穏な天候の中にも感じられる。台湾の春を告げる花は、”避寒桜”だ。梅も同じ頃に咲くが、台北周辺では”避寒桜”の開花のほうが目立つ気がする。緋色の山桜のような八重の大ぶりな花を、鉛色にたれ込めた雲から降る冬の雨の中でも、決まったように二月中旬頃に咲かせる。
今年の旧正月最後の日曜、台北市の背後にそびえる大屯山塊(陽明山など多数の山々からできている火山群)の麓にあるある廟へ初詣に出かけた。一月は肌寒い天候が続いたが、二月に入ると、寒もゆるみ、春らしい霞のかかった薄曇りの空が晴れた日には見られた。その日も、やや肌寒いが、寒の中にも春らしいぬくもりと華やぎを感じられる日だった。
斜面の手前を切り開いて石造りの大きな拝殿があり、その奧に蓮霧(レンブ)の畑を隔ててもう一段、多宝塔があって、その周囲が散策できるようになっている。去年の夏、父が急死し神経がジリジリするような不安にさいなまれていた頃、高雄に住む義理の姪の陰陽師をしているご主人が”心を落ち着かせる方法”として、ここにお参りして、木の精霊に助けを求める方法を薦めてくれたのが、思い出された。
まだ寝ている子供たちをおいて、その日曜日の早朝、お供え物を持って、この廟を訪れた。廟の前の駐車場には人影もなかった。階段をゆっくり上がって拝殿前の広場に上がると、背後の深い緑に覆われた山から冷気が下りてくるようだった。中腹に造られたこの廟からは、大屯山塊のゆったりした山裾と台湾東岸に広がる太平洋が望まれる。拝殿では朝の掃除を始めた氏子の女性が床を拭き始めたばかりだった。お供えを前のテーブルに置き、お賽銭箱に喜捨を入れ線香の束を一つ取って、参拝を始めた。
一通りお参りが済むと、今度は、奧の院の多宝塔に向かった。入り口の扉は開いていたが、人影はなかった。ドライブするときそびえているのを下から眺めたことはあるが、ここに入ったのは初めてだった。高い天井の円形の室内には中央に何体かの神像が置かれ、光った床がよく掃除されていることを告げていた。像の前で礼拝し、背後にある階段から、次の階へ登った。円形の階段は薄暗かったが、一段ずつ上がっていくと、二階の窓からは、朝日が軟らかく差し込んでいた。
こうして、上がっていくと、詳しい謂われは知らないが、それぞれの階には一つ一つの世界を表す尊像が安置され、最上階には、天を支配する無極の至尊が置かれていた。まだ、早朝のことで、参拝する人は、なかったが、最上階に上がったとき、一人默然と坐禅する男性の姿が見えた。邪魔しないように静かに礼拝して、陽台へ出て海の方を眺めた。もう9月だったが、夏の日射しは衰えず、烈しい刺すような光が乾燥した山裾の疲労した木々と大地を満たしていた。どこまでも明るい中に、命の喪失を感じるような闇を秘めている、そんな夏の気配がまだ残っている。
一緒に来た家内は、神像の前で礼拝を終えると、「朝はやはり気持ちがいいでしょ」と言いながら、「聞いたお咒いをやってみるから、そろそろ行きましょうか」と誘った。下りていく途中で、来るときはバケツと掃除道具だけが置かれていた3階で、氏子の女性が床を水で拭き浄めていた。「早安」と二人で声をかけると、ゆったりした表情で「早安、阿弥陀仏」と応えてくれた。「阿弥陀仏、平安」と返して、また階段を下り始めた。
もう8時近くなっていたが、まだ、塔の前の広場には参拝に来る人影は見えなかった。多宝塔の傍にある参道へ下り、家内は「いい木を探して」と私に言った。その木に願を掛け、厄をはらう手伝いをしてもらうのだという。私は、道の直ぐ脇から枝が二本にまっすぐ上に分かれて伸びた、勢いのよさそうなやや太い木を選んだ。
