泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡

2008-10-25 21:10:45 | 
 世界にたったひとつ。
 誰だってそうなのですが、ピカソの作品に触れると、こんなものを作ったのは彼しかいない、これぞピカソ、という事実に打たれます。
 といっても、彼は彼だけで彼になったわけではなかった。先人の画家の影響もありますが、大きかったのは覚えられないくらい登場する女性たち。彼女たちがいなかったら、彼を愛さなかったら、膨大な、力強い作品群も生まれなかった。
 青の時代から薔薇の時代へ、さらにキュビズム、シュルレアリスム、彫刻、晩年のおおらかな母子像、海。彼はできるからこそ変化したのでしょう。それはあくなき追求の歴史でもありました。何が芸術なのか、彼にとって、人間にとって、何が優れた作品なのか。粉々に分析された絵は、物事の根源を突き詰めようとする現れだったのでしょう。それは量子力学にも通じるものなのかもしれない。
 戦争にも影響されました。『ゲルニカ』は有名ですが、『朝鮮の虐殺』という絵も描いてました。右側にピストルや銃を突きつけた、鎧に覆われた男たち。左側に驚き、抱きつく裸の子供、泣きながら子供を抱きしめる母親。痛みが、むごたらしさが、虚無が体を走りました。
 笑ってしまうほど大きな鼻を持った女の頭部や、手足がむくんだように大きい女、さらにジッパーのような口など、思わず笑ってしまう、あまりに単純化された作品もありました。笑ってしまうほどにおかしかった。おかしいのは、まったく想像を超えているから。見たことないから。僕とは違っているから。だから笑いながらも見入ってしまう。なにか新鮮な風が、頭に吹く感じがする。
 『泉』という、白黒の大画面の絵がありました。目鼻立ちのはっきりした女性、太すぎる足、おなかに抱えているのは水瓶で、右下から中の液体がこぼれている。永遠に流れるような。女は川辺に横たわっている。液体と川には区別が見えない。それがピカソにとっての創造の泉だったのでしょうか。付き合ったどの女性にも似ていない(ように見えた)。目がきりっとして、ピカソのそれと似ている。漱石の『夢十夜』にも、妻とはまったく似ていない理想の女性(それがもとでよくけんかしたとか)が書かれています。母なるもの、ミューズ、生命の源、その象徴なのでしょうか。今回、一番見入った作品でした。
 ピカソはいつでも真剣。笑っている写真を見たことがない。ぎろっと目をむいて、にらんでいるようにも見える。とことん追求する。満足したことなんかないのではないでしょうか。残された膨大な作品を順に追って観ていくと、変遷が垣間見えておもしろいのですが、ピカソの中にあるなにかは恐ろしくもある。それは彼自身も描いている。ミノタウルス(頭が牛、体が人)という怪物として、闘牛士として。エロス(生の欲動)もタナトス(死の欲動)もしっかり見て、耐えてきた。作品で昇華してきた。その生命力の強さを感じないわけにはいきません。
 一つの線にしても、これしかない!と感じるのです。だからよくわからなくても、心では納得している。頭も刺激を受ける。
 元気になりました。
 真剣さを含んだおおらかさ、包み込むような生命力、そしてたったひとつの輝き、ピカソが、もちろん天才ではあるけれど、何度も観てしまう、価値がある理由でした。
 帰りには、上野公園に立ち寄りました。お目当てだった芸人も、そうでない芸人も、精一杯の表現をしていた。芸術は重労働であり、誰かのための代理でもあるんだと思った。思わず拍手してしまう、にっこり頬がゆるむ、気持ちがほっこりする、それだけですごいことです。能動的な、また後天的な、だから人間的な仕事。
 たくさんの人、いい仕事が僕の中に入りました。
 そして、僕も。
 できることを、できるだけ、出力していく。そうやって機能していく、つながっていく。
 僕に取り入れたいものがなければ、僕が出したいものも生まれない。
 相互性、それぞれの仕事、というものを感じています。

国立新美術館にて/12月14日まで

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