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泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

吉里吉里人

2011-08-24 12:38:22 | 読書
 読み終わりました。分厚い文庫で上・中・下、原稿用紙にして2500枚。
 東北の一村がある日、独立国家を宣言する。
 え、そんなばかなと誰もが思うでしょう。しかし、吉里吉里人たちは実に周到に独立への準備を進めていた。金本位制(吉里吉里イエン(吉里吉里国のお金)は金と交換できる)を敷き、タックスヘブン(税金ゼロ)国であり、農業と医学と色欲を国の3台柱としている。犬と犬とを接合したイッタカキタカ、犬と猫でニャワン、狸とトマトでトヌキ、それらの成果の延長に脳移植手術も成功させる。公用語は吉里吉里語。ぼくにとっては耳慣れた東北弁、ズーズー弁。独立への道はしたたかで強靭だと思えた。しかし、移民第一号となった50男の5文小説家、古橋健二の軽口が致命傷となってしまう。
 古橋健二は極度の健忘症を抱えていた。醜悪極まりない母のお蔭で。逆に記憶が増進するのも忌まわしい記憶を思い出したから。大らかな嘘の中に真実がこもっている。
 こんなに長い本をおもしろく読めてしまうのは、言葉遊びの豊かさもあるし、作者の大変な勉強によって裏付けられた国際法などの知識にも支えられ、祝典の際には必ずストリップという心地よい性の解放、ユーモアに思わずぷっと笑えてもしまうから。分離独立を妨げようとする大国からのスパイがいつのまにか大量に入り込んでいる。後半は武器を交えた戦いに移っていくけれど、スパイのヘリコプターに対して、「コカンホーよーい」という掛け声のもとに吉里吉里人のばばの一人が大股を開き、天然の割れ目に仕込まれたロケット砲をぶっ放す、なんてシーンもある。読者をぐいぐいと引っ張る小説の力としかいいようのないものがこもっている。小説はこんな世界も描けるのだと知る。
 一応作家の古橋健二は、作者の徹底した自己批判の賜物なのかもしれない。書くものはいずれもどうしようもないほど拙い。しかし、どうしようもない人間が吉里吉里国に入ったからこそ、吉里吉里国の全貌が徐々に明らかになっていく。夢も志も笑いも涙も引っ張り出されてくる。
 一国の独立の物語。それは一人の人間の独立の物語とも重なるのではないでしょうか。
 何を特産として生計を立てていくのか。彼にはこんなにもすばらしい長所がある。役に立つものを持っている。だからこそ他者(他国)に尊重され、共存共栄を果たすことができる。
 しかし、どうしてこの社会はこんなにも生きづらくなってしまったのでしょうか。心あるものが一致協力し、それぞれが持てる力を存分に発揮し、その保障も十分にして、夢に向かって生き生きとがんばっている。それでも彼らは大国の意に叶っていないということで潰される、殺される、なかったことにされてしまう。
 井上ひさしさんのお父さんは共産党員なのでした。迫害されたことによって早死にしてしまったのでした。彼もまた作家志望でした。
 息子は夢を叶えたのでしょうか。確かに大作家になった。しかし、国への思いはどうだったのか。不安や疑問や怒りがなかったら、こんな大作はできなかったに違いない。
 執筆が思うようなならなくなると妻に暴力を振るった。ひさし自信、5歳で父と死別し、養父によって虐待を受けていたという。
 自分に流れる血、社会環境との軋轢、葛藤の数々。
 ぼくは温厚な、老年に達した井上ひさししか知らなかった。
 書いて書いて、社会的地位が高まるほどに増殖した自分の影。持て余す傲慢、暴力。
 自分へのやるせなさをこめて古橋健二は誕生したのだろう。
 それでも、笑ってしまうという強さ。井上ひさしから学んだユーモア精神。
 辛い、乗り越えがたい体験、境遇を、それでも乗り越えていく。乗り越えていこうとする強い、死なない気持ち。
 それらの結晶が小説というものなのではないのか。
 ぼくも、とにかく書こう。
 いとしい、したたかな吉里吉里人たちは、確かにぼくの中に移民した。

井上ひさし著/新潮文庫/1985

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