拝殿で参拝を済ませ、多宝塔まで来た。拝殿では、下の子が、自分で線香を持ちたいと言って、聞かなかった。もうすぐ3歳の誕生日を迎える。何でも自分でしてみたいらしく、火のついた線香を礼拝のつもりで振り回すので、危ない。上の子は、何本かの線香を手に持って、順番に回っていたが、明日から新学期が来るのが厭らしく、「夏休みはなぜ早く来ない」と不満そうで「疲れる」「疲れる」と言いながら、下の子にかまって、「**は危ないことして、バカだ、バカ、バカ」と八つ当たりをしていた。
多宝塔は、夏と同じように、よく手入れされ清潔にたたずんでいた。見上げると、背後の山が霞でけぶり、湿気を含んだ重い大気の中に新春を告げる花が咲き始めていた。新年の参拝客が次々に訪れ、上へ上がっていった。前の広場で、海と山裾を背景に家族の写真を撮った。
今度は子供たちの手を引いて、一階一階上がっていった。上の子が神像を見て、「これは何の神様?」と聞いた。家内が「人の心の善悪を教える神様だよ」ともっともらしく説明した。三国志に興味のある上の子は、「関羽とどこが違う?」とさらに尋ねた。「関羽は義を人々に教えてくれる神様だ。ここの神様は人の心に住んでいる悪を教えて、善を行うように教えてくれるよ」彼は、納得したように、像の前で手を合わせ、頭を下げた。下の子も、ニコニコしながら、同じように「パイパイ(拝拝)」と言いながら、手を合わせた。
最上階では、家族で暫く坐禅をした。上の子は「なぜこんなことをする?」と聞いたが、「こうして心を静めて集中力をつけるんだ。仕事や勉強では集中力が大事だろう?」と言うと、「そうか」と言って、家内に倣って床に腰をおろし、胡座をかいて目を閉じた。下の子もとなりで、まじめな顔で、正座を始めた。私も、海側へ開いた扉のほうへ顔を向けて、ひんやりとした床に腰を下ろし、胡座をかいた。
父の死以来、家族の中にいろいろな感情の軋みが起こった。「どうにもならないことをどうにかできる」と思う錯覚が、結局、いままで表に出なかった軋轢を、表に出してきた。父が多くを語らず、黙って引き受けてきたのは、それが解決しようのない感情の問題だったからかも知れない。最近になって、少しだけ、父の気持ちが分かってきた気がした。
私の手相を見た人が、”親子の縁が薄い”と言ったのが気にかかっていた。台湾に来てからの十年の月日は、確かに、「自分のための選択」であって「父母のためにした選択」ではなかった。故郷に帰る「縁」をえられないまま、こうして、外国で、家族を得、希望する仕事の場も得た。こうした10年を棄てて、他に何ができるだろうか。
「もう他の場所を選びようがない」ことを母に言い、家内に「いずれ起こることに目を背けないように」言った。
私の中では、姪のご主人に教えてもらった咒いは、だんだん効いてきたのかもしれない。なるべく事実をごまかさず、感情の行き違いもありのままに言うことにして、半年たった今、何が問題か見えなかったものが何とか峠を越えたように思われた。
窓からは、春先の湿った、ただまだ冷たい外気が流れ込んできた。時の流れは、こうして少しずつ人を変え、私に具体的な場を与えてくれた。共に時の流れを過ごし得る人を得たことは、ほんの一時かも知れないが、かけがえのない出逢いである。家族もまた同じだ。いつまでも続く縁ではないからこそ、「その時」を生かさなくてはならないのだろう。
下の子が手を引いて「行く」と言った。「じゃあ、そろそろ」と声を掛けて、立ち上がった。上の子は、駈け降りるのが面白くなったらしく、先に下りていった。
多宝塔脇の参道には、花見をかねた参拝客が増えていた。道の脇に止められた車の間から、夏に願を掛けた木が見えた。名は知らないが冬でも葉を落としていなかった。一言、「何とかなりそうだ。あなたも頑張れ」と心の中で声を掛けて、椿の並木の前で家内の写真を撮った。子供たちは、シーソーに乗って、遊び始めた。
斜面に植えられた避寒桜の花は、もう一杯に咲き誇っていた。
