泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

魂(アニマ)への態度

2008-09-19 12:15:52 | 読書
 発売当初、三大新聞すべてに書評が載るほど、この本は絶賛されていました。
 たまには哲学を、という気持ちがあるので、タイトルにも引かれて買いました。
 しかし・・・。
 ちゃんと今の自分と向き合わなければいけませんね。勢いだけで本を買ってしまうことはよくある。でも、それがほんとに自分の欲しているものなのか、必要なのか、見極めなければいけません。結局は本を、自分をも粗末に扱うことになります。
 というような感想が始めにきてしまったのは、内容が、う~ん、という感じだったからです。知らない人たちがたくさん出てくる。エプクテトス、クリュシッポス、ポセイドニオス、プロティヌス、その他その他。図でもあればいいのに。聴きなれない言葉も。哲学初心者にとっては配慮が足りないのではと思った。お世話になった先生たちもたくさん出てきますが、そんなの読者には関係ない。大学内での内輪の話、という感じもしてしまった。
 ソクラテスやアリストテレス、プラトン、アウグスティヌス、セネカ、カント、ニーチェ、フーコー、ハイデッガー、名前だけは知っている人たちも登場します。彼らの(不思議なことに男ばかり)思索が、いかに先人たちの影響を受けてきたのか、誤読が創造と結びつき、止揚(多岐の考えが一つにまとめられること)されてきたか、というのはわかりました。温故知新。それはほんとにそうだと思った。読んでいなければ書けない、書く資格もないということです。
 投げ出そうか、いやもうちょっと、ああやっぱりもうだめ、いやいや買ったんだから、そんな本文とは離れたところで(入れないので)戦いました。なんとか読み終えました。
 哲学と詩とは、ずいぶん昔から抗争があったとか。哲学は感情に触れない。気持ちに入らない。それを嫌っているようでもあります。周到に避けているようにも感じる。感情や魂を、いくら論理で説明されてもぴんと来ない。腑に落ちない。
 特に今は詩を書いているからでしょうか。だからなに?と思わざるをえなかった。知的な興奮は得られるのでしょう。でも、なんだか、消化不良です。
 説明することに、僕はあまり興味を持てない。だから論文も書けなかった(卒論は、なんとか)。そのものを提示したい、一緒に体験したい、入りたい、生身に触れたい、関わりたい、物語りたい、聴きたい、そんな欲求が強いようです。
 でも、なんとか最後まで来て、ハイデッガーが、魂を「現存在」と意訳していることが紹介され、なんとなくすっきりした。魂とは、船の舵の技術なのでは、という著者の意見にも。体と切り離すことはできず、ここにあり、使う術であるということ。その術が、小説にも詩にもなるのだとつながった。そう誤読(?)することで、僕は納得した。読んでよかった、と。
 とまあ、元々西洋哲学に興味のある方にはおもしろいでしょうが、あまりおすすめできません。すみません。

神崎繁著/岩波書店/2008

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