かつて銀昆で…

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詩歌との出会い

2021-03-13 12:26:50 | 日記

 小学校のとき、文章を書くことでたいへん難儀した。詩も作文も、できれば自分とは無関係であってくれと願い、それでも文集を出したりすることがあり、最後まで”入稿”が遅れた。

 今でも明確に憶えているのは小学校の卒業文集を作っている時で、最後までぼくはここに載せる詩が書けずにいた。授業が終わると担任の守口先生から早く書くように促されていたが、遂に〆切日が迫ってきたのだろう、ぼくは捕まってしまった。そして放課後の教室で原稿用紙一枚の詩を書くように迫られた。さしずめ今でいう”缶詰め”である。だが、書けない。”詩にするほどのことが自分にはないのだ……”そんな言い訳を持っていて、聞かれたらそう答えようと考えた。だが教師は「どうして書けないの?」という質問を投げかけず、「君は、動物なら何が好き?」「花なら?」「乗り物は好き?」という、別の場所から「?マーク」を投げかけて来るのだった。ぼくはすぐにこの「遠近法攻撃」に幻惑され、「サイが好きです」とか「チューリップです」「長距離列車」と、すらすらと答えてしまっていた。先方の作戦勝ちである。結局、自然に関する詩を書いた憶えがあるが、小学校卒業するまで、とにかく”ものを書く”ことが嫌いだった。

 だが、人の心は変わっていくのである。

 小学校卒業と同時に引っ越しをした。それまで住んでいたところも大概の田舎だったが、次に移り住むところは造成されたニュータウンではあったけれど、地元はさらに田舎の濃厚さを持っているような土地であり、山は深く、道は埃っぽく、川はワイルドで、そこに暮らす同年代の少年達は、これまで知っていた少年達とは違い、ずっと緑色だった。少女達は柿やアケビのような印象だった。中学入学までの退屈な春休みの夕方、立ち寄った初めての近所の書店で、「中原中也詩集 大岡昇平編」を開き、その一行目を読んだときに謎が解けた。「春の日の夕暮」と題されたその詩は

「トタンがセンベイ食べて/春の日の夕暮は穏かです/アンダースローされた灰が蒼ざめて/春の日の夕暮は静かです」

 まさに春の日の夕暮れにこの詩を立ち読みしたのだ。しかも「トタンがセンベイを食べる」ってどういうことなのか、まったく説明されていない。350円を支払って、初めて詩集というものを買った。

その後、中学校の図書館でもっと分厚い中也の詩集を手にして、

「月夜の晩に、ボタンが一つ波打ち際に、落ちてゐた。」

「幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました」

といった文字を眺め、さらに図書館の詩の棚にあった、さほど多くもない詩集のページを開き、

「雑草が/あたり構はず/延び放題に延びてゐる。」(北川冬彦)

「鹿は/森のはずれの/夕日の中に/じっと立っていた」(村野四郎)

「雨の中に、/馬がたつてゐる」

「約束はみんな壊れたね。/海には雲が、ね、/雲には地球が、映つてゐるね。 」(三好達治)

といった、国語の教科書にも載っていた詩を見つけ、別のページに書かれた詩篇を見て、同じ詩人にもいろいろな詩があるものだと感心した。

 高校になると背伸びしたい、自分はもう大人だと思い込み、

「あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢をうばった。おごる心の片隅に、少女の額の傷のような目がある。突堤の下に投げ捨てられたまぐろの首から噴いている血煙のように、気遠くそしてなまなましく、悲しみがそこから噴きでる。」(大岡信)

「わたしの屍体を地に寝かすな/おまえたちの死は/地に休むことができない/わたしの屍体は/立棺のなかにおさめて/直立させよ」(田村隆一)

 こうした、ラグビー部のくせに同人誌を発行している、今思えば実に鬱陶しい奴は、大岡や田村のように劇的な言葉を並べる詩人に入れ込んだ。だが教科書に載っていた次のような詩にも心が動いていたのも確かで、

