泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

無条件の肯定的配慮

2022-10-12 18:25:28 | 使える知識
 人が信頼を作るための土壌、もしくは基礎となる空気を醸し出す源がこの「無条件の肯定的配慮」だと、私は思っています。
「無条件の肯定的配慮」なんて、たぶん聞いたことないでしょうね。私も、カウンセリングを学ぶまで知りませんでした。
 この単語としては知らなかったけど、思い返してみれば、「無条件の肯定的配慮」に当たる体験はしていた。
 真っ先に浮かぶのは、おばあちゃんの笑顔でしょうか。夏休み、気仙沼の母の実家に行けば、必ずおばあちゃんが笑顔で迎え入れてくれた。
 前も書きましたが、記憶のある限り、自分の意志で買ったおもちゃの第一号はレゴブロックの郵便局。おばあちゃんがデパートのおもちゃ売り場に連れて行ってくれて、僕が好きなものを選ぶまで待っていてくれた。あの時の空気。
 母親が、どんなときも手料理を作ってくれたこともそう。父親が、毎日金魚の世話をするのと同じように、私を居心地良いように配慮してくれたこともそう。
 それでも足りないとき、精神科医が、カウンセラーが、大学の先生が、私への無条件の肯定的配慮を提供してくれた。
 長くお付き合いすることになった友人や知人たちに共通するのもこの無条件の肯定的配慮がお互いに続いているから。
「無条件の肯定的配慮」は、いろんな言葉に置き換わっている。
「おもてなし」「愛」「思いやり」「リスペクト」。自分が自分へという方向になるとき、それは「自己肯定感」や「自尊心」につながっていく。
 ポイントは、「無条件」だということ。
 これは本当に難しい。頭で理解することはできないと思う。頭は基本的に条件付けばかりしていると思うので。
 体験するしかありません。
「ほっとした」とか「肩の力が抜けた」とか「心の底から温かくなる」とか「思わず泣いてすっきりできた」とか「本当のことを言うことができた」とか。
 文学の表現で思い出すのは、山崎豊子の「大地の子」とか志賀直哉の「暗夜行路」とか。どちらも長い小説ですが、最後の最後にすっと楽になる瞬間が来ます。あの感覚。
 詩だと、谷川俊太郎さんの「二十億光年の孤独」でしょうか。人から愛されなくても、ひとりぼっちでも、自然、地球、宇宙から愛されている、肯定されている、支えられているという実感が伝わってきます。
 マンガだと、「ドラえもん」に出てくる「土管が置いてある広場」でしょうか。のび太がよくごろんとして雲を見上げているあの誰のものでもなく、誰のものでもある広場。そこに肯定的配慮は乏しいかもしれないけど、「無条件」な感じはよく出ていると思う。
「公園」ですらない「広場」がほとんどなくなってしまったように、「無条件」も絶滅の危機に瀕しているのかもしれない。
 だって無条件ですよ。
 このブログすら、誰でも見れるはずだけど、パソコンやスマホを持ち、月々の使用料を払えないと見れない。私も、月々の利用料を払ってブログを継続できている。
 祖父や両親に愛されたのも、意地悪く見れば、自分が孫であり息子であるから。
 精神科医やカウンセラーよりも歴史の長い、本当の宗教家の方たちは、この無条件の肯定的配慮を実践してこられたのかもしれません。
 無知ゆえに差別されてきたハンセン病患者の方達を支援していたのはキリスト教の教会の方達でした。
 女性の避難場所で、かつ縁切りもさせてくれたのは仏教のお寺の方達。
 あるいは医者や学者など、「いのち」を見る目があれば、様々な条件を通過することもできたのかもしれません。
 そう、「条件」は「頭」であって、「無条件」は「いのち」と言えます。
 だから「無条件の肯定的配慮」と言うより、「いのちへの肯定的配慮」と言った方が腑に落ちるかもしれない。
 沖縄の文化である「ぬちどぅたから」(命こそが何より大事)とか「ぬちぐすい」(命の薬)という言い方に近い。
 思えば、学校教育で「無条件」を体験したでしょうか? 「条件」をクリアすることばかり学習してきたのではないでしょうか?
「良い子」もまた「条件付けの塊」みたいなものです。権威ある者への服従合戦。どこかの政治システムを連想しませんか?
 もちろん、条件の中で生きていくことが求められます。それができなければ、どんな報酬も得られない。
 ただ、知っておいて欲しいのは、その前に「いのち」があって、「たまたま私になっているいのち」は、無条件の肯定的配慮によってしか支えられないという事実。
 沖縄が観光地として人気がある理由もそこにあるのではないでしょうか。「いのち」にまで届くケアは、自ずと「私」へのケアにもつながっていくから、結果的に深い満足度を得られる。
 どんなサービス業や接客業や行政の仕事も、基本的に「無条件の肯定的配慮」を満たせばある程度の満足度となって返ってくる。
「若いから」とか「イケメンだから」とか「可愛いから」とか、逆に「ブサイクだから」とか「デブだから」とか「頭悪いから」とか、じゃない。
 人は見た目とか権威とか慣習とか悪口とか陰口とかに、本当に弱い。影響を受け続ける生き物。それは人は群れて暮らす社会性を持っているから。コミュニケーションが取れなければ、食べ物を得ることも、異性のパートナーと協力することも、次世代を担う子たちを育てることも、できるだけ多くの人たちが満足できる仕組みを作ることも、人を支える作品を生み出すことも、できない。
 そのために、十分に、木の根が存分に地下に張ることができるように、無条件の肯定的配慮がいる。人が育つための必須の心理的栄養と言えます。植物にとっての太陽のように。
「次のテストで〇〇点取ったら〇〇買ってあげる」ではないということ。
「〜たら」「〜れば」からの卒業。頭は、あちこちの飛ぶものですが、スケジュールの調整とかは得意ですが、いのちは今、ここにしかありません。今、自分に流れている血の温かさを感じられていますか?
 僕は、寝る前、シミを予防する液を(もうおっさんなので)ほっぺたと手の甲に染み込ませながら、自分の温かさを感じ取るようにしています。そして心の中でつぶやきます。「今日も生かしてくれてありがとう」「よくやったね」「あったかくてほっとする」「愛している」などと。これは僕の一つの無条件の肯定的配慮の実践。
 他の知識もそうですが、いかに言葉だけ神棚に上げてありがたがっている状態から行動に引っ張り下ろすことができるか。使えてこそなんぼの知識。
 文学は実学だから。

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