泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

思考の取引 書物と書店と

2023-10-28 18:39:23 | 読書
 昨日の10月27日から読書週間が始まりました(11月9日までの2週間)。合わせて神田古本まつりも開催されています(11月3日までの1週間)。
 読書週間は、1947年から始まっているそうです。戦後の混乱の中、「読書の力によって平和な文化国家を作ろう!」と、出版社、取次、書店、図書館、新聞に放送も協力して始まりました。今では文化の日を中心として前後2週間となっています。神田古本まつりも、今年で63回を数えます。
「読書の力によって平和な文化国家」は、作られてきたのでしょうか?
 少なくとも、日本で戦争は起きていません。でも、平和を作るのも保つのも発展させるのも、多くの人たちが汗をかいて働かないことには実現しません。油断していれば、あちこちで紛争は起きます。
 ヘルマン・ヘッセという作家。この人は私にとって、夏目漱石とともに双璧を成す作家なのですが、ナチスドイツの国にいて、自著を発禁処分にされながら、木箱に本を詰めて戦地に送っていました。彼もまた本屋で働いていました。
 本って、そもそも何なのでしょう? 本に、そんな力はあるのでしょうか?
 今回紹介する本は、あるフランスの書店の創業20周年記念品として、お客さんたちに配るために限定50部で作られた本。日本での翻訳版は、もちろん限定品ではありませんが、挿絵と文章はそのまま。文は、フランスの哲学者、ジャン=リュック・ナンシーによって書かれています。
 続けて2回読みました。一度で「わかった!」とか「すっきり!」とかいうものではないので。噛めば噛むほど味が出るタイプ。
 本って、「木」に「一」が加えられて「本」になっています。原文はフランス語だから漢字の説明はありませんが、ローマ字でも漢字でも、共通していると感じました。というのは、本は、木の皮の内側に書かれることによって生まれた。だから、「木」に「一」が加わって「本」になる。
 木の皮の内側、というのがまたミソ。外にあるのだけど内側で、でも、木の幹からしたら外側にある。もうこの時点で、本はめくられる運命にあったのではないでしょうか。
 本は、閉じているものです。読者が開かない限りはずっと閉じている。だから本は、永遠に未刊とも言える。本は、本自体で墓碑銘にもなっている。
 でも、聞こえてくるでしょう。「読んで、私を読んで。ねえ、そこのあなた。あなたには私が必要なはずよ!」
 人によって聞こえ方は違うでしょう。でも、本は、本自体で、「伝えたい!」と願っています。「自ずから伝わるもの」が本のイデアであると、著者は言っています。「イデア」とは、ギリシャの哲学者プラトンの造語ですが、「本質」とでも言えばいいのでしょうか。
 本が開かれ、聞かれる場所を作るのが本屋です。だから本屋とは、本の運び屋。本が、どのようにあれば、一番本らしくあれるのか、常に考え、本を思って持っています。
 そして読者と本をつなぐ。読者の求める本が手に入るために仕事をする。
 さらに、本とは思考であると著者は言う。
 考えたこと、思ったこと、想像したこと、描いたこと、願ったこと。「思考」と一言に言ってもその広がりは果てしない。ただ、「取扱説明書」のようなものは本ではないとも指摘しています。
 ある文学賞の選考委員が、「小説とは、頭の中から出てきたいもの」というように言っていたことを覚えています。「小説」もまた「思考」の一つでしょう。ならば小説もまた、自ずから伝わりたいものなのでしょう。著者にできることは、そんな「小説に宿る命」の勢いの邪魔をしないことだけだとも言えます。
 余計なことはしなくてよかった。その必要性は、もうだいぶわかってはきていましたが。
 本を読むことが楽しいのは、思考の取引が楽しいことになります。
「思考の取引」と言うとわかりにくいですが、要するにみんなが楽しんでいることと同じ。「おしゃべり」が楽しいのと根は同じだと言えるのではないでしょうか。
「おしゃべり」がなんで楽しいのかと言えば、もう人はそれがないと生きていけないから。生きることに必要なことが満たされれば、人は楽しくなれるようにできている。「おしゃべり」して、情報交換をし、最新の自分をも交換する。「おしゃべり」は言葉だけとは限らない。絵だったり彫刻だったり踊りだったり。
 もう、だから本って、ほとんど人間と同じなんじゃないかと思えてきます。人間の本質が詰まったもの。そしてその本質は、自ずから伝えたがっている。
 声なき声を拾える人が本好きになる。「私を読んで!」という本の声は、「私を聞いて!」と密かに求めている人の声にも似てくる。
 たくさんの本を読んで、その声を聞いて、何になるのか?
 私が思うに、「私」とは何か? がわかってくるのではないでしょうか?
「私」とは何か? は、私にとって人生最大の謎でした。わからないがために、散々苦しんで放浪して、人との出会いを切望し、本を貪り読んでもきました。「私」が嫌いでしょうがなく、捨てようともした。自暴自棄にもなった。その都度その都度、そこに本があったことで、どれだけ自分は救われてきたのか、本を開くたびに、大嫌いな自分を捨てられて自由になれたか、どれだけドキドキハラハラして生きた心地がしたことか、そして書く人を信じ、自らもそうなりたいと希求するようになったか、本なくして今の私はいません。数えきれない本たちも売って食ってきたし、食えない本を返品もしてきました。
 本の魅力、伝わりましたでしょうか?
 楽しく読書している人に戦争は必要ないということです。
 そこには人への信頼があり、明日への希望があるから。
 本には力がある。本を開けば、すぐに動き出します。
 生き始めます。本と、私とが。

 ジャン=リュック・ナンシー 著/西宮かおり 訳/岩波書店/2014
 

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