「どうしてこんな解りきったことが、/いままで思いつかなかったろう。/敗戦の祖国へ君にはほかにどんな帰り方もなかったのだ。/---海峡の底を歩いて帰る以外。」(井上靖)

 この詩と、高校3年の国語の教科書に載っていた大岡昇平の『俘虜記』によって、戦争記録文学の存在を知った。そしてこれは大学入学後も続いた。

 大学生になると、さまざまな詩が目の前に登場した。

「全然黙っているっていうのも悪くないね/つまり管弦楽のシンバルみたいな人さ/一度だけかそれともせいぜい二度/精一杯わめいてあとは座ってる/座ってる間何をするかというと/蜂を飼うのもいいな/とするとわめく主題も蜂についてだ」

「真夜中のなまぬるいビールの一カンと/奇跡的にしけっていないクラッカーの一箱が/ぼくらの失望と希望そのものさ」(共に谷川俊太郎)

 

「もっと強く願っていいのだ/わたしたちは明石の鯛がたべたいと/もっと強く願っていいのだ/わたしたちは幾種類ものジャムが/いつも食卓にあるようにと/もっと強く願っていいのだ/わたしたちは朝日の射すあかるい台所がほしいと」(茨木のり子)

「写真機のファインダーからのぞくと/そこには べつの遠い秋/理髪店の壁の煉瓦は 柿色に涼しく/その窓に大きく浮かぶ猫の目は/赤青白のねじりん棒のかたわらで/雲間でも 視つめたように澄んでいる。」(清岡卓行)

といった詩群……ふとした一節を憶えているだけで、すべてを記憶しているわけではない。だが、なんとなく諳んじている詩篇もある。三好豊一郎の「トランペット」という詩で、これは芝居のなかで使ったから、いわば耳で憶えてしまった。

「身勝手なことばのかずかずは血の中で腐ってる/青春は去った とうの昔にわしの青春は去った/わしの努力は人知れず麦畑の上で乾いてる/虱の血でよごれた敷布にくるまって わしはひたっすらわしの臍緒をさがしてる」

 ここからまだまだ長く続くのだが、詩が朗読することによって活字を追うのとはまったく別の生命体になることを知ったはじまりだった。その後、長谷川龍生の「恐山」などを知り、鴨川の河原で大声だして読んだりしていた。同じく、粟津則雄訳のランボオや、ボードレールなども身近になった。そしてさらに、寺山修司や塚本邦雄の短歌に遭遇する。

「新しき仏壇買ひに行きしまま行くえ不明のおとうとと鳥」

「村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ」(寺山修司)

「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(塚本邦雄)

 こんなふうにして詩歌に出会ってきたが、ぼくは一冊の詩集も出してはいない。詩を書いているけれど、それは自己満足のためだ。それにどこか、いずれ書く戯曲の下書きだと考えているところがある。詩の朗読を引き延ばした形が、ぼくの描く演劇の形であり、どこか独りよがりなところがある、という指摘はなんどもあった。だが、ダイアローグの芝居や群衆劇などがある一方、詩劇のようなものがあってもいいと思う。

 今の時期、ふと思い出して引っ張り出してきた短歌がある。塚本邦雄さんの作品だ。

「さみだれにみだるるみどり原子力発電所は首都の中心に置け」


峠の畑

2021-03-10 23:17:01 | 日記

叔母から聞いた話なのだが。

昭和37年頃のこと、大阪本町に本社を置く中堅の商事会社の28歳と36歳の男性社員が、打合せのため新潟へ行くことになった。商材を社用車のトヨタ・パブリカに積んで、会社を出たのは午前7時のことだった。

当時は阪神高速はおろか名神高速道路も開通していない時代。翌年7月にようやく尼崎と栗東間が開通するのだが。

2人は国道を東に向かって走り、尾張名古屋に到着した。現在なら北陸自動車道があるから米原付近で北上する。しかし当時は地道しかなかった。それに2人の男は山が好きで、会社の仲間と日本アルプスのいくつかの山々に登っていた。

