かみさまのデザイン~それぞれらしく~

セッションを通じて、皆さんのそれぞれらしさを元気にしていきます☆

運転って瞑想!?

2019-06-30 12:12:06 | 日記
とっても楽しかった教習所も
あとほんの少しでお終いとなりました。

路上教習中も、教官は出来るだけ指示を出さず、
危なかったり特に注意しなきゃいけないことだけアドバイスくださり、
大方を自分で状況把握して判断しなくてはいけなくなってきました。

そうなってきて、ハッキリと感じ始めたことがありました。

運転すると、今は慣れてないから緊張するということも大きいと思うのですが、
短時間ても結構、疲れる。(あ、これは最初っから感じてました。笑)

でも、これが、わたしには心地よくも感じる…
特にアタマや気持ちがスッキリする感じがするのだと、
ある日の教習所帰りに気が付いたのでした。

かなり神経も使ってるハズなのになぜ?

まだ免許も取れていない練習中の身なので余計に…だとおもうのですが、
運転中は脳、アタマの使い方がいつもと全く違う!
のだということに気づきました。

目の前の(出来るだけ広い範囲の)
現実の状況把握に集中、
直後を予測、
どう動くか判断して動作する…の連続。

“今ここ”の現実ではないことに思いを馳せたり、
読み取ったり分析したり、
深めたりしている隙は無い。

もちろん運転でも“考える”という作業は必要なのだけれど、
“作業”と表現したくなるような種類のもの。

そこで、ふと思ったのが

『運転って、瞑想!』

余計なことを考え(られ)ない時間。
(ある意味、命懸けで雑念を払らわないといけないという!笑)

わたしはこれまでに、
興味と仕事柄ということ両方で
いくつかの瞑想を体験したことがあるのですが、
静かに座って…の瞑想はどうもニガテ。笑

わたしの勝手な持論なのですが、
瞑想って、超シンプルに言うと要は
いらんこと考えないで今に居る
ってことが出来ればバッチリで、
完全には無理でも出来るだけ
普段あっちやこっちに散ったり、
つい考え続けてしまう雑念を払えればいいと捉えていて、
じっと座るという方法ではなく自己流で、
目の数を真剣に数えながら黙々と編むあみぐるみや、
目の前のものを観察してそれを出来るだけありのままに描くデッサンなど
で瞑想で得られるものを得てきたように思います。

ここに来て、もうひとつ
楽しい瞑想が加わった♪

運転が瞑想!!

瞑想とまでいかなくても、
普段(きっととても偏って)使っている脳のある部位
そこ以外の脳の部位を集中的に使うことで
きっとバランスが取れてアタマや気持ちがスッキリ
するのではないかなと。

教習所に通い始めてから
アタマや気持ちだけではなく
起きることまでよりスムーズな流れに
乗ってく感じもしていまして♪
…新たな楽しみに出会えただけでもありがたいのに
ありがたいことこの上なし!

普段と違う脳の使い方をしてバランスを取ることって
実はとても大事な流れを良くする方法なのではないのかなと
そんなことも実感しているのでありました。

瞑想、脳、うんぬん書きましたが、
ややこしいこと抜きに、
わたしにとっては今回は運転でしたが、
たまに普段あまりしてないことで、且つ、楽しいと感じることをすると
思ってるよりも自分のいろんなバランスがとれて、
いいことが起きてきやすいかもしれません。

さてさて、あと一週間ほどで教習所卒業して
いよいよ免許センターに試験を受けにいくことになります。

教習所、最後まで楽しみ尽くしたいです♪

運転免許!

2019-06-20 22:32:52 | 日記
いきなりですが…

生誕50周年⭐︎が照準に入り出した今、
教習所に通い始めました!

