最近、写真をブログに載せていませんが、ご覧のように写真は撮っています。
インスタグラムが楽しくなってきて、そっちに載せることが増えました。
インスタグラム、知らない人もいるでしょう。私も、少し前までは初心者でした。
今でも、魅力的な写真を載せている人を真似たりしています。#(ハッシュタグ)、どれが有効なのか、とか。
インスタでは、#のついたキーワードで検索できます。
例えば「紫陽花」。すると紫陽花の画像がたくさん出てきます。
そして、少しでも「いい」と感じたものには「いいね❤️」をします。すると、昔の(今もだったらすいません)、ミクシイのように、足跡じゃないけど、訪れた人がどんな人だかわかる。写真を公開していれば写真を見ることができる。そしてもっと見ていきたいと思えばフォローする。ダイレクトメッセージを送れたりもするようになります。
写真は、このブログとともにあり、また私の創作とともにもあるので、私の大事な表現の一つです。不思議なもので、写真には同じものが一つもない。そして、撮った人の心が表れる。最初はまったく写真だけ載せていましたが、最近はごく短い文章もつけるようになりました。日本語だけでなく英語も。
その写真にどんな言葉がふさわしいか、探す時間も楽しい。その母語を、英語に翻訳するのも楽しい。その写真と言葉に「いいね❤️」してくれた人の写真を見るのも楽しい。どこに住んでいる人で、どんなことに興味があるのか垣間見ることも。
で、何を言いたいかというと、私が「いいね❤️」をしまくるようになったということ。これは、仙台から帰ってきてからの変化。
このブログを見てくれた人の足跡を追ってもそうだし、「読書メーター」という読書管理アプリでもそう。それまで、ほとんど「いいね❤️」してこなかったのに。
だって、「いいね❤️」としか思えないのだからしょうがない。私よりよっぽど上手な写真を撮る人はたくさんいるし、そもそも花や雲や風景にカメラを向けること、そこに、その一瞬に感動し、つかみ、記録し、伝えたいという気持ちが動いているから、その気持ちに「いいね❤️」を捧げている。「読書メーター」も、本を読むこと自体がもう「いいね❤️」。読んだ感想文は、大した問題じゃないと思えるようになっていた。
このことをある人に話したら、それは菊田さんがより自分自身に「いいね❤️」できるようになったからだよ、と言われた。
言われてみて、確かに、そうか、と。
小説を一生懸命書いて提出できたことから始まり、仙台で、十分に受け入れてもらった、待っていてくれた、大事なことを共有できた、という経験も大きかった。
僕は、いつだって受け入れてもらってきた。
受け入れてもらうたびに、新しい何かを受け入れることができるようになった。
梅雨は、昔ほど嫌いだった。でも、今は嫌いじゃない。
紫陽花が、嬉々として咲くのを知ったから。その姿を写真に収めて、私も楽しむようになったから。
自分にとって嫌な季節も、他の生き物にとってみたら最高な季節ってことはある。そしてその生き物を、私も好きだったなら、共有した瞬間に受け入れている。この雨を。じめじめを。
受容してもらうためには飛び出さなければなりません。
飛び出すための勇気と相手への信頼は、やっぱり受け入れてもらった体験から培われる。
がんばってがんばってがんばって、一人で生きてきた人ほど、受容されることに飢えているのに、怖くて飛び込めない。最悪、マンションから飛び降りたり、電車に飛び込んだり、してしまう。かつての僕もそうだった。
受容は、SNS上でぶちまけることとも違う。誰かを炎上させることとも違う。
理解してくれていると、飛び込む側が感じ取っていること。
受容されたいとき、その人の中で、新しく生まれていることともう投げ捨てたいことがごっちゃになってわけわからなくなっている。
捨てたいものを捨てられたとき、また行きたいところに行けたときも、自ずと新しく生まれているものが心の中で見えてくる。そこに従っていけば、自分本来の流れに乗っていける。
小説によって、「俺のことわかってくれた!」と感動することはあります。その確かな体験が、明日の生きる力になることも。
究極的に、私がしたいことはそれ。この欲求の源に、かつての受容に飢えまくった自分がいることは言うまでもありません。
と、言いながらも、こうして書いて、誰かに受け入れてもらいたいと思ってもいる。
その相手は、自分自身でもある。
書くことでしか呼吸できない部分が自分にはあることも、あらためて、感じます。
そして、それでいいんだ、と。