「長野を抜けて新潟に行くか」

そんなことを言い合って名古屋から木曽路に入った。

季節は晩秋、色づき始めた山々を眺めながらパブリカは軽快に走っていく。

山あいの道を登りきると台地のようになった塩尻の町に着いた。2人はドライブインで親子丼とうどんを食べた。

「いよいよだな」

それは、2人がいとおしむ北アルプスの山容が車窓から眺められるという愉しみの気持ちを表す言葉だった。

どの経路を通って新潟県へ向かったのか詳細は分からない。松本から安曇野へ抜けていくとすれば、左手に北アルプスの連峰が眺められるはずである。2人はかつて登った山々、まだ足を踏み入れたことのない山々の話をしながら車を走らせていった。そして、安曇野を超えて千曲から長野市へ抜け、そこから目的地である新潟を目指した。国道でいくなら飯山から、現在北陸新幹線が走っている新井市(現妙高市)を抜け直江津に抜けるのが最短ルートであろう。しかし2人は、思いのほか順調に走ってきたので、ふと横道に進んでみようということになった。

「先輩、野沢温泉でひとっ風呂浴びますか?」

そんな冗談を言いながら、車は山道を登っていく。

「おお、いいね」

開け放たれた窓の外は錦秋である。

長野市でガソリンは満タンにしてきたし、まだ日暮れまでには時間がある。進んでいくと舗装道路から地道の細い道へと変わっていった。

「狭くなってきよりましたなあ」

「大丈夫や。この道はまもなく峠を越える。そしたら、小さな町があるみたいや」

先輩の男は道路地図を見ながら言う。

しかし、道は緩やかな傾斜が続き、パブリカは粘り強く坂道を登っていく。

秋の日はつるべ落とし。光が橙色に変わってきた。しかし道はまだ登っている。

「峠に出ませんなぁ」

「うーん。しかし、畑もあることだし、もうすぐ町か村に出るやろ。道を聞いてみるわ」

道の周囲には野菜畑が広がっていて、茄子やさやえんどう、瓜などが実っている様子が見える。

「百姓が仕事しておらんかな」

先輩は見渡すが誰もいない。

「ま、そのうち出会うでしょ」

運転する後輩が笑う。

しばらく走ったが、やはり道は上っている。緩やかな坂道のままである。

「あの切り通しを超えたら峠の頂上かもしれんな」

先輩が前方を見て言った時だった。後輩が大きな声を上げた。

「せ、先輩、ガソリンがありません!」

「さっき、長野で満タンにしたばっかりやんか」

「でも見てください、メーターがエンプティーのすぐ上まできてます!」

先輩がのぞき込むと確かにガソリンの量を示す針は下のほうへさがっている。

「そんなに走ったか?」

「いえ、まだ2時間くらいです」

「そうやんなぁ。メーターがおかしなったん違うか?」

そう言った瞬間、車はぷすぷすと音を立てて停車してしまった。

「なんや、止まってしもたがな」

先輩はそういうとドアを開けて外に出た。後輩も降りてきて、ガソリンがどこからか漏れていないか車の下を覗き込んだりした。だんだん日が傾いてきてはいるが、周囲の風景は見えた。あいかわらず野菜の畑が広がっていて、茄子やえんどう、瓜が秋の夕風に揺れている。