季節は移って、既に今年の春の訪れが、不穏な天候の中にも感じられる。台湾の春を告げる花は、”避寒桜”だ。梅も同じ頃に咲くが、台北周辺では”避寒桜”の開花のほうが目立つ気がする。緋色の山桜のような八重の大ぶりな花を、鉛色にたれ込めた雲から降る冬の雨の中でも、決まったように二月中旬頃に咲かせる。
今年の旧正月最後の日曜、台北市の背後にそびえる大屯山塊(陽明山など多数の山々からできている火山群)の麓にあるある廟へ初詣に出かけた。一月は肌寒い天候が続いたが、二月に入ると、寒もゆるみ、春らしい霞のかかった薄曇りの空が晴れた日には見られた。その日も、やや肌寒いが、寒の中にも春らしいぬくもりと華やぎを感じられる日だった。
斜面の手前を切り開いて石造りの大きな拝殿があり、その奧に蓮霧(レンブ)の畑を隔ててもう一段、多宝塔があって、その周囲が散策できるようになっている。去年の夏、父が急死し神経がジリジリするような不安にさいなまれていた頃、高雄に住む義理の姪の陰陽師をしているご主人が”心を落ち着かせる方法”として、ここにお参りして、木の精霊に助けを求める方法を薦めてくれたのが、思い出された。
まだ寝ている子供たちをおいて、その日曜日の早朝、お供え物を持って、この廟を訪れた。廟の前の駐車場には人影もなかった。階段をゆっくり上がって拝殿前の広場に上がると、背後の深い緑に覆われた山から冷気が下りてくるようだった。中腹に造られたこの廟からは、大屯山塊のゆったりした山裾と台湾東岸に広がる太平洋が望まれる。拝殿では朝の掃除を始めた氏子の女性が床を拭き始めたばかりだった。お供えを前のテーブルに置き、お賽銭箱に喜捨を入れ線香の束を一つ取って、参拝を始めた。
一通りお参りが済むと、今度は、奧の院の多宝塔に向かった。入り口の扉は開いていたが、人影はなかった。ドライブするときそびえているのを下から眺めたことはあるが、ここに入ったのは初めてだった。高い天井の円形の室内には中央に何体かの神像が置かれ、光った床がよく掃除されていることを告げていた。像の前で礼拝し、背後にある階段から、次の階へ登った。円形の階段は薄暗かったが、一段ずつ上がっていくと、二階の窓からは、朝日が軟らかく差し込んでいた。
こうして、上がっていくと、詳しい謂われは知らないが、それぞれの階には一つ一つの世界を表す尊像が安置され、最上階には、天を支配する無極の至尊が置かれていた。まだ、早朝のことで、参拝する人は、なかったが、最上階に上がったとき、一人默然と坐禅する男性の姿が見えた。邪魔しないように静かに礼拝して、陽台へ出て海の方を眺めた。もう9月だったが、夏の日射しは衰えず、烈しい刺すような光が乾燥した山裾の疲労した木々と大地を満たしていた。どこまでも明るい中に、命の喪失を感じるような闇を秘めている、そんな夏の気配がまだ残っている。
一緒に来た家内は、神像の前で礼拝を終えると、「朝はやはり気持ちがいいでしょ」と言いながら、「聞いたお咒いをやってみるから、そろそろ行きましょうか」と誘った。下りていく途中で、来るときはバケツと掃除道具だけが置かれていた3階で、氏子の女性が床を水で拭き浄めていた。「早安」と二人で声をかけると、ゆったりした表情で「早安、阿弥陀仏」と応えてくれた。「阿弥陀仏、平安」と返して、また階段を下り始めた。
もう8時近くなっていたが、まだ、塔の前の広場には参拝に来る人影は見えなかった。多宝塔の傍にある参道へ下り、家内は「いい木を探して」と私に言った。その木に願を掛け、厄をはらう手伝いをしてもらうのだという。私は、道の直ぐ脇から枝が二本にまっすぐ上に分かれて伸びた、勢いのよさそうなやや太い木を選んだ。
