泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

運命の足音

2007-08-30 15:52:07 | 読書
 ある人への信頼がもとで、この本を読むようになりました。
 書かれている内容は、著者自身の経験がすべて。見方によっては、とても暗く、ネガティブ。なのに読後がさわやかなのは、彼が受容しているからなのではないでしょうか。「寛容」を、実体験しているからなのではないでしょうか。
 母の死の記憶が、僕にも突き刺さる。50年以上、ずっと言えないできた。それを書いたのは、母の「いいのよ」という声が聞こえたからだという。
「いいのよ」「もう、いいのよ」
 母は、終戦の年、朝鮮で亡くなっている。
 小さな悪人として、生き延びてきた彼。うしろめたさを背負いながら。
 すべては運命。私の思うままにならないこと。

 いつだったか、『大河の一滴』という映画を観て、ひどく落胆したことがありました。劇的な事件も、涙を誘うような演技も、目を引くような意外性も、構成も台詞もない。淡々と、ちっぽけなまま、流されていく。つまらん。不満だ。人間には意志があるじゃないか。若い僕は、そう感じたものでした。
 しかし、五木さんの体験を聴くと、私が生まれたのも、引揚者になったのも、歌を作るようになったのも、小説家になったことも、とても自力ではないことだとわかる。運命としか、言いようがない。
 かつての僕が見逃していたのは、そこから始まる一歩でした。五木さんは、だからこそ「運命の足音」を聴こうとする。見えないものを見ようとする。未知のものを、違うものを信頼する。その姿は、悲観的、ニヒリズムに見えて、実はものすごく能動的で、自発的なものでした。

 「宗教はブレーキ」と言う彼の考えには、はっとしました。そして、あるカウンセラーに言われた言葉を思い出しました。「新幹線があんなにスピードを出せるようになったのは、ブレーキの性能がよくなったからだ」
 僕が持続的に書けるようになったのも、ブレーキを整えたからなのかもしれません。書くことは、前からしていたし、できた。幼稚園前から。書きたくもあった。そのために一人暮らしを始めて、書くだけ書いて、見事に壊れた。歯止めが利かなかったのです。危険なところで止まれなかったのです。カーブで減速できなかった。常にフルスピード。そして、他人のほうが早くて上手に見えるのですから、事故って当然。
 そんな僕にとってのブレーキとは、なにより他者との、自分以外のものとの語り合いでした。理解し、理解してもらうことでした。自分以外のもの、それはわからないものです。見えないものです。そこに踏み込むためには、相手の根幹を信頼することがまずいる。聴こうと、見ようとする、他のものへの献身がいる。私を捨てる必要がある。私から見て、他からの施しを他力と呼ぶのなら、僕にもわかる。やっとわかる。五木さんの言いたいことが。

 「ありがとう」「おかげさま」と、今の僕は使うことができます。ほんとにそうだから。決して自分ひとりでは生きていないし、存在すらできないから。

 それにしても不思議です。あの「いいのよ」は、どこから来たのでしょうか?
 いや、大事なのは、その声を、五木さんが聴いた、聴けたということなのでしょう。傲慢になってしまった人間には、決して気づけない、かすかな、とても大切な声。
 基本的に、このブログの意図していることも、そんな声を拾い、言語化して自分のものにしていくことにあります。そして、それこそ僕のよりどころとなるもの。僕を作るもの、アイデンティティーとなるものたちの集まり。
 この営みが、純粋であればあるほど、読者は読者自身を覚醒し、その人となってゆける。
 それが僕なりの能動性であり、生きることであり、差し出すことであり、「運命の足音」を聴き続けることだと思うのです。

 「運命」とは、「運ばれてきた命」。
 星々のまたたき、大地の揺らめき、人々の肉声、獣たちの血、海のざわめき、鳥たちの大冒険、草花のうた・・・ その果ての、私。

五木寛之著/幻冬舎文庫/2003

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