「お、きゅうりがあるぞ」

先輩が畑に下りていき、きゅうりを手に取った。

「おい、見てみろこのきゅうり。巨大なきゅうりだぞ」

先輩が手にしたきゅうりはふつうの2倍、いやそれ以上の大きな大きなきゅうりだった。

「こんなきゅうり、見たことないな。取り忘れて、そのままでこうなってしもたんかな」

と、もぎ取った。

「先輩、勝手に取ったりなんかしたらあきまへんやん。お百姓さんに怒られまっせ~」

「一本くらいええやろ。見つかったら金を払うがな」

と大笑いして先輩はきゅうりに齧りついた。

「うまいわ、みずみずしいでこのきゅうり。わし、きゅうり大好物やねん」

「先輩、ぼく、あの峠の向こうにある村までちょっと歩いて行ってきますわ。ガソリン、ちょっと分けてもらえるかもしれんし」

「おお、わしはここで待ってるわ。車が通りすぎたら止めるわ」

そういうことになり、後輩の男は坂道を峠の方向へ歩き始めた。

先輩は車のボンネットにもたれてきゅうりを食べ続けた。それにしてもおいしいきゅうりである。育ちすぎたきゅうりは大味でおいしくないのがふつうだが、そのきゅうりは水気をたっぷりと含んでいて、歯ごたえもよく、甘みもあってどこかなつかしい味がした。

周囲はだんだんと闇の量が増えてきて、切り通しから差し込む夕陽が畑を照らしている程度になり、風も冷たくなってきた。きゅうりを食べ終えた先輩は、ふと風の中に、風の音とはちがう別の音を聞いた。

ヒューロロヒューロ ヒューロロヒューロ……

「なんの音かな?」

先輩は空の上のほうを見上げたが、音の正体はわからない。すると、急にあたりの木々からカラスが一斉に飛び立つのが見えた。先輩はカラスの鳴き声にブルッと体を震わせた。そんなにたくさんのカラスが林の中にひそんでいるとは思ってもいなかったからだ。

「びっくりさせやがるで」

とひとり言をついてた先輩の耳に、今度は、

「んーーーーーーんーーーーー」

という低く長くつづく唸り声のようなものが届いてきた。しかもその唸り声は、一方の方向でなく、先輩のまわり全体から聞こえてくる。「んーーーーー」という声が先輩を中心軸にしてぐるぐると回転しているのだ。

「なんやなんや?」先輩はその変な唸り声に身をすくめたが、鳴りやみそうにない。

「んーーーーーんーーーーーんーーーーー」

先輩はすこし怖くなって、車の中へ入ろうとドアを開けようとしたとき、ふと見上げるとそこに、人間の背丈の倍以上もある黒いマント姿の大男が立っているのを見た。いや、立っているのではなかった。宙に浮かんでいるのだった。車の真上30センチくらいのところに大きな男がマントを広げて浮かんでいる。手には大きな鳥の羽のようなものを持ち、マントはひらひらと揺れ、そして、顔を見ると頭に木の枝や木の葉で作った鳥の巣のようなものをつけている。さらに、鼻がやたらと高くてとんがっていて、焼け焦げた木片のような形だった。

「うわぁ!」

先輩はドアに手をかけたままのけぞった。

するとその大男は先輩の顔の真ん前までグイッと寄ってきて、

「盗んだな」

と不思議な匂いのする息を吹きかけて言った。

先輩は身動きできなくなり、歯を食いしばっていると、大男はまた、

「盗んだな」

と言う。

先輩はなんのことだかわからず、大男の息の匂いが、昔かいだロウソクの匂いに似ていると思った。村の端にあった誰もいないお寺に夏休みの午後に遊びにいったとき、まだ少年だった先輩は、誰もないはずの閉め切った寺の本堂で、10本以上のロウソクがゆらゆらと火をともしているのに遭遇したのだった。誰がともしたともわからないロウソクからは、麦を焦がしたときのような匂いがしていた。25年以上も前、昭和15年の夏の体験を思い出がよみがえったのである。

だが、そんな記憶の感傷にひたってはおられなかった。先輩はいきなり頭をこん棒で殴られたような衝撃を受けた。

「盗っ人にはこれじゃ!」

という声とともに。

そして車の横に、飛び上がるような恰好で先輩は倒れたのだった。なぜ飛び上がるように倒れたのがわかったのかというと、峠方向から少量のガソリンを入れた缶をぶらさげた後輩が、その様子を見ていたからだった。