インスタグラムが楽しくなってきて、そっちに載せることが増えました。
インスタグラム、知らない人もいるでしょう。私も、少し前までは初心者でした。
今でも、魅力的な写真を載せている人を真似たりしています。#(ハッシュタグ)、どれが有効なのか、とか。
インスタでは、#のついたキーワードで検索できます。
例えば「紫陽花」。すると紫陽花の画像がたくさん出てきます。
そして、少しでも「いい」と感じたものには「いいね❤️」をします。すると、昔の(今もだったらすいません)、ミクシイのように、足跡じゃないけど、訪れた人がどんな人だかわかる。写真を公開していれば写真を見ることができる。そしてもっと見ていきたいと思えばフォローする。ダイレクトメッセージを送れたりもするようになります。
写真は、このブログとともにあり、また私の創作とともにもあるので、私の大事な表現の一つです。不思議なもので、写真には同じものが一つもない。そして、撮った人の心が表れる。最初はまったく写真だけ載せていましたが、最近はごく短い文章もつけるようになりました。日本語だけでなく英語も。
その写真にどんな言葉がふさわしいか、探す時間も楽しい。その母語を、英語に翻訳するのも楽しい。その写真と言葉に「いいね❤️」してくれた人の写真を見るのも楽しい。どこに住んでいる人で、どんなことに興味があるのか垣間見ることも。
で、何を言いたいかというと、私が「いいね❤️」をしまくるようになったということ。これは、仙台から帰ってきてからの変化。
このブログを見てくれた人の足跡を追ってもそうだし、「読書メーター」という読書管理アプリでもそう。それまで、ほとんど「いいね❤️」してこなかったのに。
だって、「いいね❤️」としか思えないのだからしょうがない。私よりよっぽど上手な写真を撮る人はたくさんいるし、そもそも花や雲や風景にカメラを向けること、そこに、その一瞬に感動し、つかみ、記録し、伝えたいという気持ちが動いているから、その気持ちに「いいね❤️」を捧げている。「読書メーター」も、本を読むこと自体がもう「いいね❤️」。読んだ感想文は、大した問題じゃないと思えるようになっていた。
このことをある人に話したら、それは菊田さんがより自分自身に「いいね❤️」できるようになったからだよ、と言われた。
言われてみて、確かに、そうか、と。
小説を一生懸命書いて提出できたことから始まり、仙台で、十分に受け入れてもらった、待っていてくれた、大事なことを共有できた、という経験も大きかった。
僕は、いつだって受け入れてもらってきた。
受け入れてもらうたびに、新しい何かを受け入れることができるようになった。
梅雨は、昔ほど嫌いだった。でも、今は嫌いじゃない。
紫陽花が、嬉々として咲くのを知ったから。その姿を写真に収めて、私も楽しむようになったから。
自分にとって嫌な季節も、他の生き物にとってみたら最高な季節ってことはある。そしてその生き物を、私も好きだったなら、共有した瞬間に受け入れている。この雨を。じめじめを。
受容してもらうためには飛び出さなければなりません。
飛び出すための勇気と相手への信頼は、やっぱり受け入れてもらった体験から培われる。
がんばってがんばってがんばって、一人で生きてきた人ほど、受容されることに飢えているのに、怖くて飛び込めない。最悪、マンションから飛び降りたり、電車に飛び込んだり、してしまう。かつての僕もそうだった。
受容は、SNS上でぶちまけることとも違う。誰かを炎上させることとも違う。
理解してくれていると、飛び込む側が感じ取っていること。
受容されたいとき、その人の中で、新しく生まれていることともう投げ捨てたいことがごっちゃになってわけわからなくなっている。
捨てたいものを捨てられたとき、また行きたいところに行けたときも、自ずと新しく生まれているものが心の中で見えてくる。そこに従っていけば、自分本来の流れに乗っていける。
小説によって、「俺のことわかってくれた!」と感動することはあります。その確かな体験が、明日の生きる力になることも。
究極的に、私がしたいことはそれ。この欲求の源に、かつての受容に飢えまくった自分がいることは言うまでもありません。
と、言いながらも、こうして書いて、誰かに受け入れてもらいたいと思ってもいる。
その相手は、自分自身でもある。
書くことでしか呼吸できない部分が自分にはあることも、あらためて、感じます。
そして、それでいいんだ、と。
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