かみさまのデザイン~それぞれらしく~

セッションを通じて、皆さんのそれぞれらしさを元気にしていきます☆

スズちゃん、ありがとう。

2017-11-07 22:52:32 | 日記
あの、カラスから救けられて
子供さんが連れてきた
スズメのコは元気?

と、聞いてくださる方が
結構いて下さいます。

身近な人には話していたのですが、
なかなかここに書けるまで気持ちが調いませんでしたが、
やっと書けそうです。

いつもよりも少し(かなり?)
重いトーンになるかもしれませんが、
良ければお付き合いください。

スズメのコ、スズちゃん(とベタな名前で呼んでました。)は、
その後、自分でエサもしっかり食べられるようになり
(しばらくは3時間おきくらいに、仕事の合間に帰ってきて
擦り餌を口に入れてあげてました。)
羽も生えそろい、とても私たちに馴れてくれて、
名前を呼ぶと飛んできて
肩にとまってくれるほどになっていました。

でも、7月の初め、子供のちょっとした不注意から
大きな怪我をしてしまい、
生きているのが不思議なくらいの状態で2日頑張って、
亡くなりました。

子供とわたしで介抱させてもらった
その2日間はかなり辛かったですが、
子供にもわたしにも本当に大事な時間だったと
感じています。

子供は自分の不注意から招いたことで、
本当に一層辛かったと思いますが、
生命について彼なりに
色々と感じ、考える機会になったと思います。

その後の彼の生き物たちへの姿勢が変わったのを
肌で感じます。

大きな体験をさせてもらったと思います。

わたしにとっても、
とてもとても辛かったですが、
とても大事な時間になりました。

最期のその時間だけではなく、
スズちゃんが我が家に来てから、
わたしにプレゼントしてくれたもの。
それは本当にかけがえのないものです。
そのことをシェアさせてください。

まず、ひとつめの大きなプレゼントは
わたしは子供の頃から、
いきものたちを育てること、一緒に過ごすことが大好きで、
そのことが、自分のとても深いところを
こんなにもあたためてくれるような、
そんな静かで、とても深い喜びを連れてきてくれることを
実感として思い出させてくれました。

そして、実際にそのように
深いところからあたたまるような、
そんな優しい時間を過ごさせてくれました。

子供の頃に感じていたこと、そして、
わたしの心の根底にこっそりとあり続けていたであろう感覚として
もう1つリアルに久しぶりに実感したことがあります。

スズちゃんが死んでしまったとき、

あんなに大事に、心の底から可愛がったのに、
そして、とても仲良くなれていたのに、
こんな風に死んで居なくなってしまう。
もう会えなくなってしまう。
さっきまでここに居たのに…。

どんなに大事にしても、可愛がっても、仲良くなっても、
死ぬ ということがそんな大切なこと全てを奪っていってしまう。

死には勝てない。

それが、本当に悲しくて、虚しくて、悔しい。

大事に世話していた大好きな虫たちや、
インコや文鳥、相棒だった犬のジョンも、
みんな死んで居なくなってしまう。

可愛がれば、可愛がった分だけ辛い…。

幼い頃からわたしのこころの奥底にあり続けたであろう、
こんな思いがとても激しく
息を吹き返したように湧き起こってきました。

大人のわたしは、もちろん日々を
そんな風に思って過ごして居たわけでも、
そのような思いに悩んだりしていたわけではありませんでしたが、
その思いが、ものすごい勢いで、
普段は厳重に重石を置いて開かないようにしているフタを
一瞬で吹き飛ばてして噴出してきました。

そうなると、知らないフリも、
その問題はすでに片付いている、大丈夫…
という逃げ方もできません。

子供のころのわたしが太刀打ちできなくて、
フタをしたのであろうこの思いとの折り合いを、
今のわたしとして向き合う時がきたのです。

また、死が、
わたしの大事にしていたコを連れて行ってしまった。

あんなに大事に大事に可愛がって、仲良くなったのに。
あんなにあたたかくて幸せだったのに。
それらが全部、無くなってしまった。

こうやって結局は死が全部奪っていってしまう。
そう、結局は。

そして、可愛いがれば可愛いがるほど、
大事にすればするほど、
死が全てを奪っていくときの辛さが増す。

可愛がっても辛さが増すだけ。
大事にしても死には勝てない。

虚しい。

…と、そのあたりを
ぐるぐる、ぐるぐると、
スズちゃんを失った悲しさに打ちひしがれ、
頭を抱えながら相当彷徨った感じがしました。

悲しい、悲しい、悲しい、
虚しい、虚しい、虚しい、
悔しい、悔しい、悔しい…

真っ暗な井戸の中でどんどんすべてが冷えていく感じ。
もう、ここまでは光なんて届かないだろうし…もう、別にそれでもいい。

そうして、そこでうずくまる感じで抵抗せずに諦めて
ただただ落ち込んでいました。
感覚的にはそのままだいぶ経ちました。

すると、ふと
こんな言葉が自分の中から聞こえてきました。

本当に何も無くなってしまうの?
死んでしまうと?

あんなに可愛いと、愛おしいと、
感じたあの気持ちは?

呼ぶと肩にとまってくれて、
スズちゃんと気持ちが通ったと感じた
あの嬉しい感覚は?

あのあたたかい気持ち、幸せな気持ちは?
無くなったの?

…ある。

確実にわたしのなかにある。
無くなってなんかない。

スズちゃんの身体は動かなくなってしまったけれど、
何もかもが無くなったなんてことはない。

死は、わたしのなかにあるスズちゃんからもらった
たくさんのあのあたたかい感覚を奪うことはできない。

確かにある、今もある。

死が連れ去るものもあるけれど、
大事なものは確かにここにある。

いつか死がやってきて、
動いていたものが動かなくなっても、
目の前から居なくなっても、
大事にしていたということ、
可愛がっていたということ、
愛おしくて仕方ない気持ち、
そこで育まれていた行き交う愛情は変わらず本当。

だから、
可愛がることも、大事にすることも、仲良くすることも、
死で終わりだから虚しいということではない。

死は死だ。
愛おしむは愛おしむだ。

本当に大事なものは
死によって奪われない。

もう、死によってやってくる終わりの辛さを避けるために
愛おしむことに制限をかけなくていい。

安心して、存分に愛おしめばいい。

思いがそこまで変化してきたとき、
一気に暗い井戸の中に光が差してきた感じがしました。

もう、大丈夫。

子供の頃から気づかないくらい深いところに
フタをして閉じ込めていたものは、
きっと静かに、でも、しつこく、
わたしの人生の中のいろんなところから
ジワジワとチカラを奪い続けてきていたと思います。

でも、もう、大丈夫。

ここからは全力で愛おしむことが出来る、
きっと。

スズちゃんが、生命をはって
届けてくれたチャンスを活かすことが出来たと思います。

そこから得たものは、
大きすぎるくらい大きなプレゼントでした。

どう考えても復活は難しいとわかるような状態の
スズちゃんの介抱をはじめてから、
スマホの待受にひていたスズちゃんの写真が辛くて
他の写真に変えてしまっていました。

でも、スズちゃんが亡くなってほどなく、
この思いに至った後、
すぐにまた待受はスズちゃんの写真に戻しました。

写真のスズちゃんを見ると、
悲しいよりもまさる
“愛おしい”
が溢れてきます。

スズちゃん、ありがとう。

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