初めて自分の握るハンドルで
車がスーッと動き出した瞬間の
なんとも言えないドキドキと感動はきっと忘れない…
と言いたいですが(他のことで更新されたら忘れそう…自信が無い。笑)
忘れないでいたいなぁと思うような嬉しさでした。

最初はさすがに車体の感覚と
自分の身体の感覚がシンクロしていかず、
怖さを感じましたが、
今はそのシンクロしきっていない独特の感覚さえもひっくるめて、
運転の練習が楽しくて仕方ありません♪

まだ通い始めて半月あまり…
2週間で仮免許をいただき、
現在、路上に数回出たくらいですが、
運転にハマりそうな予感はかなり強いです✨
(ドハマりしそうと言った方がいいかも。笑)

ちなみに、なぜここに来て運転免許を?
のいきさつは大したこと無いので
機会があればまた後日。

それよりも今、シェアさせてもらいたいのは、
きっと今しか感じられない自動車というものを運転し始めて感じる新鮮な感覚。

この歳になってだからこそ?
わたしという個性だからこそ?
の、今しか感じられないであろう感覚や
思いのシェアにお付き合いいただければと。

まずは、
車を運転することで参加出来る社会
という存在があるんだなということを実感しましたというお話。

もちろん普段生活している街、
そして、車に同乗させてもらって、
普段行き来している街ではあるのですが、
自ら車を運転して入っていく街には、
その場合特有のルールと特有のコミュニケーション
があるんだと実感して、
あ、同じ場所だけど違う街、社会があるんだと感じたのでした。

特有のコミュニケーションと書きましたが、
車の運転って、運転者同士のノンバーバルコミュニケーション、
言葉によらないコミュニケーションでもあるなんだなと。

その合図や動きから、

あ、先行かれます?

入れてくれはるんですか、どうも♪

遅すぎ?イライラしてはります?ごめんなさい!

などなど。

そういうこともあって、車に乗って街に出ると、
その街は普段の自分が生活する馴染みの街だけれど、
ある意味いつもの街ではない、
“車コミュニケーションの場”という
新たに存在する世界、
そんな風に感じました。

その“車コミュニケーションの場という社会”は
普段生活する場よりも、
自己責任というものを実感したり問われたりすることに近い距離で囲まれている分、
逆にその責任を果たしていると実感出来ることもしばしばあったりして、
そういうことが、これまで自分自身の癒しや
セッションという仕事の中でも随分関わってきた
“自己肯定感(自信)”というものも、
もしかしたらこの車コミュニケーションという世界において、
普段の自分とは別に独立したものとして存在するのかも…とも。

もしかすると、こういうことが、

『車を運転すると人格変わるんだよね…』

なんてことにも影響してるのかも。

そして、最近問題になっている、高齢者の免許返納問題も、
この車コミュニケーションという社会で
自分自身の存在を強く感じていたり、
自己肯定感を強く支えたりしている場合、
免許を返納するということは、
単に不便になるとか、運転の楽しみを奪われるとかの問題ではなく、
自己肯定感や居場所を奪われる、
もっというと自分の存在がとても薄くなってしまうような、
そんな不安、哀しさ、寂しさが湧いてくるのかもしれないなと。

わたしの身近にも、
きっと数年のうちに返納を真剣に検討しないといけない家族が居ますが、
その際、すんなり決心出来ないだろうなと容易に想像が付きます。
(性格を知っているので。苦笑)
その時にこういう感覚も作用してるかもな…と思い出せたらと思います。

ちょっと運転したくらいで、えらく語ってしまってますが…笑

そのくらい、わたしにとって、
車を自ら運転して街に出るということが、
『また新しい世界の扉が開いたかも✨』
という、嬉しい種類のものでしたが、
ガツンとやられるくらい、
とても強いインパクトあることだったんだと思います。

交通社会という自分にとって新しい社会に入っていく、
ごく一般的な“自動車”という新しいスーツを着ただけで、
こんなに興奮するんだから、
トニー・スタークがアイアンマンのスーツを着て
初めて宙に浮いた時、どれほどの興奮だったんだろう…。

そんな想像が浮かんでくるくらい
今のわたしには色んな意味で、
ごく普通の“自動車”が
アイアンマンのスーツくらいに感じてるということかもしれません。笑

さてさて、まるでもう街中を自在に運転してるかのような
そんな語りっぷりでしたが、正式に免許いただけるまでは、
まだまだ先があります!

しばらくはその過程で、
感じること、思うことなどを
またシェアさせてもらいたいと思います♪