拝殿で参拝を済ませ、多宝塔まで来た。拝殿では、下の子が、自分で線香を持ちたいと言って、聞かなかった。もうすぐ3歳の誕生日を迎える。何でも自分でしてみたいらしく、火のついた線香を礼拝のつもりで振り回すので、危ない。上の子は、何本かの線香を手に持って、順番に回っていたが、明日から新学期が来るのが厭らしく、「夏休みはなぜ早く来ない」と不満そうで「疲れる」「疲れる」と言いながら、下の子にかまって、「**は危ないことして、バカだ、バカ、バカ」と八つ当たりをしていた。
多宝塔は、夏と同じように、よく手入れされ清潔にたたずんでいた。見上げると、背後の山が霞でけぶり、湿気を含んだ重い大気の中に新春を告げる花が咲き始めていた。新年の参拝客が次々に訪れ、上へ上がっていった。前の広場で、海と山裾を背景に家族の写真を撮った。
今度は子供たちの手を引いて、一階一階上がっていった。上の子が神像を見て、「これは何の神様?」と聞いた。家内が「人の心の善悪を教える神様だよ」ともっともらしく説明した。三国志に興味のある上の子は、「関羽とどこが違う?」とさらに尋ねた。「関羽は義を人々に教えてくれる神様だ。ここの神様は人の心に住んでいる悪を教えて、善を行うように教えてくれるよ」彼は、納得したように、像の前で手を合わせ、頭を下げた。下の子も、ニコニコしながら、同じように「パイパイ(拝拝)」と言いながら、手を合わせた。
最上階では、家族で暫く坐禅をした。上の子は「なぜこんなことをする?」と聞いたが、「こうして心を静めて集中力をつけるんだ。仕事や勉強では集中力が大事だろう?」と言うと、「そうか」と言って、家内に倣って床に腰をおろし、胡座をかいて目を閉じた。下の子もとなりで、まじめな顔で、正座を始めた。私も、海側へ開いた扉のほうへ顔を向けて、ひんやりとした床に腰を下ろし、胡座をかいた。
父の死以来、家族の中にいろいろな感情の軋みが起こった。「どうにもならないことをどうにかできる」と思う錯覚が、結局、いままで表に出なかった軋轢を、表に出してきた。父が多くを語らず、黙って引き受けてきたのは、それが解決しようのない感情の問題だったからかも知れない。最近になって、少しだけ、父の気持ちが分かってきた気がした。
私の手相を見た人が、”親子の縁が薄い”と言ったのが気にかかっていた。台湾に来てからの十年の月日は、確かに、「自分のための選択」であって「父母のためにした選択」ではなかった。故郷に帰る「縁」をえられないまま、こうして、外国で、家族を得、希望する仕事の場も得た。こうした10年を棄てて、他に何ができるだろうか。
「もう他の場所を選びようがない」ことを母に言い、家内に「いずれ起こることに目を背けないように」言った。
私の中では、姪のご主人に教えてもらった咒いは、だんだん効いてきたのかもしれない。なるべく事実をごまかさず、感情の行き違いもありのままに言うことにして、半年たった今、何が問題か見えなかったものが何とか峠を越えたように思われた。
窓からは、春先の湿った、ただまだ冷たい外気が流れ込んできた。時の流れは、こうして少しずつ人を変え、私に具体的な場を与えてくれた。共に時の流れを過ごし得る人を得たことは、ほんの一時かも知れないが、かけがえのない出逢いである。家族もまた同じだ。いつまでも続く縁ではないからこそ、「その時」を生かさなくてはならないのだろう。
下の子が手を引いて「行く」と言った。「じゃあ、そろそろ」と声を掛けて、立ち上がった。上の子は、駈け降りるのが面白くなったらしく、先に下りていった。
多宝塔脇の参道には、花見をかねた参拝客が増えていた。道の脇に止められた車の間から、夏に願を掛けた木が見えた。名は知らないが冬でも葉を落としていなかった。一言、「何とかなりそうだ。あなたも頑張れ」と心の中で声を掛けて、椿の並木の前で家内の写真を撮った。子供たちは、シーソーに乗って、遊び始めた。
斜面に植えられた避寒桜の花は、もう一杯に咲き誇っていた。