「せんぱ~い!」

後輩は坂道を駆け下りて、車の横に倒れている先輩に駆け寄った。

「ううう……」

先頭部を押さえて先輩は目が3本の細い小枝になったような表情で痛がっていた。

「大丈夫ですか先輩!急に倒れて、どないなってますのん?!」

ようやく後輩の存在に気がついたのか、先輩は目を開けた。

「あーあーあー」

と車の上のほうを指さす。後輩が見ると、何もない。

しかし先輩は、

「あーあーあー」

と叫んで宙を指さす。

「なんですのんなんですのん?」

「て、て、て、てんぐや。天狗が出た!」

そう叫ぶと先輩は気を失ってしまった。

驚いた後輩は、先輩を抱え上げて車の後ろ座席に引きずりこんだ。そして、ガソリンをタンクに入れ、エンジンをかけるとパブリカはブルルンと震えて動くようになった。あたりはもうすっかり闇が舞い降りてきていて、ヘッドライトをつけた車は峠方向に走り出す。

「いったい、なにがあったんです先輩?」

声をかけても先輩はまだ夢魔の世界に沈没したままだ。峠を超えていく車。その姿を、高い木の上から、あの天狗と呼ばれた大男が見つめていた。

小さな村に到着した車は、軒先で片づけをしている農夫を見つけた。

「すんまへん、水を一杯いただけますか?」

後輩がいうと、農夫は「ああ」とひと言。井戸でタオルを濡らし、まだ起きない先輩の額に当てると、「うううん」と声を出して目を覚ました。

その姿を見ていた農夫が笑いながら、

「もしかして上の畑で天狗様にでも会った顔をしているな」

すると先輩が、

「天狗や天狗が出た!」

と大きな声をあげる。後輩が不思議に思って農夫に聞くと、

「あそこにあるのは天狗様の畑じゃ。そこでお前さん、野菜を盗んだな?」

と笑いながら言う。後輩が先輩の顔を見ると、

「うんうんうん」

とうなづいている。

「日が暮れかけたらわしらもあの道は通らん。あそこは天狗様の細道じゃ。連れていかれなかっただけよかったと思うべし」

と呵々と笑った。

 その夜、2人は農夫の家に泊めてもらった。次の町までのガソリンもなかった。

 囲炉裏端で夕食がふるまわれたが、先輩はきゅうりの漬物には断固として手を付けなかった。それどころか、以来ずっと先輩はきゅうりが食べられなくなった。後輩は気にせず、きゅうりが好きだ。

 とここまで喋って、叔母は「話はこんだけ」と不機嫌そうな声を出した。


下鴨神社の檜皮葺

2021-03-10 22:47:28 | 日記
先日、下鴨神社で撮影した折、
修復中の神服殿の工事を見学させてもらった。
この建物は檜皮葺きの屋根。
檜皮(ひわだ)というのはその名の通りヒノキの皮であるが、
屋根を葺く檜皮は、たいへん貴重なものであると知った。

まず、100年以上の樹齢のヒノキがあり、
切り倒さずに、その皮を剥ぐ。
その檜皮をそのまま使うのかといえばそうではない。
長い年月の間に育ったヒノキの樹皮には油分が多く、
これを屋根に葺くことはできないそうだ。

そこで、一旦剥いだヒノキはそのまま10年間育てる。
その間に新しい檜皮が育つ。
それには油分が少なく、これを屋根葺きに使うというのだ。

つまり、10年後に育つ檜皮を待っているのだ。

そして10年後に新しく育った檜皮を剥いで、
ようやく屋根葺きに使えるものになる。
下鴨神社の神服殿の屋根に使うヒノキは約35000本だという。

檜皮葺きの屋根を持つ建物は神社が多い。
出雲、厳島、住吉、北野天満宮や八坂などで、
下鴨と上賀茂も同じくである。
寺院では、清水寺や善光寺、知恩院などがあてはまる。
珍しい例では、
猫の駅長で有名な和歌山電鉄貴志川線「貴志駅」がこの工法だ。
猫を造形した駅舎ですね。

檜皮葺きの屋根というのは、日本独自の屋根工法だそうだ。
ヒノキを切り倒すことなく、皮だけを剥ぐのは環境保護になるというが、
皮を剥ぐ職人である原皮師(もとかわし)の減少など、
継承が難しくなって来ているという現実もある。
ヒノキの花粉でくしゃみが止まらない人もいるが、
温泉地などでヒノキ製の湯船に入ったときの柔らかな感覚は何ともいえない。

ヒノキの名前由来は、すぐに火がつくから「火の木」という説や、
神聖なる木「霊の木」、太陽の木である「日の木」など諸説ある。
おれは、自分の名前に「ヒ」の字が入っているので、
「ひ」という言葉に思い入れるところがある。
かなり身勝手な思い入れであるが。

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木村蒹葭堂

2021-03-10 21:33:57 | 日記

調べものがあって、また西長堀にある大阪市立中央図書館へ行く。
休日なので来館者が多く、大半の席が埋まっている。
だが、空間設計がいいのか混雑感はない。
4人掛けデスクに座り(もちろんほかの3席は座っている、年配者2名、大学生1名)、
ゆったりと資料を読み、書き物をすることができた。

途中、珈琲タイムで屋外に出たとき、敷地の片隅に顕彰碑を見つけた。

木村蒹葭堂(けんかどう)である。

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この人物は、大阪在住の人なら一度は耳にした名前かもしれない。
江戸中期の文人であり、蒐集家であり、本草学者であり、博学者である。
元々家業は酒造業であるが、酒造株を他人に賃貸して生活の糧を得ていた。
年に三十両の収入だったというから、中流の下の方の暮らしだった。

だがこの多趣多才な男、妻と妾と同居しているのである。
本妻は結構嫉妬深かったようだが、それでも妻妾同居をやめない。
三人で長崎旅行などもおこなったという。
このほかに娘が一人、下女一人の五人暮らしだったというが、
女性ばかりのなかに住んでいたということだ。
なかなかの人物である。

27歳で『山海名産図会』を著し、その後さまざまなジャンルの書を上梓する。
『銅器由来私記』『桜譜』『禽譜』『貝譜』『秘物産品目』『本草綱目解』等々。
たまたま先ほど、NHKの「ダーウィンが来た」という番組で、
”イッカク”というふしぎなクジラを特集していたが、
ここに登場する日本の古文書は、蒹葭堂が編纂した『一角纂考』だった。
また、文学にも精通していて、漢詩を書き、書画もうまかったという。
語学では、オランダ語やラテン語も解したそうだ。

諸国から来る者に蒹葭堂の名前は知れ渡っていて、多くの来客があった。
本人はそれに困惑し、「人気があるのも困ったもんや」と言ったところ、
朴訥だが口が悪い友人に、
「お前に人気があるんやなく、お前が持っている物に人は寄って来るんだ」
と言われて、大いに恥じた……と書かれている。

蒹葭堂とは、彼の書斎の名称である。
ケンカ早い人だったわけではないようだ。
同時代の友人には、司馬江漢、上田秋成、頼山陽、本居宣長、
伊藤若冲、与謝蕪村、円山応挙、平賀源内などがいて、
1700年代後半という時期に、町人文化、都市文化が花開いたかが分かる。


宇宙の宮

2021-03-10 21:33:57 | 日記

たいへんローカルな話だけど、
昔、箕面に住んでいた頃、近くに「宇宙の宮」というふしぎな建物があって、
よく遊びにでかけた。

丸善石油所有の、宗教にこだわらない祈り、願いの場であったようで、
隣接して同社の学校があった。

「宇宙の宮」の内部には、
その名のとおり宇宙万物の神々が祀られていたように思うが、
幼い自分は建物周辺の水辺に、たくさんの亀がいたのでそれに夢中だった。

父がよく「宇宙の宮へ行こか」と誘ったことを思い出す。

今は箕面西小学校になっていて、
丸善石油の学校もなく、丸善石油自体、コスモ石油になってしまった。

ネットで「宇宙の宮」の写真を入手した。掲載させていただく。

この文章は、2011年9月「風屋敷日録」に書いたものを再掲したものです。

https://kazeyasiki.exblog.jp/13478981/